「蓮? どうした?」
問いかけられて、ハッとした和泉は振り返った。
そこにはシャワーを浴び終えたのか、タオルで頭をがしがしと拭きながら立っている吉原がいた。
今の姿にビールを持たせれば、なんだかある意味さまになりそうだ。
和泉はなんでもないと作った笑みを零すと、また視線を落とした。
ここ数日、和泉は気分の優れない日が多かった。
大好きなゲームをしても、原稿をしていても、BL本を読んでいてもちっとも良くならない。
寧ろ悪くなるばかりだ。
考えないようにすればするほど、頭の中に浮かんでくる。
それが和泉の邪魔をして、最近はなにも手がつかない状態なのだ。
「……おい、ほんとに大丈夫か?」
ぽたり、と拭いきれなかった雫が和泉の頬に落ちた。
見上げれば、吉原がそこにいる。
和泉の横に腰掛けると、顔を覗き込むようにして様子を見ていた。
「平気、だよ。ちょっと考えごとしてただけ……」
「ほんとか? それだけなら良いけど」
ふわりと匂うシャンプーの香り。
湯上りの熱気が空気越しに伝わり、和泉はそれにどくりと胸を打った。
頻繁にセックスをするようになって、欲情というものを覚えた。
前までは考えもつかなかったのに、だ。
今とて吉原の肩や手が当たる度にどきどきと心臓が鳴り、呼吸が途切れてしまう。
あまり意識しないようにばっかり集中していた所為か、吉原が近づいてくることには気づきもしなかった。
目の前には吉原の顔。
あ、ということもなく言葉は吸い寄せられ、唇が触れ合った。
「ふ、……っ」
人工的にあげられた熱が、和泉の素肌に触れる。
優しく、解すようなそれに安堵を覚えつつも、恐怖感ばかり募った。
羞恥を強く感じなくなった昨今、和泉は別のものに悩まされていた。
ゆっくりと、肌を這い回る指。
耳元で囁かれる言葉は愛しさばかり溢れて、零す。
意地悪をするときが多い吉原であるが、基本的には優しいのだ。
そう、優しすぎる。
それが不安だといえば、一体どんな表情をするのだろうか。
和泉はぼんやりとしてきた思考の中、必死で理性と戦うと未だ肌を這い回る指を手にとった。
「……や、だ」
「なんで? 調子悪い?」
嫌な訳ではない。
この複雑な思いを上手く伝えられる術がないだけで、嫌ではないのだ。
喉の奥、噛み締められた言葉が胸に痛い。
和泉ははくはくと口を動かすだけで、言葉を紡ごうとはしなかった。
いや、できなかったのだ。
そのまま唇を噛み、泣きそうな表情になった和泉に吉原はふうと息を吐くと手を引き抜いた。
吉原には良く理解ができないが、どうやら和泉は悩んでいるらしいのだ。
その内容さえわかれば救ってやれるのに、和泉はそれを言うことをしない。
安心させるように頭を撫ぜてやれば、切羽詰った表情の和泉が抱きついてきた。
「よっし……ぎゅーってして」
「ぎゅーって、こう?」
和泉の小柄な身体を腕に強く抱きしめる。
触れ合った肌や、体温が和泉の存在を教えてくれて吉原は満足した。
抱き合うことが一番満足を得られる行為なのだが、たまにはこういった触れ合いも良いのかもしれない。
吉原の胸に鼻を寄せ、匂いを確かめる和泉。
そのまま擦り寄るように額を押し付けられ、痛いくらい腕に力が入る。
小柄で可愛いからといって和泉をなめてはいけない。
こう見えても立派な男だし、空手をしていた所為で変に力がある。
微妙に苦しい、と感じていた吉原だったが、和泉があまりにも不安そうな態度をとるから口に出すことができないのだ。
なにが、和泉を不安にさせているのだろうか。
つい最近までは何事もなく、幸せそうに微笑っていたのに。
今はその笑顔に曇りがある。
そっと頬に手をかけ、顔をあげさせる。
きらりと光るネックレスの先のように、和泉の瞳もきらりと光っていた。
惹かれ合うように唇を寄せ、ただ触れ合うだけのそれに小さく震える和泉。
それが泣きそうに見えたからか、吉原は小さく、小さく言ったのだ。
「……すきだ」
安心させるためなのか、自分に言い聞かせるためなのか、はたまた再確認するためなのか。
何度も何度もそう囁いてやれば、和泉は嬉しそうに、でもどこか悲しそうに笑ったのであった。
それからしつこく引き止める吉原に断りを入れて、和泉は吉原の部屋から出た。
今日は土曜日。
本来ならば泊まっていく予定だったのだが、不調を理由にして帰ることにしたのだ。
何故だかわからないがここ数日、訳のわからぬ焦燥感に駆り立てられ、和泉は足元のぐらつきを覚えていた。
この思いはなんという名なのだろうか、それすらわからず和泉を追い立てていく。
原因の元を辿れば吉原にある。
だが吉原が悪い訳ではない。
完全に和泉の独り相撲のような悩みなのだ。
勝手に悩んで苦しんで、触れられる度に怯えている自分。
「……ばかみたいじゃん、ね」
ネックレスをぎゅっと握る。
外の空気に晒され冷たくなったそれは、和泉の体温に触れると同化するように温まった。
特別寮と一般寮を繋ぐ道。
吐いた息は白く、空は濁ったような晴れた青。
寒さで凍えるような空気も、今の和泉には丁度良かった。
芝生のように一面に広がる草むらにさくりと足を踏み入れる。
冬の所為で枯れかかっているそこは、緑と茶が入り混じったような世界だった。
コートが汚れてしまうかも、ああまた怒られる。
そう思いはするものの、なにかに誘われるように寝そべって空を見上げた。
頭上に広がるのは青一色。
太陽は鈍っているのか姿を隠しているのか、目に痛い日射はない。
目を瞑り深呼吸。
和泉の心に巣食う闇が、追い立てられて白くなっていくような気がした。
息を吸って吐いて、風の音に耳を澄ませる。
なにも音はしないのに、さらさら鳴っているような気もする。
日中も寒い山といえども、なんだか眠ってしまいそうだ。
吸い込まれるように意識を途切れさせようとすれば、タイミング良く草を踏む音が聞こえた。
さくり、さくり。
一歩進むたびに音は大きくなる。
徐々に近づいてくるそれが近くなり、影をもたらすとなれば知り合いに他なかった。
「い、和泉君? 寝ているのか?」
耳に馴染みのある声。
水島の声である。
だが和泉は反応することなく、薄っすらと目を開けた。
そこには書類片手に立っている水島の姿があった。
「……お昼寝中」
「今日は柳星と一緒にいるんじゃなかったのか? 喧嘩でもしたのか?」
「……そんなんじゃない」
普段は和泉に怯えている癖に、こういうときはお節介になる。
優しく諭すように聞かれてしまえば、和泉とて刺々しい言葉を吐く訳にもいかない。
ふう、と息を吐き和泉の隣に腰掛ける水島。
どうやらここを立ち去る気はないようだ。
和泉は渋々と顔を横に向けた。
そこにはふわりと顔を和らげる水島がいて、少し居心地悪く感じる。
「悩みがあるのなら聞こう」
「……よっしーに相談されたんでしょ。最近変だって」
「……ま、まあそれもそうだが……そうだな。様子が可笑しいから心配だと、聞いているな」
「前まで断らなかったのに、急にエッチ断られた。あんまり良くねえのかな? とか、言ってるんでしょ、陰で」
「……盗聴器でも仕掛けているのか?」
吉原が水島に相談する内容など、盗聴器を仕掛けなくともわかりきったことだ。
だって和泉自身もそれについて思うところがあるし、自覚もあるからだ。
クリスマス前までは身体を触りあいっこすることはあっても、身体を繋げることはなかった。
だがあのクリスマスの日、とうとう身体を繋げたのだ。
それから約二週間というブランクがあったが、冬休みが明けてからというものの、それなりの頻度でセックスをしていた。
まあそうはいっても冬休みが明けてからまだ二週間も経っていない。
それなりといえども指で数えられる程度であるが。
だがここ数日はよりリアルになった悩みが脳を支配し始め、身体を繋げることに抵抗を覚え始めたのだ。
人に言えばそんなことで、とからかわれる悩みだとは理解している。
馬鹿らしくて小さな悩み。
きっと和泉の悩みなど理解しようとしても、理解できるとは思えない。
視線の先にはなにかを言おうと口を上げ下げする水島。
意を固めたのか、その動きに音が加わり、和泉の鼓膜を震わせた。
「なにに、悩んでるんだ?」
「……かいちょーやよっしーには到底理解できないような悩み」
「ふむ。では望月君にでも話したらどうだ? 溜め込んでいても解決はしないのだろう?」
「喋っても、多分解決できないと思うよ。ほんと、なんで悩んでるんだろって、……そう思うし」
「でも言うだけでもすっきりはするだろう?」
「そう、かな。そうだったら、良いな……」
びゅうびゅう吹く風。
寒さがより一層増して、空は雲で覆われてしまった。
それ以上そこにいれば風邪を引くということで、和泉は無理矢理水島に手を引かれると自室まで送り届けてもらった。
付き合う前は素直になれない、我儘ばっかり、可愛くないことばかり言うことに対しての悩みがあった。
吉原はそれを含めて全部好きだといってくれた。
和泉の悪いところも、良いところも、全部好きだと。
それを信じていない訳ではない。
和泉だって吉原が好きだ。
吉原の悪いところも、良いところも。
だけど愛されているからこそ不安なのだと、そういえばどんな顔をするのだろうか。
吉原は優しい。
本当に優しいのだ。
和泉が我儘を言ってもきいてくれるし、素直になれないときは自ら素直になれるような雰囲気を作ってくれる。
凝り固まった心を解すようにそっと時間をかけ、愛してくれる。
きっとここまでしてくれる人は吉原以外いないだろう、そう思わせるほど。
「……よっし、……」
触れられる度、愛してると言われる度、不安が募る。
経験も豊富な吉原。
いくら初めてである和泉といえども、慣れているか慣れていないかぐらいはわかる。
吉原の巧みな指に翻弄される度に、一体何人の人がこうやって触れられたのだろうかと考えるようになった。
愛してるよ、好きだよ、そう言われるのは和泉で何人目なのだろうか。
今まで何人の人がそう言われて、胸を震わせた。
吉原が愛した人が過去になったように、いずれかは和泉も過去になってしまうのだろうか。
それが不安で、仕方がなかったのである。
そんなことを考えるなど馬鹿だ、そう言われる。
きっと言うのだろう。
この気持ちを理解することは、できないと思う。
初めてだから、吉原が全て初めてだから、和泉は怖かった。
切なかった。
逃げたくなった。
吉原が好きだ。
吉原も和泉のことを好いてくれているのは目に見えてわかる。
それだからそうじゃなくなる日のことに、不安を隠せないでいた。
どうして好きじゃなくなったの? なんで飽きてしまったの? 想いが消えていく理由はなに?
聞いてしまいたい言葉は、和泉の胸の中で消化されずに溜まったままだ。
吉原の過去全てを知っている訳ではないが、吉原が愛してきた人は聞いたことがある。
いずれも吉原から振った訳ではないのだが、それでも考えてしまうのだ。
会いたい。
会えない。
どうすれば良いのか、わからない。
一人馬鹿みたいに悩む和泉はずるずると、落ちていくのだけを感じていた。
望月がテニスの練習でいないこともあってか、部屋には一人である。
今の精神状態から考えると一人でいるのは少々辛い。
和泉は外に出ると、己の部屋の扉の前で望月の帰りを待つことにした。
本来なら吉原の部屋にいる予定だったのだ、和泉が帰ってきていることなど知らないであろう望月。
帰ってくるのは遅いかもしれない。
寒さを感じない訳ではなかったが、それでも外で待ち続けることにした。
一人を感じる部屋でじっとしていたら、追い詰められそうだったのである。
だったら寒くとも、人が通る廊下で蹲っている方が断然マシだ。
和泉は白い息を吐くと、ぶるぶると震える携帯を取り出した。
先ほどからずっと着信を告げていたそれ。
見れば案の定吉原からの連絡で埋め尽くされていた。
粗方水島から様子を聞いて、いてもたってもいられなくなったのだろう。
こういう部分は、胸がほっこりと温かくなる。
その腕に縋ってしまいたくなるのだ。
返事をしようかしまいか迷っている内に、和泉を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げれば大きな荷物をもってこっちにやってくる吉原。
「……え!?」
吃驚して携帯を手放せば、それは冷たい廊下に落ち、音を立てて転がった。
「蓮! やっぱ心配だから一緒にいるぞ」
「え、で、でも」
「オレがこっちに泊まれば良い話だろ? もちろんちゃんと自重するし、手は出さねーから! 望月にも嫌な態度とらねーし!」
「そ、だけど……」
「颯から様子聞いてさ、やっぱ心配するだろ? 最近お前変だったし、いろいろ調べたんだ、オレなりに」
言うやいなや大きな荷物から箱のようなものを取り出し、それをずいっと和泉の前に差し出した。
おそるおそる蓋を開けてみれば、そこには吉原の愛猫ルルがいた。
「え……? ルル、もってきたの?」
「良く言うじゃん。動物セラピーとかなんとかって……ルル触って元気出るかわかんねーけど、さ」
「……馬鹿みたい」
「う、うるせえな! オレだって必死なんだよ! 蓮がなにに悩んでるかわかんねーよ? でもやっぱそういう顔されたら心配するだろ!」
蓋を閉め、和泉を強く抱きしめる吉原。
廊下故に人々の視線が目に痛い。
だけどあまりにも強く抱きしめてくるものだから、和泉は逆らうこともできなくて吉原の背中に腕を回した。
ほんのりと香る吉原の匂い。
包まれる吉原の体温。
ばくばく鳴っている吉原の心臓の音。
胸に走る痛みと同じように、じんわりと広がっていく甘い感覚。
和泉の不安を覆い隠すように、包んでくれる。
強く、強く。
そうもっと強く。
痛いくらいに、強く。
息すらできぬほど。
好き合っている関係。
ライバルも目立っていなければ、不安材料もない。
ただお互いがお互いを好きだというだけなのに、どうしてこんなに難しく考えてしまうのだろうか。
不安を覚える分、愛しさも募る。
嫌なことばかりではない。
それが辛いのだ。
一人でいるのも、二人でいるのも、他の人に補ってもらうのも、全部が辛い。
底なしの沼のように、はまってしまえば最後。
落ちていくだけだ。
ぐるぐる支配される思考に、差す光り。
吉原の言葉が響いて、和泉ははたりと顔をあげた。
「……つーか、部屋に入れてくれんの?」
「……うん。入れる、けど」
「けど、なに? えー怖い。なんだよ」
「ルル、触ってい……?」
「そりゃもちろん。お前のために持ってきたんだし、ルルもぷち旅行できて喜んでるんじゃね?」
「俺に懐いてるもんね」
「オレの方が懐いてるっつーの!」
ぎゅっと抱き上げてもらい、和泉は吉原によって荷物のように自室へと運ばれた。
その後直ぐにルルや吉原の荷物も部屋に入り、寒かった部屋が温まったような気がした。
呼べば直ぐ側にいる愛しい体温。
後ろから温めるように抱きしめられ、和泉はそれに安堵しながらルルを手に抱いた。
片手に乗るほど小さかったルルも、春を過ぎ冬を迎える今、随分と大きくなった。
まだまだ子供といえど、成長するスピードは人間よりも早い。
ごろごろ喉を鳴らせて目を細めるルル。
和泉も猫のようにただ甘やかされるだけ甘やかされて、なにも考える能力がなければこんな思いをすることもないのだろう。
だけどこうやって抱きしめられれば広がる幸せや愛しさは、猫では経験することができない。
「……ルルって、幸せそうだけど……」
「え? なに?」
「……ううん。動物セラピーって案外効くもんなんだね」
「だろ! オレ様のルルだもんな! やっぱルルに勝てるものはいねーよ」
「あ、オレ様って言った!」
「……! い、今のなし! なしな!?」
慌てふためいて、和泉をぎゅうぎゅう抱きしめる吉原。
その振動が煩わしいのか、ルルは和泉の手を離れ床に避難した。
カチコチ鳴る時計。
抱きしめられる体温。
焦ったような吉原の声。
楽しい空間。
それなのに、不安は和泉を引き摺るかのように、今か今かと直ぐ側に佇んでいるのであった。