あれから親父たちは仲違いしたのか、不機嫌なのを隠そうともせずに部屋を出てきた。
五分の兄弟盃をしている手前、前面にそれを押し出すことはなかったが雰囲気から滲み出るものがある。
少し呆れながらも俺は親父の命に従うと、一旦本家へと送り届けることにした。
若衆や組員を引き連れ、ぞろぞろと高級小料理屋を出る。
ずらりと並ぶ清滝組のリムジンに若衆や組員を振り分け、間に挟まれた車に親父を乗せた。
迅速に対応を済ませ、俺は個人的に一台のタクシーを呼ぶと最終確認へと入る。
「おい、清重(きよしげ)。俺はここに残る。お前が親父を送り届ける指示をしろ。と言っても車に乗ってるだけなんだがな」
「……兄貴はどうするんすか?」
「少し尚人と話をする。親父には許可を得ているから心配をするな」
「わかりやした! じゃあ俺が責任を持って送り届けます!」
清重と呼んだ俺が一番の信頼を置いている子分は、人の良い笑みを浮かべると上々の返事をした。
親父の護衛を勤めている組員がリムジンに乗り込む。
清重はそれを見届けて後続車に乗り込んだ。
三台のリムジンが響かせるエンジンの音。
それから幾ばくもせずに発進した。
俺は、三台のリムジンが見えなくなってから尚人が立っている場所へと戻る。
もう既に三雲組の車は発進したのか、その場には尚人しかいない。
壁にもたれるようにして、明後日の方向を見ていた。
心なしか気落ちしている様子の尚人。
宙に浮く手を引くと、尚人の身体を腕に抱きこんだ。
「……どうする? 明日まで暇をもらった」
「飲みたい」
「そう言うと思ってタクシーを呼んでおいた。今からならホテルで飲んだ方が良いだろう。それで良いか?」
「フフ、変に優しいんだね。気持ち悪いよ、迅」
気丈に振舞おうとして笑う尚人に、心知れず胸が痛くなる。
今以上、強く抱き込もうと力を込める前にタイミング良く到着したタクシー。
仕方ない、今は引こう。
俺は抱きしめていた腕を離すと、タクシーの運転手に合図を送った。
それから尚人を乗せ、俺も乗り込むといつものホテルへと向かったのであった。
尚人専用と化した清滝組管理ホテルのスウィートルーム。
そこに到着するやいなや尚人はネクタイを緩め、ワインクーラーへ一直線だった。
今日だけは止める言葉も口にすることができず、ただそれを黙って見ていた。
飲むべき日なのかもしれない。
自棄酒という酒を煽るのにはぴったりではないか。
だけど俺は尚人みたいに酒が好きな訳でも依存している訳でもない。
仕事上飲むことを覚えただけで、普段は余程のことがない限り飲まないようにしていた。
それも尚人と会ってからはめっきり飲む機会も減ったのだ。
ジュースのようにがぶがぶとお酒を目の前で飲まれてしまっては、見ているだけで酔いそうになる。
それ故に俺は尚人の前ではあまり飲まない。
その代わりに、やめられない嗜好品がある。
俺は煙草に火をつけ、紫煙を燻らせると尚人を見つめた。
「……あまり、無理をするな」
聞こえているのか、聞いていないふりをしているのか、尚人は黙ったままひたすらにワインを口にする。
いつもの如くラッパ飲み。
コルクを歯で抉じ開け、味わうこともせず胃に流し込むように飲む。
ただ、表情だけがいつもと違うのだ。
アルコール依存症だとわかってはいるものの、お酒を飲むときの尚人は嬉しそうである。
美味しい、そう心から思いながら飲んでいる。
だがしかし今の尚人は無表情だ。
なにも映さない。
そんな瞳をしている。
聞かずとも自棄酒だと理解した俺は、ワインが半分ぐらいになるまでは黙って見ていた。
「……尚人、少し可笑しいぞ」
「フフ、いつも通りだよ。いつもとなにも変わらない」
「違うだろう? ……何故俺を責めない。我儘を言わない。嫌だと、どうして言わないんだ」
「……それを言ったらなにかが変わる? そうじゃないでしょ? フフ、なにも変わらないんだよ、迅」
ドンッ、とテーブルに置かれたワイン。
ちゃぷりと赤い液体が中で揺れた。
触れようと伸ばした手を払われ、尚人は俺からひらりと身をかわすとベッドの方へと移動した。
途中で脱ぎ捨てた黒の革靴。
心なしか足元がふらついているように見える。
もう酔ったのだろうか? あの尚人が、酔った?
俺は違和感を覚えるとベッドに腰をかけた尚人の傍に寄り、隣に座った。
覗き込んだ顔はどこか赤く、熱を持っているようにも見える。
今度こそはと伸ばした手は振り払われず、尚人に触れることができた。
熱を帯びた頬をさらりと撫ぜ、確かめるように唇の輪郭をなぞる。
添えた手に、尚人の手が重なった。
胸苦しげに擦り寄る尚人は、諦めを含んだ声色で言葉を紡ぐ。
「……責めたって、仕方ないじゃないか……」
「え?」
「プライベートだったら、僕が口出しできる範疇だ。だけど仕事になったら、……僕が口を出すこともできない。ねえ、間違ってる?」
尚人が言う正論に、俺はなにも言えずに黙った。
もし逆の立場だったら、俺はどうするのだろうか。
そんな考えを巡らせながら、言葉の続きを待つ。
「僕たちは組長の下にいるヤクザだ。上が言うことに逆らうことすらできない。……将来だって、……決められてるんだよ」
「尚人……」
「弱音? 我儘? 言ったって変わらないなら言う意味などない! 全て決められているんだよ! その中で足掻いたって抵抗したって結果は一緒じゃないか!」
「変えられるかもしれない。……確かに変わらないと考える方が確率は高いのだろうが、それでも希望をもったら駄目なのか?」
激情して声をあげる尚人。
ピークに達する感情を落ち着かせるためにも、震える身体を優しく包み込んだ。
はあはあと息を整え、唇を噛み締める仕草。
誰よりも繊細で小難しく、厄介な心を持っている尚人。
痛い痛いと心で泣きながら、平然とした様を見せようとする。
俺が尚人をそうさせている。
傷つけ、救っているのだ。
背中をゆるく撫ぜれば、おずおずと伸ばされた手が俺の背中に回った。
「俺はなにがあろうとも、最後はお前と共にありたい。その最中、お前がどれだけ傷つこうと苦しもうとも、傍にいてほしい。俺の唯一の帰る場所なんだ」
「……フフ、勝手だね」
「お前もそう思ってくれていると嬉しいんだがな」
「……前にも言った通り、僕の心はもう迅の中に住んでいるんだ。今更、……どこに行こうっていうの?」
「そうだな。……そうだったな」
「……今はなにも考えたくない。将来も、仕事も、なにもかも忘れたい……」
誘うように顔を近づけてくる尚人に、俺は目を瞑るとその唇を受け入れた。
たどたどしい口付け。
何度も触れるそれに焦れったさを覚えた俺はそのまま深く口付けると、尚人をベッドへと押し倒した。
いつになく素直に、いや、積極的に俺を受け入れようとする尚人。
その行動に不安の大きさを見て、存在を確かめるように唇を貪った。
話し合っても、悩んでも、もがいても、なにかが変わる訳でもなく、決められたことはいずれ俺たちの足元にやってくる。
怯え、逃げようと足掻く俺たちを神は笑って見ているのだろうか。
それとも、空虚なものとして見ることすらしないのだろうか。
考えても無駄。
そう無駄なのだ。
弱音を吐くことも、肝心な我儘を言うことも、涙を見せることもない尚人。
こんなに近くにいるのに、その存在が遠い。
どうしてそんなに怯えている? どうしてそんなに怖がっている? 俺に教えてくれないか。
俺だって人間だ。
スーパーマンにもヒーローにもなれない、ただの人間だ。
口にしなければわからないこともある。
教えてくれないとわからないんだ。
泣きそうに歪む尚人の顔。
苦しげに噛んだ唇をそっと外してやれば、揺れる瞳とかち合った。
「……あいしてる。尚人を愛してる」
ゆっくりと、子供に言い聞かせるように耳元で囁けば、幾分か柔らかく緩む口元。
今までにないくらいに優しく、ゆったりとした動作で愛撫を施し、尚人を覆う殻を一つずつ剥がすように接した。
ひくりと震えた喉元。
小さく震える身体を抱きしめながら、中に挿れた指をぐるりと旋回させた。
「ん、んっ……じ、ん……」
「どうした? 痛いか」
「……いれて。中に、いれて」
「まだ慣らしていない。もう少し待て」
「良いから、いれて。慣らさないで良い。おねがい……」
消え入りそうな声色。
まるでいつかの尚人とだぶって、俺は少しだけ瞠目させた。
あれは俺たちが愛し合うずっと前、俺が尚人に惚れた夜だ。
子供の頃に甚振られたとき怖くなかったと、そう言い聞かされた日。
あの日の尚人は尚人であって尚人でなかった。
今の尚人も、あの日の尚人と同じだ。
ここにいるのに、いないような感覚。
「迅、助けて……おねがい……!」
痛いくらいに肩を掴む尚人に、俺は苦渋の判断を迫られた。
今挿入すれば確実に尚人は傷つく。
余り慣らしていないそこに自身を挿れればどうなるかなど、熟知している。
だがゆっくり慣らしてやれば、尚人の心に傷がつくのだ。
焦燥感に駆り立てられている尚人。
なにがそんなにお前を追い詰めるのか、俺にはわからない。
そう考える時間すら、ないようだ。
俺は仕方なく挿入することに判断をくだすと、ローションをいつもより多めに出し、自身に塗りつけた。
「尚人、舌噛むなよ? 洒落にならん」
「……フフ、馬鹿、噛む訳ないだろ」
足を掴み、挿れやすいような体勢をとると尚人の中へと一気に突き入れた。
予想はしていたがあまりにきつい内壁に、俺は眉を顰めると衝撃に耐える。
眼下にある尚人の顔も痛みに歪み、あまりの衝撃に息を止めていた。
動かすことすらままならない締め付け。
俺はゆっくりと息を吐き、自分を落ち着けると幾ばくかパニック状態にある尚人を宥めた。
「だから、言っただろう……」
虚ろな瞳。
なにかを探してさ迷う手を握れば、きつく握り返された。
指先、手首、それらに優しく唇をつけ落としてやれば、ひくりと身体が動く。
徐々に色を戻しつつある瞳の中に、正常で保たれた自分が映るのを見てほっと息を吐いた。
「わかるか?」
「……痛い」
「そりゃ前は慣らし不足といえど一応は慣らしたからな。今日のはほぼ慣らしていないようなものだ」
「……ねえ、迅……一つだけ、……言っても良い?」
遠慮がちに問う尚人の言葉に頷くと、続きを待った。
十数秒の沈黙のあと、観念したかのように唇が開く様を黙って見る。
薄づきの唇が文字にした言葉に、俺は胸を締め付けられた。
「……仕事のことは、気にしてない。六角組が清滝組にとって大事なのは、重々承知している。六角の娘と夜を過ごそうが、それは仕事だ。僕が傷つく権利などないと思ってる」
「尚人、俺はお前が仕事で誰かと身体を合わせるのかと思うだけで苦しい」
「フフ、焼きもち? でも心配しないで。僕にはそんな仕事向いていないようだからね、回ってこないよ」
「……そうか」
「僕が言いたいのは、……その日、……終わってから、僕に会いにきて。それだけで、僕は十分だよ」
その言葉の裏に隠された尚人の本音を少し窺い見ることができて、俺は遣る瀬無い気持ちになった。
だがそれを見せると尚人が不安になる。
わからないように表情を作ると、安心させるために力強く頷いた。
それに尚人は嬉しそうに破顔する。
飽く迄、本音も弱音も我儘も言わないようだ。
それが尚人の弱さだと、俺は理解した。
言葉にして、尚人を縛り付ける。
強引に抱く。
それで不安を取り除く俺。
言葉にせず、距離を取る。
極力近づかないように壁を作る。
それで不安を取り除く尚人。
どうしたら、お前がずっと笑っていられるのだろうか。
嗚呼、そんな日などこないのか?
所詮は男同士だ。
跡継ぎも作れないし、血縁を結ぶこともできない。
将来の約束など、口でしか補えない。
尚人の不安要素はそこに根強くしがみついているのだ。
俺が仕事で女を抱くことで、リアルになった現実。
いずれは女の元に行くという確実とした未来が尚人の目に映ったのだろう。
いくら俺が口で離れる気などないと言っても、尚人の心には響かない。
それは口でしか補えないものだからだ。
尚人が幸せに笑っていられるようにするためには、確実とした約束。
目に見えるもので縛り付けないと、駄目なのだ。
俺はぐるぐると回りだす仕様のない思考をシャットダウンさせると、尚人を安心させることに務めることにした。
「……尚人、そうだ、今度またモックに行こう。また外でするのも良いかもしれないな」
「フフ、あのときは最悪だった思い出しかないよ。もう外は二度とごめんだね」
「そんなこと言っていつもより感じていただろ」
「っ、最低! そういうこと平気で良く言えるね!」
「ああ? 事実だろ。あのときの尚人も可愛かったな」
「……フフ、撃ち殺されたいの? それ以上言ったら本気で撃ち殺してあげる」
牙を剥く尚人に笑うと、俺は律動をし始めた。
今、俺ができるのは些細なことだけだ。
小さな口でしか補えないものを、少しずつ尚人に植え付けていく。
少しでも、ほんの少しでも、限りなく0に近くても、尚人の不安がなくなれば良い。
俺と共にいることが尚人にとって苦痛であろうとも、俺は尚人を手放してやることができないのだ。
存在を深く確かめるように俺をきつく抱きしめながら、受け入れる尚人。
俺は口付けを落としながら、何度も尚人の中に欲を吐き出した。
結局、途中で何度か休憩を挟んだものの、お互いやめるきっかけが見つからずに一晩中肌を重ね合わせていた。
朝が近づくにつれ、吐き出すものもなくなってきた。
絶頂に達する時間も長くなる。
たゆたうような快感の中、ただお互いの存在だけを求め合った。
「は、っ……ぁ、あ……」
掠れて声にならない喘ぎ声を出し、何度目かの絶頂に達した尚人。
お互いの腹部は尚人が出したもので濡れ、シーツはぐちゃぐちゃになり、濡れているものがなんなのかすらわからなくなる。
もう挿入している感覚も失いそうだ。
自分がなにを感じて腰を動かしているのか、それすら考えることもできない。
抜こうとすれば俺をきつく抱きとめる尚人の腕。
それに苦笑いを零すと、俺は最後の力を振り絞って尚人を腕に抱きとめると身体を反転させ、上に乗せて寝転んだ。
「……ほら、こうすれば繋がったまま寝れるだろう」
「……なんかやだ」
「無理言うな。じゃあ抜くか?」
「……あ、……い、嫌だ」
「尚人、もう寝ろ。お前が深く考える必要などない。ただ黙って俺に愛されてれば良いんだ。わかったか?」
「フフ、……言うようになったね」
「そうだな、言うようになったついでにしつこいことを言うぞ。尚人、俺はお前が望むのなら命をくれてやったって良い。それを忘れるな」
「……忘れたよ、そんな言葉」
「それでも良い。言いたかっただけだ」
「……フフ、でも僕の命はあげないよ。……迅にあげたら、もうなくなるからね……」
くぐもった声色。
汗でしめった髪が俺の首筋を擽った。
その意味の真意を問うことはできないようだ。
尚人は無理に目を瞑ると、俺の肩口に顔を埋めたままだんまりを決め込んだ。
仄かに香る尚人の匂いと、汗の匂い。
嗅ぎ慣れた香りに包まれた俺は、尚人以外で得られることのない安堵を覚えると存在をリアルに感じた。
今度は起きたとき、一人にはさせない。
尚人が目覚めるまで傍にいよう。
そう心の中で誓うと、少ない時間を惜しむように尚人の顔を見つめた。