体育祭も終わり、水島デルモンテ学園はすっかり夏休みモードに入っていた。
夏休みまで後一ヶ月を切った故に浮かれる生徒も多い。
しかし夏休み前に最大の鬼門、期末テストがあるので安心もしていられない。
望月はすっかりと期末テストのことを忘れて、夏休みモードであった。
夏休みにテニスの大会があるのだ。
運良く地区予選、都大会と制覇してしまったため全国大会に行かなくてはいけない。
望月はテニス暦が短い。
ここまできたのもほとんど運と言っても過言ではない。
全国大会優勝を願うがそれは夢のまた夢、であった。
そんな中、体育祭が終わってから和泉の様子が少し変であった。
この微妙な変化に気付いたのは望月のみで、他の者は相変わらず和泉と仲良くやっているようだ。
望月は和泉との付き合いが長いので、些細なことにも気付いてしまう。
和泉が言わないのであれば望月が口を出すことでもないが、余りにもこの状態が長引いていたので、望月は意を決し原因を聞いてみることにした。
素直に口に出せば良いのだが、如何せん頑固なとこがあるため直ぐに口は割らないだろう。
望月は夕食を食べている和泉の前にお茶を置くと、重い口を開いた。
「……調子はどう?」
「はぁ? 調子って、なに?」
「いや、お前最近ちょっと変だからさ……体育祭の日から変じゃんか。あの日だって俺が迎えにいったと」
「別に変じゃないし」
望月の言葉を遮るように、和泉は上から言葉を重ねた。
先ほどから和泉のご飯はほとんど減っておらず、心なしか少し痩せたようにも見える。
途端に機嫌の悪くなった和泉に望月は溜め息を吐くと、体育祭の日のことを思い出していた。
和泉が倒れたと聞いたときは驚いたが、顔を見たら意外にも元気そうだったので安心し、直ぐに体育祭の片付けに戻った。
帰ってろとは言ったものの、どうせ和泉は望月が迎えにくると踏んでいて寝ているとわかっていたため、望月は片づけが終わると直ぐに和泉を迎えに行った。
案の定和泉はそこにいたのだが、どうも様子が可笑しい。
変に思い、望月は声をかけるが、和泉はあまり反応を示さずに保健室を出て行ってしまった。
慌てて後を追い部屋に戻るのだが、和泉の様子は変わることなく直ぐに自室へと引っ込み、その日はずっと自室から出てくることはなかった。
望月は粗方なにがあったのかは、検討がついていた。
吉原が命令権を発動し、和泉になにかをお願いをしたのだろう。
だけど何故和泉があの様子なのかは、全くわからなかった。
付き合いをお願いするほど吉原はプライドが低くはない。
性的なことならもっと違う反応だろう。
一体吉原はなにをお願いして、和泉はそのお願いに対してどう思ったのか、それを知りたいのだが今の和泉は口を割りそうにもない。
望月は聞き出すのを諦めると、テニスバックを担ぎ和泉の方を向いた。
「じゃあ俺、練習行ってくるから」
「……え、もう夜だよ? こんな時間にも練習あるの?」
「ああ、夏休みには大会があるしな。なんだかんだ言ってあと一ヶ月もないし、追い込み期間ってやつだよ」
「……一ヶ月もない?」
和泉はカレンダーを見ると驚きの余り声が出なかった。
まだ六月だと思っていたが、とっくの前に六月が終わりカレンダーは七月になっていた。
ついこの間体育祭を終えたばっかりだと思っていたのに、気がつかない間に随分と時間が経ってしまっている。
和泉は体育祭が終わってから、なにをしていたのか自分でもわからなかった。
「夏休み、か……これから忙しいね」
「そうだな、原稿に大会、遊びにいろいろってな」
「……あと実家に帰らなきゃね」
「はは、お前んとこ過保護だもんな……」
「異常にね」
「ま、俺も帰るし、一緒に帰ろうぜ。じゃあ俺行ってくるから! 戸締りだけはきちんとしろよ」
「はーい」
楽しそうに部屋を出る望月を見ながら、和泉はどことなく心が沈むのがわかった。
望月と話している間だけはなにも考えなくて済むのに、いざ一人になると考えるのは吉原のことばかり。
その所為で思ったように原稿も進まないし、妄想する活力も失われていく。
夏の最大イベントには落選したが、委託先は決まっている。
落としても誰も責める人はいない。
サイトにだって落ちたという告知と、もしかしたら委託してもらうかも、という程度なため筆を休めても良いのだが、やっぱり完成させたい。
一度決めたことを途中で投げ出すのは嫌だ。
そう思うがどうにもいかない状況だ。
和泉は頬を机につけると、目を瞑った。
「……よっしー、なにしてるんだろ」
思い返せば体育祭が終わってから、生徒会へも風紀委員室にも足を運んでいない。
そんな和泉を変に思ってか、両方からメールや電話がくるのだが返事もしていない状況だ。
ここ三日ほど携帯すら触った記憶がない。
ここままじゃ駄目だ。
どうにかしなくてはいけない。
和泉はそう思い重い腰をあげた。
吉原が全ての原因なのだ。
吉原に会えばこの状態も治るかもしれない。
最後に会ったのがああいう形だったため、今更会うのが気まずいだけなのだ。
いつもみたいにからかったり、馬鹿にしたりすれば少しは楽になれるはず。
和泉はそう思うと、自室に戻り着替えてから出かけることにした。
今日のファッションテーマはなににしようか。
そう意気込んでタンスを見たがそこで和泉ははっと気付く。
どうして吉原に会うのにこんなに気合いを入れなくてはいけないのだ、と。
和泉はそのことにむかむかしてきたため、一番気合いの入っていない服、スウェットに着替えると自室を後にした。
ずんずんとスウェット姿で歩く和泉に、通りすがりの生徒は驚いた表情で和泉を振り返った。
何故ならば和泉は本人のみぞ知らず、といった風に水島デルモンテ学園では有名生徒だった。
生徒会や風紀委員と仲が良いのも理由に入るが、一番の理由は可愛い顔なのに変わった人、という理由だ。
夢を見る水島デルモンテ学園の生徒的には、可愛い顔をした和泉は性格も可愛いものだと思っていたのだ。
だがいざ蓋を開けると、口があんまりよろしくない上にオタクときた。
観賞用には良いが付き合いたくはない、という自分勝手な思いを各自抱えていたのである。
しかし今日の和泉はどうだろうか。
いつもよりも表情が可愛らしく見える。
なにか良いことがあったのか。
恋をしたのか。
生徒たちは自由に噂話を始めると、遠のく和泉の背中を視線で追っていた。
そんな噂話がされているとは露にも知らず、和泉は途中まで足を進めるとそこで止まってしまった。
意気込んできたのは良いが、あまり会いたくない。
和泉はその場にしゃがみこむと、はぁ、と重い溜め息を吐いた。
「……柚斗の練習見に行こうかな」
ぽつりと吐いた台詞は誰にも浚われることなく消えていく予定だったのに、見事にキャッチされてしまった。
しかもよりによって吉原に、だ。
会おうとしてはいたのだが、心の準備もできていない上に突然目の前に現れるものだから、和泉はびっくりして思わず後ろに下がってしまった。
「なんだよ、無視か?」
「え……なんでいるの? 神谷先輩たちは?」
「今日は二人揃って休み。だからオレ様一人で見回り点検してんだよ。この時期はなにかと緩むからな、不正探しってやつだ」
「そ、そうなんだ……じゃあ、俺はこれで」
「待てよ。久しぶりなんだし、ちょっと話そうぜ」
「え、あ、ちょっ」
和泉が抵抗をする前に、吉原は和泉の身体を抱き抱えるとずんずんと風紀委員室へと向かった。
吉原と触れている部分が熱い。
和泉はぼんやりと吉原の旋毛を見ながら、早く離れることで頭がいっぱいになった。
風紀委員室につくと吉原は和泉をソファーに降ろし、珈琲を淹れ始めた。
あの吉原が誰かに珈琲を淹れるなど知ったら誰も皆驚くだろう。
だけど和泉はそのことには驚かずに、風紀委員室に二人きりなことに心底驚いていた。
先ほど神谷と森屋は休みだと言っていたし、二人きりなのは当たり前なのだが、いざ二人きりになると緊張してどうにもすることができない。
目の前に温かそうな珈琲が置かれるまで、和泉はどきどきしっぱなしだった。
「……最近、なにしてたんだよ」
「なにって……あんま、覚えてないかも」
「風邪か?」
「……似たような、ものかな。学校にも行ってなかったし、メールも返事しなかったからみんなには心配かけたね」
「空も心配してたから、あとでメールでもしておけ」
「う、ん」
どことなく会話がぎこちなく感じ、訪れた沈黙に二人とも圧迫感で居た堪れなくなった。
前はなにを話していたのか。
どうやって接していたのか。
それすら忘れてしまいどうすることもできない。
部屋に立ち込める珈琲の薫り。
和泉がその珈琲に口をつけると、吉原は思い出したかのように和泉の頭をくしゃくしゃと撫ぜた。
「な、なにすんの!?」
「お前なにもパジャマで出歩くことはねーだろーが。服ぐらいきちんと着ろ」
「パジャマじゃないし! よっしーに会うときの正装!」
「ハッ、オレ様スウェットの価値な訳?」
「寧ろスウェット以下だけどね!」
「……でも可愛い」
「はぁ? スウェット姿が可愛いとか頭腐ってんじゃない? よっしー眼科行けば」
「可愛いもんは可愛いんだよ」
「可愛いばっか言うな! 馬鹿! なすび! おたんこ!」
ぎゃあぎゃあ喚く和泉に吉原は微笑むと、柔らかそうな旋毛に唇を落とした。
それに和泉が切れたのは言うまでもなく、二人は徐々に気まずさを忘れていった。
そのことに誰よりも安堵したのは吉原だった。
あの体育祭の日から和泉に避けられていると感じていたため、どうすることもできず少し荒れていた。
学校にもこないし、風紀委員室にもこない。
生徒会室にすら訪れないのだから重症なのではと心配もしていた。
だけど今日、廊下でしゃがんでいる和泉を見てチャンスだと思った。
そのまま和泉を抱き抱え風紀委員室に連れ込み、今の状況だ。
本当に連れてきて良かったと吉原はしみじみとする。
二人は落ち着きを取り戻すと、前のようにごく普通の会話をし始めた。
どうでも良い話だけれど、和泉はどことなく吉原と話すのが楽しいと感じるようになっていた。
些細なことでも全て吉原に聞いてもらいたい。
そんな心情からか二人は会話に花を咲かせ、時間も忘れて会話に夢中になっていた。
そんなとき吉原の携帯がけたたましく鳴り響く。
吉原は舌打ちをすると眉間に皺を寄せ苛立った声色で電話に出た。
「あ? なんだよ、今良いと」
『良いとこじゃない! 今何時だと思ってんだよ! 十時過ぎてんだぞ!』
「なんだ空かよ。十時過ぎてるってそれがなんなんだよ。だいたいてめーは俺の親か? 門限なんざねーだろ」
『そういう問題じゃねーよ! 柳星、お前今どこにいる? 誰か一緒にいるのか?』
「どこって……風紀委員室だけど? 蓮と一緒」
『……最悪』
ぽつりと呟いた台詞に吉原はかちんときた。
良いところを神谷の電話で邪魔をされ、その上最悪だとまで言われた。
何故にこんなことを言われなければならないのか。
吉原はむかつきを隠しもせず神谷に文句を言った。
「ハン、貴様羨ましいんだろう」
『ほっんとてめー頭悪いな! 今日は何曜日だ!』
「貴様曜日まで忘れたのか? 土曜だろ」
『そう土曜だ。学園は休みだ、そして柳星は風紀委員室にいる、現在十時過ぎ。……結論は?』
「……電気が消えた?」
『ちげぇえええよ! 戸締り! お前忘れたのか? 学園が休みのときは全教室セキュリティのため、十時過ぎには自動的に鍵が閉まるんだよ! 開けることは鍵を持ってても不可! 中からも不可! 開放は朝の七時だ!』
「……貴様どうしてそれを先に言わない!」
『だからそれを言うために電話したんだろーがぁあああああ!』
しまいには電話でぎゃあぎゃあと口喧嘩を始める吉原に、和泉は深い溜め息を吐いた。
さきほどから神谷の声が電話から漏れていたので、現状は大体把握した。
どうやら和泉はこの風紀委員室に、吉原と一緒に閉じ込められてしまったらしい。
開放は朝の七時。
つまりは九時間もこの部屋にいなければならない。
幸いこの部屋には簡易キッチンもトイレも仮眠室もあるので、困ることはないだろう。
和泉はソファーから離れると風紀委員室を調べるように歩き回った。
しかしふと、気付いてしまったことがある。
気付いてしまったというか、いずれは気付くことになることなのだが。
仮眠室を見て、和泉は今更ながら自分が置かれた状況に焦りを感じた。
そう仮眠室にはベッドが一つしかない。
つまり吉原と一緒に寝なくてはいけないのだ。
流石に夏といえども夜は冷えるし、この学園は山の中にあるのだから余計に冷える。
どちらかがソファーで寝る、ということをしたのならば風邪を引いてしまう危険性もあるのだ。
和泉は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
一応吉原は同意じゃなければ襲うこともしないと言っていたし、キスだってお願いで言ってきたのだから、そういう危険性はないだろう。
しかし和泉の心では危険信号を発している。
後戻りができなくなる、そう誰かが言っているような気がしているのだ。
和泉は正常心を保つため深呼吸をすると吉原を振り返った。
楽に考えるのだ。
困るのは吉原だ、この狭い部屋に好きな人と二人きりなのに手が出せない。
苦しむのは吉原であって和泉ではないのだ。
そう思い込むことで、和泉は少し気が楽になり、逆に吉原に対して優越感が沸いてきた。
電話を終え愕然としている吉原の横に再度腰を落とすと、その顔を覗き込んだ。
「……どうすんの?」
「知るか……どうしようもねーだろ」
「柚斗に連絡しないと駄目なんだけど、携帯貸してくれない?」
「つか、貴様わかってんのか?」
「まーね、電話の声丸聞声だったし、大体はわかってるよ。どうしようもないじゃん、七時までここにいるしかないんでしょ」
「……貴様は気楽で良いよな」
和泉は吉原の携帯をぶんだくると、慣れた手付きで望月に電話をかけた。
ことの始まりから終わりまで話せば望月は心底驚いた声を出し、後には和泉に対して説教をし始めた。
だけど電話を切る直前に、悩み解決して良かったな。
そう言ったのを聞いて、望月には本当に適わないと思った。
なんでもお見通しなのだ。
和泉は七時に開放されたら直ぐに自室に帰り望月とたくさん話をしよう、と決めた。
悩んでいたこと、それからここでなにがあったのかも。
機嫌良く電話を切る和泉に、吉原は微妙な顔をしながらぼそっと呟いた。
「貴様それを誰の携帯だと思ってるんだ」
「え、よっしーのでしょ? 馬鹿じゃない? そんなことも忘れたの?」
「貴様人の携帯で長電話とは良い度胸だな!」
「はは、ごっめーん。それよりお腹空いた! 晩ご飯あんまり食べてなかったんだ〜、なんか作ってよ」
「あ、の、なぁ……はぁ、惚れた弱味ってやつか……へーへーなにが食いたいんだよ」
「美味しいの」
「わかりましたよ。ったく、貴様良い度胸してるぜ」
吉原は重い腰をあげ簡易キッチンへと向かった。
段々と少しずつだが和泉との距離が狭まってきているのを、吉原は感じていた。
ヘタレだと言われても良いのだ。
吉原は和泉が言う些細な我が侭が可愛くて仕方がない。
和泉はわかってはいないだろう。
吉原にとって和泉が我が侭を言ったり、減らず口を叩くのがどんなに嬉しいことなのか。
この距離がもっと縮まって早く吉原の元に堕ちれば良い。
吉原は口端を上げると、鼻歌を口ずさみながら和泉のために軽いご飯を作るのだった。
「……あ、つかオレマゾみてーじゃねーか……」
ぽつりと呟いた台詞は拾われることはなく、振り返れば楽しそうにテレビを見て笑う和泉の姿がある。
和泉が吉原の元に堕ちてくるのは、そう簡単なことでなかったのであった。