どうでも良くなっていた。
自暴自棄といえばそうなのだろう。
ぼんやりと時間を過ごしていたのに気付いたのはいつ頃だったのか、なにも見ないように考えないようにして過ごしていた。
望月にも心配をかけているとはわかっている。
だけど今はなにも言いたくない。
あの日を境に心の内を誰にも言えなくなっていたのだ。
可笑しいのは和泉だけだ。
きっとそうなのだ。
和泉さえ我慢すればなにもかもが変わらない。
無理に押さえつけた思いが痛いと訴える。
それを無視して過ごす毎日がただ無感動に過ぎていく。
水島の世話焼きも望月の心配もいらない。
吉原もいらない。
全部いらない。
昔に戻りたいと願うようになったのは、辛いからなのだろうか。
純粋にBLが好きで毎日描いていたあの頃。
好きという感情も知らず、どこか関係のなかった世界。
望月が笑っていた。
俺を題材にするな、って笑っていた。
楽しかった日々。
「……、なんて」
ペラペラと昔描いた原稿を捲る。
あれほどまでに夢中になって描いていたものが今は描けなくなっていた。
趣味ですら和泉を上昇させてはくれなくなって、頼るべき恋人は恋敵の側に寄り添うように立っている。
理由がある。
仕事だから。
しかし和泉には関係ない。
なにがあろうとも和泉が間違っていようとも、ただの我儘であろうとも、それを認められるほど大人ではない。
全て終わりにしようか、ふとよぎった結末。
ひたりひたりと侵食するように広がった思考が正しいことのように思えてくる。
一言で終わらせられる関係。
それほど曖昧なものなのだ。
思わず携帯を手に取った和泉はぼんやりとその画面を見ながら、ボタンを押そうと親指を動かした。
そんな折、運が良いのか悪いのか和泉を落とした本人である吉原から連絡が入った。
ハッと意識を取り戻し、中を覗いてみれば“仕事が入ったから帰るのが遅くなる”とだけ記載されたメールだった。
「……嘘だ」
気付いたのはそのメールに隠れた真実。
いつしか吉原ですら、和泉に気を遣うようになっていた。
粗方水島か望月が和泉の様子を伝えたのだろう。
ある日を境にして急に優しくなった吉原。
和泉を気遣って側にいてくれたり、甘い言葉を投げ掛けたり、心配しないように連絡をこまめに送ってくるようになっていた。
だがその中に隠れたものを見つけられないほど、馬鹿ではない。
事情があるのだとはわかっている。
人と人の繋がりは簡単に切れるものでもないのだと。
それでも切ってほしいと願うからこそ上手くいかないのだろう。
吉原がどんなことをしようとも、もう駄目なのかもしれない。
和泉が駄目なのかもしれない。
携帯を握り締めて部屋を出る。
後ろには寂しそうに一鳴きしたルルの姿。
篭っていた部屋から外に出れば、冬の洗練された空気が和泉を取り巻いた。
「あ、蓮……」
吉原の部屋を出て直ぐに望月の姿があった。
部屋の前で待っていたのだろうか、不安そうな表情でこちらを窺っている。
「どうしたの?」
「いや、……今日テニスの練習休みだし、蓮暇してんならって思って」
「ごめん、今からちょっと用事あるんだ。今日は部屋に帰るから、そのときでも良い?」
「ああ、良いけど。じゃあ今日なに食べたい?」
「え〜カレー!」
「お前ほんとカレーばっかだな……」
呆れもしつつ笑った望月の清々しい笑顔。
久しぶりに見たような気がして、和泉はどこかで落ち着く心に気が付いた。
やっぱりなんだかんだいって望月の側は心穏やかになる。
過ごした時間がそうさせるのか、いやきっと相性も良いのだろう。
手持無沙汰であった望月の手を握って引き寄せる。
ごつごつとして、男らしい指先は和泉の目には格好良く映った。
「蓮? どうした?」
「ううん。なんでもない。……用事終わったら直ぐ部屋に戻るし、部屋で待っててくれる?」
「おう、良いけど」
「ありがと。じゃあ直ぐ戻ってくるね」
ぱっと手を離して望月がきた方向に駆ける。
疑惑の念を色に移していた望月は戸惑いながらも手を振ると、和泉を見送ってくれた。
吉原と話そうと思った。
どの道に転んでも、話そうと思った。
このままでは自分が駄目になる。
だからそう思った。
急いで走って体育館に向かう。
あのメールが本当ならばそこにいるはずだ。
薄々嘘だとは気付いているものの、そこにいてほしい思いが強いからこそ体育館に向かったのかもしれない。
つんと冷える空気の中、目指した体育館は人がちらほらいて卒業式の準備に追われていた。
床一面に敷かれるであろうシートがあちらこちらに点在していて、それを確認しながら作業を進める生徒。
指揮役であるはずの吉原の姿はやはりというべきかいなくて和泉は気落ちした。
めげずに近くにいた生徒に所在を尋ねてみれば、黒川と一緒に書類を取りに行ったというではないか。
側にいる人は気に食わないが本当に仕事だったのか。
ほっとする自分もいたが、完全には信用していない自分もいる。
言葉ではいくらでも偽りを重ねられる。
和泉は体育館から出ると、これからどうしようかとあぐねてしまった。
意気込んできたのは良いものの、肝心の吉原がいない。
いないとなれば意気消沈してしまうのも事実。
先程まで滾っていた勇気もしなしなと枯れてしまい、今ではやはりやめておこうかと思うばかりだ。
ポケットの中で存在を主張している携帯。
電波で繋ぐ便利なもの。
和泉はそれを手に取ると、メール画面を開いた。
自分からメールを送るなどどれくらいぶりだろうか。
初めてなのではないか。
初めてがこんなメールなのは嫌だったが、それでも今はいち早く会いたいのである。
「どこにいるの、っと……」
画面に文字を手打ちして刻まれた文面を見る。
短く簡潔にまとめられた疑問は和泉が一番知りたいこと。
ふらふらと宛てもなく歩き出しながらメールの画面をじいと見つめる。
このボタンを押せば吉原に届くであろう文字。
だけどその一歩が進まない。
こんなことですら尋ねることができないのか。
ただ一回押せば良いのだ。
文字はもう書いたのだから。
ぼんやりと佇む和泉。
廊下の真ん中で携帯と睨めっこしながらただ佇んだ。
「……やっぱ、やめよう、かな」
こんなことをして一体なんになるのだろうか。
そう思い止まった和泉がふとあげた視線の端で見慣れた姿が横切った。
廊下の奥に消えてしまった姿は和泉が探していた人物でもある吉原。
しかしあの廊下の先にはなにもない。
滅多に使われることがない教室が一つ、あるだけなのだ。
「……え」
まさか、と思った。
だってそれ以外ありえないと。
黒川と一緒に消えたはずの吉原。
見えた影は一つだったけれど、和泉が見なかった先にその姿もあるのかもしれない。
メール画面をそのままにしてポケットに入れた。
一歩踏み出す勇気があれば、後は面白いように足が進んだ。
ゆっくりと近付いて、吉原が消えた廊下の先を曲がる。
そこに吉原の姿はなく、あるのは少し扉の開いた教室だけであった。
ばくばくと煩い心臓。
このまま引き返せと頭の中で警報が鳴る。
だけど和泉は前に進んだ。
なにかに引き寄せられるように扉の前まで行った。
そろり、と中を覗き込めばやはりというべきか吉原と黒川の姿がそこにはあったのである。
足が張り付いたかのように動かない。
ここから逃げろと誰かが言う。
だけど和泉は一歩も動けなくて、まるで映画を見ているかのように中での光景に目を奪われてしまったのであった。
「ごめんね、こんなとこに呼び出しちゃって」
「いや、良いけど……なんかあったのか?」
「ううん……僕、もう駄目かもしれない」
俯いて吉原の側に寄った黒川。
ふるふると小刻みに震えだした身体は儚げで庇護欲をそそる雰囲気を醸し出していた。
「……なんか、あったのか?」
「柳星、僕どうしたら良いかな……? このままじゃ、苦しい……」
いつも敬語を使っているはずの黒川が吉原の前ではあんなに親しげに喋るのだと初めて知った。
知らずの内に握り締めた掌。
爪が食い込んで、じんわり広がる鈍い痛み。
このまま盗み聞きするのはいけないことだとわかっている。
だけどどうしても離れられなかった。
「柳星、助けて……?」
背を向けている吉原。
一体どんな表情をしているのだろうか?
ちらりと顔を上げた黒川が一瞬こちらを見て驚いた表情を浮かべた。
だがそれも一瞬だけで、次の瞬間には軽薄そうに口端を歪めその細い腕を大きく広げた。
細長い手が吉原の身体を包んだ。
縋りつくように抱きついた黒川は悲しいのだと、そう言いたげに吉原を奪ったのだ。
「あ、……」
嫌だ、触らないで。
伸ばした手が音を立てる前に吉原が慰めるように黒川の身体を抱いた。
あやすように優しく伸ばされた腕が黒川の後頭部を撫ぜ、その腕の中に黒川を入れた瞬間でもあった。
目の前で起こったことが信じられなくて、ただ信じたくなくて、目をきつく瞑った。
じわりじわりと湧き上がる雫を堪えて後退ればかたりという音が鳴る。
はっと息を飲む音が聞こえた。
目を開けば驚いた表情をしている吉原。
長いようで短い一瞬の間。
「蓮……?」
目が合って世界が二人になって、黒川が嗤って和泉を見つめた。
ほろりと零れた涙を掬ってくれる人は違う誰かを抱いていて、和泉の涙は掬われずに頬に伝って落ちていった。
「っ、……」
思わず駆けた足が止まらなくなってその場から逃げ出した。
逃げれば追ってくるとわかってはいるものの、逃げられずにはいられなかったのだ。
後ろから声がする。
黒川を置いて和泉を追ってきてくれたのだろうか。
些細なことに喜びを感じていたはずだったのに、今の和泉にはそれが辛いことのように感じた。
行く先も決めずに我武者羅に走った。
複雑に絡み合った校舎を駆け巡り、ついてこられないよう逃げ回る。
体力では負けを見せる和泉であるが素早さだけには自信があった。
いつしか遠ざかった足音に、吉原を撒けたのだと知ったがそれでも足を止めなかった。
ずっと走っていればいつか追いついてくれるような気がして。
自分から逃げた癖に追いかけてこないことが、苦しい。
いつしか止めた足、はあはあと零れた息が胸をぎゅっと締め付けて、その場に崩れ落ちそうになった。
きょろりと見回してみればいつの間にか戻ったのか、先ほどと同じ場所にいた。
和泉は逸る胸を押さえて一歩踏み出し教室を覗いてみる。
黒川がまだ残っているとは思わなかったが、確認したかっただけなのかもしれない。
あの軽薄そうな表情が頭の中から離れない。
まさか意図をもって吉原に近付いていたのだろうか? 和泉の見間違いかもしれない。
がらっと音を立てて開いた扉。
中は真っ暗で、誰もいなかった。
「……いない、か……」
「誰を探しているの?」
ばっと振り向いた。
聞こえた声は和泉が嫌っていたその声音とそっくりだったのだ。
歪められた口端が面白そうに角度を曲げた。
そこに立っていた黒川は和泉の毛先を指先で弄ると作り物の笑顔を浮かべたのだった。
「柳星と会わなくて、良いの?」
「……あ」
「大切にしなきゃ、いなくなっちゃうよ?」
頬をゆるりと撫ぜる綺麗な指先。
問い掛けられた言葉に心が伴っていなくて、足元が浮くような恐怖を覚えた。
「柳星、もらっても良い? だって、元は僕のものだったんだもの」
「そ、んな……すき、なの?」
「好き、か……どうだろうね? 愛してはいないよ」
「……なら、どうして」
「気に食わないんだ。柳星だけが幸せになるなんて、僕は絶対に許さない」
擽られるように顎に移った指先が離れた。
見上げた黒川の瞳にはぎらぎらと固い意思のようなものが見え隠れして、和泉は一歩後ろに下がると逃げるようにその場を去った。
今しがた起きたことが嘘のように思えて、黒川があんな表情をして紡いだ言葉を信じたくなかったのかもしれない。
最初からその目的で吉原を縛っていたのだろうか。
黒川があんな思いを抱いているなどと、誰も知らないのではないのだろうか。
ぐるぐる回ってぞわりぞわりと侵食する恐怖。
和泉は振り向いて、また足を走らせた。
怖い。
逃げたい。
やめたい。
初めてリアルになった感情に途方に暮れた。
あんなに綺麗な人が本気を出したら吉原を奪うことなど造作ないのだろう。
曲がりなりにも吉原のタイプなのだ。
どんな意思を持って接しようともそれを知らなければわからないのだから。
昔そういう関係だったという事実が和泉の自信を崩した。
今が愛されているからといえど、それが続くなんて誰にもわからない。
部屋へ戻ろうと思った。
震える手でカードキーを手にした。
この扉の向こうには望月がいる。
助かった、そう思った。
だけどはぐれてしまった吉原がそこにいるなんて、考えもしなかったのだ。
ゆらりと動いた影が和泉を捕らえた。
後ろからふわりと抱き寄せられ、漂ってきた愛おしい香りにつんと緩くなる涙腺。
だけど微かに香る黒川の移り香にぎゅうっと胸が締まった。
「蓮、探したぞ」
そんなに優しく名前を呼ばないでほしい。
決心が鈍ってしまいそうだ。
言葉を紡げずに泣き出した和泉の身体を引くと、吉原は引っ張るようにして自室へと連れて帰った。
抵抗することも縋りつくこともできなくて、ただ動きに流されるようにして歩いた和泉。
気付けば吉原の自室に入っていて、玄関先で強く抱かれる腕におさまった。
「ごめん、そんなつもりなかった」
それを差す光景が頭の中で浮かんだ。
伸ばした手を受け入れた吉原。
純粋に心配して、ああいう行動に出たのだろう。
だけどもう駄目だった。
今まで蓄積されていたものや、溜まっていたものが溢れ出していたのだ。
ゆらりと揺れていた決心が定まったきっかけに過ぎないのだろう。
あの光景も、黒川に言われた言葉も、全部全部いらない。
抱き締められれば嬉しい。
愛してもらえれば胸が淡く色付く。
苦しいほどに訴える心が恋をしているのだと、教えてくれる。
だけど、それ以上に辛いのだ。
「ごめんな、……泣かないでくれ。蓮に泣かれると、どうして良いのかわかんねえよ」
誰よりも優しい指先が和泉の涙袋をなぞる。
指先に乗った涙が一粒になって、それでも止め処なく流れ出す雫がほたほたと落ちる。
はふりと息だけ出た言葉に、吉原が首を傾げた。
掠れた声が音になって意味を持つ。
そうして言葉になれば、瞠目した吉原の表情が和泉の瞳に映った。
「わか、れたい」
「……蓮?」
「もう、別れたい……よっし、と、別れたい……」
言ってしまえば、もう終わりだった。
自分で言った癖にそうなるんだと思ったら、悲しくなってまた泣いた。
だけど吉原がそれを許す訳がなくて、ぎゅっと強く肩を掴むと大きく声を出し否定をしたのだ。
「嫌だ。絶対別れねえ」
「いや、嫌だ、別れる……っ!」
「ぜってー別れねえ!」
突っぱねた腕が吉原との距離を作って和泉は逃げ出そうと試みたものの、至近距離では上手く逃げることもできない。
無理に引き止められた腕、強く抱かれたその中、未練ばかり溢れ返る。
このままでは駄目なんだ。
可笑しくなるんだ。
きっと壊れてしまうんだ。
和泉は底なしの沼に陥って、壊れた人形のようにただただ別れたいと口にした。
暴れた腕が吉原を離そうとしてもそれ以上の力で抑え込まれてしまう。
吉原は離さないとばかりに拘束する力を強めて、和泉を落ち着かせようと必死だった。
「蓮が好きだ。大好きだ。お前以上の人なんていねえよ! だから、別れるとか、言うなっ!」
吉原の本音も和泉には届かない。
どんな言葉を紡いでも、和泉は別れたい。
それ以外なにも口にはしなかった。