あれから吉原の作ったご飯を、和泉はぺろりと二人前も食べた。
既に望月の作った晩ご飯も食べていた上に、吉原の作ったご飯まで食べてしまったのだ。
それに驚愕するも自分の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる和泉の可愛さに、吉原はメロメロである。
いつかその頬についたご飯粒を、しょうがねえ奴だな、と言いつつ舐めて取りたいと切実に思っていたのは死んでも口に出せないものであったが。
吉原がそんなことを考えているとは露も知らない和泉は、ただにこにこと笑っていた。
「よっしーお風呂入っても良い?」
「一緒にか?」
「な訳ないじゃん。馬鹿じゃない?」
「そーだよな……」
「かいちょーとなら一緒に入る許可を与えてあげても良いよ」
「いらねえよ! そんな許可!」
「はは、じゃあ行ってくる」
二人で食べた皿の片付けをし始める吉原を横目で見ながら、和泉は浴室へと向かった。
風紀委員室がいくら豪華に設計されているとはいえ、寝泊りするところではない。
ベッドは大きくない上に一つしかない。
キッチンも簡易キッチンといった風貌だ。
トイレとお風呂はまあまあ豪華だけれどそれでも質は劣る。
和泉は浴室へと移動すると着ているものを脱ぎ、中へと入った。
浴室の床に敷き詰められている大理石を裸足で踏むと、ひやりとした感触がつま先から伝わる。
こういう無駄な豪華さなどはいらない。
浴室に大理石など全く持って不必要だ。
和泉は急いでシャワーを出すと、浴槽にお湯を溜めた。
いくら夏といえども校舎や寮は冷暖房完備のため暑さを感じることがない。
水島デルモンテ学園は山奥に建っているためそこまで暑くもないし、どちらかというと避暑地みたいに涼しいのだ。
夏であってもお風呂にゆったり浸かる時間は、和泉にとっては必要だ。
少し温めのお湯を頭から被りながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……どうしよう」
やはり二人きりになってしまうと、吉原のことを嫌でも意識してしまう。
和泉自身恋愛に不慣れなため、こういった場合どんな態度をとって良いのかも全くわからない。
自然にしようと思えば思うほど、不自然に接しているのではないかと思ってしまう。
朝まで一緒なのだ。
その上一緒のベッドで寝なくてはいけない。
吉原が和泉になにかをするというのは可能性としては低いが、和泉自身無意識に身構えてしまう。
まさか自分がこんな悩みを持つなどと、水島デルモンテ学園にくる前までは想像もしていなかった。
和泉はぐるぐると回る思考の中、大好きな望月のことを思い出していた。
望月は和泉のいない部屋で一人でも寝られるだろうかとか、一人で過ごす時間は寂しくないだろうかとか、そんなことばかり。
望月がそんなことを思うような性格ではないのはわかってはいるが、和泉自身、望月がいないとどうしようもないので自分の心境を望月にすり替えて考えてしまう。
明日朝一番にここを出て望月に会いに行こう。
テニスの大会が近いと言っていたので部屋にはいないかもしれないが、それでも望月が帰ってくるまで待っていよう。
流れるシャワーを止めると、お湯が溜まった浴槽にちゃぷんと足を入れ首まで浸かった。
お風呂独特の癒しに大きく伸びをして、鼻歌を歌っていると曇った扉の向こうから遠慮がちに声がかかった。
和泉はそちらを向くと、吉原に対しての返事をする。
「なんて? 聞こえない」
「お風呂長いから、寝てんのかと思ったんだよ。無事なら良いんだ、無事なら」
「俺、長風呂派なんだよね〜。あと一時間ぐらい入る予定だけど」
「アア? なげーよ!」
「じゃあよっしーも一緒に入る?」
言ってから、和泉はしまったと思った。
自ら墓穴を掘るとはこういうときに言う言葉ではないのだろうか。
実際本当に入ってこられてしまったら少し困ってしまう。
和泉が吉原の裸を見ることは妄想の糧にもなるし参考にもなる。
だが吉原が和泉の裸を見るのは和泉と違う目線になるので少し気まずい。
そうなった場合、どんな反応をするのが自然なのかわからないのだ。
どうしようか、そう和泉が思っていると吉原は少し間を置いてから和泉のお誘いを断った。
そのまま遠ざかる足音に和泉は少し無神経なことをしたかもしれない、と後悔をする。
それから宣言通り一時間後にお風呂から上がると、吉原はテレビを見ていた。
案外普通に接することができたので吉原と入れ替わると、和泉は簡易ベッドに直行し先に寝ることにした。
一緒にさあ寝ましょう、といったことになったら寝ることなど不可能だし、変に緊張してしまう。
だけど和泉が吉原より先にベッドに入ってしまえば気が楽だ。
和泉は目を瞑ると吉原が帰ってくるのを待たずに、眠りについてしまった。
一方の吉原はシャワーだけで済ますとお風呂から上がり、冷蔵庫から取り出した牛乳を飲む。
その行動で部屋に残されたルルのことを思い出し、慌てて深夜一時という時間を気にも留めず神谷へと電話をかけた。
数回のコールが鳴り、神谷は物凄く不機嫌な声を出して電話に出たのであった。
後ろから聞こえる生々しい男の喘ぎ声から、どうもことをしていた最中らしいことが推測できる。
「わりーな、邪魔して」
『てめー絶対悪いとか思ってねえだろ! 今、取り込み中なんだけど』
「聞こえてるっつの。つーか貴様こそ最中に電話出るな」
『出なかったらまた柳星がうるさいんでね、で、なによ』
「オレ様の部屋に独り取り残された可哀想な子猫ちゃんがいるので世話しろ。これは決定事実だ。拒否権はねえ」
『……あ?』
「ルルに餌をあげるのを忘れたんだ。それにルルは寂しがり屋だからな、貴様じゃ役不足だろうがルルと一緒にいてやれ」
『それが人にものを頼む態度か?』
「じゃあよろしく頼んだぞ」
文句を言っている神谷の声を聞くこともなく、吉原は電話を切るとそのまま携帯の電源を落とした。
タオルで頭をがしがしと拭きながら、和泉の姿を探して辺りを見回すがその姿はない。
ということはもう寝てしまったのであろう。
吉原はパンツとズボンだけ穿くと簡易ベッドが置かれてある部屋に向かい、案の定ベッドですやすやと眠る和泉の側に腰掛けた。
起きている間はあんなにもぎゃあぎゃあと憎まれ口を叩くのだが、寝ているとそれが嘘のように静かだ。
当たり前のことなのだが、吉原にとっては新鮮そのものだった。
本当なら今このまま身体を奪ってしまいたい。
そうするのはとても簡単だ。
だけどそれでは吉原の一番欲しいものが手に入らない。
柔らかな髪に唇を落とすと、和泉の可愛らしい寝顔を見つめた。
なにもしなくても、和泉が自分のことを想ってくれていなくても、ただこうやって側にいるだけで吉原は満足できた。
何れかは自分のものにしたいが、焦りは禁物だ。
和泉を起こさないようにベッドに潜り込むと、和泉の身体を吉原の方に向け、その小さな身体を腕で包み込んだ。
和泉が起きたら怒られるだろうが、少しぐらいは触れても良いだろう。
吉原は腕の中に収まる愛しい存在を壊れないように抱きしめると、ゆっくりと目を瞑った。
「おやすみ、蓮」
そう言ってから吉原はむずむずする感覚を抑えきれずに、ぷっと一人吹き出してしまった。
こんなことを言う柄じゃないのに、和泉の前ではどうしても調子が狂ってしまう。
水島や神谷にはヘタレだと言われるし、森屋からは訝しげな視線を向けられる。
それほどまでに吉原の生活は和泉一色で染まってしまっていた。
だけどそれは吉原にとって苦痛でも恐れることでも、なんでもないことなのだ。
幸せそうに眠っている和泉の寝顔を見つめ、吉原はじんわりと広がっていく愛しさに笑みを零す。
額にそっと唇を落とし、和泉が離れていかないようきつく抱きしめた。
和泉の温かい体温と、心臓の音を聞きながら吉原もいつの間にか夢の中へと入っていった。
次の日の朝、和泉は耐え切れない息苦しさに目が覚めた。
朝起きて一番に視界に入ったのはどこまでも広がる肌色。
というより近過ぎて肌色しか見えない。
吉原が和泉をきつく抱きしめていた所為で、和泉は身動きすら取れない状況にいた。
どうやら吉原はとっても寝相が良くないらしい。
和泉を下敷きにて、なおかつ和泉を抱きしめているもんだから、小柄な和泉にとっては堪ったものじゃない。
吉原は背が高くしっかりした身体付きなのだ。
そんな身体に抑えつけられたのじゃ呼吸さえままならない。
なんとか吉原を起こそうと和泉は手足を動かして起こそうとするが、吉原は全く持って起きる気配さえ見せない。
息苦しさと苛々が最高潮に達したとき、和泉は思い切り吉原の肩に噛み付いた。
流石の吉原も痛みにびっくりしたようでゆっくりと目を開けると、和泉に向かって優雅に言ったのだ。
「ばーか、噛み付くなよ」
甘ったるい声で和泉の耳元で囁く。
これが水島と吉原の朝の光景ならどんなに萌えるだろうか、と和泉は思いながらもう一度吉原の肩に噛み付いた。
二度目と合ってか吉原は本格的に覚醒すると、ベッドから飛び起き、その場所に蹲った。
「っ、痛いだろうが! 噛むな人の肩を! もうちょっと優しく起こせねえのかよ!」
「つーか、人の上に乗って寝るな! 息苦しい!」
「あ? 抱きしめてただけなんだけど」
「寝相悪いんだよ! あー……生き返る」
和泉は大きく伸びをすると、大して反省もしてなさそうな吉原の肩にもう一度噛み付くと寝室から出て行った。
三回も噛まれた吉原の肩は、和泉の歯型がくっきりと残ってしまいその痛さに眉を顰める。
だけどこれは和泉がつけてくれたもの、と思えば急に甘い痛みに変わるのだから不思議なものだ。
吉原は少し上機嫌になってふてくされている和泉の後を追う。
甘い朝とはほど遠いが、吉原にとっては大変満足した朝なのであった。
「へーすごーいすごーい! 柳星すごーい! 良かったでちゅねー」
「ハ、貴様羨ましくて仕方ないんだろう。嫉妬しても許してやる。オレ様は今日、機嫌が良いからな」
「ハローハロー! オー人事ですか? 風紀委員の班長代理をお願いします、ええ、頭弱くない人でお願いします」
「っておい! 人様の話は最後まで聞けと言われただろーが!」
あのあと吉原は和泉の朝食を作ってから、吉原に押し潰された所為でだるくなった和泉の身体を丹念にマッサージし、無事に和泉の部屋まで送り届けた。
傍から見ればご主人様と下僕のような関係だが、吉原はそれでも嬉しくて仕方ない。
始終ニコニコとする吉原と違い、和泉はふてくされてはいたが、帰り際に楽しかった、と言ったのだ。
その一言で吉原のテンションは最高潮に膨れ上がり、この出来事を誰かに自慢したくなった。
吉原は携帯を取り出すと、風紀委員室にいつものメンバーを集結させた。
吉原命の森屋にとっては全く嫌なことではないが、昨日から散々邪魔をされた神谷にとっては嫌どころの話ではない。
せっかくのお楽しみを吉原の電話に邪魔をされ、吉原の猫の世話まで押し付けられたのだ。
なんだかんだ言って吉原に弱い神谷はお楽しみを断り、ルルの世話をしにいった。
やっと寝れる、寝た、そう思えば今度は吉原からの収集ときた。
大体予想はつくが行かなければまたなにかと煩いものなのだ、神谷はぶうぶう言いながらも仕方なく風紀委員室に足を運んだのであった。
それに後悔するのは直ぐ後のことである。
始終和泉がどうだこうだと話しているが、第三者から見れば吉原の脳みそは単純で羨ましいな、だ。
どう考えたって脈はなさそうなものの、吉原の人生は楽しそうで非常に羨ましい。
神谷は、はあ、と溜め息を吐くと吉原の目をしっかり見て言った。
「あのな、今の話、もう三回目だ。ここにきてからずっとその話しかしてねーじゃねーかよ!」
「あん? 嬉しかったら誰かに自慢するのが当たり前だろうが」
「そういうのは一回にしとけ!」
「つーかよ、どうやったら落ちると思う?」
「そんなの知るかよ!」
「地道っつーのもなあ、せめて夏休み後ぐらいには付き合っていたいよな」
「ハハ、夏休み後ぐらいは失恋してるだろ」
「縁起でもねえこと言うんじゃねえよ! 空、貴様は一回教育し直しといた方が良いみたいだな」
「お前もその腐った脳みそ交換してもらえよ!」
ぎゃあぎゃあと喧嘩をし始める二人を、森屋は微笑ましそうに見ながら珈琲を啜った。
穏やかでなにもない一日がゆっくりと過ぎていく。
森屋はこのあと吉原に珈琲、神谷に紅茶、と言われるのを予想してその為の準備に取り掛かった。
見た目が派手なのと吉原に関しては異常になるのを除いて、森屋はどこにでもいる穏やかな性格の空手青年だった。
女遊びも、もちろん男遊びもしない。
武を嗜んでいるので自分から喧嘩をふっかけることもないし、安い挑発に乗ることもない。
吉原が関われば武に逆らうことばかりしているのだが、森屋は吉原命なので仕方ないのだ。
喧嘩を終えたらしい二人に森屋は微笑むと、トレーに乗せた珈琲と紅茶を差し出した。
「ほら、休憩でもするか」
その森屋の言葉に二人は頷くと、各々の席に腰を下ろしお茶の時間を取るのだった。
いつも吉原と神谷の喧嘩を止めるのも、鎮火させるもの森屋の役目なのであった。
風紀委員の騒がしくも、平穏な日々は全て森屋のお陰で保たれているといっても過言ではなかった。
そのころ吉原に部屋まで送ってもらった和泉はというと、うつらうつらしながら望月の帰りを今か今かと待っていた。
時刻は正午過ぎ、そろそろ望月が和泉の食事を気にして帰ってきても良い頃合だ。
和泉はテーブルに置いた原稿用紙を見つめながら、溜め息を吐いた。
なんだか毎日原稿をしているような気がする。
そう思いながらペラペラとページを捲る。
ペン入れすらしていないその原稿用紙の締め切りは一週間後の予定だ。
テストまで日にちもないし、望月は手伝ってくれないかもしれない。
和泉は仕方なく自分で原稿を仕上げることを決めると、望月が帰ってくるまで睡眠と必死に戦いながら原稿に取り掛かるのであった。
「ただいま」
「お、おかえりー! 柚斗ー寂しかったよう……」
望月が帰ってくるや直ぐに和泉はその身体に抱きついた。
そんな甘ったれた和泉の態度に心当たりのある望月は大きく溜め息を吐きながら、テニスラケットを地面に置く。
きっとこの先のテーブルには、ほぼ未完成に近い原稿があるに違いない。
確信を持ちながら、望月は和泉を抱きしめたままリビングに移動した。
「……やっぱり原稿かよ……あー今度はなんだ? お、珍しく水吉じゃないんだな」
「うん! 気分転換! 今回は水吉シリーズの脇役で出てくる森屋×神谷にしてみたけどどうかな?」
「どうかなって……本人にばれないようにしろよ。こういうの肖像権とかに引っかからないのかなあ」
「大丈夫大丈夫、許可得てるし」
「得てねーだろ」
手伝ってくれるの? とでも言いたげな和泉の瞳に、つくづく弱いと望月は思う。
こんな顔をして頼まれたのでは、断れないに決まっているだろう。
仕方なく和泉の頭を撫でてやりながら、椅子に腰をおろし原稿に取り掛かることにした。
にこにこと笑っている和泉に望月は先日のことをふと思い出し、ペン入れをしながら和泉に問いかけた。
「そういや昨日どうだったんだ?」
「うーん? なんもなかったよ。直ぐ寝ちゃったし」
「つーか吉原先輩、お前のどこに惚れたんだか……あ、そうだ蓮、お前昼飯は?」
「食べてないけど……先に原稿……」
「これ締め切りまだなんだろ?」
「うん、これはまだなんだけど……これ以外にもあるし、テスト近いし、テストだとさ、柚斗に勉強教えなきゃ駄目でしょ」
「……別に良い」
「駄目駄目! 柚斗頭良くないんだから勉強しなきゃ補修あるでしょ! 夏休みに補修あったら困るの、俺が!」
「……へーへー」
和泉にとっては楽勝の期末テストも、勉強が苦手な望月にとっては最大の鬼門の期末テストだ。
受験のときも和泉にこってりと勉強を教えられ、その教え方につくづく嫌な思いをしたのでできればもう二度と和泉には勉強を教えてもらいたくないがそう文句も言える立場でもない。
望月はどんな立場に立っても、和泉には文句の一つすら言えないのだ。
可愛いからといって甘やかすのも将来絶対良くないよなあと思いつつ、結局は甘やかしてしまう望月なのであるが。
期末テストまで一週間と三日。
和泉と吉原の関係も、和泉の原稿も、望月のテスト内容とテニスの大会もなんの進展もみせないまま夏休みになろうとしていた。