支配したい世界 04
 黒塗りのセルシオ。 ボディが夕日にあたり、絶妙な光り方をする。
 六角組組長の娘を乗せたセルシオが清滝組本家の前に止まり、とうとう時がきたのだと知らせてくれた。
 尚人と話し合った翌日、早速と言わんばかりに親父は日程を決めた。 どうやら悠長に構えている時間は残されていないらしい。
 全てを諦めた俺は、もう流れるまま流されることしかできないのだ。
 三日後と伝えられ、それを尚人に伝えれば不安定な声色で頷いた。
 六角の娘と一晩一緒にいるつもりはない。 ことを済ませれば、さっさと引き上げる予定だ。
 夜に尚人とスウィートルームで待ち合わせをしている。 そう思うと、俺はいてもたってもいられなかった。
「……兄貴? 車の用意ができやしたけど」
「ああ、わかった。行こう」
 心配そうな清重の声。 顔色を窺うように声をかけられては、兄貴失格である。
 なるべく平常心を保つことにすると気合を入れ、清滝組本家を出た。
 俺が愛用しているクラウンが先頭を走り、その後を六角のセルシオが走る。 各々に護衛をつけ、ホテルへと向かうのだ。
 本日、表上ではホテルの一室で内談をするという形になっている。 だが若い男女がホテルの一室ですることなど一つしかない。
 清滝組も六角組もそのホテルの一室でなにが行われようとしているのか、わかっているのだ。
 可笑しい話だ。 幾ら自分の娘が可愛いからといえ、嫁入り前の娘を婚姻も結ばない男のところに送り込むのだから。
 これは仕事だ、そう言い聞かせても釈然としないものがある。
 苛立ちがちに煙草を口に咥えれば、清重がサッと火を出してくれた。
「兄貴、……先ほど入った情報なんすが……イロ入りしたそうっす」
「……なんだと?」
「三雲さん、もう入ってるみたいっす……」
 ギリ、と拳を握る。 湧き上がる激情をどこにぶつけて良いものか、それすらわからない。
 予定ならば尚人がホテルに入る時間は今よりずっと後だ。 そう六角の娘と話し終わった頃合を見計らって、落ち合うことになっている。
 一体どういうことだ? 何故、このタイミングで入る。
 考えても答えは尚人以外、知る由もない。 わかるのは尚人がホテルにいるということだけなのだ。
 無情にも、車のスピードは落ちていく。 ゆっくりとする暇もなくホテルの駐車場についた二台の車を、ホテルの支配人が迎えにくるのであった。
 それから俺たちは護衛に付き添われながら、ホテルの駐車場からのぼれるVIP専用エレベーターに乗った。
 一気に上まで駆け上がる箱の中、あるのは沈黙ばかり。 六角の娘は気恥ずかしいのか、顔を上げる素振りも見せなかった。
 チン、という音が鳴りついたのは最上階より一つ下の部屋。 ワンフロアに三部屋あるそこは、このホテルのスウィートルームよりは質が落ちるがVIP専用の部屋となっている。
 例に漏れなく本日は貸し切りだ。 俺たちはその三つの中でも一番広い部屋の前までくると、立ち止まった。
「……どうぞ、中へ」
 扉を開いてやり、六角の娘だけを招き入れる。 ぞろぞろとついてきた組員たちは皆、このフロアでの待機となる。
 この部屋に入れるのは俺と、六角の娘、六角 静(ろっかく しずか)だけだ。
 静が少し躊躇いを見せながらも部屋に入るのを確認すると、バタリと扉を閉めたのであった。
 今、俺がこうして静と過ごしている間にも、尚人は最上階のスウィートルームで待っているのだ。
 なにを考え、なにをして、過ごすのか。 嗚呼、尚人、お前は泣いてやしないだろうか。 そればかりが気がかりだ。
 思わず額に手を当て、溜め息を吐けば、静が俺の腕に手を添えた。
「……大丈夫ですか?」
「ああ、心配はいらない。少し仕事疲れが溜まっていただけのようだ」
「それなら、良いんです。本日は私の我儘を聞いてくださり、ありがとうございます」
 今時珍しい清楚な容姿をしている静はにこりと微笑むと、ソファへと腰をおろした。
 真っ黒の長い髪に、白雪のような透き通る肌。 大きい瞳の周りは長い睫で縁取られている。 足も長いし、胸もある。 文句のつけどころなどない容姿。
 昔ならば確実にその色香に誘われ、自主的に肌を重ね合わせていたはずだ。 尚人に出会う前の俺ならば。
 だけどどんなに綺麗な女でも、妖艶な女でも、尚人に勝るほどの人などこの世には存在していない。
 俺はまじまじと静の身体を眺めると、ふと笑みを落とした。 そうこれは仕事だ。 仕事。
 自分に言い聞かせると、静から少し距離を取り、その隣に腰をかけた。
「久しぶりだな。……まともに顔を合わせるのは六角と親父が親子盃をして以来か」
「ええ、そうです。覚えていてもらって光栄です」
「忘れる訳がないだろう。……六角が、……危ないと聞いたが?」
「……末期の癌のなんです。もって半年とお医者様に言われました。覚悟はしているつもりだったんですが、いざそう言われると覚悟が足りなかったのかもしれないですね」
「そうか。今から襲名式とかで大変じゃないのか? 跡目はやはり若頭か?」
「はい、そうです。うちの若頭が跡目相続の盃をいたします。……それと同時に私の夫にも、なります」
 そういうことか。 俺は心の中で思案をめぐらせると、納得した。
 大体の組は組長が現役を引退するとき、その地位の相続は若頭が担うようになっている。 世襲制も世襲制ではないところも、大抵のところはそうだろう。
 だから若頭というポジションは激務を極めるし、実権を握っているとも言われるのだ。
 俺は若頭にしては随分と若い方だからまだ組は持っていないが、大きな組となれば幹部のものは自分の組を持つようになる。 それらを二次団体と呼ぶのだ。
 そうして三次団体、四次団体と増え続ければ組長に入る上納金も増えるし、自分の凌ぎ代も増える。
 俺もいずれかは組を持つのだろうが、今は未だ先の話だ。
 六角組の若頭を務めている男も己の組を持っている。
 しかし六角は現役を引退するのが早すぎたのだ。 準備もなにも整っている状態ではなかったのだろう。
 早急に六角組の組長へと出世した男だが、一つ足りないものがある。 それは妻だ。
 六角組の次期組長となる男の妻に、静以外最適な女はいないだろう。
 そういうことなのだ。 六角の事情が明け透けになり、俺はその事実に息を吐いた。
「……政略結婚、か」
「……ええ、私とて六角の家に産まれた女。運命に逆らうようなことはしません。……ですが、一度くらいは愛する人の腕に抱かれたいと思うのが女の夢でもあります」
「若頭は四十五だったか」
「そのようなお年だったと記憶しております。あの人にも、愛人はたくさんいらっしゃいますわ。私などあの人の出世の道具しかなりえないのです」
「……それで、俺ということか」
「……迅さんに好いた相手がいることはわかっています。ですが私の中で燻る恋があることも事実。そこには一方通行の想いしかないとわかっていつつも、我儘を望んでしまったのです」
「静」
「一晩で良いのです。この日を一生の思い出として、私は六角のために命を捧げます。……ですから、どうかこの私の我儘、叶えてくださいませんか?」
 寄りかかってくる静の身体。 そうと触れれば身体は震えていた。
 怖いのだろう。 怖いはずだ。 今からの人生を思えば、同情せざるを得ない。
 俺は静の身体をしっかりと腕に抱きこむと、決心を固めた。
 どの道ここで引き返す選択肢などありはしない。 静は己の我儘だというが、裏取引で静の願いを叶えることは現実として決まっているのだ。
 人には各々の思惑と私情がある。 思い通りにいく世の中など、理想論でしかない。
 きらりと光る女の涙もまた、私利私欲のために振舞う男が流させた血の涙なのだ。
 嗚呼、尚人。 尚人はどんな思いを抱え、どんな涙を流すのか。
 それを機に会話が途絶え、俺は覚悟をすると静の身体を抱えて寝室へと向かった。
 仕事と割り切るには俺も若すぎて、仕事なのだと思うには辛すぎる静。 待っているだけの尚人が一番の苦痛を抱えているのかもしれない。
 なにかを打ち消すように静の身体をベッドに倒すと、俺は心を無にして一つの口付けを送った。

 シャワーの流れる音。 俺も今しがた入ったばかりだ。 身体をタオルで拭き終え、衣服を身につけているときに浴室から静が姿を現した。
 豊満な胸をタオルで隠すように佇む姿には、寂しさが滲み出ている。
 だがもうその身体を抱き寄せてやる意味など、俺にはなかった。
「……もう行かれるんですか?」
「すまないな。人を待たせている」
「いいえ。……一夜の夢でしたわ。これを胸に私は生きようと思います」
「……余り大袈裟にしてくれるな」
「ふふ、すみません。では私はここで一晩過ごしてから明朝、六角組へ帰ろうと思います」
「次会うのは新組長の顔見世のときか」
「そのとき私は組長の妻として立派な勤めを果たそうと思っています」
 清々しい静の表情。 女は強いと良く言ったものだ。
 こうして後ろ向きにしか考えられない俺たちよりも、静の方が短い時間で成長を遂げている。
 堂々とした立ち振る舞い。 その言葉におされて、俺は曖昧に相槌を打つと振り返らずに部屋を後にした。
 この先、静がどれだけ涙を流そうとも、その涙を拭ってやる義理はない。 冷たいようだが、俺の手は尚人を救うために存在しているのだ。
 キィと扉が開けば、待機していた組員全ての目が俺に向く。 それに少し煩わしさを覚えながらも、俺は軽く手を上げると清重を呼んだ。
「俺は先に帰る。静は明朝までこの部屋にいる予定だ。六角組は引き続き待機しておけ」
「ハ、かしこまりました」
「清重、俺は上に向かう。悪いがお前達もこのフロアで待機をしてくれ」
「……兄貴、……わかりやした! また明朝お迎えに参りやす」
「よろしく頼む。尚人の方にも迎えがくるとは思うのだが、万一こない場合は送るので頭に入れておけ」
「はい!」
 気の良い返事を受け、俺は頷くと足早にエレベーターへと向かった。
 最上階まで数十秒もかからずに行けるだろう。 だがその距離こそが煩わしい。
 俺は逸る気持ちを抑えることができず、エレベーターのボタンを連打すると開いた扉に滑り込むようにして入り、最上階へと向かうのだった。
 尚人の部屋として認識した方が早いのだろう、スウィートルーム。 そのカードキーを所持するのは俺と尚人だけだ。
 先に手に入れておいたカードキーで鍵を開け、中に入れば真っ暗な世界が広がっていた。
 明かり一つついていない部屋。 窓から漏れる下界の僅かな光だけが、この部屋を照らしている。
 迷うことなく向かうのは寝室。 尚人がいるであろう場所だ。
 薄く開いた扉。 それに手をかけ中に入れば、先ほどまで抱えていた静への同情が消えていくのをどこかで感じた。
「……尚人」
 寝室を覆うほどのアルコールの匂い。 どれだけ飲んだのだろうか、床には種類の違う様々なお酒の空き瓶が転がっていた。
 死に人のようにベッドに身体を横たえ、眠っている尚人の姿。 バスローブから覗く足の白さに、俺は眩暈がした。
 胸が痛いほどに締め付けられる。 転がったお酒の数が尚人の痛みのような気がして、俺はどうしようもない苦しさに胸を掴んだ。
 息が詰まる。 身体が震えて、一歩すら動かせない。
 怖い。 怖い。 尚人に触れるのが、怖い。
 どんな表情で俺を迎えるんだ? どんな思いを抱えてここにいたんだ?
 聞くのすら困難で、答えなど知りたくもない。 逃げている俺にはその勇気すらないのだ。
 権力、地位、金があったとしても尚人を幸せになどできない。 それらは無意味なのだ。
 誰よりも大切な存在を、俺が傷つけている。 だがその傷を癒してやれるのも、俺だけなのだ。
 震える足を叱咤し一歩踏み出せば、簡単に動いた足。 尚人までの短い距離を埋めるように近づけば、ぴくりともしなかった身体が反応をみせた。
「……起きていたのか」
「……フフ、狸寝入りなんてしたつもりなかったけど」
 くぐもった声。 酒焼けしたのか、いつもよりしゃがれたその色に俺は眉を顰めた。
 いつだったか尚人の側近でもあり右腕、世話役、若頭補佐を勤める四柳さんと交わした会話を思い出していた。
『坊ちゃんの逃げ場はお酒なんですよ。あのお方は誰に頼ることもなく一人で解決をしようとなさいます。それがこの四柳には歯痒くて仕方がない……』
『……ですが今の俺には貴方が一番信頼されているように見えます』
『有難いお言葉感謝いたします。ですがね、迅さん、この四柳でも勝てない相手がいるのです。おわかりですか?』
『いや、わからない……』
『お酒です。坊ちゃんの一番の味方でもあり、逃げ場でもある。どうやら私はお酒には勝てないようです』
 そう言って苦笑いを零した四柳さん。 悲しそうでもあり、悔しそうな顔でもあった。
『ですがね、迅さん。貴方なら坊ちゃんを変えてくれるとそう信じているのです。……この四柳のお願い、聞いてくれますか? どうか坊ちゃんを助けてやってください。ただ傍にいてあげるだけで良いのです。それだけで坊ちゃんは救われますから』
 その言葉の深い意味や意図など、俺にはまだ理解できない。 わからないのだ。
 傍にいることが救いになる。 なんの救いになるのか? それは俺が自分で見つけなければならない。
 顔をあげようとしない尚人の髪を優しく撫ぜつけ、覆い被さるようにその身体を抱き寄せれば、弱々しい抵抗をみせた。
「僕に、ふれないで……」
 脆弱なその姿に、塗炭の苦しみを胸に覚えた。 つっかえる喉、張り付いたかのような唇は言葉を紡ぐことすらできない。
 ただ抱き寄せる腕だけは離さないと力を強めれば、尚人の身体の震えも増した。
 もがくように泥沼の深みにはまる関係。 愛し合うだけの単純な行為が、こんなにも難しい。
 愛し愛されるだけでは駄目なのか。 純粋に求めているだけなのに、どうして胸が痛む。
「尚人、……尚人」
 柔らかな髪に口付けを落とし、見えている頬に手を寄せる。 嫌々と首を振る尚人の身体を強く引き寄せ、顔を覗き込むようにすれば俺の時は止まった。
 強い意志を湛え、何事にも屈さない尚人の瞳。 真っ直ぐ射抜くような視線に、何度も欲情を覚えた。
 その尚人屈指の瞳に今は光がない。 失われた光の変わりに、別の光るものがあった。
「……フフ、見ても楽しいもんじゃ、ないでしょ……?」
 強がりばかりいうその唇。 震える手を握ってやれば、尚人は耐え切れないといった風に瞼を閉じた。
 幾重にも重なる涙の跡。 頬に連なるそれを見た俺は、現実を受け入れ切れずにいた。
 泣かないと、決め付けていた。 だって尚人が言ったから、涙を流すことがないのだと。
 だけどずっと泣いていたのか? 俺がいない、誰もいないところで、お前は泣いていたのか?
 子供のように声をあげる訳でもなく、嗚咽を漏らす訳でもなく、ただぼろぼろと義務的に涙を零すだけ。 その泣き方は、誰に教わったんだ、尚人。
 絶えず零れる涙を指先で掬い、舌で舐めあげる。 しょっぱさを感じる分だけ、胸の重みも増えた。
 手を伸ばす前に、縋りつかれて、掌に感じる温もり。 濡れた頬が、触れた掌。
「……すてないで」
 涙と共に落ちた本音。 漏らしたことすら自覚がないのか、虚ろな尚人の瞳に、俺は映っていなかった。