ポケットに入れていた携帯が鳴ったのは和泉と離れてから然程時間が経っていないときだった。
望月は携帯を取り出しメール画面を開く。
そこに書かれてあった文字はたった一言だったけれども、その一言で全てを理解したのだ。
和泉は吉原といる。
それはそういうことなのだろう。
「……はー……良かった」
もうこれで和泉が悲しむことはなくなる。
不安を乗り越えて結ばれた絆なら、前よりも固いものになっているはずだ。
それにこれからは吉原が和泉を支えていってくれるのだろう。
望月は一つの寂しさを覚えたものの、和泉のヒーローであり続けることは確かなのだ。
また和泉が迷路に迷ったのなら手を伸ばして導いてやろう。
元の場所に戻れるまで、付き添ってやろう。
それをできるのは、きっと望月だけなのだと信じていたい。
取り敢えずは和泉に笑顔が戻る、それに安堵を覚えた望月は廊下にしゃがむとだれた頬を引き締めたのである。
なんだか今日はいろいろあった。
黒川の本音を聞いたり、和泉に渇を入れたり、吉原と和泉が元に戻ったりなど、第三者であるはずなのにこんなにも巻き込まれている。
しかしそれが嫌だとは不思議と思わない。
寧ろ自ら突っ込んでいったようなものなのだ。
当面は一人寂しい思いをするのだろうが、しばらくすればまたみんな元通りになるのだろう。
そう、みんな。
「……って、……やっば、行かなきゃ」
蹲っていた望月は立ち上がると、携帯をポケットにしまい込んだ。
窓の外を見て小さく笑うと一歩を踏み出す。
解決を見せた問題だったが、全て綺麗に片付いた訳ではない。
一つしこりとなって残っている問題もあるのだ。
少し前までは脅威であった存在が、気にはなる。
また、と思わないこともない。
だが望月がどうのこうのする立場ではないのだ。
黒川は黒川なりにこれからの時間を進んでいく。
前に進めていると良いな、なんて思いつつ望月は急いで生徒会室へと向かったのであった。
タタタッと廊下を踏み鳴らす軽快な音が響く。
人気のない特別棟の最上階に生徒会室はあった。
無駄に豪華な造りのそれは、建設費の無駄を思わせるものだったが特別と言われれば頷いてしまうものもある。
冬の所為で少し開きにくくなった扉を押すと、望月は許可なく生徒会室に入った。
「会長いますか?」
シーンとした生徒会室に足を踏み入れる。
ざっと見渡してみるが水島どころか誰一人としていない。
やはりか、と思うと望月はどうしようかとあぐねた。
和泉が保健室でお昼を食べていたときには顔を見せた水島だったが、その後の行動までは知らないのだ。
望月は取り敢えずというように息を吐くと扉にもたれかかった。
水島といえばこの場所以外には考えられない。
だが卒業式が迫っている今、準備などで忙しいはずなのだ。
どこかでわたわたと走り回っているのかもしれない。
吉原は今日の卒業式の準備はしないだろう。
なんとなくだが確信がもてる。
そして和泉も帰ってこないはずだ。
だからその分、仕事が増えて水島に負担がかかっているのかもしれない。
だけど水島にいち早くこのことを伝えたかった。
きっと二人はお互いに夢中で悠長に報告などしないだろうことがわかっている分、手にした情報を教えたいのだ。
手持無沙汰にどうしようか、と悩んでいた望月だったがどうすることもできないので水島をここで待つことにした。
赤の絨毯が敷き詰められている床を歩き、窓に手をかける。
霜が張り付いた窓は氷のように冷たく望月の指先を冷やした。
そのまま特にすることもなく、ただぼうっと窓の外を見続ける望月。
扉がカタンと鳴るのに気付き、振り向けば少しだけ隙間が開いていた。
「……会長?」
差し込んだ光と共に入ってきたのは憔悴しきった黒川。
少し泣いたのだろうか、その目元が赤い。
「あ、黒川先輩……」
「……望月君? どうして君がここにいるの」
「え、あ、いや、会長に会いにきたんですけど、いないんで待ってようかなって」
「生徒会室は生徒会役員と風紀委員以外の立ち入りは禁止だよ。……っても、まあ良いけどね。で? なにを言いにきたの? 僕が会長を好きだってばらしに?」
自嘲気味に笑った黒川の笑顔には曇りがある。
望月が去った後、水島と吉原と黒川だけになったときになにかあったのだろうか。
お人よしな性格である望月は何故だか放っておくことができずに一歩を踏み出すと、黒川の側に寄った。
「そんなこと俺が言える訳ないってわかってて言ってるでしょ」
「……まあそうだけど」
「……泣いたんすか?」
「ふふ、柳星にね、言われたんだ。努力をしていないから手に入れられないんだって。……だけど、……僕にはそんなも勇気ない。柳星みたいに、全てを金繰り捨ててまで誰かを想うなんてできそうにもないんだ。でも、会長を好きな気持ちは誰にも負けていないと思う」
「そうっすね。吉原先輩がしつこいだけだと思いますよ」
その望月の言葉に黒川はおや、という表情を浮かべた。
どちらかというと望月は黒川を嫌悪しているはずなのだ。
それなのにも関わらず黒川の意見を肯定したことに驚きを感じた。
望月は苦笑いを浮かべながら黒川の側に立つと、目を伏せて言葉を紡ぐ。
「だけど、そのしつこさが身を結ぶんすよね」
「……ああ、寄りを戻したって会長に言いにきたの?」
「はい。あ、今度は邪魔しないでくださいよ。せっかく蓮が笑顔になれるようになったんすから」
「もうそんなことしないよ。したくてもできない、ってのが本音だけどね」
そう言った黒川は望月の手を取ると、ごつごつとした指先を眺めた。
水島とは違い温かな指先はテニスの所為なのだろうか、傷跡やタコがたくさんある。
綺麗で触れるのも躊躇ってしまう水島の指先とは大違いだ。
黒川にとって温か過ぎるその手が護る存在も、温かなのだろう。
和泉はこの手に護られて、愛しまれてきた。
それに嫉妬をする訳でもない。
羨む気持ちもない。
だが、黒川にも望月のような存在がいたのなら少しは変われていたのだろうか。
前に進める勇気をもらっていたのだろうか。
始める前から諦めている黒川には、到底理解のできない世界ではあるが。
「……黒川先輩?」
「僕は、……きっと、ずっとこのままなんだと思う。和泉君を羨むだけで、望月君は綺麗過ぎて憎たらしい。柳星には嫉妬しかしないし、会長のことは好きなままだ。……会長はさ、僕が告白しても線引きすることもなければ、嫌悪することもないってわかってはいるんだよ。だけどね、きっと、それまでなんだ」
「それまで?」
「気にするべき存在でもないし、嫌悪を抱く対象でもない。ましてや好意なんて……取り留めのない、友人の一人に過ぎない。彼はああみえて凄く優しいんだよ。だけどそれ以上に冷たい。自分が受け入れない人には、興味を示すことすらしないんだ。……ふふ、こうやって行動をする前から諦めているのが駄目なんだよね。わかっているんだけど、……僕にはこれが精一杯なんだ」
独り言を話すかのように口をつく黒川の言葉を、望月は黙って聞いていた。
きっと自分を偽りすぎていたのだろう。
些細な愚痴ですら聞いてもらえる人がいない。
秘めた想いすら何年も隠し通す人なのだ、黒川は。
寂しいとすらいえないこの人が、可哀想だと望月は思った。
なにもかも諦めてしまったこの人が、幸せになれば良いと思った。
「……黒川先輩、俺は誰にも言いませんよ」
「わかってるよ。だからこうやって言ってるんじゃない」
「ええ、だから、俺で良ければいつでも話聞きますよ。俺にとっては蓮が一番ですけど、黒川先輩も関わった以上、なんか放っておけないっていうか……まあだからといって協力はできないんですけど、話ぐらいなら」
「君ってほんとお人よしだよね。和泉君と柳星の仲を引き裂いた僕にそんなこと言うんだからさ」
「まあ、そうっすね。でも、これも俺なんです。八方美人ってやつなんですかね」
「……ありがとう。柳星に言われたことも、ああ、って思ったけど、君に言われたことの方が僕には印象的だよ。優しさって慣れるのもあれだけど、慣れないのも、なんだかね」
恥ずかしそうに笑った黒川は、初めて自然に笑みを零した。
どんな思いを秘めていようが、どんな口悪いことを言おうが、きっと根は綺麗なのだろう。
それを垣間見られたような気がして望月は初めてほっと心の重荷がなくなるのを感じた。
望月がヒーローになりきれていないヒーローなのだとすれば、黒川はヒールになりきれないヒールなのだ。
純粋に人を好きになれる心を持っているのだから、そうなのだろう。
望月もいつか吉原のように誰かを熱心に愛し、和泉のように純粋な気持ちを持ち、水島のように一途に思われ、黒川のように秘めた恋心を維持できるような恋がしたい。
望月にしかできない恋がしたい。
そう思わされた一瞬なのだ。
ささくれ立った心が穏やかになるように、黒川は自然体になると望月と言葉を交わした。
一言のやり取りが静かな生徒会室に響いてたおやかな空気が流れる。
数時間前まではあんなにも不穏な雰囲気を交えていたとは思えないほどの、温かな空気だった。
人はいろいろなものを抱えている。
そう思わされる時間。
弱々しい作った黒川でもなく、無理に捻じ曲げた黒川でもなく、素直な黒川でもなく、普通の男子高校生の黒川と望月。
和やかな空気を保ちつつ会話をする二人は、なんの目的で生徒会にいるのか忘れそうでもあった。
それを思い出させてくれたのは、少し堅いが柔らかな声音。
この部屋の主でもある水島の声だった。
「さぼりか? 黒川。それに望月君も、病人の和泉君を放っておくなんてけしからんな」
「あ、会長」
ぱっと花が咲くように顔を上げた黒川に驚いたのは望月だけでなく、水島もだった。
少し前とは違った雰囲気に正直戸惑っているのだろう。
黒川は気付いていないが少しずつ偽りの殻を破りつつあるのだ。
良い傾向でもある。
望月は少し心が弾むと、もっと良いことを口にした。
「会長、蓮と吉原先輩、寄りを戻したみたいですよ」
「なっ! それはほんとか!?」
「はい。本当っす。な〜んかあれやこれや悩んでましたけど、なるようになるんすねえ。結局は他人がどうのこうのしたって戻るもんは戻るんすよ」
「そうだが、無駄ではないだろう。ああ、とにかく、……良かったな!」
「ええ。良かったです。これで蓮も元通り元気になってくれるでしょう。ご飯もいっぱい作らなきゃな〜」
「良いじゃないか、望月君! いっぱい食べさせてやりなさい! ……ああ、なんだか、嬉しいぞ。仕事も放り出したくなるな」
「ふふ、会長、柳星もそう思って仕事放り出していますよ」
「……そうか、そうだな、柳星のやつ……ったく卒業式を間近に控えているというのになんということだ。人手が足りないくらいなのに」
「俺で良かったら吉原先輩の代わりになりますよ。今日くらいは。黒川先輩に聞けばある程度仕事もわかるでしょう」
そう言った望月に頷く黒川。
なんだか望月も黒川も少し変わってしまったように見えた水島だったが今はそんなことを考えている余裕もなかった。
仕事だって頭の中から追いやられそうだ。
それほどまで二人の寄りが戻ったことが嬉しかった。
自分ではないのに自分のこと以上に嬉しくなってしまうのは、きっとずっと側で二人の関係を見てきたからだけではないのだろう。
純粋だが綺麗な心と、その関係を愛しむように育ててきた二人が水島にとっては愛おしいのである。
訳もなくそわそわして、ぐるぐる歩く水島。
望月と黒川の顔をちらり、と見ると肩を竦めてみた。
「駄目だ。どうにもやる気がでん。集中などできそうにもない」
「会長がそんな風になるなんて珍しいですね」
「ふむ、……しかしだな、……そうなのだ。取り敢えずなにを言って良いのやら……卒業式は間近だというのに……ふむ、うーん……駄目だ。やっぱり駄目だ」
「取り敢えず落ち着きましょ。お茶淹れますけど?」
「あ、じゃあ俺も手伝うっすよ」
「……仕様がない。暫く休憩だ。少しぐらい休んだって文句も言われまい。幸せである柳星に押し付ければ良いのだからな。俺たちを心配させた罰だ」
「はは、それ良いっすね」
張り詰めた空気が溶かされるように分散されていく。
はちはちと弾けた悩みは一つ一つ消えていって、元の状態へとゆっくり戻っていった。
吉原と和泉が元に戻るだけで周りも変化を遂げていくのだ。
小さなことだが大切なこともである。
水島が笑い、望月が相槌を打って、黒川が声を鳴らす。
少し前までは考えもつかなかった組み合わせで、温かな会話を繰り広げている。
黒川がしたことは許せないだろう。
だがそれも時間をかけて薄れていくようになくなっていくのだ。
あの時、あんなこともあったな、と。
そうやって笑える日がくると良い。
望月は色付いた瞳で水島を見つめる黒川を見た。
誰にも言わずに育った恋がどうなるか見届けることはできないけれど、前よりも良い表情をするようになった黒川はきっと黒川なりの幸せを見つけるのだろう。
付き合うことが幸せの定義ではない。
側にいて、笑い合うことも幸せなのだ。
もうすぐ長かった冬も終わりを告げる。
雪が溶け、芽が顔を出し、春がくる。
そうして季節はまわり巡って、成長していく。
育っていく。
前に進んでいく。
時間と共に全てが変化をしていくのだ。
もうすぐ二度目の春がやってくる。
望月と和泉がこの学園にきてからの春。
長かった一年の節目を迎えるのであった。