出来れば仲良くなりたいものである。
付き合っていく上で、和泉の兄、凛に認められれば障害が一つ減るし、将来も安泰だ。
そんな淡い期待を胸にしながら、吉原は浮かれた気分で凛に会いに行った。
にこやかに出迎えてくれる凛。
嗚呼、上手くやれそうかも、と思ったのもほんの一瞬である。
吉原と吉原に付き添わされた水島、風紀委員の二人は早くも後悔をしていたのであった。
「持ち方が違う! 姿勢が悪い! 正座を崩すな! やる気あんのか!?」
ここはどこの体育会系の部活だろうか。
そう思わざるを得ない状況だ。
茶道など縁の遠いものだったので詳しくは知らなかったが、イメージでは静かで癒されるものだ。
だがしかしどうだろうか。
一歩茶道の道に踏み込めばそこは恐ろしいほど過酷な道ではないか。
果たしてこれが本来の茶道なのか、ただの嫌がらせなのか、それさえも吉原はわからずにいた。
第一ギャル男が和服を着て、お茶を立てることは許されることなのか。聞きたくても聞けない。
吉原は痺れだす足に少し泣きそうになりながら左右を見た。
そこには早くも帰りたいという表情を浮かべる神谷に、難しそうな顔をしている森屋。
そして全てを諦めた表情で一点を見据える水島がいた。
皆、思いは一つ、帰りたい、なのだ。
そもそもお茶を飲むだけなのに何故正座をしたり、お茶碗を回したりしなければいけないのだ。
有名な家元である和泉の母の跡を継ぐ凛のお茶が飲みたい、と言い出していた水島でさえげっそりとしていた。
「……あの、お兄さん」
「お前にお兄さんと言われる筋合いはない!」
「……凛さん、足が痺れてきたんすけど……」
「あ? それぐらいも我慢できないのか? お前はそんな些細な出来事でさえ全うできない人間なのか?」
「……すんません」
凛でなければ殴っているところだ。
吉原はぎゅっと手を握ると小さく溜め息を吐いた。
関係のない三人も帰ろうとタイミングを窺っていたが、圧倒的な凛の存在感でなにも言えずに、ひたすら痺れる足に歯を食いしばっていた。
同じ歳で、ギャル男で、和泉の兄で、和泉家の跡目、なだけの凛。
喧嘩慣れをしている四人からすれば恐れるような存在ではない。
これはなんなのだろうか、この雰囲気は。
逆らうことを許されないオーラ。
茶道具を持った凛は別人のように恐ろしかった。
こういった由緒正しい伝統職人は変わった人が多いという。
まさにその通りだ。
いつまで続くかもわからない拷問ともいえる時間。
誰もが諦めたその瞬間、まるで計ったかのようなタイミングで救世主が現れた。
救世主といって良い存在かわからないが、まあ元を正せば原因の一つであるのだが、そこは黙っておこう。
「兄貴! いい加減にして! よっしーたちは稽古してる訳でもないんだから、略式でも良いでしょ!?」
「れ、蓮ちゃん! どうしてここに!?」
「それはこっちの台詞! もう、みんないないと思ったら兄貴に捕まってるんだもん。ごめんね、正座崩して良いよ」
「蓮! これは俺と吉原の問題だ! お前に相応しいかどうかをだな」
「度が過ぎるって言ってるだろ!」
「いーや、普通だ、寧ろ激甘だ! 可愛い可愛い俺の蓮ちゃんを手篭めにしているのに挨拶もない吉原にはこれぐらいが丁度良いんだ!」
突如現れたかと思った和泉は四人に駆け寄ることもなく、凛と言い争いをし始めた。
その余りにも可笑しな兄弟喧嘩に水を差せる人物は誰一人としておらず、正座を崩して良いのかもわからず、ただじっと兄弟喧嘩を眺めていた。
口論の節々に見える凛の過保護っぷりに、水島は眉を顰めた。
吉原はこっそりと望月に話を聞いていたので大体の想像はついていたが、ここまで酷いとは思わなかった。
和泉が実家に帰るのを嫌がるのも頷ける。
いつまでも続くと思われた兄弟喧嘩。
しかしそれは予想外なことで終わりを迎えるのである。
「ふーん、そんなこと言うんだ? じゃあこっちにも考えがある。これを見よ!」
「っ……!?」
「嫌な予感がしたから母さんに速達で送ってもらったんだ。兄貴のだ〜いじにしてるものでしょ?」
「そ、それは『危険な放課後☆女教師の甘い誘惑』の神無月 ミコ先生のシークレットフィギュア! 世界で十体しかない貴重なフィギュアなんだぞ!」
「これ、折っちゃお〜かな〜ポキ! っと〜」
「ひ、卑怯だぞ蓮! お願い折るな折らないでください!」
「じゃあ、もうよっしーにちょっかいかけない? 大人しくする?」
「……くっ」
「あと、柚斗も苛めないこと! 約束できないんなら〜……ポキ!」
「わかったわかった! 約束する! だから返せ!」
「い、や! これは二週間人質になってもらうんだも〜ん」
勝ち誇った笑みを浮かべる和泉とがっくしと膝を折る凛。
どうやら勝負は和泉が勝ったらしい。
四人はほっと溜め息を吐くと正座を崩した。
じんじんと痺れる足。
暫くはここを動けそうもない。
安堵する風紀委員とは違い、水島は和泉の掌中にあるフィギュアに目が釘付けだった。
まさに似たもの兄弟である。
和泉がホモ好きなら凛は二次元の美少女好きときたか。
水島はますます和泉家に対する苦手意識が増したのであった。
しかし少しやらしいポーズをしたフィギュアだけで、あんなに頑固だった凛が折れるのを見て、なんの反応も示さない風紀委員の脳内はどうなっているのだろうか。
和泉の趣味のホモも衝撃的だが、凛の趣味も衝撃的だ。
誰もそのことに突っ込まない、ということは案外普通な趣味なのだろうか。
そこまで考えて水島は首を振った。
いいや普通な訳がない。
フィギュアを手にすることを諦めたらしい凛が、嫌そうな顔をしている和泉を抱きしめる様を水島はぼんやりとただ見ていたのであった。
それからぶうぶう言った凛だが、取り敢えずは表面的に吉原を認めたようだ。
悪意のたっぷりある握手を交わすと今日のとこはこれで勘弁してやる、と言い残し茶道室から出て行った。
和泉にすれば部屋に帰ったらいるのだから釈然としないが、ことが穏便に済んだので安堵の表情を浮かべていた。
おっかない兄貴だな、と言う神谷とそれに同調する森屋。
一先ず整理をさせてくれと言いながら頭を抱える水島。
三人と別れた吉原と和泉は宛てもなく、肩を並べて歩いていた。
吉原は微妙だけれど、一応凛に認めてもらったので機嫌が良い。
だが、和泉の方はあんまり機嫌が良くないのか、居心地悪そうにしていた。
「蓮、どうしたんだよ」
「……なんか、ごめん……」
「別に気にしてねえよ」
「でも……」
「しおらしい蓮も可愛いけどさ、違和感あるぜ。いつも通りしてろって、ほんとに気にしてねえから」
「……うん」
「まあ、そんなに気になんなら蓮からちゅーしてくれよ」
ほんの軽い気持ちで吉原はそう言った。
ただの願望なのである。
和泉がしてくれるなど思いもせずに言った言葉。
和泉を安心させるために抱き寄せようとした腕を引っ張られ、急な衝撃によろめいたと思った刹那、唇に柔らかい感触。
吉原の瞳いっぱいに、少し頬を染めている和泉が映った。
なにが起こったのか理解をする暇も与えてもらえずに、離れていく和泉。
キスされたのだ。
そう思った頃にはとっくに和泉の唇は離れてしまっていた。
「……ほ、ほら、いくよ! 今日は酢豚が食べたいんだから、早く作ってよね!」
「あ、ああ」
「もうお腹減っちゃってさ! 原稿も書かなきゃなんないし! よっしー受けの話、人気なんだよね!」
「……なあ、蓮?」
「な、なに」
「やっぱ、オレ、蓮が好きだ。だから俺以外にこんなことすんなよ」
「……する訳ないだろ、ばか」
ほんのり色を差した和泉の頬。
そっぽを向く様子が可愛くて吉原は和泉を引き寄せた。
大人しく腕に収まる様子を見て、吉原は幸せを実感するのである。
季節が春だった頃、まさか和泉に恋をするとは思ってもいなかった。
梅雨頃に恋をして、夏、秋といろんなことがあった。
だけどこうして今、和泉は吉原の腕の中にいる。
それだけで、吉原は言いようのない幸せを感じられるのだから不思議だ。
贅沢を言えば一線を越えたいが、少し進展したのでまだ我慢もできよう。
悪態をつきながらも離れる様子のない和泉を抱き寄せたまま、二人は吉原の自室へと足を向けるのであった。
そんな幸せいっぱいの二人とは違い、惜しくも和泉に邪魔をされてしまった凛は暗いオーラを出しながらカレーを突いていた。
望月ご自慢の特製カレーもそんな行儀の悪い食べ方をされたら、美味しくなさそうである。
だがそんなことを凛に言える勇気はなく、望月はただひたすら和泉が帰ってくるのを心待ちにしていた。
「……柚斗、俺にはわかんねえ。どうして蓮があいつを選んだのか」
「ま、まあ、吉原先輩、見た目あんなんですけど、意外と優しいですし」
「あ? お前はあいつの味方をするのか!?」
「……そうじゃなくてですね」
「第一! 蓮はまだ高校生だ! あんなのと一緒にいたら俺の蓮が汚される! ハ、まさか今頃……MAXに怒張した吉原の赤黒い凶器に貫かれてないだろうな!? 嫌がる蓮ちゃんの淡いピンク色をしたアナルに吉原の……っ!」
「下ネタを平然と言うの、やめてもらえませんかね。というか、あの二人まだ清い交際ですよ」
「当たり前だろ! 貫かれた日にゃあ、……ぶっ殺してやる!」
ぐしゃり、力を込めたスプーンによってじゃがいもが潰れた。
そのじゃがいもが望月には吉原に見えて、心の中でそっと同情をする。
きっと和泉が女性と付き合おうが男性と付き合おうが、凛が素直に認めることなどないのだ。
そんな男なのである、凛という男は。
凛の世界は萌えアニメと美少女と茶道と蓮で埋め尽くされている。
だからその各々に対する情熱と確執だけは異様に高い。
望月は気付かれないように溜め息を吐くと、自分の分のカレーを口に運んだ。
この様子じゃ和泉は吉原の部屋でご飯を食べるだろう。
流石に泊まりはしないと思うが遅くなるのは確実だ。
それまで凛を抑えておくことができるだろうか。
一人で妄想をして憤慨する凛を冷めた目で見ながら、望月は再度口を開いた。
「凛さん、もう良いんじゃないすか? 悪い奴じゃないってわかってるんでしょ?」
「……だから尚更嫌なんだよ!」
「はい?」
「悪い奴なら堂々と反対できる。だが、良い奴だったら……」
「……蓮が吉原先輩に恋をしてても、蓮が凛さんから離れる訳じゃないし、ね? 素直にお祝いしましょうよ」
「いやだー! 無理だー! 俺の蓮ちゃーん!」
次第においおいと泣き始める凛に、望月が泣きそうになる。
素面でこれなのだ。
堪ったものじゃない。
一体どうしろというのか。
望月は無性に暴れたくなるのを抑えて、仕方なく凛を慰めるのだった。
望月がそんな苦労をしているとは思ってもない和泉は、吉原の部屋でぼうっとしていた。
希望通り酢豚も作ってもらえたし、それを胃に入れることも終えた。
凛が滞在している手前お泊りはできないので、後は帰るだけだ。
だが帰りたくない。
もうちょっとだけ吉原と一緒に過ごしていたかった。
食後の珈琲を飲みながら煙草を吸っている吉原にそっと近付くと、薄いけれど筋肉がついているお腹にぎゅっと抱きついた。
「……蓮?」
「ねむい」
眠いということを理由にして甘える和泉に気付いているのかいないのか、吉原は優しく笑うと和泉の髪の毛を梳いた。
こうやって優しくされる度、胸が甘く疼く。
ずっとこうしていたい気持ちと、これだけじゃ足りない気持ち。
本当は和泉だって先に進みたいのである。
勇気はないが、吉原が強引に進めてくれたらできてしまいそうなくらい、覚悟は固まっていた。
だけどそれを口に出して言えるほど、強気でもないのだ。
察してほしくて、察してほしくなくて、ゆらゆら揺れる矛盾の中、和泉はぽつりと言葉を紡いだ。
「……へんなこと、聞いていい?」
「なんだよ」
「……よっしーって、遊んでたじゃん? 噂によるととっかえひっかえとか、三日もあけずとか、さ」
「……あー……そう、だっけ」
「別にごまかさなくても良いよ。俺が聞きたいのはさ、……その、……今は、一人、じゃんか、……我慢、できてるのっていうか、……あ! やっぱこの質問なし!」
吉原を決して信用していないのではない。
純粋に気になっただけなのだ。
ただでさえ男子高校生という時期と、昔の所業があるのだ。
気になっても不思議ではない。
和泉は気まずそうに俯くと、もごもごと口を動かした。
「……我慢してんの、わかれよ」
「……ごめん」
「正直、言うと、蓮に惚れてから一回だけ他の奴とヤろうとしたんだけどよ、情けない話、勃たなくて。ま、もう蓮以外じゃできねえってこと、安心しろよ」
「そ、そういう意味で聞いたんじゃ……」
「気になってたんだろ?」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて、吉原は和泉の顔を覗き込んだ。
真っ赤になる和泉に、吉原の中でむくりと湧き上がる悪戯心。
和泉の両手を掴み、ソファに縫い付けるとそのまま上に覆い被さった。
別にどうこうしようという気は全くないといえば嘘になるが、どんな反応を見せるのか興味があったのだ。
きっと抵抗するなり悪態をつくのだろう。
そう思っていたのだが和泉の反応は吉原の予想外の反応だった。
さっきより赤くなった頬。
視線は不自然なほどきょろきょろと動き回り、唇が微かに震えている。
恐怖からくるものとは到底思えない反応に、今度は吉原がどうして良いのかわからずに視線をさまよわせた。
まだ覚悟は決まっていないはずだ。
だけどどうだろうこの反応は。
喉をごくり、と鳴らせると吉原はゆっくりと唇を動かした。
「……大人しい、のな」
「あ、……だ、だって」
「抵抗しないと、悪戯すんぞ?」
「……ん、いい、よ」
「……え?」
「あ、や、やっぱ、やめ」
「遅い、っつの」
わあ、と和泉が声を上げ、吉原は身体をゆっくりおろすと和泉の首元に顔を埋めた。
最後までするつもりはない。
だがちょっとぐらい味見をしても罰は当たらないだろう。
少しだけれど、和泉が勇気をもってくれたのだ。
この絶好のチャンスを逃したら次はいつあるかわからない。
びくりと震える和泉の手をしっかりと握ると、白くてキメの細かい肌に舌を這わせた。
「っ、ん……ふ……」
甘い吐息を漏らす和泉。
少しだけずれたシャツから見える鎖骨に吉原は唇を寄せた。
痣もなにもない綺麗な肌にきつく吸い付き、真っ赤な痕を残す。
ぴりりとした甘い痺れをもって、和泉は吉原がした行動を理解した。
キスマークをつけたのだ。
所有の印でもあるそれ。
吉原は満足そうにキスマークを指先でなぞると、上体を起こした。
ずっと吉原に押さえつけられていた和泉は自由を得たのだが、ちょっとだけ物足りないと思ってしまい、慌てて頭を振った。
嬉しそうに微笑む吉原。
和泉はそっと身体を起こすと、吉原がしたようにキスマークがあるであろう鎖骨をなぞった。
「……兄貴にばれたらどうすんの」
「……さあ?」
「もう、……帰る!」
「拗ねんなって、送ってくから」
「知らない!」
ちょっと不機嫌に装ってみるも、吉原には全てがばれているのか、嬉しそうな笑みを和泉に向けている。
徐々に立場が逆転していっているような気がして悔しくなる和泉だが、然程悪い気もしない。
差し出された手を嫌々といった風に握り、和泉は大人しく吉原に送られるのであった。