知りたかっただけなのか? 似ていただけなのか? 繰返した自問に答えなど出る訳がなかった。
柊の意思に抵抗をしてしまったときから、柊は新たな楽しみを見つけた。
俺に優しくするというくだらない遊びだ。
嫌がれば嫌がるほど甘くなる指先に、俺は歯を食いしばるだけ。
耐えようとしても無意味だった。
身体が勝手に反応してしまうんじゃ、どうにもなりゃしねえ。
触れる度植えつけられる快楽に、身も心も溶かされていくんだ。
唯一自分に言い聞かせていた痛みをなくした今、もう俺を立たせてくれる理由なんてない。
限界だったのかもしれない。
初めからその目を見なければ始まってもいなかった関係に、俺は全てを奪われてしまったんだ。
残ったものは僅かなプライド。守る価値もないプライド。
それだけが、救いだった。
「……五十嵐先生?」
「あ、……なんでしょうか」
「いや、ぼうっとしているからどうしたのかなと思いまして」
「……ちょっと考えごとです」
「もう慣れましたか? この学園に」
目尻に少しの皺を寄せて優しげな表情をみせているのは年輩の教師。
俺と同じ社会を担当していた。
歳が近いという理由でほとんど柊に教えを乞うている俺だが、担当教科のことだけはこの教師に教わっていた。
といっても前の学校でもやってきていたことなので、教わることなど少ししかねえけど。
穏やかな日差しが差し込む廊下、二人肩を並べて歩いていた。
「想像していたよりは過ごしやすいです」
「そうですか。それは良かった。……柊先生とも仲がよろしいようですし、私も安心しましたよ」
「……仲が良さそうに見えますか?」
「はい。最初は心配していましたけど柊先生が熱心に教えてくれているようなので、こちらとしても安心ですよ」
「……そうですか」
「ええ、では私はこちらなので。五十嵐先生、頑張ってくださいね。これからもなにかわからないことがあればいつでも相談に乗りますので私のところにきてください」
そう言って丁重なお辞儀をして去る教師を見ながら、俺は分岐点の真ん中でぽつりと残されるように立ち尽くした。
ひたひたと迫ってくる焦燥感に、俺はいてもたってもいられなくなる。
ここに存在して、確かに立っているというのに俺という存在がいないもののような感覚が支配する。
仲が良いだなんて、言われたくもねえよ。
あからさまに変化をみせ始めている関係は、外部にも漏れているんだろう。
あの言葉の裏に意味などないはずなのに、下手な勘繰りをしてしまう。
ついつい目で追ってしまう俺がいたことに、気付き始めたのはいつだった?
気がつけば見ている俺がいて、それは必ずと言って良いほど柊にばれる。
そうなれば後はなし崩しに行為へと発展して、俺は抵抗さえしないまま組み敷かれるのだ。
趣味が悪いだとか、ノンケだとか、不毛だとか、わかっている。
だけどもこの気持ちが傾くのを抑えることができねえ。
行為を自ずと受け入れている時点で、俺は落ちていたんだから。
「……そ、うか」
握り締めていた手を開く。
僅かに白んだ掌に赤みが増して、力が抜けた。
代わり映えのしない日々と、掌と、俺の生活。
自嘲気味に笑って目を瞑れば闇が訪れた。
それに身を投じて、俺は息を潜めるように長嘆を吐いた。
「おい」
ぽん、と肩に手を置かれて思わず身体がびくりと反応する。
どれぐらいぼうっとしていたのだろうか、数秒のような気もするし数分のような気もする。
おそるおそるといった風に後ろを振り向いてみれば、そこには不審そうに眉を寄せた柊が立っていた。
「なに」
「なに、って……あんたこそなにしてたの」
「……わからない。ぼーっとしてた、だけだ」
「ふーん? 変なの。あんた、授業は?」
「午後から。午前はもう終わった」
「……へえ、奇遇だね。俺も午後からなんだ」
意味ありげに歪められた唇が光る。
つい、と撫ぜられた首筋に僅かな感触。
思わず身を引いて信じられないと言いたげに柊を見れば、笑っていた。
「ヤろうよ、暇なんでしょ?」
「なにを……今は授業中だぞ?」
「生徒みたいなこと言うんだね、あんた。そういうとこ、真面目」
絡み付いてくる手を振り払う。
一歩引いて距離を置けば、不機嫌とも取れる顔付きをする柊。
だけどもここで受け入れたってなにも変わらねえ。
変えられねえ。
心が、身体が、求めるからこそ受け入れることができねえんだ。
知りたかったなどと浅はかな理由で近付いて、あの頃の再現をしてみても主役が違うんじゃ同じにはならねえ。
あいつの気持ちは、あいつにしかわからない。
苦しみも、愛しさも、あいつだけのものだ。
「五十嵐?」
「……あんたとは、ヤらない。そんな気分じゃねえ」
「なに? 今更なに言ってるの? あんたに、拒否権なんてないんだよ」
いきり立った顔が間近に迫る。
腕を掴まれて強引に引き寄せられたが、それを拒むように強く引いた。
俺も柊も男だ。
特に俺は可愛げも綺麗さも儚さも華奢さもない。
どこにでもいる、男。
だからこそ抵抗など簡単にできた。
意思を持ってしまえば柊に屈する非力さなんてねえんだよ。
「あんたも、俺を裏切るの?」
「……はあ?」
「抵抗なんてする理由ないだろ? そうだろ? 黙って受け入れていれば良いんだ。意思なんて持たなくて良いんだよ。あんたは俺の思うままにしていれば良い」
「話にならない。誰がいつ、あんたの所有物になったんだよ。言うこと聞く人形ならいっぱいいるだろ?」
「抵抗するなんて聞いていない」
まるで話が通じない。
僅かに目を血走らせた柊が牙を向く。
興奮しているのだろうか、いつもの冷静さが欠如したその姿は見慣れないものでもあった。
なんだか不思議な気分だ。
柊がこんな風になるだなんて思ってもみなかった。
俺と同じ人形だと思っていた。
俺の腕を掴んでいる手が白くなる。
力を込めたそれは骨を折らんとばかりに軋ませていた。
「っ、……離せよ。俺だって、考えたいんだ」
「なにを? 考えてなにになる? なにもないんだ。考える必要なんてないだろ?」
「柊! 離せ!」
「そうやって、抵抗して気を引かせたいの? ねえ、五十嵐」
血色を増した唇が近付いてくる。
あまりに赤いそれに慄いた俺は目を瞑った。
やめたいのか? この関係にピリオドを打ちたいのか? 始まってもいない、ボロボロの糸で繋がれた脆い関係に縋っているのは俺だけなのか?
好きだと、そう認めてしまった瞬間から俺は弱くなった。
倒錯する心に芽生えた一点の黒が、蝕んでいくようだった。
引いては押して、そんなぐだぐだの攻防に痺れを切らしたのだろう。
少しも緩むことのない俺に柊は焦れたのか大きな舌打ちを打った。
潔く離される手。
繋いでいた手が、離れる。
「好きにしたら良い。……後悔させてあげる」
「……後悔、なんて……」
既に興味をなくしたのか、苛立った顔のまま柊は去っていった。
これから俺の代わりに誰か抱くんだろう。
いや、俺が誰かの代わりだったのかもしれねえ。
あの頃のようだ。
俺と同じ柊はどんな未来が待ち受けるんだ? 俺と同じなのか、それとも誰かと幸せになるのか。
なあ、お前はあの頃なにを思っていた? 今は幸せなのか? 幸せになったのか? できるならば俺が幸せにしてやりたかったよ、アキ。
そう言ったらお前はなんて言うんだろうな。
それから嘘のように柊は俺を誘わなくなった。
だけども何故かそれが嵐の前の静けさに思えるだなんて、俺も随分と弱っている証拠だ。
ふるふるとかぶりを振った俺と連動するように、ズボンに入れていた携帯が震えた。
「……誰だ?」
授業がない休日だし、学園外の知り合いだろうか。
そう思って携帯を手にとれば見知らぬアドレス。
登録すらされていないそれに違和感を覚えたものの、興味本意で開いてみればそこには数字の羅列が書かれてあった。
「あ、……403、って」
403とだけ書かれたメール。
本来ならば誰かの悪戯だと捨て置いてしまうそれも、その数字に見慣れがあったから無視などしておけなかった。
番号が示す意味は部屋番号、403に住む住人は柊。
確証などなにもないが、柊以外には考えられなかった。
何故このタイミングで送ってきたのか理由はわからない。
だが全てを俺に委ねるような問い掛けに、俺はふらふらと馬鹿正直に向かって行ってしまうのだった。
幸い教師寮にいたためそうそう時間もかからずに柊の部屋の前へとつくことができた。
チャイムを押そうかと迷ったのだが、なにかに誘われるように一回だけドアノブを回してみればそれはかちゃりと音を立てて開いた。
どくどくと鳴る心臓。
嫌な予感がする。
一歩足を踏み出すと、シーンとした部屋で微かに物音がした。それは寝室からだった。
嫌な予感が確信へと変わる。
柊は見せようとしている。
それを俺は見たくないのに、見なければならないような気にさせた。
これはあの時と同じまんまだ。全く同じ。
そうして俺はドアノブを開いて見てしまうのだ。
そう、それは、決まっていたことなんだ。
わざと見せるためだけの行為は過信から生まれたのだ。
思った通り寝室を開けばそこには俺に見せ付けるようにセックスをする柊と、柊のお気に入りの生徒がいたのだった。
「ぁ、あっ、せんせ、誰か、きたっ」
「……そんなもの、見なくて良いよ。俺だけを見て」
「せ、んせぇ」
甘ったるい空気に蝕まれた俺の身体は、硬直したままその様子に釘付けだった。
最初は苛々していた。
馬鹿みたいにヤりまくる柊の節操のなさに腹を立て、いつか報いを見るぞと忠告していただけだった。
それはいつしか諦めになって注意することすら億劫になった。
自分で気付かなければ意味がないと。
それが次第に痛みに変わったのは、いつ頃からだ?
柊が触る全てに嫉妬をするようになった。
柊の唇が俺以外の名を呼ぶと胃がきりきりとした。
柊の指先が惑わす甘さを含んで誰かに触るのを見たくなくなった。
愛なんてないとわかっていても、胸は苦しめられる。
誰にも向けられない愛がいつ誰に宿るかなんてのはわからねえんだ。
俺が落ちた恋のように、柊もいつかは誰かに落とされてしまうんだろう。
「あんたも、交ざる?」
確信めいた瞳が俺を射抜く。
腐った目が色を灯して俺を映していた。
「っ、ふざけるな!」
壁を強く殴って唇を噛み締めた。
これ以上ここにいたらなにを口走るかわかったものではない。
俺はそれ以上柊がなにを言うのか聞きたくなくて、踵を返すと部屋を出た。
既に限界だったのだ。
疲弊していた精神はじりじりと俺の心を擦り減らすとまともな考えすらもたせてくれない。
覚束ない足取りで部屋を出ようとした俺を掴む腕。
そこには色気を漂わせている柊が立っていた。
流れる汗も、色付く身体も、情事を匂わす存在が俺の胸を締め付ける。
「ごめんね、五十嵐先生と話さなきゃいけないことあったんだ。埋め合わせは今度するね?」
「……うん。ほんとだよ? 先生、待ってるからね」
俺の方を向いて喋る柊が語りかける相手は、肌蹴た格好のまま立ちすくむ生徒だった。
生徒は俺を恨みがましく睨みながらも心得ているのだろう。
素早く衣服を着込むと、まるで逃げるようにこの部屋を出て行った。
一連の動作にもなにも反応ができず、掴まれた腕もそのままで俺はぼうと立ち竦むとただ柊の瞳を見るばかり。
俺はこの瞳に、誘われた。
華を添えるようにある泣きボクロも、艶やかさを見せる黒髪も、俺には必要などなかった。
「はは、邪魔者はいなくなったね、五十嵐センセ」
「……あんたはなにがしたい?」
「それはあんたが一番わかってるんだろ?」
握り締められていた手が引かれる。口元へと寄せられたそれに、柊は舌を出すと指先に愛撫をするように口付けた。
「や、めろ」
ちろちろと舐め回す指先に火が灯る。
熱くなった身体に気付かれないよう手を引くが、びくりともしない。
柊は挑発的な顔をみせると決定的な一言を言ったのだ。
「俺が好きなんでしょ? 五十嵐」
確信を持った音に、俺は大袈裟に身体を震わせた。
それはわかりやすいほどの肯定。
否定の言葉すら連ねることができない俺は、認めてしまったも同然だった。
「あんたが俺に落ちるなんて思ってもみなかったけどね。けど嫌な気はしない。あんたは俺のものってことでしょ?」
「違う!」
「否定なんて許さないよ。あんたの意思は俺が決める。あんたの全ては、俺が掌握してるんだよ」
嫌々とするように首を振って逃げようと試みたが、かたかたと震える身体ではそれすらままならない。
優しく俺を包む腕に絆されてしまい、いつしか力すら入れられなかった。
愛しむ偽りの指先に慄いた。
それが伝わったのか、柊は可笑しそうに笑うと唇を近づけてくる。
「俺もあんたがスキだよ」
うそぶいた言葉をさも本当のように並べ立てる柊の瞳には、なにも映ってなんかいねえ。
俺も、俺以外も、柊自身でさえ、柊は受け入れていないんだ。
信じきれていない心は全てを否定する。
だけども嘘だとわかっているのに、その言葉に震える胸が痛みを訴えた。
柔らかく触れた口付けに、俺はもう抵抗する力がなかった。
抵抗などできなかった。
愛しいという心が大きすぎて、俺の体を縛るのだ。
痛い、痛い、痛い。
アキ、俺がお前にしたこと覚えているか。まるであの頃をなぞらえるような現在は、過去に俺が身を持って証明したよな。
因果応報ってやつなのか? なあアキ、お前はどんな痛みを抱えていたんだ? どれほど苦しんだんだ? 俺が同じ目に合えば、お前は許してくれるのか?
無性にお前に会いたいよ。
ごめんって、悪かったって、一言で良いから言いたかった。
お前の口から良いよって、聞きたかった。
そんなずるいことばっかり考えているからこんなことになったのか? なあ、アキ。