バレンタインが終わってから和泉の様子がますます変になったのを、望月は気付いていた。
泣き腫らした目で帰ってきたかと思えば、ご飯も食べず部屋に篭ってしまったのである。
何度か呼びかけても反応はなく、漏れた音は悲痛な泣き声で、和泉が泣いているのだと教えてくれた。
理由や原因はわからない。
吉原絡みとわかっていても具体的なことまではわからないのだ。
関わらないと水島と決めた手前、望月はなにもしてやれない。
そう決めていたのだけど、ここまで追い詰められている様子を間近で見るのに疲れてきたのだ。
意固地になっているような気もしない。
和泉の頑なな意思はなにで守られているのか、望月には知る由もなかった。
だけれど、このままでは駄目だと薄々気付き始めたのだ。
別れるにしても復縁するのにしても和泉が笑顔にならなくては意味がない。
笑顔をなくした和泉から、笑顔を取り戻す方法。
それぐらいならば関わっても許されるだろう。
望月は勝手に行動を起こすことを決心すると、心の中で水島に謝罪をした。
自分から言った癖に抜け駆けをするなんて、水島は思ってもいないだろう。
だがやはり放っておけるはずがなかったのだ。
そうして望月は一人、水面下でいろいろと考えを巡らすのであった。
表面上は今まで通り。
部屋を一歩出れば和泉は飄々とした空気を纏ってなにも聞かれないように防衛をとっていた。
皆興味があるから和泉に聞きたくてうずうずしていたのだろう。
それを和泉もわかっていた分、聞かれては困るのでガードをしていたのだ。
今日とてなんやかんやと煩い教室を出て、昼休みを人気のいないところで過ごそうとしている。
のんびりと歩く和泉の一歩後ろを歩きながら望月は和泉に食い下がっていた。
「駄目。暫く一人で食べるの禁止っつったろ」
「なんで? 柚斗と一緒に食べる義務ない」
「この間だってお前一人で食べるっつって結局弁当残してたじゃねーか。夕飯だってあんま食ってねえし、やつれてるのわかってんの?」
「……ダイエットしてるだけだし」
「ダイエットするなら健康的にしろよ。取り敢えず、昼ぐらいは真面目に食べろ。じゃねーと倒れるぞ?」
「……だって、食欲、ないし」
「だってもない。これ以上痩せられても困るから、無理矢理食わすぞ」
たじろいだ和泉の手首を握って、望月は逃げをうつ和泉に制止をかけた。
元々太っている訳でもない和泉はどちらかといえば細い部類だった。
大食らいではあるのだが、原稿をする際に食事を抜きにするのでそれが一因にもなっているのだろう。
最近は別れたショックかなんなのかわからないが、食欲がないらしく、まともに食事も取っていない。
それ故に元々細かった身体がますます細くなり、うっすらと骨が浮き上がっていたのだ。
小さいから痩せても目立たない和泉であるが、裸を見れば一目瞭然である。
痩せた、というよりはやつれたその姿に流石の望月も口を出さずにはいられなかった。
前のように大食らいになれとは言わない。
だが生活するにあたって必要最低限の食事はしてもらわないと困るのだ。
両者一歩も譲らない攻防に焦れたのは和泉。
直ぐに苛々とした感情が露になると、意思とは関係なく言葉をついてでてしまうのだ。
「柚斗に、関係ないっ!」
振り切ろうと激しく抵抗するが、望月はびくりともしなかった。
ただでさえ鍛え上げられた望月との体力の差が激しい上にやつれてしまった和泉の弱々しい抵抗は効かないのだ。
いきなり勇んでしまったのも原因だろう、くらりと立ち眩みを起こした和泉はよろけると、望月に引かれるまま身体を倒したのであった。
「ほら、こうなるんだよ。わかるか?」
「……っ」
「顔色も悪い、体力も落ちるし、常にいらいらする。立ち眩み、眩暈、頭痛、倦怠感、軽鬱、ぜーんぶ今のお前の状況だよ」
「な、にも知らないじゃんっ! 俺じゃ、ないのにっ」
「あのな、取り敢えず飯は食え。人間生きるためには必要なんだよ。お前をネガティブにさせる原因の一つにもあんの、食事しないことは。わかった? 文句は飯食ってから受け付けるし」
「……な、んで……こんなに、優しくするの……」
「大事だからだよ。友情って言葉で言っちゃうのはなんか違うけど、……蓮が大事だから、心配するの」
ぎゅ、っと抱き寄せてもらった望月の腕の温かさに保っていた矜持がぼろぼろと崩れていく。
部屋の中だけで素直になれた。
一人になって、一人なのだと実感すれば悲しくてなにもできなかった。
今もまだ吉原のことが忘れられない。
思い出もなにもかも、いっぱいあるのだ。
決して消えない思い出が、ある。
考えないようにしていた。
考えれば涙腺が壊れてしまう。
吉原のことを想えば、胸が痛むのだ。
吉原の存在が色濃い校舎だからこそ、学園にいる間だけでも自分を偽ることで矜持を保っていた。
泣いたら、駄目だと。
ここで泣いてしまえば後は坂道を転がるように駄目になっていく気がしたから。
だけどもう既に駄目だったようだ。
望月に言われなくても気付いていた。
食欲がないからといって食事を抜いた。
自分だけの問題だと思っていたが望月にも迷惑をかけていたようだ。
知らずの内にいろいろな人に迷惑をかけている。
気付けば、和泉はそのことにまた胸が苦しくなった。
「ばか、……柚斗の、ばか」
泣いていないのだと、誤魔化すように弁慶を蹴った和泉に望月は笑っていただけで怒ることはなかった。
さり気ない優しさに触れて和泉は息を吐くと、大人しく望月についていくことを決めたのだった。
右手にお弁当、左手に和泉の手。
望月は両手を塞がれながらも楽しそうに廊下を歩く。
二月真っ只中の山奥、外は考えられないほど寒いが室内はまだ温かい。
なるべく寒さが凌げて人気がない場所でお弁当を食べることにした二人は空き教室を目指すことにした。
幾ばくか機嫌が落ち着いている和泉をこのまま維持させておいて、カロリーの高いものを食べさせなくては、なんて考えていた望月は目の前からやってきた派手やかな集団に気付くことがなかった。
ぴたりと一瞬止まった和泉に気付き、顔を上げたのは望月。
視界に入るのは、会ってはいけない三人。
気が付けば対峙するように立っていたのであった。
「あ」
そう声を漏らしたのは望月と水島だった。
和泉は一瞬だけ視線をちらりと向けると、視界に入れないよう無視をした。
吉原は情の篭った目で和泉をじいと見つめ、動けない様子である。
そして黒川はなにも映していない瞳で、こちらを見ていた。
望月の手をぱっと離すとすたすたと足を進め歩いていってしまう和泉。
咄嗟の行動に対応が遅れた望月であったが、あの様子では空き教室に行くのだろう。
和泉の意思を汲み取ることにすると、敢えて追いかけることをしなかった。
軽く会釈をして通り過ぎようとした望月だったが、一瞬足を止めるとなにかを確認するように三人の顔を見た。
「追いかけなくて良いのですか?」
黒川がそう言った。
望月は適当に頷くと、答える。
「まあ、良いんです。ゆっくり歩きますよ」
「そう、……羨ましいです。なんだかお二人ってとっても仲が良く見えるから」
「仲良いですよ。あ、そう、水島先輩と吉原先輩のような感じっすかね」
つい出た言葉、望月は言ってから違和感に気付いた。
なんだか黒川の様子が変なのである。
それに言った瞬間の黒川の顔はまるで怒っているようにも見えた。
なにかが引っかかる。
もやもやとした霧に覆われた望月は黒川の目を見据えると、じいと見つめた。
「……なにか、顔についてます?」
「あ、そうか……」
「なんですか? 気になります、その言い方」
「……いや、なんでもないです」
困ったような黒川の表情と訝しげな表情をしている望月。
吉原は相変わらず和泉が行ってしまった方向を見つめるばかりでぴくりとも動かない。
焦れてしまったのは水島だった。
なにもしないと言ったものの当事者が近くにいる分気になってしまうのだ。
吉原のためだと自分に言い聞かせると、和泉の後を追うようにそっと輪を抜け出して和泉が去っていった方向へと走っていったのである。
和泉サイドの状況を聞いていない水島はあまり事情が理解できていないが、吉原になら何度も話を聞いていた。
最近なにがあったのかも、バレンタインの日のことも。
鉢合わせしたとき一瞬だけみせた和泉の瞳の色が、吉原の瞳の色と酷似していた。
相手を想うのが切なくて堪らない、そういった顔だ。
どうしてこれまで拗れてしまったのかわからないが、水島は走った。
たった一言だけ、和泉に言っておきたいことがあったのだ。
廊下を曲がれば直ぐそこに和泉がいた。
ぼんやりと立って窓の外を見つめている。
小さくなってしまった背中に話しかけると、頼りなくなった肩がびくりと跳ねた。
「和泉君」
「あ、……かいちょ?」
「今更って思うかもしれないけど、聞きたくないって思うかもしれないけど、柳星のこと、聞いてくれるか?」
「……俺たち、終わったのに?」
「じゃあ俺の独り言だと思ってくれても良い」
一定の距離を保ったまま止まった二人。
これ以上近付けば逃げてしまいそうな和泉に、水島は動かないまま口を開いた。
「柳星な、チョコレート、……もらってない。誰からももらってないようだ」
「……、そ」
「あげたのも和泉君だけだ。……あと、和泉君にもらったって言ってたぞ」
「……よっしー、そんなこと、言ってたの?」
「寄りを戻しにくい、と考えているのならやめておいた方が良い。都合が良くたって、なんだって、柳星はきっと待ってるだろう」
「……うん、ありがとう。でも、これは、俺の問題だから……」
振り向いた和泉が小さく笑った。
はっきりとした線引きに水島はこれ以上言葉を投げ掛けることができなかった。
どうにかして寄りを戻させたい水島ではあるが、望月はそう思ってはいないようだった。
和泉も和泉なりに事情があるのだろう。
きっと、それが解消されるまでは和泉は今のままなのだ。
手をぎゅっと握って、やつれてしまった和泉の顔を見た。
ぴったりと第一ボタンまで締めたシャツの下には、和泉の宝物があるのだろう。
吉原からもらった、大切な宝物が。
お互いを想う気持ちは変わっていないのに、関係だけが変わってしまった。
割れた関係が元に戻ることは、もうないのだろか?
無言になった二人に、気まずくもあり自然でもある沈黙が流れたのであった。
一方取り残された三人には異様な雰囲気が漂っていた。
水島が和泉を追いかけ、去っていったのを視界に入れたのは黒川と望月だった。
その際に一瞬色を変えた黒川の瞳を見て、望月はあることに気付いたのである。
そして確信もした。
これが一因になっているのかはわからないが、少なくとも黒川は関わっていそうだ。
水島、吉原、そして和泉を見るときの瞳の色の変化が甚だしいのである。
あのとき感じた違和感は間違いではなかった。
望月の勘は外れてなかったのである。
黒川はシロなんかじゃない、クロだ。
周りがそれに気付いていないのが不思議なほどであった。
「……望月くん? 僕の顔、そんなに見たってなにも変わりませんよ?」
「話、あるんですけど……時間大丈夫ですか?」
「ええ、僕に? なんだろう、緊張しちゃいます。ねえ、柳星、二人にしてもらっても良い?」
「あ、ああ……わかった」
呆気にとられたような表情を浮かべた吉原は、興味がなさそうに歩き始めるとどこかへ向かって去っていってしまった。
久しぶりに近くで見た吉原も、和泉同様やつれていたように思う。
望月はややこしい状況に頭を悩ませると、ふうと息を吐いた。
「望月くん? 用ってなんでしょうか?」
「あ、いや、黒川先輩って、水島先輩が好きなんだなって」
「……え?」
「あれ? 違います? 蓮が吉原先輩を見るような目で、水島先輩見てたからそうじゃないかと思ったんすけど」
黒川はその言葉に一瞬だけ頬を染めると、辺りをきょろきょろと見回した。
そして誰の陰もないことを確認すると安堵の表情を浮かべたのである。
「い、いやだなあ、そんな冗談……」
「……ずっと片思い、してたんですか?」
「……なにか聞いたの? 和泉くんとか、柳星とか、会長に」
「特に聞いてないっすけど……」
おどおどとしていたはずの黒川が、気だるげに髪の毛をかきあげた。
先程とは一変した雰囲気に驚きを隠せなかった望月であったが、黒川は元々こういう性格なのだろう。
和泉と違い人脈が広い望月はある程度の人種を見てきた。
和泉が我を隠さずオープンにする性格だとすれば、黒川は我を隠す性格のようだ。
二重人格、ともいうのか。
だがこれで確信が持てた。
辛いと悩んでいた和泉だったが、最後の一線は決して選ぼうとはしていなかった。
吉原のことが好き過ぎて泣いたこともあるのだ。簡単に別れるはずがなかったのだ。
きっかけは黒川、なのだろう。
なにを言ったのか、なにをしたのか、はっきりとしたことはわからない。
黒川も簡単には口を開かないだろう。
だけど原因が黒川なのと、黒川が水島を想っていることだけは知ることができた。
それだけでも上々だ。
一人自己完結して満足してしまった望月に、苛ついたのは黒川である。
素性をばらしてしまうことに懸念はないが、想い人がばれてしまったのが厄介であった。
誰にも言ったことがない。
ばれることもない。
そのはずだったのに、いとも簡単に露見してしまった。
そのことに対して少し焦っていたのだろう。
望月に詰め寄ると、その手首を握った。
「なにが目的なの?」
「え? なにが、って」
「脅すつもり? なにを言われたのか知らないけど、和泉くんと柳星が別れたことの原因は僕じゃない」
「はあ」
「確かに僕が唆したのかもしれないけど、僕は和泉くんを恨んではいない」
「唆したんですか? 貴方が? なんでそんなことするんです」
「……ああ、もう! 狂うなあ、君といると調子狂うよ」
がしがしと頭を掻いた黒川は盛大な溜め息を吐くと、諦めたように望月を見た。
「和泉くんにも言ったけど、僕は柳星を恨んでるの。柳星に不幸になってもらうために別れてもらったんだよ」
「……は?」
「直接別れろ、って言ったんじゃないけどね。まあでもそれだけで壊れる関係なら、ずっとは続かない。そう思わない?」
「確かに、そうですね。そこには同意します。だから今、蓮に頑張ってもらうんですよ。これからどうなるか、蓮と吉原先輩次第じゃないっすか? それに茶々を入れるのだけ、やめてもらえませんかね?」
「ああ、そういうこと? それを脅しに使えば良い話だもんね」
嫌そうに顔を顰めた黒川は自分の失態に悔いているようにも見えた。
だが望月からしてみれば皆わかりやすい。
きっと客観的に見ていないからこそ、自分以外の物事が見えていないのだろう。
元々ノーマルな望月には男同士の恋愛なんて複雑で良くわかりもしない。
皆男なのに好き合ったり片思いしたしごちゃごちゃしたり、未知の世界なのだ。
だけど人を想う気持ちはどんなに隠そうとしても、見える瞬間がある。
その瞬間に立ち会っただけ。
好きになる気持ちには、性別なんて関係ない。
そうなんだろう。
皆自ら複雑化にしているだけなのだ。
自分の気持ちに素直になって行動すれば良いだけなのに、ごちゃごちゃと考えたり悩んだりしてしまうから、こんなことになってしまう。
早くも吉原と和泉の寄りを戻したい、という思考に偏りつつあった望月は慌てて頭を振るとその考えを打ち消したが、そのことで思い出したことを口にした。
「……あ、じゃあ、吉原先輩と寄りを戻すってのはないんですか?」
「ないね。馬鹿じゃない? 柳星のことは別に嫌いじゃないけど、好きだった訳でも好きな訳でもない」
「なんで付き合ってたんすか?」
「なんで? それを聞く? 聡い君だったら、わかるでしょ?」
そう言った黒川の言葉に、望月は確かに気付くことがあった。
黒川が吉原と付き合った理由。
昔聞いた傷を舐め合うだけの関係、黒川には好きな人がいたからその人を重ねてみていた、と。
ああ、そういうことだったのか。
望月は感心すると、糸が繋がったことに一筋の希望を見出していたのだった。