柊が俺を犯した日、世界が変わった。
あれ以来、前にも増して柊と喋ることがなくなった。
元々必要最低限だけの会話しかしていなかったし、プライベートなことなんて話したこともない。
教師の話以外に話題もねえし。
だから柊がなにを好きで、なにを嫌いで、休日になにをするのかなんてのはもちろん知らなかった。
知ろうとも思わなかった。
興味なんてねえし知ったって意味などないから。
だけど柊の熱や、興奮したときの顔は知っている。
それは酷く可笑しな話でどこか非現実めいたものだった。
「ぁ、あ、あっ……! せ、んせっ」
男のくせに艶めかしい嬌声。
頬を赤く染めてうっとりと身を委ねている生徒を、俺はただ無感動に見つめた。
絡み合う身体は男同士。
組み敷かれた細腰が揺れて、まるで女のような動きに俺は既視感を覚えた。
悶えて乱れて、欲しがっている表情。
それはどこで見たんだ?
思わず立ち止まって食い入るように見てしまった俺に気付いたのか、腰を打ちつけている柊がこっちを向いた。
唇を歪めて舌なめずりをしている。
見せ付けていた、そう俺に見せ付けているんだ。
「……もっと、足開いて。そう、良い子」
柊に縋りついている生徒が足を開いた。白い生足が絡みつくように柊の腰に回ってぎゅっと拘束をする。
「先生、もっと……」
愛なんてねえ。
柊の方に愛なんてものは存在しない。
潤んだ表情をしている生徒は周りが見えていないのか、少し開いた扉の向こうで俺が見ているなんて気付きもしない。
柊は冷たい瞳をしたまま貼り付けたような笑みを見せて、うそぶいた言葉を並べる。
可笑しいだろ。
全てが可笑しい。
狂っている。
目に見える現実が、がたがたと音を立てて塗り替えられていく。
校内で生徒とヤるな、遊んでやるな、もっと真面目にしろ。
言いたいことや説教したいことなんて山のようにある。
そんなことしていたらいつかの俺みてえになる。
後悔する。
きっと、後戻りできなくなる。
だけど言えるはずもなくて、俺は逃げるように一歩足を後ろに下げた。
怖いんじゃねえ。
ヤられるのが怖いんじゃねえんだ。
ただ、俺が戻れないような気がしただけだ。
チャイムが鳴る。
踵を返す。
俺は逃げるようにその場から走り去った。
もう柊に関わるのはやめようと、誓った瞬間でもあった。
だけど俺が誓ったその瞬間に、柊は変わってしまった。
あれから幾度も柊と生徒の逢引を見るようになった。
最初は偶然だろうと思っていた俺だったが、何度も何度も見るうちに見せ付けているのだと知った。
俺にわざと見せるために、柊はいろんな生徒と寝る。
俺がどこに行くのかをわかっていてあのような行動を取るのか、俺が無意識に柊を探してしまうのか、それすらわからなくなる。
柊と生徒が睦み合って、俺はそれを見て逃げ出す。
延々と続くと思われたループ。
注意すれば、見ないようにすれば、なにかが終わるのか?
変わらずにそこにいた柊に俺はとうとう痺れを切らして長嘆を吐いた。
「なにしてんだよ? 授業中だろ」
「はは、わざわざ説教しにきたの? ……俺にそんな話するなって、言ったよね」
「……お前が見せ付けているんだろ?」
扉に手をかけてしまっては最後、俺は室内に入るとむせ返る柊と生徒の匂いに眉を顰めた。
新たな参入者に驚いたのか、生徒は慌てて衣服を掻き集めると逃げるようにして去っていく。
男子高校生とは思えないほど小さくて華奢な身体つきに女っぽい顔。あれがついているのに違和感を覚えるほどだ。
すれ違いさまに俺をしっかりと睨みつけ、しおらしく去っていく姿はある意味柊にお似合いの性格でもあった。
「……お気に入りか?」
「ああ、良く見てたね」
「何度か見たことがある。ころころ相手を変えるあんたにしては珍しく、あいつだけは何度か抱いているようだったし」
乱れた服のままの柊が俺に近付いてくる。
足は張り付いたまま動かない。
柊が直ぐ側までやってきているというのに、俺の足は動かない。
距離がなくなって、柊の指先が俺のネクタイに絡まる。
馬鹿にしたような笑みを浮かべて唇を歪める柊の顔は本当に良くできた人形のようだった。
「どうして近寄ったの? こうなるって、わかってて近付いた?」
「あんたが俺に見せ付けるんだろ? 構ってほしいのは、あんたの方じゃないのか?」
「五十嵐が勝手に見るだけだ。見たのなら見なかったふりをすれば良い。逃げれば良いじゃない」
「……違うだろ? そうじゃ、ない」
緩くかぶりを振った俺の手を、柊は握った。
弱々しくもあり力のないその拘束に顔をあげれば、なんの色も映していない瞳がそこにはある。
全てを委ねているような、そんな瞳だ。
「あんたが、望んでるんだよ。俺のところにきた。それは、こういうことだよ」
触れる掌。
柔らかな感触が俺を包んで、立ち止まったまま目を瞑った。
逃げようと思えば、逃げられた。
一度目と違い押さえつける手も、首を絞める手も、全てが緩かった。
逃げ出せる範囲での拘束に俺は敢えて捕まって、留まった。
触れる熱、感じる掌、色の灯る瞳。
全てに落ちた。
俺は柊に落ちたんだ。
それが恋なのか、恋じゃないのか、それはまだ知りたくねえ。
わかっているからこそ知りたくなんかねえ。
その瞳に囚われた。
理由なんて、そんなもので良いだろ? 未来のない関係に意味などつけたくなかった。
それから俺と柊の関係は変わった。セフレというのが一番近い関係なんだろう。
だけど柊と俺の日常にはなんの変化もみせなかった。
セックス以外では会話もない。
目も合わせない。
前と同じ、ただの教師同士。
その延長線上にセックスがある。
待ち合わせも、連絡もしない。
俺に見せ付けるように生徒とセックスをする柊を俺が咎めて、強引にセックスに持ち込まれる。
逃げることも、抵抗することもしない俺もまた人形のようだった。
感情のない人形と、主のままに動かされる人形。
その間になにがあるかなんて知ろうともしない。
揺さぶられる感覚は好きじゃねえ。
突っ込まれるのも嫌いだ。
押さえつけられて、身動きがとれないのも俺の好みじゃない。
気持ち良くなんてねえ。
生理現象で勃起するあれを慰められて、強制的に吐き出される精液。
労わりの言葉も、虚偽の愛の言葉も、なにも存在などしない。
性的欲求すらありもしないこの関係に、意味なんてない。
ただ誘われるから相手をするだけ。
逃げる理由がないから受け入れるだけ。
痛みも快楽もおまけのようなものだ。
そうなんだろ。
漏らした吐息に熱が篭る。
柊は俺の髪を鷲掴みにすると、不機嫌な声色で言葉を紡いだ。
「あんた、面白くない」
「……だったら、抱くな」
「なんであんたは抱かれている?」
「あんたが抱くからだろ」
「そうやって俺の所為ばかりにするけど、五十嵐が俺に近寄るから俺は抱いてやってるんだよ」
「そんなの頼んだ覚えはねえよ」
「意地張ってないで認めたらどうなの」
「あんたこそ」
「……ほんと可愛くねえ。あんた可愛くないよ」
「俺に可愛さを求める方が可笑しいだろ? この行為に理由なんてねえ。理由なんてもんあったらできねえだろ?」
ぐ、っと深くまで押し込まれるあれ。
思わず呻いた俺に柊は更に眉間に皺を寄せると、首に手をかけた。
柊とセックスするようになって知ったこと。
それはセックスのときに首を絞めるのが好きだということだ。
元からゲイである柊は子猫のような華奢な生徒でなく、俺のような男らしい男の方が身体的には好みのようだったが如何せんここは高等学校だ。
ホモが蔓延しているといっても所詮おままごとのような繋がり。
本気になってもここを卒業すれば全てなかったかのような関係に戻っていく。
それは柊にも言えたし、生徒にも言えた。
結局は擬似恋愛のようなものなのだ。
ここだけの関係。
秘められた関係。
背徳的な関係。
それに憧れて、恋をしたような錯覚を覚える。
そんなものだ。
男らしい男は女のような男を求め、女のような男は男らしい男を求める。
その方程式は確立としていって、柊は女のような男にしか手を出さなかった。
だから俺のような身体が貴重なのだろう。
俺と身体を結ぶときはかなり無理をする。
いや、それが柊の性癖なのだ。
乱暴に扱う、Sといって良いのかわからねえほどの行為に俺は黙って耐えた。
殴って、蹴られて、首を絞められて、おざなりに慣らしただけの穴に無理に突っ込まれる。
そんなセックスを何度もした所為か、俺の身体は馬鹿みたいにボロボロだった。
こんなことされて嬉しいはずがねえ。
気持ち良くだってなれねえし、Mじゃねえからただ痛いだけだ。
だけど逃げ出せないのも現実として、ここに存在している。
嬉しそうに首を絞める柊の瞳に俺は溺れた。
誰を抱いても、誰を見ても、なにをしても、どんなときだって変化のない瞳が俺との行為でだけ変化をみせる。
覚えたのは優越感。
柊を変えているのだという優越感だった。
だから馬鹿みたいに溺れた。
柊も俺も互いの所為にして、この行為に意味をつけるのを嫌がった。
求めているのは俺だけじゃねえ。
少なからず柊はこの身体を欲している。
たったそれだけで俺は信じられないようなことを受け入れてきた。
俺はゲイじゃない。
受身のセックスにもはまった訳でもない。
柊以外の男には死んだって抱かれたくなどねえし、柊にだって好んで抱かれている訳でもねえ。
それははっきりと言える。
胸を張って言える。
嫌じゃないから抵抗しない。
どうでも良いから受け入れる。
逃げるのが面倒だから足を開く。
そういうことにしたかった。
「……なに考えてる?」
「……理由を、消してた」
「はあ? あんたって時々良くわからないこと言うよね。俺には理解できそうにもないよ」
「俺だって、理解できねえよ」
「ふーん、あんたってほんと変だよね。好きでもない男に掘られて文句の一つも言わない。ゲイでもない。なにがしたい訳?」
「あんたこそ、なにがしたいんだよ」
「俺は言っただろ? あんたの身体がくせになったって。こんな乱暴にしても壊れないダッチワイフなんて上等だよね。どこにも売ってないよ」
言うなり髪を強く引っ張られ、頬に爪を立てられた。
少し伸びた柊の爪が頬に食い込んで鋭利な刺激を齎す。
突き刺すような痛み。
慣れたそれが身体を支配した。
「それに勘違いもしない。これが一番の理由かな。あんたのことは嫌いだよ、はっきり言うと。だけど俺に愛を求めないところと、ダッチワイフの身体は気に入ってるかな」
いつかの台詞。
俺も昔、同じようなことを言った。
たくさんいたセフレの中でも特にお気に入りの奴にそう言ったんだ。
そいつは笑ってた。
俺の好きなようにしたら良い、と。
俺が望むことならなんでも叶えてやる、と。
だから俺はその言葉を真正面から受け止めて、言葉通り好きにした。
今の俺の有様より酷いことをたくさんした。
あいつは理解があるから傷つかねえなんて勝手に思っていた。
なにをしたって許してくれる、求めてくれる、帰ってきてくれると、たかをくくっていた。
だからあの笑顔の裏に秘めた痛々しい想いなんて気付きもしなかった。
いや、気付こうとすらしてなかった。
そんな訳ねえって決め付けていた。
愛なんて、俺たちの間に存在してねえだろ? だって俺たちはセックスフレンドなんだから。
傷つけて、傷つけて、あいつを壊したのだと気付いたのはどしゃぶりの雨の日。
死んでもなお後悔は消え去ることなんてねえって、知った日。
そして愛の意味を覚えた日でもあった。
笑いながら俺の頬を舐める柊に自分を重ねた。
あの頃を再現しているようだ。
俺が柊で、あいつが俺。
愛なんて、存在しているはずがなかった。
「……五十嵐?」
「気持ちわりいこと、すんな」
「はは、優しくされるのが嫌いなんだ」
「……そうじゃ、ねえ」
「ふーん? どうだか」
細長い指先が頬を滑る。
そのまま唇に到達すると、形を確かめるようにしてなぞった。
「……かさついてるよ」
柔らかな感触。
柊は羽を落とすかのような優しいキスを俺に贈ると、そのまま貪るように舌を差し入れてきた。
俺と柊は初めてキスをした。
愛しむような動きにびくりと固まる身体。
足元ががらがらと崩れ去って、怖くなった。
初めて逃げ出したいと思った。
抵抗を露にする俺に柊は喜びを見出したのか、逃げようとすればするだけ柊は俺に優しくした。
セックスするだけなら酷くすれば良い。
いつもみたいに殴って押さえつけて、暴力を嵩にすれば良いだろ? 優しくする意味なんてねえはずだ。
渾身の力を入れて抵抗した。
綺麗な顔をしている柊を殴った。
手の甲に久しい感触、人を殴る嫌な感触だ。
「は、っ……してくれるじゃない」
口から垂れた血が俺の首筋に落ちた。
柊は悪戯を覚えた子供のように無邪気な顔をすると、俺に優しく接した。
触れる指先も唇も動きも今までとは違った。
全て柊の意味だ。
怖くて怖くて堪らなくなった。
どん底に落ちていくような感覚。
底のない暗闇に囚われた。
そこは逃げ出せないほどの狂気の渦。
逃げ出せる術はもう、ない。
理由を知ってしまったから。
「い、やだ……っ!」
つけが回ったのだろう。
ぶるぶると震える俺は柊の腕から逃げ出せずに、ただ受け入れることしかできなかった。
あの頃、あいつもこんな想いを抱えていたのだろうか? 身を焦がすような熱ではなく、いつ切り離されるかという恐怖。
だからきっと、天罰が下ったのだろう。
忘れるな、と。
覚えておけ、と。
誰からも愛されるはずがない。
俺は愛されなどしない。
そう言われているようだった。
最初から見なければ良かったのだ。
自分と重ねて、似ているからという理由だけで近付かなければこんなことにはならなかった。
いや、最初から惹かれていたのか?
気付いてみれば、落ちていた。
終焉に向かっている恋に、落ちていた。
あいつが悩んだ分と同じ分だけ俺に降ってかかる重いほどの気持ちになにもできなかった。
初めてわかった。
あいつがなにを考えていたのか、なんて同じ立場にならなければわからないなんて馬鹿みたいだよな。
こうするしかないのか? こうしなければならないのか? ああ、もう、駄目なんだよ、俺は。
気付いたからってなにも変わることなどない。
変わらない。
変えられない。
同じだからってなんだ? あいつは俺じゃない。
俺はあいつじゃない。
俺には献身的なことなんてできやしねえよ。
だけどやめられないところまで落ちてしまった俺は、ただ終焉に向かっていくだけの恋を見ることしかできなかった。
始まる前から終わっていたんだ。
諦めるなって言う方が無理あるだろ?
「……五十嵐?」
「……優しく、すんな。そういうのは、望んじゃいねえんだよ」
「はは、いやだね。どうしようが、俺の勝手だろ?」
だから俺は抵抗するしかない。
もがくことしかできない。
そうやって逃げ回ることしかできやしねんだ。