傍にいた落とし穴 03
 バタバタと廊下を走る音。 段々近づいてきたかと思えば、パタリと障子が開かれた。
 今にも泣き出してしまいそうな表情をして部屋に入ってきた望月。 和泉はそれを見てぽかりと口を開けた。
 先ほど凛と出かけたはずの望月が帰ってきた。 だが遊んできたにしては早すぎる。
 望月の表情からしてなにかあったと悟った和泉はなるべく優しい声色を出すと、望月の方を向いた。
「柚斗、おかえり! 早かったね」
「あ、ああ……」
「あ! 原稿は見ちゃ駄目だよ! これは企業秘密なんだから」
「……蓮」
「そんな顔しても駄目。見せてあげない」
 和泉の顔を見た途端、安堵の笑みを浮かべた望月。 その様子に気付いていながらも、和泉は見知らぬふりをした。
 近付いてくる望月に慌てて原稿を纏めて隠すと、和泉を抱きしめようと伸ばされた腕を甘受する。
 望月が和泉に甘えるなど非常に珍しいことである。 それほどのことがあったのか、知りたいけれど聞けるはずもない。
 和泉は望月の背中に腕を回すと、落ち着かせるように背を撫ぜた。
 一言も発さないまま、ただ刻々と時間が進む。
 望月と一緒にでかけたはずの凛は未だ帰らず、どこにいるかも不明だ。
 和泉は慣れないながらも望月をあやすと、落ち着くまでそうしていたのであった。
「蓮……俺、さ」
 望月がなにかを言いかけた瞬間、がたり、玄関の開く音がした。 それに望月は大袈裟に身体を揺らす。
 どうやらこの様子から見て凛が関係していることは歴然たる事実のようだ。
 和泉は望月を安心させるように頭を撫ぜると、そっと立ち上がった。
 その様子に首を傾げた望月。 和泉はにっこりと微笑むと、どんと胸を叩く。
「柚斗、今日はお泊りね。あ、でも兄貴は立ち入り禁止にするから安心して!」
「え? あ、いや」
「ちょっと今から話してくるし、ここで大人しく待ってて」
 できれば帰りたい。 凛と一緒の空間にいることが辛い。 だが和泉と一緒にいたい。
 複雑な思いが混ざり合う望月の心。 しかしここは大人しく和泉のいうことを聞いておく方が良いのだろう。
 望月はゆっくり頷くと、和泉を見送った。
 ゆっくりとした動作で障子を閉める和泉。 長く続く廊下の先には、いくばくか機嫌の悪い凛の姿があった。
 和泉は凛に近付くと、これ以上進ませないという意思表示で凛の前に立ちふさがった。
「蓮ちゃん……わりい、柚斗いる?」
「だーめ。柚斗は俺のもの。兄貴には会わせません」
「ちょっと話あんだよ。蓮ちゃん、お願い、通して?」
「駄目ったら駄目! 俺、話聞いてないから事情とかわかんないけど、今回の件、兄貴が原因でしょ」
「……知らねーよ。柚斗が勝手に怒ったんだろ」
「ちゃんと原因があるはず。柚斗が勝手に怒ることないって、わかってるでしょ? 俺たち、何年一緒にいるの? 変化にも気付かない? なにもわかんないの? ねえ」
「……そんなの」
「兄貴も一回頭冷やしてきたら。自ずとわかると思うけど……」
 頑としてそこを動かない和泉。 凛の力ならば強行突破もできるのだが、和泉に弱い凛だ。 そんなことができるはずがない。
 凛は苛々と爪を噛むと、和泉の部屋の障子を睨みつけた。
 確かに原因ならば、理解している。 凛自身も同じことをされたら腹が立つだろう。
 だがそこまでだ。 その場で言うなりすれば良いものの、勝手に帰ってしまうなど、そっちの方がありえないだろう。
 一体どうしてあんな表情をしていたのか、それも凛にはわからない。
 それを知るためにも望月と会話をしなければならないのだが、今のところは顔を合わすことすらできないようだ。
 がしがしと頭を掻き毟ると、とうせんぼをしている和泉の身体を抱き締めた。
「ちょ、ちょっと! 兄貴! なにすんの!」
「……蓮ちゃん、俺もう駄目かも」
「……はあ?」
「柚斗に苛々する。すっげえむかつく。ありえねーだろ、ほんとに……」
「……兄貴のがありえないでしょ」
「違うんだ。もう、駄目なんだよ、俺。……ほんと、駄目だわ」
 ぶつぶつと望月の悪口を呟きながら、腕に丁度良い感じでフィットする和泉の身体をきつく抱きこむ。
 凛の心中は穏やかではない。 冷静になれない。 ごちゃごちゃとしている。 まさに混沌だ。
 頭を冷やしたって、とてもじゃないが望月と冷静になって会話ができる自信などなかった。
 凛が世界で一番大事にしている和泉。 その和泉の顔を見れば心も落ち着くし、癒される。 和泉が好きなのだと、実感する。
 だけども心のどこかで、歪んだ顔の望月がちらつくのだ。
 いつの間にか、凛のいつも側に望月がいた。 オタクトークに嫌々ながらも相槌をうってくれたし、返答もしてくれた。
 和泉が生む空気とは違うものを、作り上げてくれたのだ。
 いつだって望月の側では素でいられた。 そんな気がするのだ。
 凛が初めて抱いた気持ち。 和泉に対する思いでもなく、恋人に対する思いでもない。 友達に対する思いとも、違うような気がする。
 しかしそれを追求してしまうのは、憚られる。 その意味を問うことにすら、臆病になっている。
 ぎゅ、と力を込めた凛に、和泉は深く溜め息を吐くと凛の背中を撫ぜた。
「……ほんと、二人とも世話が焼けるね」
「……なに。兄貴が甘えたら駄目だっつーの?」
「そんなこと言ってないじゃん、もー……。でもね、今はさ、柚斗も戸惑ってんの。兄貴もだろうけど。だからさ、暫くはそっとしておいて」
「……俺は? 俺の答えは、誰が教えてくれるの?」
「さあ? 兄貴の答えも、柚斗の答えも、自分で見つけるの」
 ぽんぽん、と背を叩くと、和泉はゆっくりと凛を離した。
 廊下の薄暗い灯りで映しだされた凛の表情。 眉をハの字に下げて、唇を尖らせている。
 いつもよりも子供っぽい仕草の凛に和泉は笑みを浮かべると、手を伸ばして額を撫ぜつけた。
「じゃあ、部屋戻るね。兄貴、良い夢見て。おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
 凛はそっと和泉を引き寄せると、頬に唇を寄せてから元きた道を引き返す。
 和泉は凛の姿が見えなくなるまでその場に立っていた。
 ほ、と息を出し、和泉も自室に入るべく障子を開く。 そこにはぼんやりと窓の外を見つめる望月の姿があった。
 ここまでくれば、鈍いと言われる和泉といえども粗方の筋は見えてくる。
 しかしまさか望月が、という思いが強いため自ら口に出すことに多少の躊躇いがあるのだ。
 こうなってしまった原因は少なくとも和泉がきっかけだったので、今更無関係を装うのも白々しい。
 どうしようか、と思案する和泉に気がついた望月は振り返ると不安そうにこちらを見つめた。
「……凛さん、怒ってた?」
「……怒ってるっていうか、うーん。まあ、兄貴も兄貴なりに悩んでるんだよ。今はお互い冷静になってさ、ゆっくり考える時間も必要だと思うよ」
「そう、か? 俺、良くわかんねーよ、ほんと……」
「……難しく考えないで、ね? 柚斗、無理して言わなくて良いから。今日はもう寝よ」
 無理をして言葉を紡ごうとする望月を無理矢理布団へと誘うと、かけ布団をかける。
 和泉自身、身に覚えのあることだ。 こういうときは冷静になった方が良い。
 ぽんぽん、と落ち着かせるように布団を叩く和泉。 穏やかな表情。 いつも通りだ。 望月が好きで堪らない、和泉の姿。
 それに酷く安心する己がいて、望月は視線を伏せた。
「……蓮、俺、すきになったんだ」
 蚊の鳴くような声で、ぽつりと言った望月の言葉。 全てを言わなくても、和泉は理解していた。
 項垂れてしまった望月の頭を撫ぜてやりながら、和泉からは言葉をかけることをしないでおいた。
 そのまま望月も言葉を発することなく、二人はただひらすたに時間が進むのを感じていたのだった。

 ほうほう、と鳴く鳥の声。 望月は目をぱちぱちと瞬かせるとむくりと起き上がった。
 ほろほろする眼を擦り、辺りをゆっくりと見回す。 そこは慣れ親しんだ和泉の部屋であった。
 そういえば、と記憶を辿れば和泉に凛への想いを吐露した後、知らずに眠ったようだ。
 窓の外を見ればまだ暗い。 時間にすれば夜半過ぎなのだろう。
 張り付くような喉の痛みを和らげるために望月は水を飲むと、そのまま和泉の部屋を出ていった。
 和泉が言ったように少し冷静になって考えた方が良さそうだ。 悪足掻きだと言われそうだが、もう一度良く考えて、結果を出さなければならない。
 ほぼ確定したようなものだが、勘違いという線も捨て切れない。 というよりは認めたくないのだ。
 はあ、と息を吐いて見上げた空。 欠けた月が、ほんのりと辺りを照らしていた。
「……ちょっと、餓鬼っぽかったよな」
 そう、なにも帰ることなどなかったのだ。 あのときはカッとなってああいった行動に出てしまったが、普通に嫌だと言えば良かったのだ。
 和泉が凛と同じことをしても、望月は嫌だと感じる。 あの行動は誰がしても、不快感を覚えるものなのだ。
 なのに気持ちがばれたくないと焦ってしまい、口にすることもせずに逃げ帰ってしまった。
 流石にそんな行動をとられれば、凛も怒ってしまうだろう。 当然だ。
 結局はどちらとも悪いのだ。
 明日、凛に会って話をしよう。 恋心を抱いてしまったといえど、友人関係を終わらせることはない。 これからも幼馴染としてやっていくのだ。
 きっと夏が過ぎれば、この想いも過ぎ去っていくのだろう。
 一夏の過ちだと、思えば良い。 いつかは思い出となり、笑っていえる日がくると良い。
 自嘲気味に笑みを零すと、望月は縁側に寝そべった。
 夏の夜の温い空気が望月をじんわりと包んでくれる。 ここで、眠ってしまえそうだ。
 うつらうつらとそのようなことを考えていた矢先、みしり、と床の軋む音がした。
 ふと目を開き音の方向を見つめれば、望月の悩みの種でもある凛がこちらに向かって歩いてくるではないか。
 逃げなければ、と頭の隅で警報が鳴る。 しかしここで逃げれば状況は悪化するばかりだ。
 硬直してしまった望月の前までくると、凛はなにも言わず、その横に腰を降ろした。
「……凛さん?」
「なげきとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな。……西行法師も案外こういう月を見て、詠んだのかもしれないよな〜」
「えっと……意味、良くわかんねえっす……」
「まあわかんなくても良いよ。……つかさ、俺も、悪かった」
 凛に似合わないしゅん、と項垂れた姿。 予想外にそれが可愛くみえて、望月は起き上がった。
 先ほどまで悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
 窺うように望月を見ている凛と視線を合わせると、望月も少し頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
「俺も、大人気なかったです。なんかあんとき、カッとしちゃって……すんません」
「良いよ、もう。おあいこってことで、さ? 仲直りしよー」
「はい、そうっすね」
 その望月の言葉で、にっこりと笑った凛はそのまま望月の手首を掴むと後ろに倒れこんだ。 その衝撃につられ望月も床へと寝転ぶ。
 視線の先には嬉しそうな凛と、欠けた月。
 例えこの恋が実らなくとも良いような気がして、望月は目を瞑った。
 和泉の次に特別にしてくれたら良い。 たまに俺のことを思い出してくれたら良い。 そうして楽しかったと思い出し笑いしてくれたら、それだけで良いのだ。
 和泉が言うように、凛だから、惹かれたのだと思う。
 だからこれ以上、望むことなどない。 和泉のように上手くいく恋もあれば、たゆたって消えていく恋もあるのだ。
 握られた手首に意識を持っていかれながらも、凛が紡ぐ言葉に耳をすませる。
 何度か相槌をうちながら、笑って、困って、ときに悩んで、望月と凛は会話を膨らませていった。
「……あ、そういえば、さっき詠んだ良くわかんない言葉あるじゃないっすか。あの意味なんて言うんすか?」
「さー? 秘密。調べてみたら〜」
「えーあんまり覚えてないんすけど! ああいうの、俺苦手っていうか……」
「柚斗は追試の常連だったもんな。わかる訳ないっていうね〜」
「……今は追試してませんし」
「蓮ちゃんに教わってるんだろ? さっすが俺の蓮ちゃん! 顔よし頭よし器量よし、言うことないっていうか〜」
「……ほんとブラコンですね。まあその気持ちわかりますけど」
 耳に馴染む凛の声。 いつしか遠くなっていくのを感じながら、望月は瞼を伏せた。
 必死になって睡魔に抗ってみるも、結局は吸い込まれるようにして眠りへと入っていってしまう。
 そんな望月に気がついたのは、相槌が徐々になくなっていったころ。
 横を見れば、気持ち良さそうに眠っている望月がいて、凛は笑みを零した。
 少しだけ気まずくなって、凛は和泉のいうように自分なりに望月のことについて考えてみた。
 そうすれば驚くほど簡単な答えを出してくれた、心があった。
 それを否定する気持ちもなければ、躊躇うこともない。 ああ、そうなのだ、とすんなりと受け入れられたのだ。
 和泉みたいにただどろどろに甘やかしたいのではない。
 望月に甘やかしたい思いもあるが、甘えたい思いもあるのだ。
 ううん、と唸る望月の前髪をどかしてやりながら、そっと顔を盗み見る。
 自分と対して変わりを見せない身長に体型。 テニスをしている所為で筋肉もある程度ついているし、中性的なところもない。 男そのものの望月。
「……可愛いって言ったら、どんな顔すんのかな〜。お前は」
 皮肉にも、件の喧嘩のお陰でこの気持ちに気付くことができた。 これが正解だと、誰も教えてはくれない。
 だが後悔はしていない。 惹かれるままに惹かれてみたら、そうなったまでなのだ。
 気持ち良さそうに眠る望月は気付いているのだろうか。 いや、気付いてなどいないだろう。
 凛はゆっくりと腰を屈めると、薄く開いた唇に己の唇をくっつけた。 ただ、触れ合うだけのその動作を、キスといって良いのかは定かではない。
 じんわり、と広がるような温かさ。 凛が望月に対して抱いている気持ち。
 日に焼けた頬に手を寄せ、凛はもう一度その唇を奪った。 その行動を知るものは、誰もいない。
 何気なく、ふと思い出した詩を望月の前で詠んだ。 深い意味など、なかったはずなのだ。
 だが、この夏が過ぎれば、思い返すのだろうか。 西行法師が感じたように、凛も月を見るたびにそう思うのだろうか。
 そう思ったところで凛は自嘲した笑いを零すと、夜空を見上げた。
 代わり映えのしない景色だからこそ、人はそこに想いを映すのかもしれない。
 凛は望月から身体を離すと、寝転ぶようにして隣に身体を横たえた。
「おやすみ、柚斗。……明日も、原稿手伝ってくれよな」
 繋いでいた手首を離し、指を絡めるようにして握りなおす。
 きし、と軋む床の寝心地は最悪だが、望月と一緒ならば多少は我慢できよう。
 凛はそのまま目を瞑ると、己の心を静めるかのように眠りに入ることにした。
 夏休み終了まで後少し。 それは望月にとっても凛にとっても、一緒に過ごせる時間のタイムリミットが近づいているということを意味していた。