どうやって部屋に帰ってきたのか、それさえわからなかった。
和泉がはっと周りを見回したとき、自室前に立っていたのである。
気が付けばカードキーを取り出していて部屋の鍵を開けていた。
だがそこでぴたりと止まってしまう。
望月のことを考えると、中に入るのを躊躇ってしまうのだ。
望月に合わせる顔がない。
どんな表情をしたら良いのかわからない。
なにも言いたくないし聞かれたくないのだ。
今は吉原のことすら考えたくないのに、悲しい顔をしている吉原が頭から消えてくれない。
捨てるのか、そう言った吉原が和泉を責めるように脳内で何度も言うのだ。
「……よ、っし」
ぎゅっと握ったネックレス。
クリスマスの日に吉原からもらったものだ。
未練がましいと言われようがこれだけは捨てられなかった。
捨てようとも思わない。
これだけが和泉の宝物なのだ。
泣きそうになってしまった和泉を迎えるように、眩い光が差し込んだ。
温かい空気が部屋から溢れ、和泉を待っていたかのよう。
どこか実感のない世界。
和泉の場所だとは思えずに一歩踏み出せば、音で気付いた望月が顔を覗かせた。
「おかえ、り……って蓮!?」
望月が言うやいなや優しげだった表情が固まってしまった。
それを見たくないのに目が離せない。
和泉はどこか遠くに立っているような気がして、ただ望月を見たまま立ち尽くしてしまった。
そんな和泉の変わり果てた様子に戸惑ったのは望月だ。
濡れそぼった瞳で望月を見つめる和泉の中に覇気というものがない。
それだけでなく色をなくしたかのような瞳である。
思わず足踏みをしてしまった望月だったが、ハッと気を取り戻すと急いで和泉へと駆け寄った。
明らかに泣いたであろう目は赤く充血している。
ついさっきまで泣いていたのだろう。
もしくは泣きそうだった、のだろう。
今はどうやら泣いてはいないようだったが、望月の問いかけにもなんの返事もしない様子の和泉に焦りを感じた。
「どうしたんだよ、蓮?」
がくがく揺さぶってみるも和泉は無反応だった。
望月と顔を見合わせたときにあった反応も、時間が経つにつれ薄くなっていく。
まるで殻に閉じこもろうとしているようである。
それから予想できたのは、和泉になにかしらあったのだということ。
だがそれをわかっても、それがなにかまではわからない。
ある程度の予想はついてもそれ以上はわからないのだ。
取り敢えず落ち着かせようと、立ったままの和泉の手を引きリビングへと連れて行った。
立ち尽くしたままでは話もし辛いと思ったからである。
「座ってろ。今直ぐ飲み物もってきてやるから」
ぼんやりとした様子で遠くを見る和泉をソファに座らせてやってから、ホットミルクを作りにかかった。
甘いものを好んで食べない和泉であるが心を落ち着かせるのにはホットミルクが良いと聞く。
コップを掴む手が震える。
落ち着きがなく手をぶらぶらとさせてしまうのは焦っている証拠でもあった。
望月自身がパニック状態に陥っていると気付いていながらも、なにを優先してするべきなのか考えることもできないのだ。
あんな状態の和泉は初めてで、どうして良いのかわからない。
問い掛けさえ聞こえているのか判断し辛いほど、和泉は無反応なのだ。
チン、と電子レンジの音が鳴る。
温まったホットミルクと取り出し、リビングの方を向くと決心を固めて和泉の側へと戻ったのであった。
「蓮? ほら、これ飲んで落ち着け」
落ち着くのは自分の方だ。
望月は無駄に手を握ったりしてそわそわと視線を彷徨わせた。
望月の言葉は聞こえてはいるようだ。
大人しくホットミルクと受け取った和泉はそれを一口だけ飲んだ。
だが、それだけだ。
一口だけ飲んだ後はまた糸が切れたかのようにぼんやりと虚ろになってしまった。
きっと吉原が関係しているのだろう。
それは望月にもわかっていた。
和泉が誰かに恋を覚えたのも、一緒にいるだけで幸せだと思う気持ちも、綺麗ではない醜い感情も、全部吉原が引き出したのだ。
和泉を変えたといっても過言ではない。
それぐらい和泉の中では大きな存在。
だからこそこんな風になってしまう原因は吉原以外にほかならないと踏んでいた。
ここ最近不安定だったしまたなにかあったのだろうか。
しかしそれだけだったらいつもと同じはずである。
ここまで虚ろになってしまうほどのなにかが、あった。
そうしか考えられなかった。
まさか、と思った。
その選択肢は絶対ないと思っていたのだ。
だがそれを和泉が選んだとすれば、こうなってしまったのも頷ける話。
望月はぐるりといろいろな思考を頭の中で巡らせると、なるべく刺激のない言葉を選んだ。
「疲れたんだよ、な? 蓮、最近頑張ってたみたいだし……ちょっと休もう?」
「……違う」
「蓮、大丈夫。俺はちゃんとここにいるから。一緒に寝てやるし、な?」
「……やだ、……嫌だ」
緩く頭を振った和泉の手を優しく握りホットミルクを引き寄せる。
そのまま机に置いて和泉の手を引けば抵抗が激しくなった。
いやいやと反抗しながら激情を露にする和泉。
望月は半分押さえ込むようにして抱き込むと、無理に寝室へと引っ張っていった。
今はゆっくり考えさせるよりはなにも考えさせない方が良い。
和泉の脳内は既にいっぱいいっぱいのはずだ。
これ以上なにかを詰め込めば今以上に壊れてしまうだろう。
「蓮! 大丈夫だから、寝るだけ、な?」
手負いの猫のように暴れる和泉を押さえ付けながら引き摺り、和泉の部屋に入る。
興奮が増してきた和泉の力は思いの外強く簡単には動いてくれない。
小柄であろうとも立派な男だ。
ベッドに押さえ込むのだけで一苦労だった望月はそのまま覆い被さるように和泉を抱き止めると、フーフーと逆立つ和泉の頭を優しく撫ぜた。
一向に治まらない興奮。
望月がなにを言っても聞きやしない和泉はなにかから怯えているようにも見えた。
「落ち着け、な? 蓮、今はなにも考えるな」
「やッ! やだ! やだっ、やだやだ!」
「……蓮、大人しくしろ。大丈夫だから」
何度も何度も名前を呼んでやり優しくあやす。
たったそれだけの行為をずっと繰り返す望月に、絆されたのか疲れただけなのか和泉は大人しくなっていくと荒かった息も正常のものとなっていった。
投げ出されていた和泉の手が伸びて、望月の背中へと回った。
ぎゅっと抱き締めるような仕草に安堵した望月は緩く笑みを見せると髪の流れに逆らうように手ぐしを入れた。
ぎゅうぎゅうと締め付ける腕の強さが言っている。
言葉を発するな、と。
きっとなにかを聞かれることに怯えてしまったのだろう。
そして望月の優しさに触れて言ってしまいそうになる自分に怯えている。
「なにも言わなくても、大丈夫だから……」
安心させるために望月はそう言った。
聞いてしまいたいという思いはあったが、今は和泉が優先なのである。
その言葉は当たりだったのだろう。
和泉は目で見てわかるほどに安堵の表情を浮かべると、顔を背けるように望月の視線から避けた。
余程なにも言いたくないようだ。
それからは望月も言葉にすることをやめた。
優しい雰囲気を作ってやり、和泉の頭を何度も撫ぜる。
眠ってしまうようにと。
それが実を結ぶ頃には和泉はとろんとした瞳で望月を見上げた。
そして小さく小さく頷くと、事切れるようにすうっと瞳を閉じたのである。
「……寝た? かな……」
直ぐに聞こえてくる寝息にほっとした望月は抱き締められていた腕を優しく外すと、ベッドの端に腰掛けた。
なんだかどっと疲れた気分である。
和泉がなにも言わなくてもなにがあったのか、わかってしまった。
勘というものなのだろうか、和泉がわかりやすいだけなのだろうか。
いやきっとどちらでもない。
望月だからこそわかることなのだ。
だが、もしそれが当たっているとすればこの部屋に訪問者がくるはずだ。
生憎外れている可能性は低そうなため、確実に訪れるであろう訪問者。
望月はきたるべき時を思って深い溜め息を吐くと、穏やかな寝顔を晒している和泉を見てどうしようかと頭を悩ませたのであった。
それから一時間ばかし経っただろうか、望月の予想通り部屋のチャイムが鳴った。
ピンポーンと大きな音で響いたので和泉が起きるかも、という心配もあったが熟睡している和泉が起きる気配はない。
それにほっとしながら静かに部屋を出ると玄関へと向かったのである。
この部屋に訪れてくるであろう人物は二人、望月の頭の中にいた。
そうつまりはニパターンあるということだ。
片方は和泉の悩みの種でもあった吉原。
だが望月の予想した事態が起こっているとするならばこの部屋には訪れないであろう。
そうしてもう片方の人物は、随分とお節介をしてきたであろう水島。
どちらかといえばこちらの方が確立は高い。
というよりはほぼ水島と考えて間違いないだろう。
案の定扉を開いてみれば少々落ち着きをなくしている水島が立っていた。
そして水島が立っているということは、望月の勘が当たっていたということでもあった。
どこかでわかっていたものの、いざ現実を突きつけられると遣る瀬無い思いがある。
望月はどうしようもない虚無感に胸を掴むと、肩を落とした。
「あ、やっぱり会長なんすね……」
「やっぱり?」
「吉原先輩と蓮が別れたんなら、会長が尋ねてくるだろうって思ってたんすよ」
「……知っていたのか?」
「想像ですけどね。やっぱ、別れたんすか……」
「ああ、詳しくは聞いていないが……和泉君から言ったようだな」
しんとした空気になる。
当事者でもない二人がこうやって関わっているなど二人は思いもしないだろう。
それほど和泉と吉原の関係は大事に見守られてきたのだ。
玄関で立ち尽くしたままの二人はお互いに視線を彷徨わせると、次の言葉で悩んだ。
なにを言うべきなのか、迷っているのだ。
そのきっかけを掴んだのは望月。
自分の足元を見つめながら、ぽつりと言葉を零した。
「……原因知ってます?」
「知ってたら柳星に言っている」
「吉原先輩、今どうしてんすか?」
「……想像がつくだろう」
「じゃあ風紀委員の人たちが宥めてる、って感じっすか」
「そういうことになるな」
当たり障りのない会話。
だが望月が知りたいのはこんなことではない。
別れることになったきっかけだ。
和泉の中でいつだってあった選択肢。
それを選んだきっかけが知りたかった。
「なんで、別れたんすか?」
「望月君が知らないのなら俺も知らない。柳星ですら、知らないようだからな」
「……少しお尋ねしたいんすけど、黒川先輩って、……どうなんすか? 蓮、悩んでたっしょ。関係、あったり……」
「黒川か? いや、あいつは白だな。それこそただのきっかけに過ぎない。そういう一因があったのにも関わらず対処をしなかった俺にも責任がある、な」
「積み重ね、ってことなんすかね……」
なんだか釈然としないが水島がそう言うのならそうなのだろう。
だがなんとなく、望月は黒川がなんらかしら関わっているような気がしたのだ。
飽く迄も勘な上、証拠もないので断言はできないが。
望月は小さく息を吐くと顔をあげた。
きっと全てを知ることなど、当事者ではない限り知りようがない。
「水島先輩、今回のことで手を出すのはやめておきませんか?」
「……どういうことだ?」
「このままどうなっていこうが、二人が選ぶことだと俺は思うんです。別れるにしろ、復縁するにしろ、本人たちが行動しないと意味がない」
「そう、だが」
「蓮も、いつまでもうじうじしてるだけじゃ駄目なんです。あいつも、成長しなきゃ駄目なんですよ」
「……そうなんだろうな。ああ、わかってはいるんだが……」
「暫く様子見ってことはどうっすか? どんな結果になっても、俺は蓮が選ぶ道を応援してやりたい」
言い切った望月の表情を見て、水島はこれ以上なにも言うべきことが浮かばなかった。
ここにきたのは二人がどうすれば復縁できるか、ということだったのだ。
水島に連絡をしてきたときの吉原の様子があまりに酷かったためになんとかしてやりたかったのである。
水島も望月と同様、吉原の側にずっといたのだ。
望月みたいにべったりすることも甘やかすこともない、ドライな関係であったが、それでもお互いがお互いを信頼していたし、それ以上の絆で結ばれていた。
だからこそ吉原のことを助けたかった。
好きなのに、とそう泣いた吉原のためになりたかったのだ。
あの様子では一方的な別れだったのだろう。
吉原の様子を見ていたら簡単に想像がつく。
だがそれは飽く迄吉原視点で見れば、の話なのだ。
きっと知らないだけで和泉の中での葛藤もたくさんあった、そのはずだ。
望月が言うように部外者がどうのこうのする問題ではないのだろう。
あの二人が決めたのなら、なにも言えない立場なのはわかっていたつもりだった。
水島は仕様がなく二人の関係に手を出すことを諦めると、大人しく見守ることにした。
あんなことを言ったが望月だって歯痒いはずなのだ。
それを抑えてまで言ったことはきっと正しいのだろうから。
踵を返して部屋に戻ろうとした水島。
話すこともなくなった今、ここにいても仕様がない。
吉原を少しでも落ち着かせることが水島にできる唯一のことなのだ。
そう思ったものの、望月に引き止められてしまった。
「水島先輩、お願いがあるんすけど」
「……なんだ?」
「吉原先輩がこの部屋にこないよう見張っててもらえます? 吉原先輩が荒れているのと同じで蓮も荒れてるんで」
「ああ、わかった」
「それと、……いや、良いっす」
「ん? わかった。良くわからないが、柳星を近付けないよう心がければ良いんだな」
そう言ったことに安堵した望月が頷くのを見ると、今度こそ戻るべく足を進めた水島。
引き止められることもなく望月と和泉の部屋を離れると吉原に会うために急いだのである。
望月はそんな水島を見送りながら釈然としないなにかを抱えていた。
関わらないと自分で決めたはずなのに、一つだけはっきりとしていないことがあった。
水島に頼もうかと思ったが水島では宛てにならない。
もしそれが当たっているとすれば水島では頼りにならないのだ。
望月が怪しんでいる人物、黒川。
和泉がしきりに気にしていた人物でもある。
和解するまであんなにも離れた距離にいた黒川。
和解してからもそうそう吉原と接点などなかったはずだ。
付かず離れず、会えば会話を交わす程度の二人が、何故ここ最近になって距離を縮めたのか。
実行委員での担当区域が一緒だから、ということを言われてしまえばそれまでなのだろうが、なにか釈然としない。
「……いや、考えすぎか。俺も大概甘い、のかな……」
そこまで考えて望月は頭を振った。
和泉にばかり視点が偏るあまり変なことを考えてしまったようだ。
水島の言うように黒川は白なのだろう。
単に係りが一緒になったため距離が近くなっただけだ。
そうタイミングが悪かっただけなのだ。
扉を閉めると再び寝室に戻った。
目が覚めたとき一人だったら和泉がまた不安になってしまうだろう。
今は和泉を落ち着かせることだけを考えなければいけない。
望月はすやすやと気持ち良さそうな寝顔を晒している和泉を見て、ほうと息を吐くのだった。