春に許されて 03
 心が安定した場所を見つければ今度は違う不安が襲う。結局はなにをしても終わらせたって、気になるものは絶えずに増えていく。
 五十嵐が水島デルモンテ学園へと戻ってきてからというものの、不安定だった柊の異変が治まった。落ち着きをみせ始め、やつれていた姿も時間と共に回復をみせた。一週間も経てば元通りなもので、冷酷な教師として顔を出すようにもなった。
 幸いにも柊が職員室待機の生活ではなかったために異変に気付いた生徒や教師も少なく、表面上は穏やかな時間が流れていた。
 燦々とした太陽が照りつける夏本番の熱気といえども所謂ここは避暑地であった。街のようにコンクリートで固められてない地面が熱を吸収し、森林に囲まれている所為か比較的過ごしやすい気候になっている。その代わり冬はかなり寒いらしいが。
 五十嵐は吹きつける生暖かな風に目を細めると、脇に抱えていた書類を持ち直した。
「はあ……」
 憂鬱な気持ちは、何故か学園に戻ってくるやいなや五十嵐を襲い始めた。
 夏休みも折り返しとまではきていないが、それなりに満喫している程度には時間が経った。今は職員室待機の順番が回ってきたので、昼間から勤務といえるのか些か疑問ではあるがそんな職務を全うしている。だけどやることは待機くらいなもので他にすることもなく、楽な仕事といえば聞こえは良いが苦痛でもある。
 そうなれば暇な時間、やることもないとなれば思考に耽ってしまうのも致し方ない話。
 悩みの過中といえばやはり柊のことだ。
 あれほどまでわかりやすい態度をみせられれば、自分が特別な存在ではないのかと期待をしてしまうのも自惚れではないだろう。実際柊が情を交わしているのは五十嵐のみになっているし、煩わしいほどの束縛もされる。
 今日はなにをしてたのとか、なに考えてるのとか、どこへ行っていたのとか、口煩いほどだ。五十嵐が休みとなれば部屋から出してもらえないときもあるし、携帯すら奪われる。
 だけどその異常な行動は、柊が未だ落ち着いていない証拠の現われのような気もしていた。
 単に五十嵐に依存して好意をもっているだけでは、そんなことなどしない男だと五十嵐は思っている。過去の経験からいってなにかに恐怖を覚えているからこその行動だとも。
(昔になにがあったのかわかんのが一番手っ取り早いんだけどな……)
 柊は決してその部分にだけは、触れさせまいとしていた。
 お互いにこの状況は限りなく恋に近いものと思っている。大人にもなって初々しくも馬鹿らしい恋愛をしている。そう言ってしまえるほどには自信もあったし、裏づけもあった。
 だけど最後の最後で、薄くて破れそうな膜に阻まれているような気がするのだ。
 五十嵐が真相を聞いたところで柊は絶対に真実を言わないだろう。言葉を濁して終わりだ。もしくはこんなに近付いた距離がまた遠ざかる危険性もある。信じてない訳ではないが、五十嵐だって怖い。
 手を伸ばせば届きそうなほど近い場所にいるのに、まだまだそれは遠くて触れることすら叶わない。許してもらえない。一線を引かれている。
 どんなに近くで見つめたとしてもやっぱり関係はセフレのままで、恋人なんてなれもしない薄情な現実。
(裏切らないのに、もっともっと……信じろよ。俺のことを、見ろよ)
 開いた手のひらを握りしめる。白くなった皮膚は次第に赤味を増して痛みを連れてきた。
 外は目に痛いくらいの快晴。時折生徒の声が混じって健康的な世界を繰り広げていたのに、五十嵐の周りだけが薄暗い。どうにも沼にはまって出られないようだ。
 どんどん沈みゆく思考に歯止めをかけたのは、つい先日五十嵐に有益な情報を教えてくれた生徒でもあった。
 足音が止む。影が差す。顔を上げれば、人がいた。
「五十嵐先生、どうかしましたか?」
 神経質そうに眼鏡を押し上げる生徒こと水島は、五十嵐の前で立ち止まるとそう話しかけてきた。
「あ、ああ……すまない、なにもねえよ。少しぼうっとしていただけだ」
「そうですか。山中で比較的過ごしやすいといっても、一応真夏なので熱中症にかかる生徒もいるんですよ。五十嵐先生も気をつけてくださいね」
 それに対し曖昧に頷けば、水島はなにかを思い出したのか子供らしい笑みを浮かべる。
「そういえばこの間は羊羹ありがとうございます。柳星にあげたら凄く喜んでましたよ。あ、もちろん俺も食べました。美味しかったです」
「そうか、なら良かった。水島は吉原と随分仲が良いんだな? いつも吉原の話ばかりだ」
「まあ腐れ縁ってやつですかね。あいつ格好つけな癖に大の甘党でね、珈琲はブラックじゃないと飲まないとか言ってるんですけど本当は砂糖たっぷりのカフェオレしか飲めないんですよね。羊羹やったときも美味しそうに食べてましたよ。ココアと一緒に食べるのはどうかと思ったんですけどね」
 嬉しそうに捲くし立てる内容は酷く子供っぽいもので、よほどその瞬間が楽しかったのか物静かな水島のイメージが変わっていった。
 それもそうか、教師に見せる顔と友人に見せる顔が違うのは当たり前だ。こんなに大人っぽくみえても水島も所詮高校生だ。なんだかそう思うと五十嵐は急に自分が子供っぽく思えてきた。
(でもこんな歳になっても恋のひとつやふたつで振り回されるんだよな)
 きっと大人だからこそ拗れる。お互いが水島のように、そう高校生だったとしたら例え傷付けられて恐怖を抱えていたとしても、それを乗り越えようとする若さがあったと思う。
 変に歳を重ねてしまえば保身ばかり考えて、傷付かない方へ逃げることを選択する。もうあんな痛い思いはしたくない。傷付きたくない。平穏で生きていたい。このままでいたい、と。
 五十嵐だって、そうだった。そうだったじゃないか。
「……五十嵐先生?」
「あ、ああ……悪い。なんだっけ……?」
「可笑しな話ですね、柊先生の様子が戻ったと思ったら今度は五十嵐先生が変ですよ。なにかあったんですか?」
「なにかって、ほどじゃねえよ……。ちょっとな、若いって良いなって思ってただけだ」
「なんですか、それ。五十嵐先生もまだ若いじゃないですか」
「お前らには負けるわ。十代と二十代には大きな差があるんだよ」
 息を止める。思考が悪い方へと誘いをかける。目の前にいる生徒は極普通の生徒に見えても、水島デルモンテ学園の理事長の一人息子でもあるのだ。それはつまり、どういう意味を指す。
 警報が鳴った。だけど唇が動く。止める術はどこにも、ない。
「……なあ」
 水島の眼鏡が光を反射して、表情を隠す。五十嵐はなにを言ってしまうのか。口走ってしまうのか。やめたくても、やめられない。どうにもならない。
 喉から出た声は、心の淵で燻っていた悩みそのものだった。
「教師の、個人情報……って、さ」
「調べられますよ。簡単にね。……柊先生のことでしょう? 五十嵐先生が知りたいのは」
「あ、いや、その……悪い。やっぱ、やめとくわ」
「なんでも教えてあげることもできますけど、どうされます? この間の羊羹のお礼です。柳星を喜ばせてくれたことも兼ねて、なんでもしてあげますよ」
 水島が紡ぐ言葉は呪文となって五十嵐を拘束した。罪の誘惑は、甘そうな果実となって目の前に置かれたのだ。
 ここで手をとってしまうのは簡単だろう。きっと五十嵐の知りたいことの全てを差し出してくれる。そんな気がする。いや、気ではなく、その通りだ。
 だけどそれは柊を裏切ることに近い行為なのではないか? だけどこのままじゃなにも進まない。苦しいまま。五十嵐だけが、苦しいまま。
 喉が渇く。足が固まる。心臓ががなり立てる。心が凍る。五十嵐は震える唇で、息を搾り出すようにして吐いた。

「五十嵐!」
 怒った顔をして、大声で名前を呼んだ柊がこっちを見ていた。五十嵐はそれを目に留めると情けなくも手をひらひらとさせて返事をした。歩み寄る気力はない。
 もう見つかってしまったのか、と残念に思うだけ。上手く隠れたつもりでも結局は箱庭に閉じ込められている状況、逃げる場所などない。帰る場所だってひとつしかないのだから。
 夕方にも近い夏の日暮れは一瞬だ。山を染める朱を中庭でぼうと見ていただけといっても、普段の生活を考えればこれは逃げになるのだろう。現に就業時間を過ぎても帰ってこない五十嵐を心配に思ってか、柊が捜すぐらいだ。
 だけど五十嵐は柊に会わせる顔がなくて、できれば会いたくなかったというのが本音だった。そんなことは無理だとわかっているけれど。
 水島と話してからというもののどうも仕事に身が入らず、なにをして過ごしたのかも記憶にない。仕事をしたかどうかさえわからないほど一瞬で時間が過ぎてしまった。
 後悔ばかり重ねても過ぎた時間は戻らないし、出した言葉も消えない。
(最低だ……)
 柊が目の前で止まる。ベンチに座っていた五十嵐を引っ張るように手を掴んできたが、五十嵐は微動にしなかった。
「ちょっと、あんたふざけてんの? 早く帰るよ」
「悪い。今日はお前の顔をまともに見れそうにない」
「はあ!? なに馬鹿なこと言ってんの! なにがあったか知らないけど、愚痴なら部屋で聞くから。さっさと立って」
「柊、ごめん」
 項垂れた五十嵐に、柊も流石に様子が可笑しいと気付いたようだ。面倒臭そうに溜め息を吐くとここから連れ去ることを諦めたのか、どかりと音を立てて隣に座った。
 夏特有の生温かい風が二人の間を吹き抜ける。間近にある体温のあたたかさに絆された五十嵐は言いづらそうに唇を迷わせると、言葉を吐いた。
 懺悔を何度しても同じことを繰り返してしまう。そういう歪が心を弱くするのだ。
「ごめん」
「……だからさ、謝っても意味わかんないんだけど。五十嵐主語って知ってる? 担当教科じゃなくても流石にそれぐらいわかるでしょ」
「お前がさ、……悩んでる理由っていうか、過去っていうか……そのこと、調べようとした」
 言ってしまった言葉の羅列は音となって柊の耳に届いた。瞠目させた瞳をこちらに向ける気配がわかる。五十嵐は見ていられなくて、両手で顔を覆うと視界を閉ざした。
「調べようとして、……やめた。やっぱそういうの本人の口から聞かねえと駄目だし……でも調べようと、迷ったことは事実だ。ごめん」
 懺悔のような告白に、柊は息を飲み込むと黙ってしまった。
 あのとき、水島に言われたのは甘い誘惑だった。きっと五十嵐のほしがっているものを簡単に用意できる術を手にしていたのだろう。証拠も残さずに、それが可能だった。そうして五十嵐も、水島から知り得た情報を黙ったままにしておけばなにも変わらなかったのだ。
 だけどそれができなかった。どうしてもできなかった。
 知りたくないといえば嘘になる。調べようかと迷った程度にはそれを知りたがっていて、柊に近付きたかった。だけどそうして得た偽者の壁を取り払ったってなんにも解決はしていないのだ。
 柊の唇から紡がれることに意味がある。信用されていることに、手を伸ばしてもらえることに、トラウマじゃなくなっていることに。
 やっぱり良いと言った五十嵐に対し、水島はにこにこと笑っていただけ。なにも聞かず、なにも追及せず、ではまたと涼しそうな表情で去っていった。それを見つめて立ち竦んだ五十嵐。襲ったのはやはり後悔だった。
 聞かなかったのだからわざわざ柊に言う必要もなかっただろう。そう思いはするものの、一度でも誘惑に乗っかってしまいそうになった心を留めておけるほど嘘が上手につける訳でもない。
 一度でも嘯いてしまえばそれを続けなくてはならない。それが、それが嫌なのだ。
 沈黙が支配する空気。重くて圧しかかる。俯いた五十嵐に触れたのは、冷たくてあたたかな柊の手だった。
「普通さ、そういうの黙ってるよね。なんであんた言うんだろう。馬鹿じゃない」
「……隠しておける性格でもねえしな」
「俺はあんたの過去、調べたよ。それであんたのこと知った。脅した。そんな始まりだってことも忘れた? あんたも調べればお互い様だったのに、変に真面目でほんと、やっぱ馬鹿」
「そういえばそうだった、な……」
「……俺だって秘密にしてる訳じゃない。いっそ調べてくれた方が楽かもしれないしね」
 柊の瞳が淡く滲んでいく。その感情を汲み取ることができた五十嵐は、触れた手のひらを握り返した。
 傷が疼いている。それをなぞらえるのも思い返すのも簡単なことだ。だけど言葉にして誰かに言うのは、とてつもなく途方もない苦行に近い。
 五十嵐とて全てを言葉にした訳ではなかった。柊が言うように、柊の調べてきた情報に補足をした程度なのだ。
 きっと調べられなかったら、全てを言葉にして、過去にして、言うのはきっと辛いことだっただろう。後悔しているからこそ、傷として残っているからこそ、それが酷く難しい。
 解決しても、過去にしたことや感じた後悔は一生消えることはない。
 だけど五十嵐は柊が言うように調べることもできなかった。望んでいることそのものが柊の傷を増やすだけにしかならなくても、その唇から紡がれるのを待ちたかった。
「あんたってさ、……ほんとどうしようもないほど真面目で馬鹿正直で……放っておけないね」
「柊」
「五十嵐に裏切られたらそれこそ俺はどうしようもなくなると思う。……今以上に。それほどあんたのことばっか考えてるって、あんたは知りもしないだろ?」
「俺は、裏切らねえよ」
「……そうだね。そんなあんたに、どうしようもなく……はまってるんだ。俺が、そうだよ、あんたが好きだ」
 夕闇が沈んで、濃紺に覆われた世界。だけど空気の澄んだ山間の星空は明るくて、薄紫に染められている。
 きらきらと光る星のようなそんなロマンチックなものではないけれど、五十嵐の待っていた言葉を投げかけてくれた目前の愛しい人に、どうにもできなくなった。
 脳が霞んでいく。固まった心臓は動きそうにもない。だって、だって、こんなの。
(嘘だろう)
 嘘じゃない。痛みが集う。唇を強く噛むような、そんなキスを嗾けた柊は今までで一番清々しい笑顔で五十嵐を見ていた。
 その子供のような、大切な人の前でしか見せないような、そんな表情に魅せられる。
 嗚呼、水島が一瞬見せた表情を常に誰かに向けるのと同様に、柊もそんな表情を五十嵐に向けてくれているのか。大切な人として手を握ってくれているのか。
 胸が震えた。痛みに軋まない代わりに、狂おしさで千切れてしまいそうになった。
 期待をしていたといっても、いざ現実として突きつけられればその感動もよりいっそう強いものだ。五十嵐は柊の頬に触れると、もう一度だけとキスを強請る。
 ここがどこかだなんて、誰に見られているかもなんて、どうだって良い。どうだって良いのだ。
 誂えたかのような美しい夜空と、静かな空間と、愛しい人がいるだけで、もうそれだけで良い。
 心が、満たされていく。幸せに、満たされていった。雲が晴れた五十嵐の心に、雨は降りそうにもない。