乙男ロード♡俺は腐男子 56
 和泉と吉原が別れてから幾分も経っていないのにある噂が実しやかにされるようになっていた。
 元々閉鎖的で娯楽がない山奥である。 そういったゴシップネタを好む生徒が多いのだろう。 興味なくとも興味ある素振りをして聞きまわっていたりする。
 和泉に直接聞いたりする無神経な生徒はまだ現れていないが、好奇な目で見られていることは確かだった。
 あの、二人が別れた。 それほどまで人目を憚らず接した覚えはないのだが、周りの生徒からみればそうだったのだろう。 視線さえ合わさず荒れてしまった吉原を見て一気にその噂が広まった。
 そしてそれに付属するようについてきたのが、和泉を困らせる噂であった。
「蓮、気にすんなって……な?」
「別に、気にしてない」
「……そ? なら良いけどさ」
 廊下をずんずんと進む和泉の一歩後、望月はついてきていた。
 別れた直後は暫く授業を休むのでは、という周囲の心配を他所に和泉はなにごともなかったかのような態度で授業に出席した。 代わりといってはなんだが、吉原が休んでしまった。
 数日振りに水島デルモンテ学園に登校した吉原の憔悴しきった顔を見て、なにか感じるものでもあったのだろうか、それから二人が別れたのだろうという噂が流れた。
 いつも通りの和泉の様子に、不機嫌ながらなにも喋ろうとしない吉原。 どちらが振ったかなど明白である。
 中には和泉に手厳しい感情を抱くものもいたが、望月だけは知っているのだ。 自室に帰り部屋に篭る和泉がめそめそと泣いていることを。
 未だ二人が別れた理由を教えてもらっていない望月であったが、和泉自身まだ整理がついていない。 いつか話してくれることを待ちながら、ずっと側についていたのである。
「つーかどこ行くの?」
「屋上!」
「こんな寒いのに? 室内にしよーぜ」
「……良いよ、別に一人で行くし。お弁当ぐらい一人で食べれる」
「……そうなんだけど、まあ、良いじゃん。側にいても良いんだろ?」
「……良い、けど」
 どこか苛々した様子の和泉は俯くと小さく溜め息を吐いた。 どうしようもない状況を望んだのは自分のはずなのにどこかもやもやとしたものに苛まれている日々。
 吉原と別れればこうなることはわかっていた。 一人になること、吉原と一緒にいれないこと。
 生徒会や風紀委員の人たちが気を使っているのが辛い。 腫れ物に触れるかのような態度が気に食わないのだ。 望月とて和泉のことを考えてくれているのはわかっていたつもりなのに、どうしようもない感情が渦巻く。
 全部自分が悪いのに、他人の所為にしてしまう。
 お弁当の端をぎゅっと握って和泉は振り向いた。 目前にはびっくりしたような、でもどこか優しげな表情を浮かべている望月の姿。
 一瞬止まった唇だったが動きを見せると言葉を紡いだ。
「あ、の、やっぱ一人で食べる……」
「……え?」
「ごめん、ちょっと……考えごと」
 くるりと身体を反転させると望月の静止の言葉を無視して屋上へと走った。
 なんでも話せるほど信頼していた望月であったが、どうしてか今は一人になりたかったのである。 和泉は初めて望月と一緒にいたくないと思った。
 決して望月が嫌いになったとか、煩わしいからとかではない。 ただ当たってしまいそうだったから、逃げたのだ。
 望月は全部受け止めてくれる。 和泉がどれだけ口汚く罵ろうが受け止めてくれる、そんな気がしていた。 だから嫌だったのだ。
 使用できる場所ではあるが遠い上に便利さもないので人気がない屋上。 真冬となれば人気などほぼ零だといっても過言ではない。
 現に階段を昇る和泉の視界には誰一人としていない。 誰かがきた形跡もあまりないようだ。
 ギギギと古い音を立てて開いた屋上。 冬の透き通る空と凍てつくような空気が出迎えてくれた。 だけど空の青に混じって映えた黒に、和泉の息は止まってしまった。
「く、くろ……」
「ああ、君か。久しぶりだね」
 そう言って爽やかに笑うのは和泉と吉原が別れたきっかけにもなった黒川。 気だるげなさまで屋上の柵にもたれかかっていた。
「ご、ごめんなさい」
 逃げよう、そう思った。 一緒にいたくない。 顔さえ見たくないのだから。
 今流れている噂は和泉と吉原が別れた、という噂だけではないのだ。 傷心中の吉原を黒川が慰めている。 そうつまりは吉原と黒川が復縁したのではないか、そういった噂が流れていたのだ。
 それを聞いて和泉が傷つかなかった訳ではない。 復縁していないとわかっていつつも、真実なのではないかと思ってしまう心もある。
 吉原が今更どうしたって、もう和泉には文句一つ言えない立場なのだ。 だからこそ辛かった。 振ったのは和泉なのに、諦めるどころか日々想いは愛しくなっていく。
 ぎゅっと唇を噛み締めて踵を返した和泉にかかる声。 黒川は楽しそうに笑みを浮かべると和泉を見た。
「別れたんだって? 聞いたよ、柳星に。どうして手を離したの? あのままだったら、ずーっと一緒にいられたのに」
「だ、だって!」
「僕の一言で壊れてしまうほど脆い関係だった、ってことかな」
「……そ、んな、こと」
「別に僕は君に興味がある訳じゃない。さして嫌いでもないし、不幸になってほしいなんて望んでもいないんだよ」
「……どう、いうこと?」
「言ったでしょう。僕は柳星を不幸にしたいだけ。柳星が苦しむのだったら、なんだって良いんだ」
 和泉同様真っ黒の髪を触った黒川。 その表情が上手く読み取れなくて、和泉の足も止まってしまう。
 黒川がなにを思い、なにを望んでいるかなど和泉にはわかるよしもない。 てっきり寄りを戻すのかと思われたが、そういった素振りも見せないのだ。
 たじろいだ和泉になおもかかる声は硬く、そして冷たかった。
「君は幸せになると良い。柳星じゃない誰かと」
「……どうして、どうしてそんなに」
「柳星を恨んでいるのかって? それを話す義理はないよ。だけど柳星と僕が付き合っていたことや、別れたことには関係ない。まして柳星になにかをされた訳でもない」
「寄りを、……戻すの? 返して、って……」
「ああ、あのときの言葉信じたの? あんなのただの嘘。言ったでしょう? 不幸を望んでる、って。慰めるつもりだってないよ。ただ僕は苦しんでいる顔を見たいだけ」
「もし……俺が、寄りを……戻したら?」
 言ってしまった言葉にはっとするももう遅い。 黒川はにっこりと笑みを浮かべると楽しそうに表情に色をつけたのだ。 まるでそんなことできる訳がない、そう言っているようだった。
「全ては嫉妬だよ。僕だって、そう嫉妬。嫉妬ほど怖いものもない。そう思わない? ああ、もう君と話している余裕もなさそうだね。時間切れだ」
 屋上の扉を見て表情を沈める黒川。 普段見せているような弱々しい雰囲気を出すと猫背になった。 ここまでして自分を偽っていることに和泉は驚きを隠せなかったが、後ろからかかった声に心臓が止まってしまった。
 別れてから数日、会わないように会わないようにと避けていた吉原がやってきたのだから。
「おい、涼、なんの用……っ!?」
 振り向いた和泉と前を向いていた吉原の視線が絡まる。 一瞬のできごとだった。
 どちらとも予想だにしていなかったことに固まってしまう。 つい最近まで愛しいと思い側で寄り添っていた存在がこんなにも近くにある。 手を伸ばせば届く距離、それほど近かった。
 黒川がなんの用事で吉原を呼び出したかど、和泉は知らない。 和泉が屋上にきたこともただの偶然なのだ。
 だけどこうやって会ってしまったのはなんの悪戯か。 声にならない声を吉原が出したのを境に、和泉は足を一歩前へと動かした。
「蓮っ!」
 和泉の大好きだった声が和泉を呼ぶ。 思わず止まってしまいそうになった足だったが、吉原から逃げるように屋上を出て行った。 少し遅れて吉原が後を追うのがわかる。
 重なる二つの足音、鬼ごっこをするみたいに逃げる和泉と追う吉原。 特別棟でもあるこの棟に人気はなく、だからこそ余計に吉原は和泉を見失うことなく追うことができた。
 前のように逃がしたりはしない。 あのとき、あの手を掴めなかったから別れたのではないとわかっていつつも、逃してはならないと誰かが言っているのだ。
 走って限界まで走って、伸ばした指先が触れる。 和泉の身体が一瞬止まった隙を狙って、吉原は和泉を捕らえることに成功した。
「蓮っ……」
 吉原の身体にすっぽり収まる身体も、ふわりと漂う香りも、なに一つ変わらない。 お互いが少し痩せただけで、他にはなに一つ変わらないのだ。
 別れたって、なにをしたって、まだ好きなのだ。 諦めきれることなんて絶対にできない。
「好き、好きだ」
 逃げようと頼りない抵抗をする和泉を閉じ込め、腕に抱く。 耳元で何度も好きだ、そう囁けば囁くほど和泉の抵抗が弱くなっていった。
 完全に抵抗をしなくなるまでそう時間はかからなかった。 和泉が大人しくなったのを良いことに拘束を緩め、両頬に触れる。 そのまま少しやつれた頬を撫ぜるように触っていれば、赤くなった瞳が吉原を見上げた。
 薄っすらと張る膜、涙が小さく零れた様子が痛々しくてそっと拭ってやれば、それを境にぼろぼろと零れだす。
「泣くな」
 そうっと顔を近付け舌で涙を拭ってやればびくりと震えた和泉。 驚いたような瞳で吉原を見ていた。
「泣いたら、どうして良いのかわかんねえ……」
 吉原には涙を拭ってやる権利がない。 だけどこの世界を望んだ訳ではないのだ。 戻れるのならば、戻りたい。 たった数日前まで存在していたものが壊れてしまった日の前に戻りたかった。
「よ、っし」
 小さく小さく呟いた和泉の言葉と同時に伸びてくる指先。 吉原の頼りなくなった頬を撫ぜると、悲しそうに顔を歪めた。
 その指先を離れないようしかと握り擦り寄った。 久しぶりに触れた和泉の全てが愛おしくて堪らない。 このまま時が止まってしまえば良いのに、そう思うほどに苦しい。
 だから距離を詰めてしまった。 自制が効かなくなった。 吉原は和泉の身体を引き寄せると、ただ触れるだけの口付けをしたのだ。
「あ、……」
 たった一瞬だけだったけれど触れた唇の感触が重い。 ずしりと圧し掛かるほど意味を持ってしまった口付けに、和泉ははっと意識を取り戻した。
 吉原に会って、触れられて、抱き締められて、好きだ、そう言ってもらってどこか夢現のような時間だった。 駄目だ駄目だ、そうわかってはいるもののその腕を振り払うことなど和泉にはできなかったのだ。
 今強く感じたのは好きだ、という思い。 和泉だって好きなのだ。 好きだからこそこれ以上、一緒にいれば言ってしまいそうになる。
「さわ、らないで!」
 触れていた手を払った。 吉原の傷付いた瞳を見たくなくて俯いた。 後は逃げるだけ、それだけなのに一歩も動かない足。
 触れられるほど近い距離にいるのに、吉原は振り払われた手を見つめたままもう触れようとはしなかった。 代わりに、確かめるような言葉を紡いだのだ。
「……蓮が好きだ。もう、やり直せないのか?」
 肯定してしまえば吉原とは一緒にいられない。 触れられない。
 わかっていたからこそ、和泉は肯定できなかった。 終わらせたはずの関係なのに望みを絶つことに怯えている。
「蓮、望みがないのなら言ってくれ。これを、捨てるから」
 触れたのは和泉の首元。 捨てられずにいたネックレスが、吉原の手によって露にされた。
 初めて結ばれた日に吉原からもらった大切な宝物。 和泉の大切な宝物だった。
「っ、嫌だ」
「……蓮?」
「これ、これは、駄目……っ!」
 驚いた吉原の瞳が期待を含んだ色に変わる。 和泉の肩を掴み、強く訴える様子に言葉すら紡げなかった。
「蓮、お前……」
「っ、よっしーとは、やり直さない!」
 その言葉に吉原の力が弛緩する。 隙を狙って距離を作れば、また色をなくした瞳。 悲しそうに、辛そうに歪められた表情がまた和泉の頭に酷く残る。
 そのまま一歩後ろに下がって距離を取った。 後は走り出せば良いのだ。 だけど吉原の様子が気になってそうすることもできない。
 流れた沈黙を破ったのは吉原だった。 自嘲気味に笑みを浮かべると、俯いた。
「終わった、んだったな……」
「……」
「でも、オレは諦めねえから。諦める、こと、できねーし……」
「よ、っし」
「往生際悪くてごめんな」
 そう言って和泉の手首を掴んだ。 なにかされるのでは、と思い構えてしまった和泉であったが吉原はなにもしてこない。
 代わりに小さななにかを渡された。 掌に隠せてしまうほどの大きさのそれ。 和泉にしっかりと握り込ませると、吉原はそのままなにも言うことなく和泉の横を擦り抜け消えてしまった。
 ただ呆然と立って、後ろを振り向くがもう吉原の姿は見えない。 どこかへ行ったのだろうか。 掌に視線を向けてみれば、そこには銀紙に包装された一粒のチョコレートが乗っていた。
 忘れていたが今日はバレンタインなのだ。 本来ならばあげるはずだったチョコレート。 それを、別れたはずの吉原からもらってしまった。
「……よ、っし……好き、なんだよ、俺も……」
 溶けてしまわないようチョコレートをポケットに入れた。 吉原が触れた場所全てが熱い。 久しぶりに交わした口付けの感触だってきっと忘れられないだろう。 ずっと残っているのだ。
 和泉が逃げたいという思いだけで無理に終わらせた関係。 不安だからということを盾にして吉原を傷付けた。 たくさん傷付けた。 だけどまだこんな自分を好きでいてくれている吉原。
 黒川が寄りを戻さないと言った言葉も含め、和泉は全ての意味をなくしてしまった。
 どうして別れてしまったのか、傷付けてしまったのか、それすら見失いそうだった。 好き合っているのに、どうして?
 このままがずっと続く訳ではない。 いずれ吉原も諦めてしまう日がくるだろう。 そうなってしまえば、完全に吉原は和泉の前から消えてしまうのだ。
 今しかない。もし寄りを戻すのならば、今しかない。 だけどそれはできない。
 これから先、また同じことがあるかもしれない。 そのときに同じことをしてしまうかもしれない。 別れることによって、逃げてしまうかもしれないのだ。
 和泉は弱くてずるいから逃げることしかできない。 そうする度に吉原を傷付けていくのが、平気だと思える心はなかった。
「よ、っしぃ……」
 ほろほろと零れ出した涙が落ちた。 もう拭ってくれる指先はない。
 和泉はどうして良いのかわからなかったのだ。 手放してしまったけれど、戻れるのなら戻りたかった。 自分が一番それを望んでいるのだ。
 だけどできないくらいに怖いのも確か。 相反する心が犇めき合って、和泉の心を病ませていく。
 一方通行で終わったバレンタインが、苦しかった。 渡したかったチョコレートが、和泉の心の中で溶けていったのである。