「あー……クソッ」
煙草のフィルターを噛んで恭介は悪態を付く。隔離された喫煙ブースで独り乱れた頭を掻き毟るとずるずると壁を伝うようにしゃがみこんだ。
慶が家を出て行ってしまった。それは事実として受け止めてはいるものの、納得はしきれていない。
確かに先日のことについては恭介の方が分は悪かった。幾ら仕事が煮詰まっていたといえ、関係のない慶に八つ当たりすることは許されたものではない。
だが出て行くとはどういった了見なのだろう。正直にいえば出て行かなくても良いのではないだろうかと思っている。
美容師のコンクールだかコンテストだか恭介にはいまいち理解しきれていないが、その所為で慶が家を空けることなど今までなかった。仕事が忙しくて帰ってこられなかったとしても、だ。
明らか避けられている現状に恭介は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、息の長い溜め息を吐いた。
「……二週間、か……」
仕事に追われる二週間はあっというまに過ぎゆくものだ。だが残念ながら、恭介のプロジェクトは一段落ついてしまっていた。
元々歳も若い恭介が主任を勤めるプロジェクトとなれば恭介自身にとっては大きいものでも、会社からすれば小さなものである。腕を試すという意味も含まれているそれは元より期待などされていなかったのだ。
故に激務をこなしてきたといえどもそれは先日までの話で、あの後直ぐに終わりをみせてしまった。
結果からいえば成功はしたと思う。市場に出してから初めて成功か不成功かという結果になるのだが、企画が通ったということに関しては一先ず成功といえよう。
これからまた通常業務に戻り、プロジェクトの経過を見ながらまたいつも通りの日々がやってくる。はずだった。
「……ったく、なんでこうなんだよ……」
新しい煙草に火を付けて煙を肺に送り込む。むしゃくしゃとした気持ちを拡散させようと煙草を吸ってみるも、恭介の脳内には慶が居座り続けてどいてもくれない。
まともに会話もできなかった。顔も見られなかった。温もりさえ感じられなかった。昔のようにベタベタとした関係でなくなったといえども、心に在り続ける情は少したりとも減ってなどいない。寧ろ増え続ける一方だ。
普段は素っ気ない態度で慶が不満を漏らすほどに適当な態度ばかり取ってきたものの、裏を返せば慶の愛情表現があるからこそそれに胡坐を掻いて余裕ぶっていた。
本当は恭介とて慶が言うように、そういちゃいちゃだって望んでいるのだ。
激務の後の静けさが今だけは虚しい。会社が設けた暫く残業なしという嬉しいお達しも、慶のために取った有休も、肝心の慶がいなければ意味がないではないか。
次第に沸々と沸いてきた思考は慶を責めるものばかりで、恭介はこんな性格にほとほと嫌気が差したのである。
「主任! こんなとこにいたんですか?」
「……あ? んだよ、なんか用かよ。今は休憩中だ」
「いや、わかってるんですけどね。プロジェクトチームのことでお話があって」
「もう終わっただろ? 後は結果を待つだけだ」
二の句も紡げないほど遮断的な言葉に、一緒のプロジェクトチームで頑張ってきていた新入社員は苦笑いを零すと恭介に缶コーヒーを手渡した。
どうやら虫の居所が悪いらしい様子に戸惑いはしたものの、案外優しいということはわかっている。なんだかんだ言いつつ疎外されることなどないと知っているのだ。
苦虫を噛み潰したかのような、そんな複雑な表情で缶コーヒーを睨む恭介に新入社員は極力明るい声を出すことに努めると本題を切り出した。
「あの、この間言ってたじゃないですか。プロジェクトも無事に成功したので打ち合わせしましょうって。その日程が決まったのでお知らせにきたんですよ〜」
「ああ……で? いつだ」
「今日です! はは、言うのすっかり忘れちゃってて」
「俺の奢りだろーが、都合悪かったらどうすんだよ!」
「そうなんですよね〜……主任いけそうですか?」
「……まあ良いけどよ、予定もねえし……」
「あー良かった! じゃあ店に連絡しておきますね。今日仕事が終わったら正面玄関で待ち合わせってことで良いですか? なにかあった場合は携帯の方に連絡ください」
「おお」
片手を上げてひらひらと動かしてみるものの、この新入社員にこにこと笑うだけでそこを動こうとしない。訝しげに見つめた先には瞳を爛々と輝かせながらずずいと近寄ってくる姿があった。
「それより主任、恋人いるんですか? 女性社員専らの噂ですよ」
「ああ? 恋人がいようがいなかろうが関係ねえだろうが」
「それが関係あるんですって〜! 主任モテモテなんすよ! で? いるんすか!?」
「……まあ、いるけど……喧嘩中だ。あいつ家出て行きやがって……なにもそこまでするこたねえだろ! 第一独りになってなにを考えろっつーんだよ! ゆっくりもなにもてめえが出て行きやがった翌日にゃ仕事が終わったんだよ!」
「主任……?」
「なにが温泉行きましょ、だ! 勝手に決めんじゃねえ! 帰ってきたらぜってえぶん殴ってやる!」
「ええ、主任DVっすか!?」
目を真ん丸とさせている新入社員に凄むと、恭介は溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように全く関係のない事情も知らぬ新入社員に不満を思い切りぶちまけるのであった。
唐突に決まった打ち上げになんの支障もなく、恭介は参加できてしまう自分の立場が恨めしかった。本来ならばお金だけ出して途中で抜け出し、慶にビールの一つでも買って帰ってやるところだがいない慶のために買うビールも糞もない。
なのに帰りの道中、寄ったコンビニで慶好みのものばかり買ってきてしまうのは一体どういうことなのだろうか。
恭介は苛立ちを露に乱暴に家へと戻ると、誰もいない真っ暗な部屋にあかりを灯した。
「……、あークソ! ぜってえ……」
悪態を付いても咎めてくれる相手はいない。
ビールは飲んだ。腹も満腹だ。それでもどこか満たされずぽっかりと心に穴が空いてしまったような気持ちなのは、独りという現状が思ったよりも不安だからなのだろう。
十年も一緒に住んできたのだ。いないとなればその喪失感も頷けるもの。
例え顔を見なくとも会話しなくとも、ここに帰ってくるという確証が大事な訳で、恭介は乱雑にソファへと沈むとネクタイを緩めてTVを付けた。
『では次はスポーツニュースです。スズキさんどうぞ』
見慣れたアナウンサーが映し出され、本日のスポーツを事細かに説明してくれる。既に居酒屋で話題に上ったこともあって結果を知っているのにも関わらずついつい見てしまうのは野球好きの性なのだろう。
恭介はキンキンに冷やしたASAHIビールのプルタッグを開けると、一気に中へと流し込んだ。
『今日は猛虎がやってくれましたね〜! 阪神調子良いですね、これで連勝です。首位に踊り出ました!』
『しかしその後から巨人が迫ってきてますねからね。ゲーム差1なのでどうなるかわかりませんよ』
『まあまだ始まったばかりですからね。今年はどのチームが優勝するのでしょうか。次はパリーグです』
ぼんやりと映し出される野球のニュースに、内心ゆら立つような怒りは覚えるものの声を張り上げて猛撃することもできない。
張り合う相手がいなければ、むかつく、そのたった一言で片付けられてしまうのだ。
阪神が勝って、巨人が負けている。それは恭介にとって由々しき事態なのに、どこか無感動な己がいて情熱的になりきれない。
慶と一緒にいて、野球のことで喧嘩して、二人して冷えたビールを飲んで、ASAHIだの麒麟だので揉めて、すっきりとした気持ちの中ベッドで眠る。そんな日常が、酷く恋しい。
「……死ね! おかま野郎!」
本人のいないところで罵ってみたけれども、当たり前の如く返ってくる声などない。肌恋しくなった恭介は思う限りの罵詈雑言を並べ立てると、携帯を見て極悪人面になるのであった。
その一方美容室では、ぐだぐだにだらけきった慶が美容師たちに邪険にされながらもアドバイスをしている光景が広がっていた。
慶の方から家を出て行く話を切り出した癖に、軽いホームシックに陥ってやる気も半分に溜め息ばかり吐いている。
軽はずみで言ってしまったことに後悔をしてももう遅く、期間まで言ってしまったために慶は帰るに帰れない状況になっていた。
恭介は一体なにを考えて今を過ごしているのだろう。慶と同じで寂しいと少しは思っていてくれているのだろうか。それとも慶のことなど気にした素振りもなく自堕落に生活をしているのだろうか。
それすらわからない。慶も根っこの部分では意地っ張りなところがあるのか、連絡をしてしまえば済むもののそれすらできずに悶々と愚痴を言っては落ち込んでを繰り返していた。
最初は親身になってくれていた太郎も美容師も、それが続けばもう反応すらしてくれない。慶は恨み篭った視線で泣き言を言ってみるものの、背中を押されて排除されてしまう始末であった。
「あ〜ん! みんな冷たいわ! 私と恭ちゃんの話聞いてよ!」
「店長、毎日言ってますよね。もういい加減帰ったらどうですか? 早く仲直りしちゃえば良いじゃないですか」
「そうですよ。そこまで言うんなら帰った方が良いですよ。こんな調子じゃチーフだって家に女の人連れ込めないじゃないですか」
「良いのよ、たろちゃんは恋人いないもの。それよりねえ、どうしたら良いのかしら……ああ、恭ちゃん不足で私死にそうよ……!」
がっくりと肩を落とした慶に遠くから掛かる声。
「店長〜! カット技術見てほしいんですけど〜!」
「はーい、はいはい。待って今行くわ〜」
途端に表情を仕事用に切り替えた慶は、声のする方に駆けていくと丁重に仕事を教えた。
誰よりも長く働いている慶の見目には疲労が色濃く出ている。それなのにも関わらず、仕事面に置いては泣き言を一切言わないのだ。そう恭介のこと以外ではなにも言わないからこそ、美容師たちもそんな店長を疎外することができず、結局は話に付き合ってしまう。
先ほどとはがらりと変わった慶の背中を見て美容師たちは顔を見合わせると、今夜も愚痴に付き合ってやるか、とそう秘密裏で頷きあった。
それから変わりなく営業を終えた美容室では、残業のような練習がいつものようにニ三時間行なわれた。あまりやり過ぎると翌日に響くということもあってか程々にしているのだ。
日付は越えていないがあと一時間もしたら次の日になってしまう二十三時、今日とて帰りにつくのは日付越えだろうと、そう恭介が思っていた最中ポケットに入れていた携帯がブルブルと振動した。
太郎だろうか? 今日は買い付けがある所為で美容室を空けていたので、なにか連絡事項でもあったのだろう。そう思って携帯を取り出せばそこには思ってもみなかった人物の名前が表示されていた。
「え! え、え、え! きょ、恭ちゃん!」
あわあわと慌てだした慶は後片付けをしている美容師にジェスチャーで断りを入れると、通話ボタンを押した。
「恭ちゃ――」
『慶! てめえ今どこでなにしてんだ!』
「え、え? なにって美容室にいるけど……」
『てめえの休みは確か明日だったな?』
「ええ……でもコンテストが近いから、夜には顔を出しにこなきゃいけないのだけどね。営業時間はたろちゃんに任せても、コンテストはやっぱり――」
『そんなこと聞いちゃいねえんだよ! とりあえず明日の夜まで休みなんだな!?』
「……ええ」
脈略のない会話に慶ははっきりとした恭介の意図がわからず、困惑した返事しかすることができなかった。
あの日、喧嘩という喧嘩ではないがそれなりに気まずい思いで家を出たのだ。二週間も帰らないと宣言した手前それを覆すこともできず、恭介とてわかっているからこそ今まで連絡もしなかったのだろう。
それが一体どういうことなのだろうか。酒でも飲んで酔っ払っているのだろうか。自棄に意気込んだ恭介の言葉に二の句も継げず、慶は頷くほかない。
「あ、の、恭ちゃん?」
『知ってるか? 酒は誰かと飲むからうめえもんだって。ご飯も、野球観戦も、全部そうだ』
「……そう、ね」
『阪神が勝ちやがって首位だっつーこと知ってんのか? 巨人が負けてることも!』
「ええ! そうなの!?」
『……プロジェクト、終わった。成功した。やっと忙しい日々から解放された。……残業もなくてよ、時間有り余ってなにして良いのかわかんねえ。あ、でも今日打ち上げしてよ、……まあ、うまくやってる』
「おめでとう。恭ちゃんの立ち上げたプロジェクトが失敗する訳ないものね」
『ふん……あと今日コンビニ寄ってよ、てめえの好きなもん買っちまって……賞味期限あるし、どうしてくれんだよ!』
「……ねえ、恭ちゃん酔ってるの? ていうか寝なくて良いの? 明日も仕事でしょ?」
『有休だっつの! てめえが休みっつーから、有休取ったんだよ! なのにてめえ……もう良い! 寝る! 帰ってきたらぶっ殺してやっから覚悟しとけよ! このおかま野郎が!』
ブチッ、と強制的に切られた電話の向こうプープーと鳴る音だけが虚しく響き渡る。
慶は嵐のように過ぎ去った恭介の言葉の羅列に呆然としてしまうが、その言葉の意味全てを理解すると顔を真っ赤にさせて嘘でしょうと呟いた。
あの恭介が、慶がいないということで寂しいと思ってくれているのだ。
言葉にされた訳ではない。あの頑固を通り越したがちがちの恭介が素直に寂しいだの恋しいだの言う訳がない。だが、そんな恭介が精一杯伝えてきたのだ。
帰り辛いだの、なんだの言っている場合ではなくなってきた。恭介からきっかけを作ってくれたのだ。これを使わない手はないだろう。
きっと帰れば恭介のことだ、慶を殴ってなんで帰ってきたと罵ってくるのだろう。それでも謝って甘えて甘やかしてごめんねって伝えて抱き締めて、許されよう。
昔みたいにドキドキも緊張もしない。激しい劣情も感じない。それでも隣にいないと違和感があって必要不可欠な存在。呼吸を与えてくれるのは恭介の存在だけで、恭介がいないと息もできないのだ。
格好悪かったって良い。二人が成長するように時間は流れ、関係性に変化を見せてもそれでも変わらないものもある。
早く帰って顔を見たい。阪神が勝ったと言ってねちねち苛めて恭介を怒らせたい。ビールを二人で飲みながら肴を突いて他愛のない話をしたい。
そうして朝日が出てくる時間までベッドの中で睦み合いたい。
一度思えばその欲求は膨らむばかりで、悠長に閉店作業をする時間も惜しんだ慶はある決心をすると鞄を掴んで叫んだ。
「ごめん、たろちゃん呼び出して閉めてもらってくれる!? 私用事できたから帰るわね! 後はよろしく!」
身嗜みもそのままで、駆け出すように美容室を出て行った慶の姿に今日から愚痴を聞くことはなさそうだと安堵の表情を浮かべる美容師たちではあるが、太郎がこない限り店を出られないことに気付いて叫び声を上げる。
家でのんびりと寛いでいた太郎はまさか呼び出されるとは知らず独り暢気なままで、人通りの中を掻き分けるようにして帰る慶の姿など知る訳もない。
恭介以外の温もりが存在していない寒々しい部屋で、きっと慶がくることをわかっているであろう恭介の元に、慶は急いで帰っていくのであった。