誰もいない自室で、和泉はがっくりと膝を折った。
テニスに精を出している望月は近頃部屋を空けることが多く、和泉と付き合っている吉原もなにかと忙しい。
一人時間を持て余している和泉は原稿で暇を潰していたのだが、最近原稿以外で時間を使っていた。
平日は授業を受けて放課後は原稿。
休日は原稿一色だった日々に料理という課題が増えた。
誰かに強制されて料理をしている訳ではないのだが、吉原を驚かせたい一心で料理を覚えることにしたのだ。
だが和泉は不器用である。
己の興味のあることなら上手くできる自信はあったのだが、料理だけは上手くできる自信もなかった。
望月の手伝いなしでは見目も味も微妙な仕上がりになってしまう。
火傷や傷跡で怪我が増えた指先を撫ぜながら、和泉は呆然と鍋を見つめていた。
「え〜……? これ、食べれんの」
レシピ通りに作ったと思う。
鼻につん、とさすような臭いを発しているパスタを見ながら独り言を呟いた。
初心者故の失敗なのか、はたまた才能がないだけなのか、成功という料理をまだ一度も作り上げていない。
望月には初心者が難しい料理ばかり作るな、と言われたのだが、どうせなら難しい料理を作って吉原をあっと驚かせたいのだ。
うんうんと唸っていても料理が美味しくなる訳でもなく、和泉は取り出したフォークで一口だけ味見をしてみることにした。
魚介類を使ったオイルパスタ。
魚介類の下処理が上手にできなかった故か、そのパスタは生臭く、とてもじゃないが食べられる代物ではない。
和泉は無理をしてそれを飲み込むと、味を誤魔化すように飲み物に口をつけた。
また今日も失敗である。
水島の部屋で料理を作ってから早三日。
何度か自室で練習を重ねてはいるのだが、一向に上手くなる気配もない。
早く料理を覚えて吉原に披露しなければ、会いに行く理由も見つけられそうになかった。
キッチンと並行しているカウンターに上体を倒すと、和泉は深い溜め息を吐いた。
「もーむり……」
こればかりは自分で作らなければ意味がない。
そうわかってはいるものの、なかなか上手くできない現実に早くも和泉の心は挫けそうであった。
料理が作れないからといって吉原が幻滅をすることはないだろう。
和泉が吉原を喜ばせたいだけで、その事実を吉原が知ることは未だないのだ。
だけども一度決めたことを簡単に投げ出してしまうのや、諦めてしまうのは、なんだか負けた気がする。
果たして成功する日はくるのだろうか。
和泉は少し泣きそうになりながらも大人しく望月の帰りを待つのだった。
それから和泉がうだうだと悩んでいる間に、望月はテニスラケットを担いで爽やかな笑顔で部屋に帰ってきた。
部活で良いことがあったのだろうか、笑顔がいつもの三割り増しに見える。
なんとなくその笑顔が勘に触った和泉は取り敢えず望月の弁慶を軽く蹴ると、痛みで悶えて膝を折った望月に圧し掛かった。
「って〜! そこ、急所だろ!」
「んーだね。なんか笑顔がむかついてさ」
「はあ? お前ほんと突拍子ねえなあ……なんかあったのか?」
「柚斗こそ。なんかあったの?」
「あ? ああ、まー……シングルス2で出しても良いくらい上達したね、って部長が言ってくれたんだ。シングルス2だぜ!? やっり〜って感じだろ!」
「ふーん。それ、凄いんだ」
「まあな。自慢する訳じゃねーけど、まあ、結構良い」
「……むかつくー! 顔も良くて性格も良くてテニスもできて料理もできるなんてほっんとむかつく!」
「な、なんだよ、そんな褒めんなって」
「褒めてねーよ! 馬鹿!」
急に照れだした望月にヘッドロックをかましながら、和泉は望月の肩に噛み付いた。
痛がりながらも和泉をあやしてくれる望月は、そのまま和泉をおぶさるとキッチンへと足を運んだ。
和泉が苛々としている理由を知っている望月はキッチンに入ってやはり、と息を吐いた。
そこには冷めた料理がそのまま置いてあり、失敗したのか、食べた形跡が少しあるだけだ。
望月の髪を握っている和泉に苦笑いしながらも、軽く身体を揺らした。
「蓮、だから簡単なの作れって言っただろ?」
「……しらない」
「なあ、こういう凝った料理じゃなくてさ、……そう、弁当とか作ったら?」
「お弁当? 晩なのに?」
「まあそこはあれなんだけど、中学んとき彼女の手作り弁当に感動した記憶あるぜ」
「……お弁当、ね」
「要は気持ちだろ。な? ほら、おろすから髪の毛放せよ?」
「……はーい」
和泉を背中からおろすと、望月は優しく微笑み、お弁当の作り方を詳しく説明してくれた。
お弁当を作るにあたって必要なものをメモしながら、和泉はこれなら作れるかも、という小さな自信が沸いてきた。
未だに成功したことはないが、何故だか沸いてくる自信。
明日作ってそのまま吉原の部屋に行こう。
和泉はそう意気込むと、成功するとは限らないのに吉原にメールを送ることにした。
自らメールを送ることは珍しいことだと自負しているが、連絡もなしに行けば吉原がいない可能性がある。
送信完了と画面に出るのを見届けてから、和泉は携帯をしまった。
明日も明後日も平日だ、お弁当を渡したら帰ることにしよう。
るんるんと機嫌良く鼻歌を口ずさみ出した和泉に、多少の不安を抱えながらも望月はキッチンの片づけをすることにしたのだった。
翌日、いつも通りの平日がやってきた。
寒さが身に染みるといえども日中は日が出ているお陰で、多少は過ごしやすいものがある。
わかりきったことをべらべらと喋る教師にいてもたってもいられなくなった和泉は、昼休みに早退することを決めると急いで自室へと帰ったのであった。
和泉の奇行には慣れていた生徒も教師も、和泉を止めることはしなかった。
毎テストで主席に居座っている和泉が、多少授業をさぼろうとも支障はない。
公立ならともかくここは私立だ。
多少の融通が効く和泉は進級できることを知っているのか、さぼることに抵抗がない。
午後の授業が始まる時間に、自室でお弁当作りに励むことにしたのだった。
「よーし……頑張るぞ!」
目の前に並べた食材を見て、和泉の闘志もぐんと上がる。
本日も吉原はイベント準備の関係で帰宅が遅い。
お弁当を作り、晩ご飯を望月と食べ、お風呂に入って寝る準備をしてから吉原の自室に向かうスケジュールになっていた。
料理なら出来立てを食べてもらいたいのだが、お弁当なら冷めていても問題はない。
ゆっくりと丁重に、時間をかけて作ることにした和泉は手始めに卵焼きから作ることにしたのだった。
試行錯誤しながらも作り上げたお弁当。
あれから何時間経ったのだろうか、それさえわからないくらい和泉は熱中して料理を作っていた。
手際の良い人ならさくっと作り上げることができるのだろうが、要領の悪い和泉は随分と時間をかけてしまった。
だが他にやることもなかったので、時間がかかったことは然程問題ではない。
綺麗に料理が収められたお弁当箱。
多少見目は悪いが味は悪くないはずだ。
望月が教えてくれた料理はどれも簡単なものだったので、初心者の和泉でも作ることができた。
ピンク色のお弁当箱におさめられた料理。
決して綺麗なものとは思えないが、和泉の瞳にはきらきらと輝いて映っていた。
自分がこれを作り上げたと思うと、感慨深いものがある。
この感情は初めてオフラインで同人誌を出したときの気持ちと似ているものがあった。
和泉はお弁当箱を丁重におさめると、キッチンのカウンターへと置いた。
望月が帰ってくるまでまだ少し時間があったので、和泉は休憩をとることにするとソファに横たわった。
「……よろこんで、くれるかな」
和泉が吉原に料理を作ってもらって嫌な気分になったことは一度だってない。
寧ろ嬉しいと思うことの方が多かったのだ。
吉原もそうだったら良い、と思いながら和泉はうとうととする瞼に逆らうことなく目を閉じたのだった。
それから望月が自主練習から帰宅し、和泉を起こして二人で食事を取った。
主婦ばりに料理が上手な望月の手料理はいつ食べても美味しく、少し嫉妬をしながらも和泉は出された料理を全て平らげた。
最近は原稿の修羅場も減ったので、食事も規則正しく食べているような気がする。
原稿に取り掛かっているときは食べないこともざらにあるので、少し健康的な生活に慣れつつも違和感を覚えることもある。
キッチンで料理の片づけをしている望月を見ながら、和泉はお風呂に入った。
吉原のメールによると帰宅時間は九時とのことだ。
水島からの情報では、吉原は自室に帰ってから食事をとっているということを聞いていた。
なので吉原が帰宅する九時にお弁当を届けたら、吉原が晩ご飯を食べたあとにお弁当、という問題も起こらないだろう。
チクチクと進む時計。
じっと見つめていてもちっとも短針は9の文字を指してくれなくて、和泉は眉間に皺を寄せた。
1秒1秒がとても長く感じられる。
あと30分という時間なのだが、いてもたってもいられなくなった和泉はコートを簡単に羽織ると、お風呂から上がってきた望月に軽く言葉をかけて吉原の部屋に向かうことにした。
「柚斗、俺行ってくるね!」
「おー、あ、そんな薄着じゃ風邪引くぞ。弁当は持ったか? あと泊まるなら連絡入れること。わかったか?」
「えーっと、直ぐ帰るから風邪は引かない! あ、お弁当持ってない!」
「ったくしょうがねえなあ……ほら、これだろ?」
「ありがとー! じゃあ行ってくるね〜!」
「いってらっしゃい」
慌しく部屋をかけ出る和泉を、愛しむような表情を浮かべた望月が見送った。
まだ慣れる景色とまではいかないが、随分とこの道を通った気もする。
吉原の部屋がある特別寮に足を踏み入れながら、きょろきょろと辺りを見回した。
こんなに急いで部屋に行っても、部屋の住民である吉原はまだ帰ってこない。
だけども逸る足にいてもたってもいられず、和泉は吉原の部屋の前へと行くのだった。
頬にあたる冷たい風、悴む手を擦り合わせながら扉の前へと腰を据えた。
吐く息も白く、室内だというのに気温の低さが目立つ寮内。
早く帰ってこないだろうか。
冷え切った身体をぎゅ、っと抱きしめてほしい、そう思って和泉は一人身悶えた。
なにもすることがない状況だと妄想も膨らむばかりで、和泉は吉原が帰ってくるまで、延々と妄想をしては身悶える、を繰り返していたのであった。
一人わあわあと言いながら頬に手を当てる和泉に、ほんの少しの影。
見上げれば驚いた表情をしてみせている吉原が立っていた。
「え……いつからいんの」
「あ、え、お、おかえり!」
「ただいま、ってそうじゃなくてよ。うおっ、すっげー冷えてんじゃん」
吉原は和泉と同じようにしゃがむと、寒さの所為で真っ赤になった和泉の頬を緩く撫ぜた。
指先に伝わるのはひやりとした柔らかい感触。
いつから待っていたのだろうか、それを知ることはできないけれども、自分のために待っていてくれていたことに吉原はほんのりと胸が温かくなるのを感じた。
「……よっしー?」
「ほら、部屋入れ。あっためねえと風邪引くぞ」
「あ、……そう、じゃなくって、俺、帰る」
「はあ? なんで」
「……顔、見にきただけだし。あと、これ……夜食にって、思って」
和泉は後ろ手に隠していたお弁当箱をおずおずと取り出すと、怪訝な表情を浮かべている吉原に手渡した。
寒さの所為で冷えているとは思うが、電子レンジを使えば食べられるだろう。
お弁当を受け取ったまま、吉原は固まったかのように微動だにしない。
思わず吉原の目の前で手をひらひらとさせた和泉だったが、その手を強く掴まれてしまい、びくりと身体を震わせた。
「な、なに……」
「これ、蓮が作ったのか?」
「ま、まあ。味とか、保障しないけど、……たまたま、作ったら余っただけで、その、よっしーのためとか、そんなんじゃ、ないし」
「……ふうん」
吉原は随分とぼろぼろになった和泉の指先を見て、口元を綻ばせた。
しどろもどろになりながら喋る和泉は、大抵本心を言っていないということは知っている。
どうしていきなり料理をする気になったのかはわからないが、これを自分のために作ってくれたのかと思うと、吉原は幸せな気持ちで胸が満たされた。
味や中身はなんだって良いのだ。
吉原のためになにかをする和泉が見られただけでも、吉原にとっては最大のプレゼントなのだから。
にこにこと笑みを浮かべている吉原。
和泉は居心地が悪くなって、掴まれている指先を離すと立ち上がった。
「か、帰るから!」
「だーめ」
今にも駆け出していきそうな和泉を、吉原は後ろから抱きしめるとそのまま扉を開いて部屋の中に連れ込んだ。
どの道、和泉が吉原に会いにきた時点で帰す気など更々なかったのである。
一瞬の出来事に驚いている和泉をリビングまで連れて行き、吉原はお弁当をテーブルの上へと丁重に置いた。
それを見ていた和泉と視線がばっちりと合い、またも逃げ出そうとする身体を吉原は捉えたのだった。
恥ずかしいのか顔をあげない和泉。
吉原の腕の中にいてもじたばたと手足を動かす和泉に、吉原は仕方なく和泉の顎を掴むと顔をあげさせた。
ぐるぐると回る瞳。
吉原の瞳が和泉の瞳を追うように視点を動かしても、重なることがない。
むう、と片頬を膨らませた吉原は強硬手段にでることにすると、薄く開いた唇に噛み付いた。
「う、あ」
「大人しくしろ、な?」
「だ、だって、今日は帰るって決めてたし……」
「もう外も暗いし、泊まってけよ。蓮と一緒にいたい」
「うう、……ずるい」
「ずるいのは蓮だろ。弁当なんか作ってよ。今以上にメロメロにしてどうする気だよ」
「え、え〜? そ、んなの」
「でもすっげえ嬉しい。感動した。ありがとな」
「……うん、食べて。ちょっと、見た目悪いけど、味は、まあ、食べれると思うし」
「つーか先に蓮を食べたい」
「……は?」
なにを言って、と言いかけた和泉だったが急激に下がる視点に思わず口を噤んでしまった。
見上げた視線の先には舌なめずりをする吉原。
押し倒されたのだ、と気づく頃には吉原の顔が下がってきている状態だった。
手で吉原の口を塞ぐも、その手を舐められては抵抗らしい抵抗もできそうにない。
きつく吉原を睨んでみるものの効果はなく、逆に嬉しそうに笑われてしまったのである。
「蓮、すきだ」
「……だ、騙されない!」
「あ? なにが」
「こ、こんな……卑怯だ!」
「良いじゃん、な? いやよいやよも好きのうちって言うじゃん」
「言わなっ、あ……ちょ、まっ……!」
ぬめりとした感触を首筋に感じて、和泉は目をぎゅっと瞑った。
好きな人との行為だ、いやなことはないのだが如何せん吉原は急すぎる。
今からセックスをしよう、といってセックスをするのも恥ずかしいが、いきなりセックスをするのも恥ずかしい。
どっちにしろ、和泉にとっては未だ羞恥が勝るセックスは心臓にあまり宜しくないのだ。
だけども薄っすらと開けた目に映る吉原があまりにも格好が良かったので、和泉は抵抗をすることをやめて吉原に流されるまま流されることにしたのだった。