ドラァグクイーンの憂鬱 06
「みっやびちゃ〜ん! おっぱお!」
 相変わらず馬鹿みたいに笑って追っ掛け回してくる大志の姿に、どこかほっと安堵に似た酷く心地好い感情が雅の中で生まれた。
 それはそれは遠い昔のようで、時間を遡れば十数時間前のこと。雅のホームグラウンドとも言って良い場所に大志と秋平を招いた。当初の目的は雅のことを諦めさせるつもりだったが、それは不発となった。
 大志にとっては雅がどんな格好をしていようとどんな口調であろうとどんな夢を描いてあろうとも、気持ちは変わらないとのたまったのだ。傍から聞けば綺麗ごとにしかなりえないのに、本当のことだから恐ろしい。
 気が付けばそれでうっかりと懐柔されてしまった。信用しても良いと、本気で想われているのだと、認めてしまった。
 ドラァグクイーンになりたいなんていう夢を、それこそいっそうのこと笑ってくれたらリセットできたのに。
 両親には猛反対された。周囲は異物を見るような視線を投げ掛ける。半端もの。理解されている世界があっても、世間から見れば可笑しな世界だ。
 気持ち悪い、変、そんな言葉は聞き飽きたけど、大志のように純粋に凄いと褒められたのは初めてだった。
 存外に嬉しかった。それが、決定打だった。
「……おはよう。あんた、今日も元気だね」
「雅ちゃんは顔色悪いね〜あっ、も、もしかして俺の子を……!」
「な訳ないでしょ。……二日酔いなだけ」
「あ、あ〜そいや昨日見に行ったもんね! 雅ちゃんちょお光ってたねえ。すげかった〜」
「俺自身が発光してるみたいな言い方やめてくれない?」
 待ち合わせをした訳ではないけれど、昼食時になれば自然と集るこの関係。すっかり習慣付いてしまっている。
 昨日までは惰性的に、だけど意識一つで待ち合わせしているような気分にさせてくれるから不思議なものだ。
 雅と大志は仲良くいつものベンチに腰掛けると、お互い中身が残念なクオリティの弁当を取り出してちまちまと突くように食事を始めた。
「あねー秋平のあれなんだけどさ〜雅ちゃん有名ってなんで?」
「……意味わかんない」
「だからね、秋平が言ってた! 雅ちゃんが夜で有名って〜」
「さあ? 出勤するとき、仮装ってか変装するからじゃない? 悪目立ちっていうか……知らないけど」
「きっと綺麗だからじゃね? だって俺の雅ちゃん目に入れてもぴっかぴっかしてるもん!」
「馬鹿じゃないの」
 随分と軟化しているような気もしないでもない、と自覚症状に気付きながらふりかけ弁当を頬張る。横でいつもの如く肉と白飯だけの大志は弁当を持ったままなにかを考えるようにして黙った。
 元々雅はお喋りな方ではない。というよりお喋りが得意ではないと言った方が良いだろう。話すことに長けていたら夜の方で苦労などしていないのだ。
 だから時々大志がどうしようもない馬鹿でもずっと喋っていられることに、話題があることに、羨望するときがある。
 今だって大志が黙り込んでしまえば沈黙になってしまうのだ。雅から振る話題もないし、特別話したいこともない。話すのが嫌という訳でもないのだがそれが性格だから仕様がない。
 眉間に皺をきゅっと寄せて、不機嫌なんだか緊張してるんだか表情の読めない顔付きになると大志はもごもごと口篭らせた。
「あうーみやびちゃあん……」
「……今度はなに」
「やっぱすっげえすきです……。あ、やっぱっていうか本当にっていうかいうか〜!」
「知ってるけど」
「じゃ、じゃあさ〜……お、俺と付き合っ」
「それは無理。だって、あんたのこと嫌いじゃないけど好きでもないし? まあ、知人ぐらいなら、……良いけど」
「知人んんん!? なにそれ! やだやだ〜! 彼氏が良い! 雅ちゃんの彼氏になりたい〜! 彼女になってよ〜!」
「はあ? 俺が彼女なの」
「え? 彼女だっしょ。俺が彼氏!」
 えっへんと威張るかのように宣言されてはどうも否定するのも馬鹿らしくなってくる。どっちでも良い。それ以前の問題だ。雅は大志の頭を叩くと、溜め息を吐いた。
「その前に俺を惚れさせなきゃ駄目でしょ」
「ほ、惚れっ……! 惚れてください!」
「なに言ってんの? 努力してよ」
 しょんぼりと肩を落として、肉を突いた大志は今度はなにを考え付いたのか目をきらきらと輝かせると弁当を横に置いて雅に向き直った。正直嫌な予感しかしない。
 雅は変わらずのペースで弁当を突きながら意識だけは隣にやって、敢えて大志がなにかを言うまで待った。
 頬を赤らめさせて唇をきゅっと噛み締めて、呼気を乱している大志。必死のようで焦っている。なんだか見慣れたようで見たことのない表情に雅の肩眉がほんの少しだけ上がった。
(へえ……なんか、その顔……)
 泣かせたくなる。いや、虐めたくなる。最もSの気など己の中にあることなど理解もしていない雅は、それがどんな意味を持つかわかりもしない。恋愛ごとが苦手で避けてきた結果がこれか。
 人並み以上にモテはしても、それを受け入れた回数が極端に少ないために恋愛のイロハもなにもかも実のところあんまりわかっていないのだ。わかっていなくても支障がないからこそ、気にも留めない。
 だけれど夜の世界で色気がないと言われた。本当の恋の痛みを知って、成長しなさいとも。
(……でもこいつとなんて想像もつかないね。他の奴なんて、……考えるのも億劫)
 興味の惹かれるものではないと判断した瞬間から恋愛を避けてきた雅は、こんなときどんな顔をしたら良いのかも、どんな言葉を紡いだら良いのかも、それすらもわからずにただただ大志が切り出すまで弁当を頬張った。
 時間にすれば数分の出来事だろう。決心したのか、大志は唇を数ミリだけ浮かせると上擦った声を出した。
「みっ、みやびちゃ」
「はは、声裏返ったね」
「あ、の、そのっ、き、……き、キス! じゃあキスしよう……!」
「……はあ? なんで急にそんな話しになるの」
「え、ほらだってお互い次のステップに進むべきっていうか〜、ねえ? そろそろじゃん? もう知り合って長い訳だし!」
「付き合ってないから」
「惚れさせてって言ったじゃん〜! ちゅーしようよ、ちゅー!」
「なんでその話になるの。キスしたら俺が惚れるとでも?」
「え〜良く言うじゃん、王子様のキスで目覚めるお姫様なんつってさあ〜」
 わきわきと興奮気味にテンションを上がらせた大志は、お願いと言うと頭を下げて媚びへつらうようにごろごろと引っ付いてきた。絶対にさせてなどやらないが、強引に奪うこともできる状況なのにそれを実行しないというところが、まだまだなのだ。
 雅も恋愛経験が低い。だが大志の方がもっと低い。雅以上に恋をしてお付き合いをして痛みを知っていそうなものの、どれもこれも軽そうで中身がない恋愛ばかりなんじゃないだろうか。
 勝手に想像して、そんなことを考えているなんて最低過ぎて口にも出せない。雅は一人ごちるとキスキスと煩い大志の額にでこぴんをかました。
「煩い。黙ってご飯食べられないの?」
「だって、ちゅーしたいんだもん〜」
「じゃあ、キスと付き合うのとどっちが良い?」
「付き合うの! え、え、え、え、つ、付き合ってくれるの!? 雅ちゃんが俺と!?」
「……聞いただけだよ。付き合う訳ないでしょ。それにそんな時間ないし。結構生活するのでいっぱいいっぱい」
「ほえーえ、あーやっぱり夜のあれ忙しいの? ドラァグなんちゃらだっけえ? 良くわかんねけど、あれだよね〜なんであんなに化粧濃いのー薄い方が良いよ〜」
「濃いっていうか、あれが正式っていうか……ドラァグクイーンってのはああいうメイクなの」
 最後の一口を口に入れる。大志はとっくに食べ終わったのか、弁当は空だ。喋るのも早ければ食べるのも早い。
 柔らかな日差しが二人をそっと包み込む。穏やかな午後の気候、黙って目を瞑れば直ぐに眠ってしまえそうなほど心地良い。
 同じことを考えているのだろうか、食べ終えた大志も目をとろりと蕩けさせるとごしごしと擦った。
「うーん、眠いねえー授業出るのめんどくせー……さぼっちゃおうかな〜」
「留年しちゃうんじゃない」
「なんで一緒の学年なのに雅ちゃんいないの〜ちょおあれだよね、俺らって運命に遊ばれてる!」
「学科がまず違うから」
 うがーっと頭を掻き毟って、腕に顔を埋めた大志から微量に石鹸の香りがした。なんだかそれが妙にミスマッチで、雅の気がそぞろになる。
 仕事中だったのか仕事後だったのか、昨日サロン姿で雅が働くおかまバー“プリシラ”に現れたときはそれなりに見目を整えていた。いつももさもさだった髪はきちんとセットしてあったし、服も綺麗だった。というより仕事着なのだが。
 寝癖がついて左右に散らばる茶髪も、毛玉の付いたスウェットも、きちんとすれば大志だってまともに見えるのにどうしてそれをしないのだろう。
 色気がないのは大志も同じだ。雅だって色恋沙汰の色気はないだろうけれど、大志よりましだと自負できる。
 恋をしている癖にどうしてここまで子供っぽいのだろうか。もっと色恋沙汰に慣れれば大志も雅も色気が出るのだろうか。雅はともかく大志の色気など想像もつかない。
 馬鹿みたいに雅を見てにっこにっこ笑う大志を、少しだけからかってみたくなった。きっかけは本当にそれだけだった、と思う。
「キス、……してみる?」
「……えっ」
「俺のこと、どきどきさせてみてよ」
「え、え、え」
 一気に熟れたトマトのように真っ赤になった大志はぴきりと固まると、ああだのううだの意味のわからない呻きを上げた。前から薄々思っていたのだが、大志は普段自らがんがんと押すくせにいざ振り向かれたりだとか押されたりすると直ぐにしどろもどろになる。
 押しに弱いのか、それとも慣れていないだけなのか反応を見るだけでも楽しい。
 雅は少し優位に立てたようなそんな感情を持て余すと、ずいっと大志に顔を近付けた。距離にして十センチ。
「ほら、どうぞ」
 目をしっかりと開けて大志を見つめながら催促すれば、大志は真っ赤なまま目をぎゅっと瞑って情けない声を出す。
「そ、そ、み、みやびちゃ……は、ハードルが……っ」
「たかがキスだけじゃない。なにそんな馬鹿みたいに緊張してんの」
「だ、だだだってえ! 初キッスだよ!? 記念すべき初キッス、キス……うあーキスだよー雅ちゃんんんん」
「馬鹿、あんたほっんと馬鹿だね。度胸もないのに良く好き好き言えたね」
 呆れたような声音を出した雅に、大志はおそるおそるといった様子で片目を開けるときゃあと言って両手で顔を覆った。
 今日び女がしていてもどうなのかという仕草を、特別可愛い顔をしている訳でもない大志がやったところで可愛くもなんともないのだけれど、もっともっと虐めたい気にはさせてくれる反応だ。
 少し、いや結構面白くなって雅は妙な高揚感を抱きながらふっと大志の前髪を息で揺らした。
「……ねえ、しないの」
 ぷるぷると震えている。はいともいいえとも言わないままただ大志は耐え忍ぶかのようにひいいとか細く鳴くだけ。
 焦れったいのはあまり好きじゃない。いい加減痺れを切らした雅は、がっと大志の両手を掴んで顔を露にさせると潤んだ両目を覗き込むようにして見つめたまま更に距離を詰めた。
「俺からしようか」
 そう言って唇を近付ければ、大志の顔が面白いことになる。あまりにも初心な反応が可哀想になって雅は頬に軽く口付けだけをすると、ふんと鼻で笑った。
「冗談。でも存外に楽しかったからサービスね」
 ひやあ、と上擦った大志の声にますます笑みが零れてくる。大志は頬を押さえたままぱくぱくと口を動かして悶えてみせた。
「み、み、み!」
「ちょっとはこういうこと慣れたら? まさか童貞ってこと、ないよね」
「えっ」
「……え?」
「あ! い、いや童貞じゃない! けど……あ、あのその、ええ、い、言っちゃうの?」
「別に言わなくても良いよ。ただあんまりにも面白かったから」
「だ、だって雅ちゃんがそんなことするって思わないっていうかいうかうああ! もうどうしよ! ええ! どうしよ! ええ! やっべえぱねえ今更になってきたわあ」
 じたばたする大志を横目に慣れないことをするものじゃない、とほんの少しだけ後悔した。どうしてだかしたくなったといえばしたくなったのだ。なんでなのか全く理解もできない。
 きっと日光にやられてしまったのだ。いや、大志の可笑しなテンションにあてられたのかもしれない。
(……三谷の耳に入ったら、面倒)
 あの過保護を思い返して憂鬱になる。限りなく恋愛のようで恋愛じゃない、良くわからない関係性だ。秋平は大志にどうなってほしいのだろう。
 ぽやぽやと単細胞を露に、幸せそうな大志の頬をきゅっと摘むと雅は一応念を押しておいた。
「ねえ、さっきの二人だけの秘密ね」
 こういう際どい言い方の方が大志が喜ぶだろうと思ってのことだ。案の定二人だけの秘密という部分に大きく反応した大志はぶんぶんと大袈裟に顔を縦に振った。
「うん! 秘密! 雅ちゃんと、俺だけの、秘密〜っ!」
「また良い子にしてたら、そうだね、今度は名前呼んであげる」
「ほ、ほんと!? 大志って言ってくれるっ?」
「……気が、向いたらね」
 寝癖の付いたもさもさの髪の毛を柔らかく撫ぜ付けて、雅は立ち上がった。そろそろ午後の授業が始まる時間だ。それと、大志の保護者が大志を引き取りにもくる。
 鉢合わせはしたくない。秘密と言ったけれども大志の馬鹿みたいなテンションを見ればばれそうな気もした。
 大志と出会ってからというものの、いろいろな方面で己が変わっていく。それは良い意味だったり、悪い意味だったり。大志からは多大な迷惑を被ってはいたけれども、決して悪いことばかりでもなかったり。
 芸の肥やしになるのなら、大志と触れ合うことによってそれが少しでも良い方向へと向かうのなら、雅は一体どうしたいのだろう。
(……それが理由じゃないと、困るってのが……厄介)
 一緒にいることに、会話をすることに、触れることに慣れてしまうのがきっと嫌なのだ。
 こんなはずじゃなかったのに、とどこかで聞いた台詞を己が発することになろうとはいつ誰が思うのだろう。本当に本当に、憂鬱だ。憂鬱だ。憂鬱なのだ。
「……じゃ、あね」
「うん! また明日ね! いつかお金がんばって貯めてお店行くね! あ、昨日は秋平のごちだって〜ね〜……うん……」
「お金は大事にね。……また、明日」
 明日も明後日も、そんな約束するなんて焼きが回ったものだ。嬉しそうに、馬鹿犬のように、尻尾をぶんぶんと振り回さないでほしい。足蹴にできなくなってくるではないか。
 雅は確実に大志に絆されている自覚を持ちながらそれを止めることもやめることもできず、流されるような形で構ってしまうのであった。雅の悩みが一つ、増えた。