「よっし……?」
ふ、と目覚めた和泉の世界は暗闇だった。
崩れるようにお互いを求めたセックスをして幾ばく経ったのだろうか、いつの間にか和泉は気を失っていたらしい。
温もりがないベッドから起き上がり、渇いた喉がいやについた。
あれほど何度も交わって大きな嬌声をあげたのだ、仕様がない。
だがそれを認めるのには少し羞恥が勝る。
久しぶりに触れ合ったお陰か、吉原という存在を強く感じることができたと思う。
なにかを忘れてしまっているような気もしたが、満たされた心を感じるだけで和泉はいっぱいだった。
「……どこ行ったんだろう」
こんなにも満たされているのに、満たしてくれた吉原がいない。
一緒にいたはずなのに目覚めが一人というのは寂しい。
和泉は吉原を探そうと寝室を出た。
きょろきょろした視線でリビングを見渡すと、暗がりの中電話をする吉原の姿があった。
明かりは間接照明のみ。
誰かと真剣に会話をする吉原に、和泉は思わずかけようとしていた声を失った。
「……だからさ、……違う」
誰となにを話しているのだろうか。
気にはなるが盗み聞きのようなことだけはあまりしたくない。
和泉は良心に押され踵を返すと寝室に戻ろうとした。
だが吉原が紡いだ名前に足が張り付いてしまったのだ。
「涼、それじゃ駄目だろーが」
その名前を持つ人を和泉は一人しか知らない。
そして吉原と関わりがあり、和泉を悩ます人もその名前なのだ。
黒川涼、吉原の元彼でもあり、和泉がここ最近不安定になった原因でもある。
どうやら黒川と電話をしているらしい吉原は、真剣そのものの表情でなにかを喋っている。
一体なんの用事があってこんな夜中に電話をしてるの? ぐるぐると渦巻いた疑問は和泉に強く残った。
それ以上吉原が黒川の名前を呼んでいるのを聞きたくない。
親しそうに話をする姿も、時に笑みを見せるのも、見たくないのだ。
そんな表情は見たくない。
邪魔をしないで。
自分との時間を邪魔しないで。
激しくこいねがった思いが和泉を取り巻く。
黒川のことが嫌いな訳ではないのに、浮かぶのは憎しみばかり。
小さな憎しみも数が増えて募っていく。
こんな自分は嫌だ。
誰かを強く恨むなんて嫌だ。
必死になって押し留めようとした感情も、大好きな吉原が“涼”とそう紡げばいとも簡単に崩れ去ってしまう。
このままではどうにかなってしまいそうだ。
激しい嫉妬にかられた和泉はわざと足音を立てた。
「れ、ん?」
和泉が起きて立っていることに気が付いた吉原は一瞬驚きの表情を浮かべるものの、直ぐに愛しいといわんばかりの表情になる。
「わりーな、蓮が起きたからまた明日聞いてやるよ。おう、おやすみ」
電話を切り、和泉の元にきてくれた吉原。
そのまま腕を広げると和泉を強く抱き締めた。
愛しい温もりに触れてささくれ立った感情が静まっていくのを感じる。
和泉は隠れた憎悪に、つきりと胸が痛むものの見知らぬ振りをする。
吉原にばれてはいけない。
こんなにも汚い感情を持っていることを知られてはいけない。
和泉はそう己に言い聞かせると、ゆっくりと口を開いた。
「目、覚めちゃった。よっしーいないからびっくりしたんだ」
「わりぃ、ちょっと電話かかってきてよ。夜中だし、蓮寝てるから起こしちゃ悪いと思って」
「……誰だったの?」
「ん? 涼だよ。なんか悩み相談あるって。最近卒業式の準備で一緒になることが多いから良く相談乗ってやってんだよな」
それならばそのときにすれば良いじゃないか。
黒川に対してまたも目覚めた感情に、和泉は目を伏せた。
きっと会えば強く詰ってしまうかもしれない。
罵ってしまうかもしれない。
自分が自分じゃなくなるような感覚が、強いのだ。
このままではきっと駄目になってしまう。
けれど止め方なんて知らない。
吉原の背中にぎゅっと腕を回して、存在を一色にした。
他にも聞きたいこと知りたいことはたくさんある。
だけどそれを聞いてしまえばまたも嫉妬してしまうのだろう。
そうなれば一体和泉はどうなってしまうのだろうか。
押し込めて、奥に押し込めて、吉原に甘えて誤魔化した。
幸か不幸か吉原は和泉の異変に気付くことなく、抱く力を強めただけであった。
「まだ眠いだろ? 一緒に寝よう」
「……もうどっかいかない?」
「ああ、行かない」
確かめるように伸ばされた和泉の指先が、吉原の輪郭をなぞった。
そうと触れるように、なぞったのだ。
曇りのなかった和泉の顔がまた曇るようになってきた。
その一因が己にあるのではないか、と吉原はふと気が付いたのである。
一体何故こうなったのかは未だわからないが、今以上和泉に目をかけることを己に誓った。
離れようとも避けようとも強引に和泉を手元に引き寄せる。
そうすれば和泉は少しだけ和らいだ幸せそうな笑顔を見せてくれるのだ。
なにが和泉を不安定にさせているのかがわかっていない状況、下手なこともあまりできない。
今自分ができるのは和泉を安心させて、愛してやることだけ。
今日はなにをした、こんなことを思った、あんなことをしてみたい。
小さなことでも些細なことでも和泉に言う。
安心させてやる。
それしか方法が見つからなかった吉原はそうすることに決めた。
正しいか正しくないかなどわからない。
だけど少しでも和泉との時間を優先させることが第一なのだ。
眠たげにとろんとしてきた瞳を見付けると、吉原は壊れものに触れるかのように抱き上げた。
「寝ろ。ずっと一緒にいてやるから」
呪文のように広がる甘い言葉。
和泉は強い安堵を覚えると、吉原の腕の中目を閉じた。
次に目を開けたときは吉原が側にいることを願って。
それ以来、吉原の口から黒川の名が出ることが多くなった。
今まで避けていた分そのつけが回ってきたのだろう。
吉原からしてみれば疚しい気持ちがないからこその報告である。
しかし和泉にとっては疚しい気持ちがあるにしてもないにしても聞きたくはないことだった。
知らなくて良いこともある。
まさにその通りだ。
吉原が黒川の名を紡ぐ度に、一つ黒を落としていく。
ぽつぽつと落ち続けた黒はやがて白を超える数になった。
信じようとすればするほど信じられなくなっていく。
黒川を好きになろうと思えば思うほど嫌いになっていく。
どうしてこうも上手くいかないのだろうか。
じくじく痛んだ胸から次第に傷跡が広がって、和泉からまともな思考を奪っていくかのように感じていた。
「あー……」
早く卒業式にならないだろうか。
それを迎えれば、なにもかもが終わる。
いつも通りになる。
それまでの辛抱だ。
和泉は授業をさぼり、一人渡り廊下で空を見上げていた。
空の移り変わりを見ることができる人間は心に余裕がある人間だ。
そう聞いたことがあるが絶対嘘だろう。
ちっとも心に余裕ができるどころか最近は余裕がなさ過ぎて、自分でもどうしたら良いかあぐねている状態なのだ。
和泉は一人澱んだ思いで、でっかい溜め息を吐いた。
そんな折、ぽこりと頭を叩かれる音。
振り向けば神経質そうな眼鏡をかけた水島がいた。
「和泉君、今は授業中だ。堂々たるさぼりであろうが見逃さないぞ」
「主席だし〜別に良いもん」
「そういう問題でもないだろう? ……まあ今回は見逃してやるが」
「結局は見逃してくれるんだね。っていうか、かいちょー眼鏡かえたの?」
急に変わった話題に水島は訝しげな表情を浮かべると、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「黒川が俺の眼鏡を割ったんだ。だから仕様がなく代替品を使っている」
「……黒川さん、か」
「……ああ、いや、……和泉君、考えすぎは身体に良くないぞ?」
気を使っているのがありありとわかる言葉に、和泉はまたしても気分が落ち込んだ。
そういう態度が嫌なのだ。
もっと普通にしてほしい。
和泉が抱えた問題は和泉だけのものなのに。
だけど優しくされると嬉しくなるのも事実で、水島は和泉のためにいろいろとしてくれていることを知っているから和泉はそれに安堵を覚えるのだ。
水島は和泉と吉原の関係を保とうとしている。
そんな馬鹿げたことで心が穏やかになる。
どの道終わった関係だから今更どうにかなることはないだろうが、それでも心に巣食った暗鬼は簡単には消えてくれないのが現実なのだ。
「……和泉君?」
「黒川さんって、……好きな人いるの?」
「ああ、そのことか、……柳星になにか聞いたか?」
「相談されてるとかなんとか言ってたから……」
「そうだな。好きな人はいる。だが変わっていないようだ。昔から、な」
「……そっか」
「そうだ」
視線を水島から外し、空を見上げた。
二月を少し過ぎた今、冬の晴れた空は少し珍しくも感じてしまう。
どこまでも続く透き通った空に雲はあまりない。
ただ無限に広がる青が和泉の目に痛く映るのだ。
「叶わない、恋らしい」
そう紡いだ水島はそれ以上なにも口にはせず、和泉の元から去っていった。
ただ呟くように言ったそれは和泉に言うつもりなどなかったのかもしれない。
だけど和泉にとっては後に残る非常に重い言葉となったのだ。
幾ばくか空を見ていたが次第にそれも飽き、和泉は教室に戻ることを決めた。
授業をさぼろうともやることなどない。
原稿もやる気が出てこないので、最近はさっぱり手付かずであった。
オンにも多忙で更新停滞中と記載してある。
趣味も恋も上手くいかない。
どこかのOLみたいな思考だな、なんて自嘲しながら歩けば嫌な光景。
どうやら和泉は相当運に見放されたらしい。
窓から見える中庭に黒川と吉原の姿を見つけてしまったのだ。
「……あ、言ってたっけ……」
吉原が今朝メールで言っていた事柄を思い出した。
今日は授業返上で準備しなくてはいけない仕事がある分帰りは早くなる、と。
今も準備の真っ只中なのだろう。
吉原と黒川は書類を見ながらあれやこれやと話し合い、なにかを見ているようだ。
粗方卒業写真の件か内装に使う花だとか、そんなとこなのだろう。
準備に携わっていない和泉には理解しかねることだが。
すらりと伸びた長い足をだるそうに動かして、中庭を探索する吉原。
それに寄り添いながら穏やかな表情を浮かべている黒川。
派手な顔立ちの吉原の側には、控えめだがパッと花が咲くような美人の黒川がお似合いである。
恋人は紛れもなく和泉自身なのに、和泉以上にお似合いの二人。
こうしてみれば恋人同士のようにも見える。
黒川があんな表情を浮かべるだなんて知らなかった。
元より吉原への想いを自覚した時点で、あまり接点を持たないよう避けていたから気付くというくらい側にはいなかったが。
それでも綺麗に笑う黒川は初めて見る表情だ。
ずきずきと痛み出した胸。
痛くて痛くて、どうしようもない。
ほろりと零れた涙が和泉の全てなのだ。
「よっし……気付いて」
窓に手をかけて下を覗く。
だけど吉原は気付かない。
黒川を隣に置いて、笑っている。
その場所は和泉の場所だったのに、今は違う人がいる。
こんなことになるならもっと素直になれば良かった。
我儘を言えば良かった。
愛は和泉に向いているというのに、今はそれすら感じることができない。
だってこんなにも離れている。
ほろほろと零れた涙が床に雫を落として、小さな小さな染みをたくさん作った。
痛みも苦しみも、黒の感情も嫉妬も、全部涙となって出て行けば良いのに。
だけど出て行くのは涙だけ。
綺麗な感情を吐き出し、汚い感情を露にさせるのだ。
馬鹿みたいに泣いた和泉に気付いてくれたのは、吉原ではなくて。
「蓮!? ど、どうしたんだよ!」
幾ら経っても授業に戻らない和泉を心配して探してきてくれた望月であった。
和泉の視線の先を辿った望月は何故和泉が泣いているのかを瞬時に察した。
ここまで追い詰められていたなどとは望月でさえ気付けなかったのだ。
慌てて和泉の目元を己の手で塞ぎ、小さくなった身体を抱き締める。
そうすれば縋るように抱きついてきた身体。
最初は小さな綻びだった。
時期も運もきっかけも接点も、全てが悪く重なってしまったのだろう。
次第に大きくなっていく綻びを戻すことができなくなっていた。
どこからこんな風になってしまったのだろうか。
ほんの些細なことだったのだ。
お互いがお互いにまだまだ子供である。
大人のような体躯をしていようとも十数年生きただけの子供だ。
そう望月も子供なのだ。
だからこそ言葉にしないとわからない。
言葉にしてもわからないこともある。
割り切れないことだって、理解したくないことも、認めたくないことも、たくさんある。
大人たちから見ればたったそれだけ? そう思うかもしれないことも、自分たちにとってはこんなにも、なのだ。
望月は和泉を強く抱き締めると、慰めるように背中をゆるりと撫ぜる。
「また悩みごと増えたのか?」
このまま和泉が傷付いていくばかりになるのだったら、吉原に言おうと思った。
これ以上黙っておくのも限界がある。
第一何故今になるまで吉原に言うという選択肢が思いつかなかったのだろうか。
今ではそれが悔やまれる。
望月がそう思っていることなど知らない和泉は、小さく声を出すと言った。
「黒川さんは、よっしーが好きなのかもしれない……」
「……は?」
「好きな人が、いるって。ずっと片思いだったって。昔から変わらないって」
「吉原先輩がそう言ったのか?」
「よっしーと、かいちょーが、言ってた」
その言葉にふむ、と思考を巡らせた望月に和泉は畳み掛けるように信じられない言葉を吐いた。
「俺が、邪魔なんだ……。俺がいるから、叶わないんだ……」
「ちょっと、待てって、まだ吉原先輩に片思いしてるって決まった訳じゃないだろ? それにしていない方の確立の方が大きい」
「叶わない恋だって!」
「もっと違う人もいるだろ? あんま突っ走んな。それにな、もしそうだったとしても蓮が邪魔だなんて馬鹿なこと言うな。黒川先輩がどうであれ吉原先輩は蓮が好きなんだろ? 蓮と付き合ってんだろ?」
「……そ、うだけど」
「少しは吉原先輩のことも考えてやれよ。その言葉、吉原先輩に聞かせたらきっと泣くぜ」
だけどだけど、続く言葉はいっぱいある。
だけど望月があまりにも真剣な顔をしてそう言うものだから和泉の言葉は引っ込んでしまった。
そうして黒い雨はザァザァと降り始めたのだ。
白の世界から黒の世界へ。
わかってくれない。
吉原も望月も和泉のことをわかってくれない。
冷静に考えれば和泉が可笑しなことを言っているのだと判断できたものの、今の和泉には気付く余裕もなかった。
ただ疲れた。
全てに疲れたのだ。
嫉妬することも泣くことも不安定になることも全てが嫌になった。
こんなのは自分ではない。
好きという感情はこんな汚いものではない。
もう信じられなかった。
吉原も黒川も和泉自身でさえも信じられない。
好きだからこそ辛い。
好き過ぎて辛い。
いつかこの感情が自分を殺すのをひたひたと待っていることなどできそうにもない。
最後の白が黒に変わった瞬間、和泉はどこか遠くで限界を感じていたのであった。