保健室で軽くお弁当を食べた和泉と望月は早退をすることにした。
元々調子の悪かった和泉だ、貧血を起こしたことだし身体を休ませようということになったのだ。
というよりは水島に強く勧められたからでもある。
心配だと言った水島のあまりに真剣な顔に和泉は頷くほかなかった。
丁度明日から土曜日だ。
二日間で血色の良い肌になることは無理だろうが、少しは療養させてやれるだろう。
そう思い、望月は和泉と自分の荷物を持って和泉と一緒に保健室から出たのである。
「蓮? 眠い?」
「……ううん。ちょっと疲れただけ」
「熱あるんじゃね?」
とろとろと歩く和泉に心配が募る。
顔色の悪さが尋常ではないからこそ、望月は気が気でないのだ。
立ち止まると和泉の額に手をあてた。
だがそこはいつも通り冷たく、熱はないようだった。
「……ほんと、やつれたよな、お前」
隈が薄っすらと浮き出た目元を指でなぞる。
くすぐったそうに目を細めた和泉を見て、望月は少し自己嫌悪に陥っていた。
和泉が話さないからという理由で随分と放置をしてしまったような気もする。
食事を取っていないことや、あまり眠れていないこと、毎日泣いていたことを知っていながらなにも行動に移すことができなかった。
和泉は和泉なりに考えがある。
だがこうなる前に少しぐらいはどうにかしてやれたのではないだろうか。
黒川に言われた言葉が、今になって望月に圧し掛かった。
結局は中途半端なのだ。
十分に構ってやることもせず、放置することもできない。
ただ、和泉の側にいるだけ。
和泉の問題なのだから、望月がどうこう言う立場ではない。
部外者ではなにもできない。
心配するしかない。
「柚斗? どう、したの?」
「……いや」
きょとりと望月を見上げる和泉を見た。
別れる前よりも、和泉は不安定だ。
不安定といって良いのかわからないが、どこかに消えてしまいそうな儚さを持っていた。
本当にこのままで良いのだろうか? 望月はそう思った。
このまままた変わりない日々が続いて、やきもきとしている和泉を側で見つめるだけの自分。
解決を見せない問題。
和泉が苦しんでいるのをわかっていて、助けることができなかった。
その背中を押してやらなかった。
言ってやれなかった。
たった一言、和泉に言うだけで和泉の世界は変わるのに。
それをできるのは、きっと望月だけ。
望月が和泉にしてやれる、最大級の優しさなのだ。
和泉の目元を擽っていた手をぴたりと止めた。
不思議そうに首を傾げた和泉と目が合う。
望月のあまりに真剣な顔に、和泉が息を詰まらせる音が聞こえた。
「……蓮、お前どうすんだ? もう、はっきりさせたらどうだ?」
言ってしまえばもう後戻りはできない。
望月は心を鬼にすると、和泉に対して初めて批判的な意見を口にした。
「このまま、ぐるぐるずーっと悩んでいるつもりか? 寄りも戻さず、かといって諦めもしない。お前はなにがしたいんだよ」
「ゆ、ずと?」
「食事が取れないのも、寝れないのも、泣いてるのも、……そうやって、未練がましくネックレスつけてるのも、まだ吉原先輩が好きだからなんだろ?」
服の上からなぞった首元に、金属の感触。
望月の手に感じるのは重いほどの愛。
和泉は慌てて望月から一歩離れると、服の上からぎゅっと握り触らせないようにする。
大事だから、隠すように握り締めたのだ。
「ち、がう……!」
「じゃあそれ、捨てろよ。俺が捨ててやる」
「だっ、だめっ! これはだめっ! 俺のっ、宝物だからっ!」
「なんで宝物なんだ? もう別れたんだろ? 寄り戻す気ないんだろ? お前がそうやっていつまで経ってもうじうじしてるから、吉原先輩だって前に進めないんだよ!」
そう怒鳴った望月を和泉は信じられないような目で見つめた。
いつも和泉には優しくて、和泉の望むべき道を作ってくれた望月。
大丈夫だよ、安心しろ。
そういった意味を込めて抱擁してくれた望月。そんな望月が和泉に対して、ここまで怒ったのは初めてだった。
胸倉をぐっと掴まれる。
和泉はどうすることもできないまま、怒りに染まっている望月を見ることしかできなかった。
「蓮が寄り戻すつもりがないんなら、吉原先輩は前に進むべきだ! お前はそれを応援してやらなきゃなんねーんだよ! わかるか!?」
「や、だ……そんなの、いやだ!」
「じゃあずっと吉原先輩に苦しめって言うのか? 蓮のことをずっと想いながら独りで過ごせって言うのか? 蓮はそれを望んでるのか!?」
ひゅっと喉が鳴った。
望月の言葉に、和泉はなにも言い返すことができなかったのである。
不安だから、たったそれだけの理由で吉原を突き放してしまった。
別れたら自分が楽になる。
そんな自己中心的な考えは吉原を傷付けただけでなく、自分自身も傷付けることとなった。
本当は好きだ。
吉原のことが好き過ぎてどうにかなってしまいそうなほどに好きだった。
苦しかった。
辛かった。
それを望月もわかってくれていたと思っていた。
元に戻ったって苦しいだけだ。
自分が苦しむのは嫌だから、寄りを戻したくない。
好きだけどこれ以上辛い思いをしたくない。
だけど吉原が和泉以外の人を好きになるなんて、それ以上に嫌だった。
胸が張り裂けそうだ。
ずきずきと痛む胸とリンクして、涙がほろほろと頬を伝った。
「だ、って……だって……どうしたら、良いか、わかんな、い……」
「好きなんだろ? まだ大好きなんだろ? それだけで良いじゃんか! 未来のことなんか考えたってしょーがねーじゃん! 未来なんて誰にもわかんねーよ! だからこそ、今ある一瞬を大切に思って過ごすんじゃないのか!?」
和泉の目を見てそう叫ぶ望月の顔は真剣そのものだった。
和泉に変わるきっかけを与えてくれようとしているのがありありとわかる。
いつまで経っても逃げてばかりいる和泉の背中を押す一言。
望月がしてやれる全て。
胸倉を掴んでいた望月の手が離れた。
小さく呼吸を吐き出すと、優しい表情に戻る。
開いた口から聞こえる声音は、いつもと同じ声音だ。
「お前がなにに悩んで、どうして別れたかなんて詳しくは知らないけどな、蓮、お前だけが辛いんじゃない。吉原先輩だって辛いって、怖いって、不安だって思ってる。それわかってんの? 自分だけが辛いからって逃げてるんじゃ、どうしようもねーよ」
「ゆ、ず、……」
「誰だって、好きな人が離れていったらって思うと怖い。だからってな、別れるなんて馬鹿なこと考えるな。蓮は極論過ぎるんだよ。どうして一人で抱え込むんだ? お前は誰と付き合ってた? 吉原先輩だろ? どうしてなにも言わなかったんだよ。不安なら、怖いならそう言えば良かったじゃないか。恋愛って一人でするもんじゃねーよ、二人でするもんだろ?」
はしり、と噛み締めた唇が痛い。
望月の言葉が痛いほど胸に刺さった。
誰かに言われなければ行動しようとさえ思わなかった自分が恨めしい。
俯いた和泉に望月はそっと寄ると、噛み締めた唇を離させるように口元を指先でなぞった。
「最後に言うけど、このままじゃ吉原先輩ほんとに離れていくぞ。蓮じゃない他の人を好きだって言うかもしれない。蓮のこと、好きじゃなくなるかもしれない」
「や、だ、そ、んなのっ……やだっ!」
「じゃあ、お前が今どうすべきかわかるだろ? このまま逃げるのか、立ち向かうのか。……後から後悔したって、もう遅いんだからな」
望月はそう言うと、和泉の頭をぽんぽんと叩いてから立ち去っていった。
どんどんと遠ざかる背中。
和泉はぼんやりと立ち尽くしたまま動くことができなかったのである。
「……だって、……そんなの、……都合よすぎるじゃんか……」
一人で呟いた言葉は誰にも拾われることなく、廊下に消えていった。
きっと望月は一人で考える時間をくれたのだろう。
誰かの前だと素直になることができない和泉を思って、距離を取ってくれたに違いない。
和泉は望月の言葉を反芻しながら、ほろほろと零れる涙を拭うこともせずに蹲ってしまった。
言われた言葉が正し過ぎて、和泉は耳が痛かった。
自分でもわかっているのだ。
身勝手だと。
別れる前より、別れてからの方が辛いのだと初めて知った。
別れる前は、別れたらもう苦しまなくて済むと思っていたのに。
どれだけ不安を覚えても、悲しくなっても、吉原はいつも和泉を安心させてくれた。
大きな掌で頬を擽られて、大丈夫だって優しいキスをしてくれた。
それでも不安が拭えないときは温かい腕で抱き締めてくれた。
和泉が望むことならなんでも吉原は叶えてくれた。
不器用だけどちゃんと言葉にもしてくれていた。
好きだよ、って魔法の言葉をたくさん与えてくれたのだ。
なのに和泉といえば好きの一言も言えないで、素直にもなれず我儘ばっかり。
吉原がたくさん与えてくれることに胡坐をかいて、なにもしないでいた。
それでも、吉原は和泉を求めてくれたのに、和泉から断ち切ってしまった。
「ふ、っ……よ、っし、よっし」
ぎゅっと握り締めたネックレスが冷たい。
和泉の身体と同じで、冷たいのだ。
涙を拭ってくれる人も、安心させてくれる人も、心穏やかにさせてくれる人も、愛おしいと胸が痛む人も、吉原以外いない。
和泉の隣には吉原以外いらない。
離れてから初めて気付いた想いはこんなにも大きくなっていた。
成長していた。
吉原を想う気持ちが膨らんでいつの間にか掛け替えのないものになっていたのだ。
ぼろぼろ零れていった涙が床に雫となって落ちる。
ぽたぽたと増える涙は上限を知らないかのように、たくさんたくさん募っていった。
「ご、めん、なさ……っ」
望月に言われて気付かされたのは、吉原の優しさだ。
気付こうともしなかった。
自分のことしか考えられなかった和泉には、気付くこともできなかった。
あんなに側にいたはずの優しい人を、自ら切ってしまったのだから。
今更になって吉原がどれだけ和泉を大切にしてくれていたのかを実感する。
あんなにもわかりやすかった。
過去に苦しんで、比べて、そんなこと意味のないことだってわかっていたのに、吉原は和泉を好きでいてくれた。
好きになってくれたのも、告白してくれたのも、寄りを戻そうと言ってくれたのも、全て吉原からだった。
全部いつも与えられるだけ与えられて、返したこともない。
返せなかった。
身体が冷たくて、寂しくて、和泉は零れる涙を止めることもできない。
噛み締めた唇が鈍い痛みを伝えてくれるが、それでも止まらない。
だけど聞こえる足音に、心が緩む。
独りぼっちで泣き続ける和泉を見つけてくれたのは吉原だった。
「蓮?」
和泉が望んでいた声がする。
涙でぼやけた視界で見上げれば、そこには吉原の姿。
和泉が求めていた姿。
ぼろぼろと泣く和泉に驚いているのだろう、その足は戸惑ったままそこから動こうとはしなかった。
後悔してからでは遅い。
都合が良いって思われても仕方ない。
また不安で苦しめられるかもしれない。
自己中心的な考えで吉原を傷付けるかもしれない。
泣かせてしまうかもしれない。
だけど、和泉はもう我慢することができなかった。
自分から言った癖に、前以上に辛くて辛くて死にそうだった。
吉原がいないと呼吸の仕方さえわからないのだ。
初めに足を前に出したのは和泉。
弾かれたように吉原が和泉に近寄って、ぼろぼろになった和泉の身体を抱き締めたのだった。
「よ、っし、よっしぃ……」
噎せ返るほどの強い香りに包まれる。
和泉は吉原の腕におさまると、その背中に腕を回した。
手放したはずの腕に抱かれて、和泉は胸が苦しくなった。
愛おしさに息もできなかったのだ。
「蓮っ! 蓮、れんっ、れ、ん!」
何度も名前を呼ぶ吉原は和泉がいなくならないようにと、強い力で和泉を抱き締めた。
久しぶりに触れる感触と、随分と頼りなくなった身体つきに情けなくも泣きそうになる。
触れられる距離にいて、求められるように抱き締めてくれる和泉。
吉原は今の状況を信じることができなくて、和泉の身体を触ると感触を確かめた。
夢ではない。
和泉はここにいる。
そう思ったらもう止めることができなかった。
内から湧き上がってくる想いを吐露せずにはいられなかったのだ。
「蓮、好きなんだ、好きなんだよ。お前のことが、好きだ……」
何度だって言う。
和泉が元に戻ってくれるのならば、なんだってできる。
ここまで人を好きになったのも、和泉が初めてだから。
吉原にとっては掛け替えのない存在だから諦めたくなどない。
ふるふると震えるだけの和泉。
そんな和泉の肩を持ち、そっと離せば涙でぐしゃぐしゃになった和泉の顔がそこにはあった。
綺麗だなんて顔ではない。
必死で、くしゃくしゃに汚くなって、歪められた可愛い顔。
だけど吉原にとっては愛おしいというほかない顔なのだ。
「よっし、……ごめ、ごめんなさいっ……傷つけて、いっぱい、傷つけて、ごめんな、さい……っ」
「蓮……」
「辛くっても、逃げたくなっても、不安で仕方なくっても、……よっし、が、いないことの方が、……辛い、……よっし、すき、……すき、……すきすぎて、死にそう……」
吐息混じりの告白と共にぽろりと零れた涙。
吉原はそっと目元を指で拭うと、止むことのない涙を唇で吸い取った。
しょっぱくって、でも温かくって、吉原がなによりも望んでいた温度。
和泉の両頬を手でしっかりと掴むと、何度も何度も唇で拭う。
「蓮、……好きなんだ、もう不安にさせないから。約束する。だから、お願いだから、オレと」
「ま、って」
「……なに?」
「俺、から、言わせて……っ、よっし、都合良いって思うかも、しれないけど、……俺、と、つきあって、ください……」
初めて和泉からの歩み寄りだった。
たどたどしくもはっきりと言った和泉の言葉を、誰が断るのだろうか。
吉原はらしくもなく涙腺が緩むのを抑えることができなかった。
こんなにも人を好きになれるのだと初めて知った。
それは和泉から教えてもらったことだ。
和泉に出会って恋をした。
たった一言で言い表せてしまうけれど、その中には大切にしたいものがたくさん詰まっている。
優しくしたいと思う心も、愛おしいと感じる心も、自尊心すら捨ててしまえるほどに恋してしまった心も、全部和泉がくれた。
和泉と出会ったからこそ、吉原が得ることのできた目に見えない宝物なのだ。
これから先も辛いことがあるだろう。
不安になるかもしれない。
また傷付けられるかもしれないし、傷付けるかもしれない。
逃げ出したくなるかもしれない。
だけど繋がれた手が離れないのであれば、やり直しはきくのだ。
離れる気など、さらさらない。
もう二度と離さない。
「ばか、……つーか、オレは元々別れた気だって、ねえ、よ……っ」
目元が熱い。
ぼろっと零れた涙が、和泉の頬に落ちた。
吉原はらしくもなく泣くことを止めることができなかった。
ぽたぽたと温かい雫が和泉の頬に降りかかる。
惨めな姿も恥ずかしい姿も和泉以外には見せることもできない。
「見るんじゃ、ねぇ、よ……」
だけどどうも照れくささが勝って、駄目だった。
照れ隠しなのか、募っていたものが溢れ出した所為なのか、吉原は和泉の視界を塞ぐと唇に優しいキスを落としたのだった。