支配したい世界 05
「尚人……っ!」
 そうじゃない、そうじゃないだろ。 俺を見ろ、尚人。
 頼りない腕を引き寄せて、抱き止めた。 腕の中に収まる尚人の小ささに、胸が苦しくなる。
 ひくりとしゃくりあげた声が痛い。 俺の肩口に顔を埋めたまま泣いているのだろうか。
 じんわりと濡れるそこ。 錯覚なのか、現実なのか、それすら遠い存在に見えた。
 子供のような体温。 普段とは似つかない姿。 震える手で背中を掴む行動に、知らずに胸が熱くなる。
 強がっていても弱いのだ。 そう俺も尚人も弱いから、上手に手を伸ばすことができない。
「……尚人?」
 ぎり、と強く握られたシャツ。 顔を覗き込めば色を失くした目が、俺を睨んでいた。
 怒っているようで、悲しんでいる瞳。 炎の中に置き去りにされた子供のようだ。
 隙間が開いたことに俺は不安を隠せず引き寄せるように手繰り寄せるが、それを尚人は否定した。
「嫌だ」
「どうした? 落ち着け、尚人」
「嫌だ嫌だ嫌だ! 迅じゃない! 迅じゃないっ!」
 ばたばたともがくように手足が動き、俺の中から抜け出そうとする。
 いくら俺の方が力が強いといえども、尚人も男だ。 見た目からは想像できないような力もでるし、薄付きだが筋肉もついている。
 手首を掴み行動を制するが、振り払われてしまえば逆戻りだ。
 狭い空間の中で繰り広げられる攻防。 急に見せた拒絶の意味すらわからず、俺はただ引き止めようと必死だった。
 目に見えるほどの震え。 恐怖に支配されている尚人の力は予想以上で、少し伸ばされた爪が俺の頬に赤の線を描いた。
「あ、っ……」
 それに怯んだのは尚人だけでなく、俺もだ。 一瞬の間、先に気を取り戻したのは尚人だった。
「尚人!」
 俺の身体をどんっと押すと、ベッドから降りて部屋の隅に逃げようとする。
 伸ばされた手は尚人を掴めずに宙を切った。
「迅じゃない、匂いがする……!」
 慌てて近寄れば、頭を振って俺を全身で拒む。 その理由が理由だけに、足は張り付いたまま一歩も進むことができなくなった。
 シャワーを浴びた。 匂いは消したはず、だ。 きっと錯覚。 本当にそうなのか?
 この場で匂いを嗅げるほどデリカシーに欠けている訳ではない。
 留まったままの俺が気に食わないのか、尚人は俺を見るとまた泣きそうに顔を歪めた。
「どうして、触れないの……」
 言っていることが支離滅裂すぎる。 尚人の言葉通り一歩を踏み出せば臭いと喚き、それに足を止めれば触ってと泣く。
 一体どうしたら、お前は安心するんだ。
 そうこうしている内に尚人も自分で言っていることの矛盾に気付いたのだろうか、目を虚ろにさせると視線を辺りにさ迷わせた。
 それを追うように俺も動かすが、焦点が合っていない所為でなにを見ているのかわからない。
「……あ、った……」
 うっとりと、嬉しそうな声色。 ふらふらと立ち上がると、尚人は迷うことなくその場所へと一直線だった。 そう、ワインクーラーだ。
 しまった。 うっかり失念していた。
 尚人がワインに手を伸ばす。 ちゃぷりと音を立てたワイン、急くようコルクに歯を乗せる。
 俺は急いで尚人の側に近寄ると、ワインを奪い取った。 そのまま横に投げれば、ガチャンという音を立て割れる。
「いや、いやっ! やめて! ねえ、迅……飲ませてっ!」
 縋るように俺にしなだれかかる尚人。 俺はそれを無視して、ワインクーラーにあるワインを全部割った。
 ガチャン、ガチャンと音を立てて割れていくワイン。 噎せ返るほどの強いアルコールの匂い。 顔色を失せた尚人は、ああと声を漏らすだけで動けないようだ。
「飲むな」
「いや……迅……」
 ぺたり、と腰を落とした尚人。 目の前の惨状を信じたくないのだろうか、水溜りのようなワインを目に映している。
 しかしそれでも尚人は諦めることをしなかった。 這い蹲って、それを飲もうとする尚人。 頭に血がカッと上った。
「尚人! いい加減にしろ!」
「飲ませて……飲ませてっ! あああ!」
 ぶるぶる震えながら暴れる尚人を押さえつける。 優しさを捨て、ぎりぎりと締め上げれば苦しさ故に声をあげた。
 ワインを吸っていく絨毯。 赤に赤が染まって、消えていく。
 はあはあと漏れる息。 消えていくワインを見つめ、尚人はなにを思っているのか静かなままだ。
 もう抵抗する力はないのか、微動だにしない。 少し押さえつける力を緩めてやれば、小さく小さく紡いだ言葉。
「も、つらい……」
 それが本音なんだろう。 全てを物語っている言葉を深く掘り下げなくとも、俺には理解できた。
 一緒にいるのが辛い。 離れるのが辛い。 存在しているだけで辛い。
 そう言われた俺は、お前になにをしてやれるのか。 俺だって、辛いんだ。
「迅、つらいよ」
 もう一度、そう言った尚人。 俺は一つの決心をすると、尚人の拘束を解いた。
 床に寝そべったまま動かない尚人。 俺はそれを見ると寝室へと駆け込んだ。
 この方法しか、尚人は救えないのだろうか。 できればしたくなかった選択肢。 俺は強く決意を固めると、ベッド横にあるサイドテーブルの引き出しを開けた。
 そこには黒光りする拳銃。 万が一のときの、奇襲用のものだった。
 俺は拳銃をしっかりと手に持つと、尚人が待つ部屋へと戻る。 先ほどまで寝転んでいた尚人は、子供のような座り方をしてぼうっと壁を見ていた。
「尚人、立て」
 いやに細い腕を引っ張り、無理矢理立たせた。 力を入れていないのか、ふらふらとする尚人に拳銃を持たせてやれば驚いたように顔を上げた。
 尚人の手にしっかりと馴染む拳銃。 その上から優しく手を重ね、拳銃の先を俺の左胸に向ければ、尚人は顔を青くさせた。
「じ、ん……?」
「終わりにしたいなら、終わらせれば良いだろう。お前の手で。……俺を殺せば良い」
「いや……いやだ」
「引き金を引くだけだ。それぐらいはお前でもできるだろう?」
 嫌々と首を振る尚人。 頼りないほどに白くなった顔色と、小刻みに震える手。
 引き金をグッと上から押し込めれば、尚人の拒絶も大きくなる。
「嫌だっ!」
 振り払うように手を引き、尚人はしゃがむ。 二人の手から離れた拳銃は絨毯に落ち、転がった。
 嫌だと繰り返し呟き、子供のように泣き喚く尚人。 肩にそっと触れれば、俺を確かめるように抱きついてくる。
「なにがお前をそんなに苦しめているんだ」
「……独りは、いや……ひとりに、しないで……! 待つのは、いやだ……っ!」
「なにを、待っている?」
「あのときもそうだ、僕は独りで待ってたんだ。ずっとずっと待ってたんだ!」
「……尚人?」
「こなかった、こなかったんだよ、迅。三日間も僕は独りだった。暗くて、痛くて……怖かったんだ……。ああ、そうだ……僕は、怖かったんだ……待つのが、待って助けがこないのが、怖かったんだ……」
 ぐっと肩に爪を立て、激情のまま声を張り上げる尚人。 自分の中で気付いたのだろうか、言い聞かせるようにそう言葉にした。
 その内容がなにを指し示しているのか、直ぐにわかった。 知っていた。 そう、俺は知っていた。
 ずっと尚人を苦しめていた原因の大本だ。
 嗚呼、お前は今までずっと待っていたのだろうか。 悪夢を見る度に、待っていたのだろうか。 救い出してくれる手を。
「……尚人、もう独りにしない。待たせない。ずっと側にいよう。だから俺を信じろ」
 あやすように背中を緩く撫ぜる。 呼吸を荒げていた尚人も徐々に落ち着きを取り戻したのか、焦点を合わせ始めると俺の目をしかと見た。
 不安げに揺れていた瞳が、クリアになる。 受け入れようと伸ばされた手は、俺をしっかりと抱きしめると強くとせがんだ。
「……きて、くれるの? すぐに、たすけてくれる?」
「ああ、助けてやる」
「じ、ん……迅、あったかい……」
 疲れていたのだろう、尚人はそういうと糸が切れたかのように意識を失った。
 だらりと重くなる腕の重み、俺は一息つくとその身体を抱き寄せた。
 今からしなければいけないことは、たくさんある。 だがもう少しだけこのままでいよう。
 解決したのかしていないのか、それはまだわからない。 だが尚人は落ち着いたようだ。 それだけが俺を安心させた。

 それから俺はワインで汚れた尚人のバスローブを着替えさせてやり、ベッドに寝かせた。 この様子では暫くの間は起きることがないだろう。
 そっとベッドルームから出て、リビングルームを見渡す。 その惨状に大きく溜め息を吐いた。
 暴れた所為かどうなのか、至るところに瓶の破片と染みたワインがある。 特にアルコールの匂いが容赦なく鼻腔を刺激して痛い。
 俺は仕様がなしにこのホテルのホテルマンを呼ぶと、簡単に片付けてもらうよう頼んだ。
 スタッフが部屋を片付けている間、俺はシャワーを浴び、身体を綺麗にする。
 どっと疲れた気分だ。 いや、疲れたのだろう。 あんなにも取り乱す尚人を初めて見たから困惑しているのかもしれない。
 だがあの姿を見られることができるのは、俺以外いないという確信はある。 それだけで喜悦を覚える俺も、大概いかれているんだろう。
 少し長めのシャワータイム。 部屋から出れば、元通りという訳にはいかないが随分と部屋が綺麗になっていた。
 俺は床に転がっている拳銃を手にとり、握り締める。
 あの瞬間、尚人が俺を撃っていたのならもうここに俺はいない。 だが撃たないという自信はあった。
「あの……」
「ああ、もう帰って構わない。このことは他言無用だ、わかったな」
「はい。失礼いたします」
 そそくさと、逃げるように部屋を出るホテルマン。 その姿が見えなくなるのを確認すると、寝室へと戻った。
 拳銃をサイドテーブルの引き出しに戻し、ベッドに腰をかける。
 規則的な息をして寝ている尚人の寝顔は穏やかだった。 その柔らかな髪に手を差し入れ、撫ぜるようにしてやれば幸せそうに口端をあげる。
「尚人、……」
 良かった。 ここにいるのが尚人で、本当に良かった。
 束の間の安堵を覚えていた俺だったが、あることを思い出すと慌てて携帯を取り出した。
 この一悶着のお陰で尚人の闇を窺い知れることができたが、随分と苦しめてしまったことも事実だ。
 こんなことが許されるのかどうか定かではないが、ここはごり押してでも突き通さなければならない。
 プルルルルと発信する音。 数秒の間を置いて電話に出た親父は、些か不機嫌であった。
『……迅、一体何時だと思っている』
「親父に頼みがあります」
『藪から棒になんだ。……六角の件は上手くいったのか』
「それは抜かりなく。それでその見返りに明日から二日間、休みをいただきたいのです」
『……二日、か』
「清重に引継ぎはしておきますよ。親父、構いませんか」
『ふむ、ここで断ったとしてもお前は言うことをきかんだろう。……兄弟に言われてな、わしも反省はしておる。すまなかったな、迅』
「いえ、……では失礼します」
『ああ、二日間、ゆっくり休めよ』
 ぷつり、と途絶えた会話。 はあと息をつく暇もなく、俺は清重に引継ぎの件、四柳さんに尚人の休みの件で連絡をとると、暫くは電話にかかりっきりだった。
 だからだろうか、尚人が起きているなんてちっとも気付くことがなかった。
 電話が終わり、煙草に手を伸ばす。 一本とろうとした指を掴まれ、驚きに身体をびくりと反応させた。
 眼下には目を開けてこちらをじっと見る尚人。 意識ははっきりとしているようだった。
「……起きたのか。起きたのなら起きたと言えば良いだろう」
「フフ、だって、電話してたから」
「内容は聞いていたか?」
「ある程度は……」
「そういうことだ。明日、といってももう今日か……二日間休みをもらった。お前も、俺もだ」
「……そう」
「悪いがここに缶詰になってもらうぞ」
 そう言えば驚きに満ちた表情で俺を見る尚人。 なにを思っていたのだろうか。 まあここに留まることはわかってはいなかったのだろう。
 尚人に覆い被さるようにして上半身を屈めると、驚いたまま開いている唇に口付けた。
「この二日間、お前は俺にずっと愛される。嫌だって思うほど、愛してやる」
「……じ、ん」
「だから、もう不安になるな。全部俺に言え。俺はお前を全て受け入れてやることができる唯一の存在だからな」
「……フフ、気障だね、そういうとこ……。嫌いじゃない、けど」
 ふわり、と回る腕。 引き寄せられ、重なる唇。 触れ合った先からじんわりと広がる甘さに、二人して酔い痴れた。
 どろどろに甘やかしてやろう。 溶けるほどに、甘く優しく尚人を甘やかすのだ。
 俺をいう存在を嫌だというほど刻み込んで、不安だと感じることがないくらいに愛する。
「……寝かせないからな」
 そういえば少し嫌そうな顔をする尚人だが、抵抗する気はないようだ。
 ゆるゆると唇を下げ、首元に寄せる。 花開くように痕を残し、滑らかな肌の感触を舌で楽しんだ。
「ふ、ん……っ」
 鼻にかかったような甘い声。 ぎちりと握り締められた手を解き、絡めるように重ねてやれば強く握り返される。
 消えないようにと何箇所にも痕をつけながら、下降していく唇。 次に触れた場所は固く尖って、俺からの刺激を待っているようだった。
 赤く染まりつつある胸の突起に唇を寄せ、少し強めに吸えばびくりと跳ねた身体。
 その反応があまりに可愛くて、俺は気を良くすると歯で甘噛みをしながらゆっくり左右に引っ張ってやった。
「ぅ、あ……っん……! ぁ、あっ……じ、ん」
 甘えるように頭を振る尚人。 気持ち良いのか、血色の悪かった肌に桃色が差す。
 緩やかな快感から逃げるようくねらせる身体。 逃がさないとばかりに突起に舌を絡ませ、強く押し上げた。
「ぁあ……!」
 色がかった声。 開いた手でもう片方の突起を弄り、形を確かめるように触れてやる。
 既に固くなっていたそこは指での愛撫を待っていたのか、触れる度に固くなっていった。
 そのまま突起ばかりを弄くり倒し、焦らしてやる。
 今から長い時間、じっくりと尚人にわからせてやらなければならない。
 いかに俺が尚人を大切にしているか、求めているか、愛しているか、ということを。
「迅っ、ゃ、だ……そこ、ばっか」
「悪いが俺の好きにさせてもらう。なあ、尚人、ここだけでイけるように開発してやろうか?」
「ばっか、いうなっ……! む、りっ……ぁあ!」
 ぎゅ、と強く抓り尚人の顔を覗き込む。 快感に歪む顔は、恐ろしいほど綺麗に見えた。
 普段は女王様ばりにつんけんどんな尚人も、俺の前だけでこんなにも快楽に順応になる。 嫌だ嫌だと言いつつも、身体は正直だ。
 ねっとりとした愛撫。 下肢に伸ばさない手。 焦れったさで悶える尚人。
 二人だけの、短い蜜月。 時間を忘れて、ただただお互いの存在を貪りあった。