雨を止めた独裁者 06
 今思えば出会いから最悪だった。
 アキと初めて会ったのは高校二年の冬の日。どうしようもなく荒れていて毎日が色褪せて見えて、格好をつけてばっかりいたあの頃、犬のように纏わりつくあいつがやけに邪魔に思えたんだ。
 地元で喧嘩をする仲間みたいなのを集めてチームごっこをしていたとき、アキはやってきた。ちっちゃい身体をぷるぷると震わせて、今にも倒れそうな顔色をしているのに俺の目をしっかりと見つめていた。
 透き通っていて、真っ直ぐな目。俺はついつい手を止めてしまってアキを睨むように見返した。
「なに? あんた、誰」
「ぼ、僕は秋浩(あきひろ)と言います! あの! い、五十嵐さんですよね!?」
「……そうだけど」
「僕をセフレの一人にしてください!」
 そう言って土下座をしたアキに、俺を含め周りの奴はぽかんとした顔でアキに視線を向けた。どっからどう見ても優等生ですっていう風貌のアキが俺のセフレ? そう思った。最初は罰ゲームだろって。
 だから口で責めてやった。誰が相手にするか、と。お前みたいな奴は顔も見たくない、と。
 顔を真っ赤にして今にも泣きそうになって、小さくなっていくアキの姿。諦めることも逃げることもせず、壊れた人形のようにお願いしますとだけ言った。どんなことを言われてもアキはただ同じことを繰り返した。
 もしかして本気なのか? そう感じた瞬間に湧き上がってきたのは好奇心だった。
 バイでもゲイでもない俺は男とセックスなんてできるか、ってアキに強く言った。だけどアキは奴隷でも犬でもパシリでもなんでも良いから側に置いてほしいと懇願した。
 あまりのしつこさと一回ぐらいならヤってみても良いかも、という心に折れて俺は仕様がなくアキのことを受け入れることにした。
 アキの前髪を掴んで、吐き捨てたのは侮辱。
「お前は俺の犬だ。秋浩……いや、アキ」
 そう蔑んだ言い方だったのにアキはすっごく嬉しそうに笑って、ありがとうと何度も言った。俺は面くらいながらもそこまで想われるのは悪くないと良い気分になったんだ。
 それが俺の覚えているアキとの初対面。だけどアキに言わせれば前に一度だけ会ったことがあるらしく、そのときに俺に惚れたのだと言う。その出会いはなんだったのかと何度もアキに聞いてみたけど、結局は教えてもらえずに真相は謎のままだ。
 アキが俺のどこに惚れたのか知らない状況で、ただ俺はアキを受け入れた。
 それから幾ばくも経っていなかったように思う、アキと身体を繋げたのは。俺のセフレになりたいと言うもんだから手馴れているかと思えば初めてだったのだ。アキは痛いのに、痛いとも言わずに必死に耐えていた。
 その表情と挿入時のなんともいえない感覚に俺は虜になって、アキとのセックスにのめり込むようになった。
 次第に心が感じていったのは、居心地の良さであった。
 アキは自分の立場を心得ていたのだと思う。今思えば苦しかっただろうに、なにも俺に言うことなく常にニコニコとして俺の側にいてくれた。
 我侭も、鬱陶しい言葉も、お説教もなにも言わない。セックスの回数が増えれば普通は恋人にしてだのなんだの言ってくると思っていたのに、それもない。
 俺が荒れたセックスをしようとも、おざなりに接しようとも、酷い言葉で攻め立てても、アキは変わらずにずっと俺の隣にいた。
 綺麗な瞳で俺を見つめて、大好きだという言葉を何度も言った。それこそ耳にタコができるくらい、アキは俺への気持ちを言葉にしていた。
 そんなアキに苛々して、俺はどうしようもなかった。喧嘩をしても、女とヤりまくっても、埋められなかった心の隙間にアキが入り込んできたのだ。すうっと馴染むように。そこにぴったりと当てはまるように。
 俺は怖かったのかもしれない。次第に惹かれていく自分も、アキを失ってしまったらという未来も、怖かった。
 だから俺はアキに対して辛く当たった。これ以上近付かないでくれ、と。俺の心に入り込んでくるな、と。それでもアキは笑っていたから、俺は握った拳を奮うことだけは決してしなかった。
 そんな中、俺にとって捨て置けないことが起きたのだ。どこから情報が漏れたのか、俺のお気に入りがアキだという噂が回ってアキが袋にされたのだ。
 主犯は俺のセフレ。表上の俺のお気に入りの女だった。
 いつまで経っても恋人にしてくれないからという理由でアキを呼び出し、ボコしたのだという。なんだか無性に胸がざわついて、苛立ちを隠せないままその場に行けばぼろぼろになったアキが死んだように横たわっていた。
 残飯だとかゴミだとかで荒れた裏路地に、同じように転がっているアキ。生きているのか、死んでいるのか、それがわからなくなって俺の伸ばした手は震えていた。
 さらりとしたアキの髪に触れれば、アキの男にしては長い睫がふるりと揺れる。
「……生きて、んの?」
「い、がらしさ……」
「なんでくたばってんだよ。……馬鹿じゃねえの。普通、ついていくか?」
「……五十嵐、さんが、呼んでる、って」
「……俺が、呼ぶ訳ねえだろ? アキ、わかってんだろ? なあ、ほんと、お前馬鹿だよ」
 そう言ったのに、アキが嬉しそうに笑うから俺は変な顔をしてしまった。
「なに笑ってんだよ」
「……助けて、くれたから……五十嵐さんが、助けにきて、くれたから」
「……お前が死んだら、俺の寝覚めが悪くなるだろうが。死ぬんなら、俺と関係ないことで死ねよ」
「は、い」
 くしゃっと綻んだ顔の笑みに、俺は目を瞑るとそれ以上アキの顔を見ないようにした。これ以上、関わると後戻りできないような気がしたんだ。
 既にそう思う時点で後戻りできないって気付けば良かったのに。

 その日を境に、俺はアキとの距離を一歩置くようになった。これ以上心の中にこられると困るからだ。
 だけどアキはそれに対して悲しそうな顔をするものの、なにも言うことはなかった。
 一体アキが俺のどこに惚れたのかが理解できない。性格も悪ければ股も緩い俺を、アキは馬鹿みたいに慕ってくれた。どんなことをしても、どんなことを言っても、アキが俺に向ける想いは少しも変わらなかった。
 アキにそこまで思われるほど魅力がある俺ではない。アキの方がよっぽど魅力的なのに、アキは俺が太陽のようだと言う。
 絶対神である俺を嫌いになるどころか好きになることをやめられないと言ったアキ。俺は少なからず悦を感じていた。ここまで思われて嫌な気はしない。
 男であろうとも嫌ではなかった。きっとアキしか抱けなかったのだ。あの頃の俺はそれにも気付かず、ただ気持ち良いからとセックスをしていた。
 だから天狗になっていたのだ。アキはなにをしても離れてなんていかないって。俺をいつまでも好きでいてくれると、そう思い込んでいた。
 アキが逃げ出した日は、雨が降っていた。
 次第に自分の中でもはっきりとしてくるアキの存在の大きさに、俺はびびっていたのだと思う。男同士なのに、とか。アキはただのセフレなのに、とか。
 そんな仕様もないことに怯えていた俺は、あるがままの最低な自分を保つことで現状を維持しようとしていた。
 俺は誰も好きにならない。誰にも靡かない。喧嘩してヤりまくって、人生なめ腐った最低な男が俺なのだ。アキに囚われて堕ちていくのが怖かった。
 だから俺のそんな臆病な気持ちは、アキを傷付けることで均衡を保つようになっていた。
 意味のない言葉の暴力でアキを攻め立て、アキに見せ付けるように女と絡み、そしてアキとセックスをしないようになった。側に置くのも嫌だという態度を取った。
 最初はニコニコしていたアキも次第に笑わなくなって、やつれていって、今にも消えそうなほど儚くなっていった。
 それに安心して、俺はアキをとことん苦しめた。痛めつけた。
 最後通牒はなんだったのだろう。アキを苦しめたことは山ほどあるけれど、アキに逃げ出したくなる思いをさせたのはあれだろう。
 嫌がるアキを縛って寝室に放り込んだ。そして俺はアキの目の前で女を抱いたのだ。
 大きな目を更に大きくさせて、ぼろぼろと壊れた人形のように泣いていたアキ。俺が女に愛しているという睦言を紡ぐ度に震えていたアキ。
 何時間にも及ぶアキにとっての地獄が、アキを崩壊させたのだ。
 その日を境にアキは俺の目の前から姿を消した。いなくなったのだった。
 望んでいた結果だろう? これを俺は望んでいたんじゃないのか? そのはずなのにどこかしっくりといかなくて、再び荒れだした俺に周りは腫れ物に触れるような態度。
 仕様がねえよな。あの時は俺も狂っていたのだ。手放した存在の大きさに気がついたのだから。
 アキがいない日々に戻ろうとしている。心にぽっかりと空いた穴をそのままに、昔のような日常。
 そんな俺に一通の手紙が届いた。いや、届いたというよりは存在していたと言う方が正しいのだろう。
 女の家を転々と渡り歩く俺が久しぶりに家に帰れば、ポストに入っていた一枚の封筒。消印も名前もなにもないそれは、何故だかアキのものだと直ぐにわかった。
 震える手で開いてみれば、そこには衝撃的な内容が書き記してあったのだ。
「……はっ、そうだよな……」
 恋人ができました。愛してくれる恋人です。僕はとても幸せです。ありがとうございました。さようなら。アキ。
 淡々と書き記したそれをぐしゃりと握り締め、壁を殴った。俺がしてやれなかったことを、アキにしてくれる人ができたのだ。それは幸せなことなのだろう。そうなのだ。
 これで良かったんだ。俺なんかといるより、アキは他の人と幸せになった方が良い。だけども喪失感は拭えずに、俺はどうしようもなく痛む胸を抑えるとなかったことにした。
 アキのことを、忘れることにしたんだ。

 今度は一変して抜け殻のようになってしまった俺を、周りは心配していたようだけれどなにも言ってこなかった。いや、言えなかったのだろう。
 季節はいつの間にか梅雨になって、アキと過ごした時間も雨に流されていくような気がした。
 土砂降りの雨の中、ただ立ち竦む俺に声をかけてきたのは誰だったか。振り向けば神妙そうな顔をしている男がいて、困ったように俺に声をかけるんだ。
「……アキのこと、忘れられないのか?」
「そうじゃねえよ。そうじゃねえんだ」
「……お前には黙っていようと思ったんだ。言ったら、お前がまた可笑しくなるんだろうってわかってたから」
「……なにを?」
「アキな、……自殺したんだって」
「……え?」
「いや、自殺未遂か……一命は取り留めたらしいんだけど」
 そこまで言った男に詰め寄って、事情を聞く間もなく病院を聞き出した俺はザアザアと降る雨に足を取られながらも必死になって病院へと走った。
 自殺未遂をしたのは、アキが音信不通になった日。アキを壊した日。アキが耐え切れなくなった日だった。
 あの手紙も俺を安心させるために書いたのだろう。どうして俺はあの手紙の文字が震えていたことや、滲んでいたことに疑問を抱かなかったのか。
 いや、どうしてアキをあんなに苦しめることができたのか。それが不思議で仕様がなかった。
 走って、走って、看護婦に叱られながらも駆けた病院の廊下。アキの名前が書き記している病室を開けば視界が白に染まった。
 病院のベッドに座り、窓の外をぼんやりと見ているアキ。震える声で名前を紡げばその瞳が俺を見つめた。
「……だれ?」
 残酷な、言葉と共に。
 アキは忘れてしまったのだ。俺のことを、俺とのことを、全てを、忘れた。
 今までの記憶を全てなくしたのか、俺のことだけを忘れたのか、俺と出会ってからの日々を忘れたのか、その詳細は知らない。だがアキは逃げたのだ。脳が、心が、辛すぎる現実から逃げた。俺から逃げた。それだけは確かなことだった。
 冷たい目をして俺を見抜くアキ。なにも映っていない瞳。腐ったような瞳。あの純粋な瞳は、もう俺を映さない。
 愕然としたまま立ち尽くす俺に、アキはころころと子供のように笑った。
 ああ、どうして俺は忘れていたんだろう。アキは、笑えたんだ。こんなに幸せに笑えたんだ。俺は一度だってこんな笑顔にさせてやれなかった。傷つけてばかりだったのだ。
 俺とのことを忘れたアキが、幸せそうに笑う。それが全てだった。
 忘れた方が良い。嫌なことも、辛いことも、苦しいことも、忘れてアキは幸せになるのだ。
「……お兄さん? お兄さんもどっか怪我したんですか?」
「……いや、なんでもねえよ」
 窺うように聞いてきたアキに首を振った。そうすればほっとしたような顔。アキは窓の外に視線を向けると、残念そうな表情を浮かべた。
「じゃあお兄さんは誰かのお見舞いにきたんですか?」
「……ああ、そうだよ。もう、その必要もなくなったけどな。悪かったな、部屋を間違ったみたいだ」
「いいえ! 全然良いですよ。一人で退屈してましたから。それにしてもこのところ雨ばっかりで、……晴れないかなあって思ってるんです」
 ザアザア降りしきる雨。俺の心にも、一筋の雨が降り注いだ。
「……雨、止むと良いな」
「はい!」
 そう笑ったアキに俺も笑って、病室を後にした。
 崩れ落ちる身体を支えて、病室の扉に背中を預ける。馬鹿みたいに込み上げる涙を耐えようとしても止まることはなかった。
 今更、気付いたのだ。アキを愛していたのだと。本気で好きになっていたのだと。
 そう気付いても全てが遅かった。もう遅いんだ。全て終わったのだから。
 指の間からさらさらと零れていったアキの記憶は戻らない方が良い。そのままその砂を吹き飛ばして、新たな砂で埋めた方が良い。
 それがアキの幸せになるのだったら、俺はもうアキと会わない方が良い。
 ザアザアと降りしきる雨、どしゃぶりの雨、俺の心にも降り始めた雨。
 あの日から、俺の雨は止まる術をなくしたのだった。