深く包まれるような抱擁。
俺は尚人の腕の中、ただ息を潜めていた。
尚人に問うた質問の答えなど、ない。
尚人はなにも言わなかったのだ。
存在を確かめるような乱雑な行為。
眉を顰める尚人が快楽だけを感じているとは思わなかったが、気遣ってやる余裕すらなかった。
珍しいことだと思う。
自分がこんな風になるなど、知りもしないことだったのだ。
俺の腕の中で、与えられた刺激に反応する尚人をただじいと見つめるだけ。
延々と続くそれに尚人は不満をいうこともなく、俺が満足するまで付き合ってくれた。
「……尚人?」
ぐったりとしたまま動かない尚人に声をかけてみるが、ぴくりとも動かない。
気を張っていたのだろう。
大きな仕事をしていたのだ、起きなくとも不思議ではない。
そのあと、散々俺に甚振られたのだから尚人の睡眠は深い。
ううんと身じろぐ尚人にもう一度声をかけてみるが、尚人は微動だにしなかった。
俺を包む腕をそうと外し、今度は俺から抱きしめてみた。
何度もこの腕に抱いた身体はしっくりと馴染むようでいて、この腕の中では異形のようなものでもあった。
いつから、こんなに大切になっていたのだろう。
規則正しい呼吸を繰り返しながら、眠っている尚人の額に口付けを落とした。
「ん、……じ、ん」
「……まだ寝てろ」
「い、る?」
「……ああ」
ふるりと震える瞼が持ち上がり、夢見心地のような声色で問う尚人に返事を返すと、安堵したように唇をそっと緩めた。
あどけない子供のようなそれに、心が落ち着き、愛しさが溢れ出してくる。
単純だと、自分でも思う。
尚人から求められていると思うだけで、荒んでいた心が穏やかになるのだから。
俺のシャツに顔を埋め、再度瞼を閉じた尚人。
余程眠いのか、直ぐに眠りに就いた。
穏やかな寝顔。
時折、口を開けて寝言のような言葉にならない音を発する。
鼻を塞いでみれば、鬱陶しいと言いたげに手を払われた。
尚人の寝顔を見つめながら、弄んでいた俺だったが、外が白むのに気付くと重い腰を上げた。
起きないよう着ているシャツを脱ぎ、尚人に持たせる。
ふわりと漂う香りが落ち着くのか、それを離そうとはせず、その姿に頬が緩んだ。
備え付けのクロゼットに常備してあるシャツを着て、ネクタイを締める。
置いてあった時計をはめ、ベルトを締め、ジャケットを羽織れば用意はできた。
尚人を置いていくことに後ろ髪を引かれる思いなのだが、素面の状態で尚人に合わす顔がない。
結局は逃げるだけなのだ。そう、逃げる。
俺は逃げるのだ。
もう一度ベッドに近寄り、尚人の顔を見る。
幸せそうな表情。
深い睡眠の中なのだろう。
「……尚人、またな」
次、顔を合わすのは予定では仕事のときとなっている。
一週間後、親父と三雲の親父が個人的に酒を飲み交わすのだ。
場を設ける手配やら、護送、警備などの仕事だ。
気をつかってその仕事の頭を俺と尚人にしたのだろう。
だが飽く迄も仕事上で顔を合わすのだ。
自分たちの親分同士の仕事となれば、私語を交し合う暇などあるかないかだ。
俺は今からその仕事を思うと、どっと気が重くなった。
それからあっという間に一週間が経過した。
煩悶とする心を打ち消すように、俺は仕事に打ち込んでいた。
お陰でなにも考える余裕などなかったし、なにも記憶に残っていない。
辛苦の仕事を終えた俺は、今からまた精神的に疲れる仕事に取り掛かる。
言わずもがな親父同士の集いの仕事だった。
「兄貴! 車の手配ができやした!」
「……ああ、今行く」
人を殴った手の甲がずくり、と痛む。
今日、俺が率いる若衆の内の一人が除籍を申し出てきたのだ。
本来ならば親父を通して行われるはずの除籍なのだが、今回の件は俺が除籍を受諾をすることとなった。
ずっと可愛がってきた子分だ。
イロの腹が膨らんだから、足を洗いたいと言った。
断指をするのが掟なのだが、その子分はこれから養っていかなければならない家庭がある。
それを思うと、どうしても断指だけはさせたくなかった。
私刑という形で除籍を認めた俺は、己の手でその子分に拳を奮った。
二度と戻ることのないよう。
この世界に足を踏み入れることのないよう。
そう願いを込めて。
「……足を洗いたい、か」
俺には叶わないこと。
その権限すら、俺にはない。
俺の道はもう決まっているのだ。
少し羨んだ気持ちが湧き上がるのを抑えると、頭を振った。
この仕事でなければ、この立場でなければ、尚人と会えなかったのだ。
後ろ向きな思考を振り切るように俺は煙草に火をつけると、親父を送るために用意した黒塗りのリムジンへと向かうのであった。
親父の車を真ん中に挟むようにして並ぶ三台のリムジン。
後方の守りを勤めると、西麻布へと車を走らせた。
静かなエンジンと振動を伝えない上質のタイヤ。
心労が溜まっていたのか、どっと襲いくる眠気。
心地好い空間にうつらうつらと船を漕いだ。
「……兄貴? 大丈夫っすか?」
「ああ、心配はいらない……。少し疲れただけだ」
「仕事詰めてましたもんね。でも今日は三雲の兄弟と会えるんすよね? 楽しみっすね」
「……まあ喋る暇などなさそうだがな」
「でも組長が時間設けるって言ったやしたよ?」
「裏があるんだろ。……多分だが、俺にとって嫌な仕事が入る。それについての話し合いをお情けで設けたところだろう」
「……そうっすかねえ。あ、でも最近六角組が危ないって噂ですもんね。確かあそこの娘さんって……」
「ああ、……どうなるんだかな」
比較的仲の良い子分と、内談をしながら西麻布までの短い道のりを警備しながら進むのであった。
ゆっくりとスピードを落とすリムジン。
先頭のリムジンが止まれば、それに倣うよう親父を乗せたリムジンと俺が乗るリムジンも止まった。
リムジンから素早く降りると、親父が乗るリムジンの扉を開く。
「ご苦労。既に三雲の奴はきているようだ。急がねばな」
軽く笑いながら降りた親父は、高級小料理屋へと続く道を若衆に送られながら進んだ。
俺は一先ず任務が遂行したことにほっと息を吐くと、若衆に指示を送った。
親父と三雲の親父が飲み交わす席に同席者はいない。
二人きりの集いなのだ。
警備のために物々しいほどの筋のもんがうろうろとしては店に迷惑がかかる。
故に本日この店は貸し切りとなっていた。
だがそれだけでは心許ない。
そのため入り口に数名、親父たちがいる部屋の前に数名、その部屋に続く廊下に数名、左右の部屋に数名といった風に三雲組の若衆と清滝組の若衆を振り分けるのだ。
リムジンが移動したのを目で確認すると、俺は配置された部屋の前へと急いだ。
その場所に向かえば、そこには尚人がいた。
俺がきたことに気付くと、少し不満げな表情で出迎えてくれる。
ふ、と笑みを浮かべるとそっと近寄った。
「お前もここの配置だったのか」
「フフ、知ってたでしょ? それぐらい」
「あれ以来だな。喋る暇などないと思っていたが、ゆっくり話せる時間がありそうだな」
「……そうだね。護衛ったって突っ立ってるだけだし」
「なにがそんなに気に食わない?」
そっぽを向いたままこちらを向こうとしない尚人の腕を引くと、自分の方へと引き寄せた。
一週間ぶりの尚人の感触に浸る暇もなく、突き放されてしまう。
「それもわからないの? 大体、あれはなに? 悩むだけ悩んで俺を言いように甚振って後は放置? フフ、呆れたよ」
「たまに俺だって弱るときもあるんだ。甘えたって良いだろう」
「あれが甘え!? それなら最後まで見届けるってのが筋でしょ? ああいうのは、僕は好きじゃない」
「……寂しかったのか?」
「フフ、寂しい? 馬鹿なこと言わないでよね」
つんと尖る尚人を解すように腕に抱きとめると、髪の毛に唇をつけた。
公の場だからか尚人はまともな格好をしていた。
ダークカラーのスーツ、小奇麗に纏められた髪。
見慣れない姿だったが、前よりはすんなりと受け入れられることができる。
先ほどまで黒く澱んでいた心も、愛しい本人を目の前にすれば消えていった。
この廊下の先には若衆を配置している。
こうやって触れていても、若衆ならばいつものことと軽く受け流してくれるのだ。
いつも尚人の側にいるポチとやらも、四柳さんも今はいない。
どこかに配置されているのだろうが。
腕に収まる尚人は暴れるかと思いきや、大人しかった。
「……話、あるんだって」
「……なにがだ」
「親父だよ、迅とこの、組長が……話、あるって」
「……聞いたのか」
「フフ、どうだろうね。少なくとも、わかってはいたんだけど……ね」
口寂しげに尚人が爪を噛む。
いつもは尚人から漂っているアルコールの匂いも、今日はしない。
顎に手をかけ、顔をあげさせると不安げな瞳とかち合う。
揺れる視点が俺を見ないようにさ迷うさまに、確信が見えた。
尚人の方が早く着き、この部屋の前に待機していたとなれば、自ずとことは見えてくる。
三雲の親父と違い、俺の親父は頭が固い。
考え方が古いのだ。
それ故に三雲の親父と仲たがいしている時期もあった。
粗方この部屋に入る前に尚人にお灸を据えたのだろう。
俺に話したように。
幾ばくか精神的にも余裕がでてきた俺は、尚人の髪を撫ぜつけると抱く力を込める。
「心配はいらない。まだ先の話だ。それにもう策は練っているんだ」
「……迅、僕たち」
「尚人、それ以上は言うな。良いか、一年後であろうと十年後であろうと、必ずしなければならないことはある。だがな、お前を手放すつもりはない。それだけは覚えておけ」
「フフ……勝手な人」
「尚人も望んでいるんだろう。素直になれ」
ハチリ、と絡む視線。
ゆらゆら揺れていた不安が色褪せ、喜びの色が増える。
少しだが、幸せそうに笑った尚人の頬を持つと、触れるだけの口付けを交わした。
障子の奥では楽しそうに談笑する親父たちの声。
廊下には目を光らせている組員。
ここだけが切り取られたかのような、世界だった。
それから俺たちは会話をすることなく、付かず離れずの距離を保っていた。
自分たちより上の立場の人間がいる場所ではあまり自由が利かない。
見られでもしたら厄介なのだ。
若衆は事情を理解してくれているので口を閉ざしてくれるが、親父たちには言い訳が通用しない。
今は大人しくしているのが一番の得策だった。
何事も変化がないまま数時間。
ただ立って気配をめぐらせているだけの仕事。
気を抜き、息を吐いたのと同時に障子が開いた。
「迅、入ってこい。お前に話がある」
「……わかりました」
呼ばれたのは俺なのにびくりと肩を震わせたのは尚人。
ちらりと視線を向けると、なにかに耐えるように唇を噛んでいる。
この様子から見ると尚人は知っているのだろう。
それも俺が関わって、尚人にとって我慢ならないことだと見受けた。
俺は軽く頭を下げると中へと入り、下座へと腰をおろした。
右には眉間に皺を寄せて少し不機嫌な表情の三雲の親父。
左には小難しそうな表情で冷酒を手に取る親父がいた。
「……迅、お前に重大な仕事を任せる。これについての拒否は認めん」
「のう兄弟、その話はどうにかならんのか。それでは二人が不憫だろう」
「これは清滝組の話だ。兄弟といえども口を挟むのはやめていただこう」
「しかしだな、その案件はお前の坊じゃなくともできるだろう。いずれ跡継ぎを作ると言うてるのだ。今は好きにさせたら良いだろう。尚人が可哀想だ」
「跡継ぎ問題とは別だ。これは仕事なのだよ、兄弟。迅と三雲の坊がどうであれ、関係のない話だ」
「大体お前は頭が固すぎる。坊と尚人は恋中なのだ。そっとしておいてやろうという考えはないのか? 跡継ぎ問題もお前がもう一人子供を作れば済む話じゃろう」
「今からか? 無理な話を言うな。大体お前は緩すぎるのだ。恋中であろうと関係ない。それにお前のとこはどうなんだ」
「わしのところは娘がいるからなんとかなる。尚人に悲しい思いはさせたくないからの」
「わしだって迅に悲しい思いをさせるためにしとるんじゃない!」
矢継ぎ早に言葉を交わす親父たちに、俺は目を白黒とさせた。
肝心の話はどこへやら、お互いにお互いを罵り合うことに発展すると、大声を出し合う。
障子の外に気配が増えるのがわかった。
何事かとひそひそと言い合う声も。
俺はふうと小さな溜め息を吐くと、無礼を承知で膝を立てた。
「親父、若衆たちが集まってきております。今少し落ち着いてはくださいませんか」
俺の声にハッと我に返った二人は、こほんと堰を一つするとゆっくりと背もたれへともたれかかった。
どうやら一時休戦のようだ。
「……迅、本題に入るが最近の六角組の内部事情は知っておるか?」
「はい。存じ上げております」
親父の口から出た六角組、その組には嫌な思い出しかない。
六角組は清滝組直系の二次団体の組だ。
それも比較的大きな組で、六本木での麻薬ルートを独自で持っている。
外国マフィアを淘汰してくれる上、六本木での凌ぎには大いに貢献してくれているため邪険には扱えない組だった。
本来なら俺個人に対してはあまり関係がないのだが、俺が六角組の組長に気に入られているため縁談を持ちかけられていたのだ。
さり気なく断り続けてはいたのだが、その話が再浮上したのだろうか。
三雲の親父の口言いから推測すると、俺と尚人の関係に関わっているらしい。
どくどくと胸が高鳴り、嫌な汗がたらりと背中を伝う。
顔をあげないまま口を閉ざしていた俺に、親父は重い口を開けた。
「……六角がな、もう駄目らしい。癌を患った。全身に転移してな、もう長くはない」
「……跡継ぎはどうされるんですか? 確かあそこの組は一人娘だったように記憶しているのですが」
「まあ世襲制じゃないからそこは問題ではないのだ。だがな、その娘が家を出られんくなって婿養子をもらうらしいのだが……その娘がなあ、どうやらお前を好いとるとの話なのだ」
その言葉に反応する前に、三雲の親父が酒をドンッと机に置いた。
余程この話に納得がいかないのか、酒を煽るペースが早い。
「兄弟、少しは静かにしておれ。……でだ、お前は清滝組の跡継ぎ、六角の娘は六角組に骨を埋める。それは変えられん事実だ。だからな、最後の思い出にと、お前と話がしたいとのことなのだ。最後まで言わなくとも意味はわかるだろう?」
「納得いかん! わしは反対だ。六角組を懇意にしとるのはわかっておるが、その話とはまた別だろう」
「兄弟、こっちにも事情があるのだ。わしも迅が憎くて言うてるんじゃない。これは仕事なのだ」
頑として意見を譲らない親父と、俺と尚人を庇う三雲の親父。
この流れがどう変わろうと、俺は親父の息子だ。
お願いという命令の言葉に逆らうことなどできない。
先ほどの尚人の表情が目に焼きついて離れない。
きっとこの話を先に聞いたのだろう。
たかが一回抱くだけだ。
一夜限り。
今まで散々してきたことではないか。
そう自分に言い聞かすも、尚人の顔を思い浮かべると駄目だった。
涙を流すことがないと言っていた尚人だったが、それは涙を流すことがないだけで、泣いてはいるのだ。
痛い痛いと胸を痛めながら、心で泣くのだ。
それがわかっているのに、俺はそれをしなくてはならない。
最早決定事項なのだ。
言い合っている親父たちがどこか遠くに感じる。
神経は障子の向こうに集中していた。
「取り敢えずだ、迅! この話は決まったこと、詳細は追って言う! これ以上ここにいては兄弟が煩くて仕方がないからお前は退室しろ」
「兄弟! わしは納得しとらん!」
「煩い! 決まったもんは決まったのだ!」
ぎゃあぎゃあと子供のような喧嘩。
俺は小さく頷くと、俺に見向きもしない二人を置いて外に出た。
障子を開ければ全てを悟ったような表情を浮かべている尚人と、騒ぎを聞きつけてやってきた若衆。
どんな表情を作って良いのかわからずに、俺はぎこちなく口端をあげたのだった。