翌日、和泉はなにかに締め付けられるような感触で起きた。
ぽやぽやとした思考の中、正体を確かめるべく目を開けば視界に広がるのは肌色。
というよりは肌色しか見えない。
はて、と考えること数秒。
和泉は叫びだしそうになった口元を慌てて押さえた。
ここは吉原の部屋だ。
昨日、初めて吉原と肌を重ね合わせた。
即ちこの肌色は吉原なのだ。
現在、和泉は吉原の胸元に顔をくっつけていた。
吉原は和泉を離さないとばかりに腕に収め、きつく抱きしめたまま寝ている。
これでは起き上がることはおろか、動くことすらできない。
和泉はなんとかこの腕から抜け出そうと身体を動かしてみるが、吉原はびくりともしない。
それどころかますます抱く力を強めるではないか。
押し返そうと和泉が腕に力を入れた瞬間、身体中に力が入ったのか、下半身がずくりと鈍い痛みを訴えた。
それにさっと頬が赤くなるのを感じる。
とうとう、してしまったのだ。
昨日の記憶は今でもリアルに思い出せる。
瞬間的に羞恥に襲われた和泉は一人身悶えると、大きく息を吐いた。
ばくばくと心臓が煩い。
このままではどうしようもない。
思わず唸ってしまった和泉に、頑として動かなかった吉原が反応した。
ふるふると震える睫。
視線を吉原に向けると、閉ざしていた瞼が上を向いた。
「……おはよ」
「……おは、よ……」
寝ぼけているのか、吉原は和泉を見たままぼうっとしている。
いまいち現状が把握できていないようだ。
小さな欠伸を零すと、何度か大きな瞬きをして和泉をしっかりと見た。
瞬間、頬に朱が差す。
どうやら照れているのは和泉だけではないようだ。
お互い見つめあったまま照れている様は少し寒い。
和泉はこの隙に吉原の腕から抜け出すように身体を押し返すと、ベッドから這い出ようと試みた。
しかしやはりというべきか、本来なら痛まないところがずきりと痛む。
うう、と唸るように声を出した和泉の腰を吉原は擦った。
「……わりい、痛む? でも一回しかしてねえぜ」
「なっ、で、デリカシーなさすぎ!」
「あ? だってほんとのことだろーが。おら、風邪引くから早く着替えろ」
「つーかなんで裸なの……」
「だって昨日そのまま寝たじゃん。あ、先シャワー浴びるか?」
「……浴びる」
ガウンを羽織る吉原を尻目に、和泉はベッドから出ると浴室に向かおうとした。
だがそれが実現されることはなかった。
ベッドから出て足で立とうとした瞬間、腰に力が入らずぺたりと床に座り込んでしまったのだ。
それに驚いたのは和泉だった。
呆然と座った状態のまま、自分の下肢を見た。
確かに腰や秘部に緩い痛みを感じるものの我慢はできる。
安静にしておけば直ぐに治まるだろう痛みだ。
だが、立てない。
足に力が入らないのだ。
もう一度立ってみるべく膝を使って立とうと試みるも、無残にもそれは失敗に終わり、またしても床にぺたりと落ちてしまった。
そんな和泉の様子をベッドの上から見ていた吉原は、思わず口元を緩めた。
必死になって歩こうとしている和泉の可愛いこと。
自分に言ってくれればいつでも抱き上げてあげるのに。
吉原は和泉の側に寄ると、躍起になっている和泉の手をとった。
「つれてってやるよ。ほら、言ってみろよ。抱っこして〜って」
「……はあ?」
「言うことあるだろ? ん?」
「自分でいけるしっ! もう、離して!」
「ほら、抱っこしてやるから。蓮」
「……子供じゃないっつーの!」
なにがそんなに楽しいのか、にこにこと始終笑顔の吉原。
自分に触れる指が優しすぎて、甘やかされていることを実感する。
身体を繋げてなにかが変わったのかは良くわからないが、少し不安が減ったような気がする。
和泉はほんのりと温かくなる胸に目を閉じて、仕方なく吉原の手を握った。
どのみち暫くは歩けそうにない。
だが今日は実家に帰る日だ。
あまりゆっくりしている時間もない。
観念したかのように、和泉は小さく口を紡いだ。
「お風呂入りたいから早く」
「……違う」
「違うとかどうでも良いの! 早くつれてってよ」
「はいはい」
吉原は和泉の両脇に手を差し込むと、そのまま抱きしめ、立ち上がった。
この体勢はどう考えても赤ん坊を抱くような体勢ではないか。
よしよしと腰を撫で付ける吉原に、羞恥やら劣等感やらを抱いた和泉は腹いせに吉原の髪を引っ張ったのであった。
それから結局二人でお風呂に入り、和泉と吉原は私服に着替えた。
和泉はこれから実家に帰り、吉原は風紀委員で集まるそうだ。
本当に風紀委員は仲が良い。
少し余った時間を利用して、和泉と吉原はリビングのソファに腰をおろすと、お互い寄りかかるようにして座った。
「帰んの」
「……うん、帰るよ」
「ふーん……つかまだちゃんと歩けないのにどうやって帰んの」
「迎えにくるって」
「兄貴?」
「まさか、父さんだよ。母さんも兄貴も今の時期は忙しいからね」
「へえ。茶道ってなにすんの? オレ良くわかんねーんだけど」
「俺も興味ないから良く知らないんだけど、基本は教室開いて教えてる。なんか有名な流派らしいから門下生も多いし……。年始は初釜とかいうイベントしてる。まあ年中お茶いれてるって感じ。よっしーんとこは?」
「あー……そ。オレんとこも年中患者相手にしてるって感じじゃね。なんか兄貴は親見て医者なりたいっつってるけど、オレは別に、だしな」
くるくると伸びた髪の毛を弄りながら、吉原は視線を下げた。
継がなくてはいけない家に産まれたといえど、和泉は次男。
長男が家を継ぐのでそこまで茶道に携わっていなくとも両親はあまり煩く言ってこない。
幸い、長男である凛は茶道に興味があるらしく自ら継ぎたいと言ったので好都合だ。
吉原の家は和泉と違い継がなくてはいけない家ではないらしいので、自由にできているのだろう。
一度、吉原の兄にも会ってみたい。
和泉はなんとなくそう思った。
そのまま二人は喋ることなくいくばくかの沈黙に包まれる。
穏やかな時間。
だが帰る時間は刻一刻と迫っていた。
ちらり、と吉原に視線を向けた和泉。
その和泉の頬を緩やかに撫ぜると、吉原は額に唇を落とした。
「……よっし?」
「……蓮は、将来なんになんの?」
「えー? そんなの、わかんないよ」
「なりたい職業とか、あんの。やっぱあれ? ホモ?」
「……ホモっていうか〜それは趣味でずっと続けたいなって思う。でも、小説家、とか、なりたいかなって。まあ、夢なんだけどね」
「へえ、小説家か……」
うんうん、と頷いて少し嬉しそうな笑みを浮かべる吉原。
今の和泉の言葉の中に、吉原が喜ぶような点は見当たらない。
思わず首を傾げた和泉だったが、吉原は相変わらずご機嫌のままだ。
痺れを切らし、それに対する答えをせがめば、吉原は簡単に口を割ってくれた。
「オレの夢、知りたい? つーか知りたいだろ? まあ蓮には特別に教えてやっても良いぜ」
「……なに」
「モデルつーか、……まあその、人気商売? 取り敢えず目立つ職業!」
「あ〜、ね。よっしー目立つの好きだもんね。でもさ、それ、さっきの質問と関係ある?」
「あるっつーの。オレがちょー人気になってドラマとか出るじゃん? んで蓮は小説家。蓮の書いた小説がドラマになって、オレが主演で出んの。すげくね!?」
「……まあ、夢だし」
「……そうやってさ、ずっとどっかで繋がっていられたら、幸せだろうなって、思ったんだよ」
「……ばか」
はにかんだ笑顔。
吉原がそっと近付いてくる。
和泉はそれを受け入れるべく目を閉じた。
吉原がいうように、いつかそんな日がくるとしたら、それはそれできっと楽しいのだろう。
そのとき、お互いが隣にいなくとも、きっと幸せなのだろう。
離れ離れになっても、違う意味で繋がれてしまうのなら、それは運命だ。
いつかくる今は見えない未来。
二人は想像を膨らませて、時間がくるまで夢を語り合ったのであった。
それから時間になり、和泉は吉原の家の前まで迎えにきた父の車に乗り込んだ。
比較的顔は父に似ている和泉であるが、性格は誰にも似ていない。
温厚で人当たりの良い父は、ぽやぽやとしている。
だからこそきつい性格の母と合うのだろう。
和泉は吉原に見送られながら、吉原の家を出たのであった。
遠ざかっていく吉原の姿。
さっきまでは直ぐ側にあった温もりはもうない。
和泉は胸元で揺れているネックレスを握り締めると、小さく溜め息を吐いた。
跡継ぎではなく、普段は茶道のことなどなにもしていない和泉でも、年末年始は実家にいなければならない。
日本行事には煩い母だ。
自立するまではずっとこうなのだろう。
家に帰れば着物を着させられ、年末の挨拶にくる門下生と顔を合わす。
専ら喋るのは母と凛だけだ。
だがなにも喋らなくとも父と和泉はそこにいなければならない。
今から思うと憂鬱だ。
というよりは家に縛られるのが憂鬱なのだ。
吉原と会えるのは冬休みが明けてから。
そう約二週間も会えないのである。
なんだかんだ言いつつ寂しがり屋の吉原である。
頻繁に連絡をくれるのだろう。
そうされれば、和泉とて寂しいという気持ちが募るではないか。
だが連絡がないというのは嫌だ。
矛盾している。
とても矛盾だ。
思わずううと唸る和泉に、人の良い笑みを浮かべた父がバックミラー越しに話しかけてきた。
「蓮さん、さっきのは新しいご友人かい?」
「あ、うん。……そう」
「柚斗さん以外の家に泊まるのは珍しいことだね。蓮さんに親しい友人ができて良かった良かった」
「……まあ、学園で、結構一緒にいるし」
「そうなのか。じゃあ今度うちにつれておいで」
「……うん、言っておくね」
まったりとした喋り方の父につられ、和泉の喋り方も自ずとゆったりとなってしまう。
そのまま二人は母が聞いていれば卒倒しそうなほどゆったりとした会話を続け、家までの道のりを楽しんだのだった。
実家に帰った和泉は直ぐに自室へと篭った。
忘れてはいないが本日はクリスマス。
流石に茶道の世界といえども、クリスマスに挨拶に訪れる人などいない。
明日から年末にかけて人がどっと押し寄せるのである。
和泉は部屋で簡単に片づけをすませ、ベッドに寝転んだ。
久しぶりに踏み入れた自室。
畳と質素な家具。
それをぼんやりと見つめながら、和泉は大きく息を吐いた。
望月は実家に帰るやいなや、両親に連れられ旅行に行ったらしい。
ほぼ新婚旅行のノリのような両親と共に行くのは嫌だと言っていたが、行き先が海外のようなので、それについてはテンションがあがっていたようだ。
必ずお土産を買ってくる、というメールを最後に連絡が途切れた。
元々望月以外にそれほど仲の良い友達などいない和泉。
打ち解けてきた水島デルモンテ学園の生徒も、一対一で遊ぶほどではない。
地元にはほぼ望月以外に遊ぶ相手がいない和泉は、望月がいなければなにもすることがなかった。
本来なら望月に原稿を手伝ってもらい、和泉は望月の宿題を手伝う。
そんな日々を送っていたはずなのだ。
予想外である。
本当に。
どうやら年明け前には帰ってくるようなのだが、それまで一人だ。
吉原も側にはいない。
ずっと実家に缶詰になる。
ごろごろとベッドの上で動きながら、和泉はふうと息を吐いたのだった。
それから少し、うとうととし始めた和泉の部屋の襖を誰かが開けた。
声もかけずに開ける人物など一人しかいない。
案の定和泉が視線を向けた先には、焦った表情の凛がいた。
「蓮ちゃーん! 帰ってきたなら言えって〜!」
そのまま突進してくる凛を止めることができずに、和泉はもろにぶつかってしまった。
ずしり、と重い身体が和泉の身体を襲う。
和泉も凛もどちらかといえば華奢の部類に入る。
凛は特にギャル男の所為か、身体は平均的な男子高校生よりは細身であった。
だがいくら細身であろうとも全体重をかけられれば重い。
腰痛が酷い和泉にとって、今の状態はある意味拷問でもある。
思わずぎゃあと叫んでしまった和泉だったが、凛は全てを理解しているのか和泉を離そうとはしなかった。
「ちょ! 兄貴! 重いっつーの!」
「……昨日、……したんだな」
「……露骨だね。そういうこと聞くのやめてくれない?」
「うう……俺の可愛い可愛い蓮ちゃん……」
「兄貴のじゃないから」
「……泣かされたら俺に言えよ。けっちょんけっちょんにしてやるから!」
むぎゅうと抱きつく凛を宥めつつ、和泉は凛の髪を撫ぜた。
久しく顔を合わせていない内に、凛は随分と変化をしていた。
派手な色だった髪は落ち着き、明るめの茶色になっている。
肌の色も若干薄くなったように思う。
だからといってギャル男でなくなった訳ではない。
どちらかといえばお兄系が入ったギャル男になっていた。
年末年始は特に見た目に気を使わなくてはいけない。
本来なら普段のときも真面目にしておかなければいけないのだが、そこだけは譲れないと良く母と喧嘩をしていた。
これは二人が妥協しての格好なのだろう。
緩く撫ぜ続けていれば、幾分か落ち着いたのか、凛が顔をあげた。
「でも今日からは暫く一緒にいられるな〜」
「そうだね」
「あ、そういやよ、昨日柚斗が旅行に行ったじゃん? 行く前にちょっと遊んだんだけどよ」
「えーっ!? どういうこと!? なんで兄貴が遊ぶの!」
「ああ、ほら原稿手伝ってもらってたお礼に! 柚斗、変わったぜ」
「……はあ?」
「あいつ最近美容院とか行ってねえって言うし? だから俺がさ、髪切って染めてやったのよ。したらどうなったと思う?」
「……兄貴! どうしてそんなことするの! 柚斗は今のままが可愛いのに!」
「ちょっとギャル男風味にしただけじゃん〜」
「中学んときもそうやって柚斗で遊んだでしょ!? もう! 馬鹿!」
どこか楽しげに笑う凛に、和泉は盛大に肩を落とした。
望月のことだ、嫌だとは言えなかったのだろう。
これは帰ってきたら是非にでも元に戻さなければならない。
確かにちゃらちゃらとした見た目の望月だったが、ギャル男とは方向性が違う。
似合わないのだ。
というよりは和泉の趣味ではない。
ギャル男受けはあまり萌えない。
和泉にとって吉原と望月は受けの頂点に君臨しているのだ。
真骨頂であるからこそ萌えるのである。
オプションなど不要。
へらへらと笑う凛に、和泉は復讐を誓った。
望月は帰ってから和泉が手直しをすれば良いから問題はない。
凛も凛が寝ている間に悪戯をすれば良いのだ。
寝汚い凛だ。
一度寝に入ればある程度はなにをしても起きないだろう。
和泉を頬ずりしている凛を見て、和泉はあることを深く心に決め、小さく笑みを浮かべた。
その夜、寝ている凛の髪の毛を黒染めした。
凛の大絶叫と、母の喜ぶ顔が思い浮かぶ。
高笑いをしながら部屋を出て行く和泉。
凛は一度も起きる様子はなかった。
こうして和泉は吉原がいない二週間、凛を弄りつつ、望月と戯れ、茶道の挨拶付き合いに追われていったのだった。