ドラァグクイーンの憂鬱 03
「雅ちゃ〜ん!」
 ここのところ随分と耳に馴染んでしまった声が聞こえた。振り向かなくてもわかってしまえるようになったのは、嫌というほど聞いていた所為かそれともただ単に危険センサーが働くからなのか。
 良くも悪くも厄介な男に好かれてしまった雅は、ここ最近ずっとストーキングをされていた。
 今までの恋ならば勝手に理想を抱いて押し付けて、それが崩れて冷められるというパターンが多かった。男も女もなんだってそうだ、雅の内面など見ようともしないで勝手にイメージと違うだのなんだの言い募る。
 そういった意味では大志は見所があるのだろう。雅の弁当が白飯にふりかけだけでも、存外に節約家でも、意外とだらしなかったりしても反応を示すどころか引いたりもしないのだから。
 とはいっても、それがストーカーをしても良い理由には決してならない。
 毎日飽きもせずに追っ掛け回され付き纏われ、周りから下種めいた野次を飛ばされればどんな屈強な人間だって辟易とする。雅も最初は余裕をみせていたが流石に疲れた。というより嫌になる。
 衆人環視の前では完璧なほど無視に徹した。ここで構えば周りの思うつぼ。はまる、はめられる。視線すら寄越さない雅に対し、大志に同情が集められるのだけが厄介だったが。
 日本晴れの昼下がり、太陽光が注ぐ空気は温められて過ごしやすい気候になっていた。うっかりしていたら眠ってしまいそうなほどに。
(……、静かだな)
 お弁当を持って歩く雅に対し人の視線は感じられない。それもそのはず、人気のない場所を選んでいるからだ。
 雅は昼限定で、毎日のように大志と会話をしてやっていた。衆人環視の前では唇を開く気にもなれないが、人気がない場所ならば少しくらいは喋ってやっても良いという気があった。
 雅と大志のどうでも良い些細過ぎる秘密。節約重視の見目の悪い弁当を持ち寄って、昼食のときだけとりとめのない会話をする。二人きりで、とはいってもほとんど大志が喋っているだけなのだが。
 雅の足が裏庭に差し掛かっても、追い掛けてくる大志の気配がない。そういえば今日は珍しく朝からいなかった。もう諦めたのだろうか。毎日あったものがなくなれば少し違和感が浮かぶ。
 雅は一人で昼食を取ることに決めると、ベンチまで向かった。騒がしい声がないのも落ち着かない。そう思えるほど慣れ親しんでしまっていたのか。
 大志がいないことは良いことだ、平穏なのだ。しみじみ思うように己に語り掛けていれば、見慣れた姿を呆気なくも発見してしまった。
「あ、……」
 ベンチで寝こけるのは大志だ。だらしなく口を開いて涎を垂らしている。服装も相変わらずで普通の服を持っているのだろうかという疑問を抱かせられるスウェットだった。
 雅が気に入っているベンチに堂々たる振る舞いで占拠している大志の姿は、一体いつからここにあったのだろう。
 お弁当を持ったまま立ち尽くした雅は起こしてやるべきなのかどうなのか少し悩んだけれど、起こせば起こしたら面倒なのでそのまま放置することにするとベンチ近くの地べたに座り込んだ。
 芝生の感触がお尻に広がる。洋服が汚れてしまうという懸念もなく、なんとなく肩身の狭い思いをしながら弁当を広げた。
 ここが一番日当たりが良い。そういうことにしておこう。
「……黙ってれば、煩くないのに」
 心の声がほつりと漏れた。横目で見た大志は気持ち良さそうに寝ている。ここまで馬鹿になることができたのなら、さぞかし世界は色付いて楽しいのだろう。
 だけれど雅にも色付いて楽しい世界はあるのだ。永遠に、交わらないけれど。
「み、……ちゃん……」
 もにもにと口を動かした大志の唇を強く押して、黙らせた。夢の中まで追い掛け回しているなんて雅の休息の時間がないではないか。せめて夢の中の雅くらいは追い掛け回さないでほしい。
 隣に呼気を感じて、普段なら逃げ回る対象を妥協して受け入れた雅は黙ったまま喋らないそれと一緒にいつも通り昼食を取ったのである。
 どことなく居心地が良いのは気の所為か。気の所為だと思いたい。
 慣れ親しんでしまった空気に安堵に似たものを感じていることだけは認めたくないが、少し、ほんの少しだけ肩の荷を降ろしても良い空間が昼にできたことだけは認めてやっても良い。
 気張って尖らせて偽っている昼の己などに価値すら見出せなかったが、大志がそれを望むのならば少しくらい意味のあるものなのかもしれない。昼の己も存在していて良いなんて。
(……馬鹿じゃない、俺は……影響され過ぎ)
 なにも喋らない大志、とはいっても寝ているからなのだが、と昼食をとって少し。ぼうと呆けていた雅であったが、午後一で授業があることを思い出すと渋々とだるそうに立ち上がった。
 大学など出なくても良いと思っていたが、今の世の中じゃ出ていなければ風当たりがきつい。出ていてもせせこましい世の中なのだ、せめて資格程度になれば良いと考えていた。だからこそ不用意な感情に流されてさぼってしまうということだけは憚られる。
 どんなに面倒でも苦痛でも、お金を払ってまで学んでいるのだ。学べるのならとことん学んで搾取しないと無駄、という貧乏性でもある。
「風邪でも引いて二三日寝込んでくれれば、本当に静かになるんだけどね……。あんた、馬鹿だから風邪も引かないか」
 くご、と鼻を鳴らした大志のほっぺを摘んで嘲笑った雅は大きく伸びをすると午後への授業へと向かう。大志の留年が近かろうが遠かろうが雅には関係ない。自己管理のなっていない人に協力するほど世間は甘くなどないのだ。
 たった数十分だけの、日課の逢瀬だ。それは果たしたのだから用はもうない。
 午後は発表も含めての授業なのだ。人前で喋るのはあまり得意ではないが、得意にしていかなければならないことでもある。雅は心の中で予習を含めた暗唱をしていると、もう一人ここ最近見慣れた顔が目の前に現れた。
 きょろきょろと焦ったように周囲を見渡すのは先ほど雅が会っていた大志の保護者のような存在だ。秋平はそのしっかりとした目に雅を入れるやいなや、一目散に駆け寄ってきた。
 正直面倒なことになった、と辟易とした雅だがここまでロックオンされたのでは逃げることもできない。仕方なく足を止めると視線を秋平にやった。
「高屋! 大志見なかったか!?」
 開口一番その言葉はどうなのだ、と思う。雅と大志の繋がりなどないに等しい。どちらかといえば秋平の方が強い繋がりなのに。
「……裏庭」
 だけどもわかってしまう己も、恨めしいと雅は思う。
「一緒だったのか? あいつほんとなにしに大学きてんだよ……」
「……一緒じゃない。寝てたの、見ただけ」
「でも一緒にいたんだろ? 同じだって」
「どうにかしてくんないの。……あれ、あんたのツレでしょ」
「俺がどうにか言ってもどうとなる性格じゃねえのはそろそろお前もわかってんじゃねえの?」
 どこか挑戦的な目付き。なにが気に食わないのか、大体の見当はついているけどそれに巻き込まれているのが不思議でならない。完全なる被害者なのに。
 雅は過保護過ぎる秋平を見てふうと息を吐くと、気だるそうにさらさらとした黒髪を手で梳いた。
「っていうか言わないの。あれ、言ったら諦めるんじゃない」
「言うなって口止めしたのはお前だろ?」
「言い触らすな、って意味でしょ。あれは言い触らすタイプじゃないし、夢から冷ます良い現実だと思うけど」
「言うくらいなら見せるね。そもそもあいつの恋愛に俺が口突っ込むのも変だろ? 今は見守ってるだけだ。どう転ぶかわかんねえけどな。お前こそ最近構ってやってるそうじゃん。完全無視の女王様がどういう風の吹き回し?」
「面倒なだけ」
 そっぽを向いた雅に訝しげな秋平視線が向けられたが、それには気付かないふりをした。
 どうも雅と秋平はもとより根本的な部分から気が合わないようだ。あんなところを見られでもしなかったらこうやって会話をすることもなかっただろう。最も見られてからも会話などしてもいなかったのだが。
 秘密を共有しているというだけの関係だ。それ以上でも以下でもない。それだけ、たったそれだけなのだ。
 大志さえ絡まなければ卒業するまで会話をすることもなかっただろう。あの場だけの口約束で終わっていた。守られて、守って、それだけだったのに。
(……厄介ことばかりだよ、あれと関わると)
 秋平となるべく関わりたくなかったのに、と一人ごちて雅は眼鏡を押し上げた。
「……でも、いつかはわからせるよ。ストーカーが過ぎれば、ね」
「そんときの大志の顔が見ものだな」
「あんたはいないかもしれないけど」
「……ま、またあいつ迷惑かけると思うけどよろしく頼むわ」
 至極興味なさそうに雅から興味を失った秋平はするりと横を通り過ぎると裏庭へと急いで駆けるようにして立ち去った。授業がなんだのと呟いていたから粗方大志の心配事だろう。
 あそこまでしておいてなお違うと言い切れるのも凄いが、気付かない鈍さも凄いというのか。はたまた本当に本物なだけなのか、あの二人の関係性だけは雅にはさっぱり理解もできない。
 だけどどこか得意げになる気持ちだけが煩わしい。全く厄介ことばかり。
「ほんと、迷惑……」
 やる気の失った気持ちを無理矢理押し込めて、雅は発表がされる部屋へと取り急ぎ足を進めるのだった。

 それから午後は全てが最悪だった。上手くいくどころか全部裏目に出てしまった。
 大志が雅を追っ掛けてくることはなく、比較的穏やかな時間を過ごしていた。のは最初だけで少し遅れたものの雅ちゃんと煩い声がしてみれば、やっぱり案の定大志が雅に寄ってきた。
 いつもより顔が赤く、どこか浮ついて濡れっぽい。雅の気の所為かと思われたそれも後ろから怒るようにしてくっついてきた秋平に納得せざるを得なかった。
「大志! てめえ熱あんだからさっさと帰って寝ろ!」
 過保護の秋平らしい忠告だ。どうやってそれを知ることができたのかは定かではないし興味もない。ただ昼に雅が触れた感じでは熱など感じられなかったというのに、それが少し悔しい。
 粗方温かい気候とはいえあんな場所で寝こけていたから悪化したのだろう。
(馬鹿は風邪引かないっていうのに……)
 呆れたように立ち止まった雅に纏わりつく嬉しそうな大志、だけども直ぐ後ろには般若のような顔をして大志に怒鳴る秋平がいて、めっと大志の頭にゲンコツをお見舞いすると嫌がる身体を引っ張った。
「家帰って寝ろ! どーせ仕事もできねえんだ、丁度良い」
「はっ、やだ! 雅ちゃんと一緒に帰る〜!」
「お前のは一緒に帰るって言わねーの! 付き纏うって言うんだよ!」
「ちげえし! 一緒だし! 秋平の馬鹿ば〜かっ!」
「へーへー、なんでも良いからきびきび歩け! ったくお前馬鹿なんだからこれ以上馬鹿になってくれるなよ……」
 まさに台風一過だ。なにが起こったのかも良くわからないまま去って行ってしまった。なにがしたいのかさっぱり検討も付かない。
 わかるのは、あんまり気分の良いものじゃないということだけ。胸がぐるぐるとする。
(……馬鹿馬鹿しい。精々するね)
 あと一間だけだ。それさえ終われば、雅にとって生きるべき世界が広がる。それまでの辛抱。大学など所詮通過点でしかない。
 嵐のように去って行った姿を目で追うこともなく、雅はただ注がれる興味深い視線から逃れるために颯爽とその場を去った。全く大志と関わると本当にろくなことがない。好奇の視線に晒されるばかりだ、煩わしい。

 大学の授業を終えて直ぐ雅は大学を後にした。少し大きめの鞄を持って行き着く先は大学から電車で揺られること十分の距離にある東京随一の繁華街歌舞伎町。
 有名な門を潜る前に、こぢんまりとした公園に足を踏み入れトイレを目指す。個室に入って鞄から取り出したのは変装グッズだった。仮装するほどではないが、それなり平穏な生活を送りたいのも事実なため万一を考えて素性を隠していた。
 働くとこが場所なだけにばれると厄介なのだ。雅としては恥とも思っていないが、それが露見して店に迷惑が掛かることだけが気掛かりだった。己が目立つ存在だと、注目されているとわかっているからこその変装。
 それにばれないと高を括っていたのだが、一度だけばれたことがある。それが変装をするきっかけにもなった。
(……まあ、こんな場所に大学のやつらこないだろうけれど)
 帽子を深く被って、伊達である眼鏡とサングラスを取り替えてストールを深めに首に巻きつける。さもすれば怪しい人物にも見えかねないが、雅のスタイルが功を成してちょっとしたモデルのようにも見えた。
 最後に明るい色の派手目の上着を羽織って私服を誤魔化せば、終わりだ。ここまですれば誰も雅が雅だと気付かないだろう。と思いたい。
 鏡に映った怪しげなシルエットに視線だけ流して、トイレから出た雅は今度こそ大きな門を潜ると繁華街を奥へ奥へと進んでいくのであった。
 ネオンが眩い世界には変わりない。夜ともなればもっと活気付くのだろう。夕方という曖昧な時刻にここを歩くのは殆どが同業者だ。
 髪の毛のセットに行くであろう女や、同伴前の男、そして男とも女ともつかない半端もの。新宿二丁目、そこが雅の働く世界だ。半端ものの集り、だけど提供する空間は一流のもの。
「おはようございます」
 地下に続く階段を下りて扉を開ければ別世界。夜ともなれば薄暗い照明に色とりどりのステージ、充満する熱気と声援と歓喜の渦。パフォーマンスは最高潮、客も踊り子も一つになって酒を交えて大宴会。
 だけど開店前の店はなりを潜めて、ごつくてむさい男がくねくねしなを作ったり、女と見紛うような作り途中の男が化粧に精を出していたりする。
 そう、ここは所謂おかまバー、とはいってもメインはドラァグクイーンのショーパフォーマンスなのだけれど。雅はここでドラァグクイーンの見習いとして働いていた。
「雅ちゃん今日も肌が綺麗ね〜。良いわねえ、若い子はねえ、私にも昔はこんな時期があったのねえ」
「あんたそんな顔で良く言うわねえ。若い頃はトラック野郎してたんでしょお? バリバリ剃り込みだったって聞いてるわよ〜」
「んも〜いつの話してんのよっ。今はオンナよ、オンナ。っても工事はまだなんだけどねえ」
 げらげら下品に笑って大股開いて、うっすら髭を生やしている大男二人。この店の看板娘でもある。今はこんなに小汚いおっさんでも、ステージに上がれば別人のよう。綺麗とは決して言わないが、提供するパフォーマンスは本当に神がかっているのだ。
 雅が密かに憧れている、人たちでもある。新宿二丁目のおかまバーでも随一を誇るこの店のトップだ、ドラァグクイーンを目指すものなら誰もが憧れる存在。
 ここにいる男はみな半端もの。心は女だけど女になりきれず男の身体のままのものもいれば、心も身体も男だけど男が好きな男もいる。女の身体を作ったけれど完全なる女にはなれない元男や、雅のように心も身体も男で男が好きじゃない男もいた。
 ばらばらで、中途半端で、宙ぶらりん。だけど皆気持ちは一緒で、化粧をして、着飾って、ステージに立って輝ける世界に魅入られているのだ。
 まだまだ演技も下手で、パフォーマンスにも隙があって、お喋りが得意ではなくて、愛想の悪い雅は到底メインを勤められる逸材ではない。秀でているのは見目だけでその他はこの世界ではただの新人なのだ。
 だけれどいつか、いつかメインパフォーマーとなってステージに立って大喝采を浴びたい。誰もを虜にできるようなドラァグクイーンになりたい。私生活ではなくステージ上で。それが、雅の夢なのだ。
(なんて、……絶対言えないけど……)
 傍から見れば今時の若者としか見られていないのだろう。直ぐにやめるだなんて思われているに違いない。だけど決死の覚悟を持ってここに立っているのだ。やめるはずなんてない。
 叶えたい夢がある。必死になって掴みたい夢がある。だから雅の世界は夜なのだ。ここが、雅の生きる世界。本当の、本当の雅が生きる世界なのだ。