「え、まだヤってなかったのかよ?」
冗談でしょ、と言いたげな望月の表情を見て、和泉はいてもたってもいられず、クッションに顔を埋めた。
文化祭の日に和泉は吉原に告白され、付き合うこととなった。
雰囲気に流されるまま、望月に告げず無断外泊をしたあの日。
一緒のベッドで眠りはしたが身体は繋げていない。
和泉にとってはごく当たり前のことでも、望月にとっては信じられないことらしい。
文化祭から三日が経ち、やっと落ち着いてきた頃に投げかけられた望月の疑問。
和泉はどう言って良いのか、わからずにいた。
「……普通、順序ってもん、あるじゃん? ほら、やっぱり、付き合って三ヶ月は清い交際じゃないと……」
「どこの中学生だよ! 腹括ってケツ差し出せ、な?」
「ちょっとつーかなんで柚斗がそんなこと言ってんの? まだ早いし!」
「蓮の書く話は付き合う前からヤっちゃってんじゃん」
「あ、あれは創作! 無理! ほんと無理! 絶対入んないしね! 普通そこに入れるかって話じゃん!? 考えたの誰だよ実践すんなよ!」
「……つまり、蓮は吉原先輩としたくないんだ?」
ずっ、と望月が啜る珈琲の音が響くリビング。
問われた質問に直ぐに反応できなかった和泉は、どうなのだろうかと自分に問いかけた。
ちりちりと燃えるこの想いは恋、だと思う。
一緒にいたいと願ったりもするし、触れられていると幸せを感じたりもする。
だが、まだ和泉は最後の一歩が踏み出せずにいた。
吉原のことだから和泉の心の準備ができるまで待ってくれるだろう。
しかし自分がその心の準備ができるかどうかが、今一番の難所なのであった。
まだ付き合って三日といえども、そういうことはもう視野にいれなければいけないことだ。
思春期真っ盛りの今の時期、我慢させるのは忍びないが、あれを受け入れるには余程の勇気ときっかけがなければ無理のような気もする。
結局はまだ全然、覚悟が足りていないのだ。
和泉はゆっくりと首を左右に振ると、目線を下に移した。
「し、たくないって訳じゃ、ないけど……」
「まあ、無理だろうな。俺だったら絶対無理だわ」
「……やっぱ痛いかな?」
「知らねえよ、お前の専門分野だろ? いつも書いてるじゃん、まあ創作の中では気持ちよさそうだけど」
「やっぱ、創作と現実は違うよね。うう、まさかこんなことになるなんて」
「……ま、頑張れよ。俺はいつでも蓮の味方だからな」
「うん、柚斗だいすき! ……あ! ね、ねえ、蓮のお願い聞いて?」
きゅるん、と効果音がつきそうなくらい可愛い仕草をした和泉は望月にずいっと近寄った。
なんだか非常に嫌な予感がする。
和泉がぶりっ子をするときは必ずと言って良いほど、良いことは起こらないのだ。
望月は苦笑いを浮かべると、後ろに少し下がった。
にこにこ笑顔の蓮はそんなこともお構いなしに望月の手を取ると、ご自慢の上目遣いでじいっと見つめる。
たらりと背中に汗が伝うのと、和泉が口を開いたのはほぼ同時だった。
「蓮のためにバックバージン体験して感想聞かせて!」
やっぱり、と望月は心の中で思ったが口に出すことはしなかった。
大体あの流れでこうなることは予想していたことだ。
問題はどうやってこの無理難題を逃れて、和泉の興味を他に逸らせるか、なのだ。
望月は足りない脳みそで必死に考えるが、頭の緩い和泉の前で通用するような言い訳はなにもない。
きらきらと輝かせている瞳を見て、望月は心の中で絶叫した。
「あ、つ、つーかそんな人いねえし!? 無理!」
「大丈夫、柚斗のこと好きなタチの人いっぱい知ってるから!」
「なんで!? なんで知ってんの!? 友達なの!?」
「ジャニ系、ガチムチ、可愛い系、もちろんSやMの人もいるよ! 選び放題ハーレムも可! あ、先生でもいいなら先生も紹介するよ!」
「ちょっとおおおお! どんだけいるんだよ! なんなんだよこの学園!」
「さあ、どうする? 俺のおすすめはD組の田中君なんだけど」
「誰だよ! つーか好きな人じゃないと無理! 女ならともかく無理! 勘弁してください! あ、っつかさ、風紀委員とか生徒会とかの人でさ、誰かしらネコの人いるんだろ? その人に聞けば……」
望月は途中まで言いかけて、しまった、と後悔をした。
和泉の地雷を踏んでしまったのだ。
和泉と一緒に風紀委員や生徒会の人の身辺調査をしたのは、まだ桜が咲いていた春。
知りたくもないことを知ったとあの頃は思ったが、思い返せば重大な意味を持っていたのだ。
風紀委員は、吉原や神谷がタチしか経験がなく、森屋はノンケだと聞いている。
生徒会の人も、水島、澤田、樋口がタチの経験しかなく、相澤はノンケ。
そうつまり和泉の知り合いでネコの経験があるのは黒川一人なのである。
問題はそこだ。
黒川の相手は誰だったか、そうお察しの通り現在和泉が付き合っている相手、吉原なのだ。
流石の和泉でも、聞けるはずがないだろう。
初めて恋する気持ちを持った相手の前の相手に、なにが楽しくて経験話を聞かなければならないのだ、という話だ。
ずうん、と暗くなった和泉に望月は慌ててフォローの言葉を口にした。
「や、やっぱさ、個人差ってあるし? 聞いてもわかんねえと思うよ? うん、わかんない。それに聞いてからの方が無理になったってなったらさ、本末転倒じゃん? ここはもう吉原先輩に身を委ねてだね、うん」
わたわたと必死に意味もわからない言葉を紡ぐ望月に、和泉はくすりと笑うと肩に額を乗せた。
今、感じている想いは決して綺麗なものなんかではない。
だからそれを抑えつけたくて、和泉はゆっくりと深呼吸をすると目を瞑った。
吉原を想うとき、温かくて優しくてふんわりとした気持ちが身体中に溢れて幸せだと実感するのだ。
だけど吉原が他の人を想っていたことを考えると、凄くぎすぎすして、ほの暗い気持ちが身体を支配する。
ただ恋をしているだけなのに、どうして想いにも違いがあるのだろうか。
和泉は心配そうに背中を撫でる望月に向かってぽつりと言葉を零した。
「……、むずかしいね」
呟いた台詞がなんだか落ち込んでいるように聞こえて、望月が慰めようと口を開いたその瞬間、和泉ははっとなにかを思いついたかのような表情をして見せた。
それにどうしたと問う間もなく、名案だ、と和泉は叫んだ。
「えっと、予想できる俺も嫌なんだけど……まさか?」
「俺がタチになれば良いんだよ!」
「やっぱりその結論な訳ね」
「体格差がなんだ! 顔は可愛い系でもタチ! 俺はタチ!」
「……ま、無理だろ」
「なんで!? 大丈夫だよ! いけるし! そうと決まったら俺、風紀委員室行ってくるね!」
「はいはい、いってらっしゃい。外泊するときは事前に言えよ? あと晩ご飯の有無も」
「はーい! じゃあ!」
うきうきとスキップしながら走り去っていく和泉を見て、望月ははあと溜め息を吐いた。
多分、というか絶対和泉がタチになることはないだろう。
それにしても休みの日まで風紀委員室にたまる風紀委員の人たちは、真面目なのか真面目じゃないのか良くわからない。
それ以前にそこしか行くとこないのかよ、と思ってしまうが口には出せない望月なのであった。
一方、一大決心をした和泉がこっちに向かってくると露にも知らない吉原はだらしなく垂れる頬を上げようともしなかった。
そんな気持ちの悪い吉原を三日間も見続けた神谷と森屋は慣れたのか、気にせずに各々がしたいことをしていた。
「あー……暇。蓮が降ってこねえかなあ」
「降ってくるのは困るんだけど、なあ」
「会いたい」
「会いに行けよ、いい加減鬱陶しいんだよ」
「うっせえ、死ね! こっちだって事情があんだよ!」
「なんの逆切れだよ……つーか、まじで付き合えたんだよな。すげえな、予想外だぜ」
ぐだぐだ舌を巻く吉原に、律儀にも付き合っている神谷は三日前の衝撃を思い出していた。
絶対に無理だと思っていた相手と吉原が付き合ったのだ。
どう反応して良いのか正直わからなかったのも、まだ記憶に新しい。
だけども吉原が幸せそうに報告したのを見て、驚きが少しずつ薄れて祝福しようという気持ちで溢れた。
そこからが長いのだ。
風紀委員と水島でどんちゃん騒ぎ。
次第にメンバーが増えたり減ったり、気付いたら二日も経過していた、とうオチであった。
その二日間の記憶が明細な人物が一人もいないため、なにがあったのかは未だに思い出せない。
今でさえ酒の残りがずきずきと、神谷の頭を悩ませるのであった。
皆、同じ量の酒を煽ったはずなのに、吉原や森屋はとても元気だ。
恐ろしいな、と思いながら神谷は机に置いてある珈琲を口に含んだ。
「まあでも、長いだろうな」
「……やっぱり?」
「考えてもみろよ、和泉だぜ、和泉」
「……妄想すげえし、その延長戦でさ?」
「いや無理だろ、ま、頑張れ」
神谷がにやにやとした表情を浮かべ、吉原の肩を叩いたと同時に風紀委員室の扉が開いた。
そこにはさきほどまで話題の渦中でもあった人物である和泉がいた。
吉原のために珈琲を淹れていた森屋が目を丸くさせる。
それほどまで、今の和泉はいつもと違って見えたのだ。
恋をしている姿ではない。
付き合ったことによってでる艶でもない。
異様な闘志を持った雰囲気だ。
思わず身構えてしまった神谷と違い、吉原はそれに気付くことなく笑みを浮かべた。
異様な光景である。
両手を広げる吉原の姿は馬鹿そのものだ。
しかしそれに突っ込むことなく和泉は吉原の側によるとにっこりと微笑んだ。
吉原から見れば天使の笑み。
神谷と森屋から見れば悪魔の笑みであった。
「よっしー良いこと思いついたの!」
「ん?」
「エッチしよ!」
「……あ?」
和泉の言葉に、神谷と森屋は盛大に吹き出した。
先ほどまで絶対にエッチまでの道のりが遠いだろうと言っていたのに、この展開だ。
正直裏があるとしか思えないが、言われた本人でもある吉原はあまりの衝撃に固まってしまった。
空耳ではないのだろうか、空耳に決まっている。
見上げた和泉の顔はいつも通り可愛らしく、先ほどの台詞を吐いたとは到底思えなかった。
「わんもあぷりーず?」
「だから、エッチしよ!」
「え、ちょ、え? 冗談だろ? 本気で?」
「うん、俺、覚悟できた! 初めてだけど、優しくリードするから!」
「……リードするから?」
「うん、だってタチしたことないし。あ、ネコもないけど」
あ、そういうオチなんだ、
と神谷は心の中で思った。
やっぱりうまい具合に物事が進む訳がないよな。
森屋の淹れてくれた珈琲に口をつけると、森屋に座るように促した。
今から痴話喧嘩のような揉め事が始まるのだろう。
いちいち構っていられる訳がないのだ。
神谷は傍観を決めると、がっくりと肩を落としている吉原にざまあみろ、と微笑んだ。
「……よっしー?」
「別に焦ってないし、うん、ヤらなくても……平気じゃねえけど、うん」
「うん?」
「……オレがネコって、ちょっと厳しいというか、そんな感じだ」
「えー! 全然いけるよ! だってよっしー可愛いもん! めっちゃネコっぽいし! ほら、俺かいちょーとよっしーのホモ本出してるし、全然いけるよ! それにこの間の文化祭で完売したんだか」
「おーおーもう良い、喋るな、な? ほら、大人しくしてろ」
「わ、ちょ」
「待つから、蓮ができるようになるまで」
「……ケチ」
やっぱりこうなるのか。
和泉は優しく腕の中に引き寄せてくれた吉原の胸で頬を膨らませた。
せっかくの名案だと思ったのに、うまくいかない。
吉原はビタ一文譲る気はないようだ。
こうやって抱きしめられるだけでも心臓がばくばくいって破裂しそうなのに、果たして行為をすることができるのだろうか。
いや、できないような気がする。
だけどずっと待たせる訳にもいかないし、嗚呼どうしたら良いのだろうか。
一難去ってまた一難、の状況に和泉は吉原と付き合っている以上、悩みが消え去ってくれることがないように思えた。
心地良い悩みだけれど、和泉にとっては人生最大の難所でもある。
なにかきっかけさえあれば、踏ん切りがつくかもしれないのに。
吉原の綺麗な髪が和泉の頬に当たり、少し上を向けば嬉しそうな表情の吉原。
気を利かせたのか、神谷と森屋がいなくなった風紀委員室には二人きり。
良い雰囲気というやつなのでは、と思った瞬間、徐々に近付いてくる吉原の顔。
慌ててぎゅっと瞑った目と同時に、額に柔らかい感触。
頬に熱が集まるのが感じられて、和泉は羞恥で目が開けるに開けられなくなる。
それを良い意味で捉えた吉原は、ふっと息を零すと緊張のため一文字になっている和泉の唇に自分の唇を重ねた。
もう何度目のキスだろうか、数えてもいない。
相変わらず柔らかくて吉原にとって好きな感触を思う存分堪能すると、舌で優しく唇を割り、歯列をそっとなぞった。
「ん、ん……」
小さくふるふると首を左右に振る和泉。
薄目で見た頬は林檎のように真っ赤に染まり、その初心さに吉原は胸がきゅっと鳴るのを感じた。
普段、煩い和泉がキス一つでこんなにも大人しくなり、吉原に翻弄される。
それが吉原にとっては堪らなく愛おしいのだ。
吉原の服の袖をぎゅっと握る和泉の手の上に、自分の手を重ね、唇をそっと離した。
「慣れた?」
「……な、れてない」
「もっかいする?」
「え、……!」
「冗談、ゆっくり、な? ペース合わせるから」
「……ずるい」
妙に優しい吉原に戸惑いを隠すこともできず、熱くなった頬を隠すように引き締まった胸に顔を埋めた。
背中に回ってくる温かい体温。
睦言のような吉原の言葉が和泉にゆっくりと染みて、昨日よりもっと吉原のことが好きになる。
付き合うことや恋の定義は未だに良くわからないけれど、きっとこういうことなのだろう。
間違ってもこんな姿、望月に見せられないな、と和泉は思いながら思う存分吉原に甘えることにした。
どこか遠慮がちながらも、素直になってくれた和泉に嬉しさを隠しきれないまま、吉原は扉の奥で部屋を覗いている神谷を睨み付けた。
粗方部屋に入ってくるタイミングを窺っているのだろうが、まだまだこの部屋に入らせるつもりは毛頭ない。
顎で合図を送ると、眉を顰めた神谷が舌を出し、すっと扉の前から姿を消した。
これで暫くは二人きりだろう。
吉原がそう思ったのも束の間、和泉が急に立ち上がり、原稿しなきゃ! と大声で叫びながら走り去っていった。
止める暇もなく、目の前から姿を消した想い人。
ラブラブになれるのは程遠いな、と和泉が残した温もりを感じながら吉原は溜め息を吐いた。