単純で簡単でくだらない悩みなんて、直ぐに増えては減る。だけどしつこく根強い悩みが雅に纏わり付いていた。消えてはくれなさそうな、そんな悩みだ。
ギラギラ輝くミラーボール、懐かしさを湛えたクラブミュージックは過去にタイムスリップさせてくれたかのような感覚だ。野太い声をわざと高く発したようなおかま声と、しゃがれた男の声しかしないようなそんな空間に珍しくも若い男がいた。秋平だ。
薄ピンクのような紫のような、だけど暖色にも見える不思議な照明の下でいるはずのない秋平が座っている。それは雅にとっては衝撃的でどちらかといえばよろしくのない現実だ。
秋平は不機嫌そうな雅を前に手をゆるゆると振ると楽しそうに口端を上げた。
「……なんで三谷がここにいるのかしら」
喉から出たのはそんな言葉。秋平はさして気にした素振りもなく、にやにやとしているだけ。
「へえ、やっぱその格好のときはそういう喋り方なんだ」
「邪魔しにきたの? 仕事中なんだけど、私」
「だからこうやって金払って指名してんだろ? 立派な客だよ、俺も」
「三谷一人で? 一体なにが目当てなのよ」
雅はどっと疲れたような声を上げると、渋々と秋平の隣に腰を降ろした。
ドラァグクイーンに憧れて、日夜メインショーを目標として頑張っている雅ではあるが、毎日このおかまバー“プリシラ”でショーが行なわれているかと聞かれれば実は開催されていない。
基本的に週末や記念日、なんらかのイベントの際にしかショーはしないのだ。なので雅の主な仕事といえばこうして席についてお客さんと酒を交えながら喋るということ。
珍しく飛び込み新規で指名があったかと思えばこの様だ。席には堂々と秋平が座っていたのだから笑えもしない。
元より顔を知っているだけの関係なのでこんな場所で会う義理もないし、秋平が自腹を切ってまで雅に会いにきたというシチュエーションが嫌な予感しか齎さなかった。
(……絶対、あいつ関係でしょ……)
それしか考えられない。大志のこと以外で二人に共通点などないのだから。
妙に機嫌の良い秋平など余計見慣れていなくて、雅は内心げっそりと顔だけはにこやかにしようかなんて思いつつも、いつも通りお酒を作るために手を伸ばした。
「……で? なにが目的なの? お酒は濃い目で良かったかしら?」
「んなの大志のことに決まってんだろ。あ、ロックで」
「……あの子がなに? 私は関係ないわよ。勝手に、……纏わりつかれているだけなんだから」
「ふうん? でもなんかしたんだろ? あいつここんとこ様子変だし〜お前以外理由思いつかねーもん」
「してないわよ。妄想も大概にしてちょうだい。お金払って指名してくれたことは嬉しいわ。でもここは私の特別な世界なの。そういう話をするのなら、もっと別のときにしてほしいわ」
「じゃあいつよ? 大学では大志がべったりじゃん。そんな時間ねえだろ? それに前みたいに絡まれてるとこなんて早々出会わねーしな」
その秋平の言葉に雅は嫌悪感を露にさせた。流石に不味いと思ったのか秋平は素直にごめん、と紡ぐ。
「……気にしてないわよ」
そう言ってみるものの雅が存外に気にしていたことは明らかで、ほんの少しだけ微妙な空気が流れた。
良くも悪くも目立つ雅と、それなりに派手な秋平は元々お互いの顔を認識していた程度で、名前だとか存在だとか特別意識などしたことはなかった。それがどうして個人として認識されるようになったのかは、今からそう遠くない過去にある。
本来非常に面倒くさがりの性格の雅は大学が終わったらそのまま仕事場に行って直帰する生活サイクルを送っていた。特別困ったこともなければ、誰かにばれるような心配もない。悠々自適なものだったのだ。
だがとある日のこと、仕事終わりに外に出てみれば性質の悪い酔っ払いが数名。既視感を覚えるのは、それがおかまバー“プリシラ”で呑んでいた客だったからだ。
営業時間から鬱陶しいほどに雅に絡んで口説いてきた客だ。正直厄介だな、とは感じていた。だが今の雅は素顔だったしばれないだろうという自信があった。
ショー中よりはメイクが薄いが接客仕事の最中もそれなりにメイクが濃い。今の雅があの雅だとばれないだろう、と高を括っていた。だがどうしてだか、ばれてしまったのだ。
それからが厄介だった。己でいうのもなんだが、雅は顔が恐ろしいほどに整っている。自負している程度には世間からの評価も理解していたし自覚もしていた。寧ろ両親に感謝しているべき点でもあったのだ。利用価値のある容姿に産んでくれてありがとう、と。
だけどこういったときだけはこの整い過ぎた顔が仇になる。男でも良いと言い募る客はアフターをしようだの一緒に帰ろうだの、雅にしつこく付き纏ってきたのだ。
店まで数歩だったが囲まれては助けも呼べず、こんな大都会だからか夜の世界だからか街を歩く人は見て見ぬふり。見目通り非力で喧嘩のできない雅はほとほと途方に暮れた。この日こそ力がないことを後悔した日はない。喧嘩慣れしておけば良かったと思う程度には。
(……それを助けてくれたのが、三谷、って……変な漫画みたい)
そう、酔っ払いを追っ払って雅を救ってくれたのは秋平だった。大丈夫か? なんて声を掛けられて顔を上げればお互いにあっと声のない声を上げる。
『お前……高屋、か? なにしてんだ……って……あれ? ここって……』
言い訳も思い浮かばない。新宿二丁目の従業員しか通らないような裏道を歩いていたのだ。どう考えたって従業員か客でしかないだろう。
良く考えればノンケで従業員でもない、ましてや客でもない秋平が歩いていたのだから雅も歩いていたという言い訳が通じる訳だったのだが、どうしてだかそのときは直ぐに思い付かなくて咄嗟にボロを出してしまった。
『……言い触らす、気?』
『はあ?』
『ここで見たこと』
『あ、あ? え、いや、その言わねえけど……お前もしかしてここで働いてんの?』
『っ、……と、とにかく助けてくれたのは感謝する。でも急いでるから』
墓穴を掘ったことに気付いた雅は感謝もそこそこに逃げるようにしてその場を去った。格好悪いけれど口止めだけはきちんとして。だけど秋平は言い触らすようなタイプではないと、なんとなくだけど感じていたので特に焦るようなこともなかった。
これで終わりだったはずなのだ。関わったのは一度だけ。雅の秘密が知れられてしまったがそれほど懸念するようなこともでないと思っていたのに、まさか今になってこんなにも係わり合いを持つようになるだなんてそのときは思いもしなかった。
二人とも過去を思い出して、なんともいえないような気持ちにかられた。あんまり美しいと呼べる思い出ではない。
「……取り敢えず用はそれだけなら帰ってちょうだい」
「ひっでえ〜金払ってんのに」
「あの子にはなにもしてないわ。たぶん、ね。ちょっとからかっただけのことよ。……三谷こそ、どうなの? どうしてここまでするの? あの子の人生なんだから放っておけば良いじゃない」
「……うっせえ、別に、そういうんじゃねえよ。ただ、その、……心配なだけだ」
「本当に? 恋してるんじゃないの? あの子のこと、好きなんじゃないの?」
何故だか胸がどきどきと高鳴る。雅は妙な感覚に捕らわれた。聞きたくないような、聞きたいような、確認しておきたいような、確認したくないような、曖昧な気持ちだ。
雅だって未だに感情を持て余している。大志に対する想いを言葉にすることは難しい。ただ言えるのは嫌いではないということ。まだそれだけなのだ。
(……好き、って、どんな気持ちなんだろ)
秋平が唇を開くのを待っている。手を握り締めて呼吸を止めて、耳が遠ざかる。
待ち望んでいた答えを秋平は存外に呆気らかんと、だけど偽っても見える顔付きで首を傾げて笑ってみせた。
「それは、ねえ……んじゃねえの? 知らねえけど」
「はっきりしないのね」
「だって餓鬼んときから一緒にいるんだぜ。そういうのじゃねえと思う。ただ過保護だっていう自覚はあるぜ。あと気持ちわりいくれえ、心配してしまうし……まあちょっと異常ってのもな」
「それは恋とはどう違うの?」
「どうって言われても……大志と寝るとか考えらんねえし? ただ俺から旅立って行くのが寂しいだけかも。俺なしじゃなんもできねえのに、俺なしでやっていけるのが、やなんだろうな……」
「難しいのね。……さっぱりだわ。恋だと思ってたのに恋とは違うの、そうなの……ふうん」
すっと胸がすいた。軽くなった。心が落ち着いたともいうべきか。相変わらず雅には秋平の心は見えないし、ややこしい感情の区別などわかりもしないが、恋とはまた違うものらしい。
秋平のようでも大志のようでもない雅のこの気持ちは、一体どれに当てはまるのだろう。考えても考えても、結果は見えてもこない。ただわかるのは、雅は大志を気に掛けているということだけなのだ。
昔は存在すら認識していなかった。大志という人間が大学にいること自体知らなかったのだ。擦れ違っても他人で、喋りかけもしなければきっと一生縁などなかった、そんな人間だ。
だけど気付けば誰よりも傍にいる。馴れ合うことを良しとしない雅の壁なんて壊してでもくっついてくる大志が、いつの間にか雅にとって当たり前の日常の一部と化してしまっている。
嫌いだった苦痛だった迷惑だったほとほと疲れていた。そんなことすらなくなる程度には、近い存在なのだろう。
「……まあ、でもこれからも大志のことよろしく頼むな」
「珍しいのね。そう言うだなんて思いもしなかったわ」
「いろいろあんだよ、俺も」
「……そうね、いろいろあるのね。でもお世話してあげる義理はないわ。まあ無視はしないであげる」
秋平の手の中でグラスが傾く。ころり、と音を立てた氷が小さく小さく溶けていって、それからは会話が特別進む訳でもなく雅が呆気に取られるほどにあっさりと秋平は帰っていった。
少しだけ意識を改革させられるような、そんな短い時間だった。
どこか肌寒いのは雨が近いからなのだろうか。夜の所為だけではない薄暗さと、雨の匂い。肌の体温をすうっと奪っていく程度には、風が冷たい。
雅は酒で火照った頬が少しずつ中和されていくのを感じながら、帽子を目深に被った。
変装一つでなにが誤魔化せるかなどわかったものではないが、それでもしていないよりはましなんだろう。厄介な酔っ払いはそうそういないと知っていても、防衛しておくことにこしたことはない。
サングラスで視界の悪くなった世界。暗くて、濁っていて、きらきら輝くネオンの色もどこか色褪せて見える。
なのにどうしてだろうか、可笑しくなったのだろうか。幻覚が見える。それは良い幻覚なんてとんでもない。寧ろどちらかといえば悪い幻覚なんじゃないだろうか。尻尾を垂らした馬鹿犬が、雅の視界に映った。
(……なんでいる訳……? とうとうここまでストーカー……)
雅に気付いたのだろうか、立派なものでなくとも変装しているというのに大志は雅に一直線へと走って駆け寄ると、どこか寂しげな表情できゃんきゃんと煩く吠えた。
「うう、う、浮気してない!? もー、もうもうちょお心配だったんだから! 雅ちゃんどうしようどうしようって! ああでもそんなんじゃないってわかってるけどさ〜ちょっとやきもちっていうの? 俺って案外健気じゃない?」
「……あんたほんと馬鹿。支離滅裂過ぎる。意味わかんないから。で? 職場までストーカーする重大な理由でもあるの」
「え? うう、え、その……秋平が、行くって言ってて〜良いなあって〜雅ちゃんの仕事してる姿見れるの〜……したら終わるの待ってたらって言うから〜……あ! お、俺だって流石にここは不味いかなって思ってたんだぜ! ……最初は」
「そういう遠慮する精神あったんだ、意外」
もじもじと言い辛そうにしていた大志だったが、雅の言葉にぱあっと顔を明るくさせるとぶんぶんと顔を縦に振った。ぴょこぴょこ跳ねている動作など無駄としか思えないのに、どうしてだか妙に似合っているから恐ろしい。
「雅ちゃん! 雅ちゃん! ううっ、会えて嬉しい〜! 夜の雅ちゃんの顔見るのにまだお金足んねえけどお、仕事終わりの雅ちゃんもなんかえろっちくて可愛い〜!」
「はいはい。っていうか、用そんだけなら帰るよ。満足したでしょ?」
「ええ! うう〜え……あ、え〜……みやびちゃん、もう帰っちゃうの?」
殊勝にならないでほしい。しょんぼりとないはずの耳と尻尾が垂れたようなものの言いように、雅はどうしてだか胸がぎゅっと痛くなる。可愛いとは到底思えないし可愛いものに懐柔されるような性格ではないが、これには弱いのかもしれない。
気が付けば口走ってしまっていただなんて今までなかったのに、本当にそのときばかりはそうだったのだ。
「……家くる?」
付いてしまってから、しまったと後悔しても遅い。しっかりと発音されて出ていってしまった言葉は取り返せない。
アルコールで弛緩した脳がゆるゆるになって、早く家に帰りたい一心と捨て犬みたいな大志をどうしようかという一心が混ざってそうなってしまったんだろう。そうとしか思えない。
途端本当に馬鹿みたいに嬉しそうにこくこくと大袈裟なほど頷く様子を見れば今更撤回とも言えずに、雅は手を額に宛てると少し項垂れた。
「あー……もう、良い……タクシー拾ってきて」
「うっひょお! 雅ちゃんリッチ〜!」
「今日は特別。歩く気力もない……チップもらったから、それで」
「待っててね! 直ぐつかまえてくるね!」
大はしゃぎの大志を尻目に雅のテンションは下降を辿る一方。完全なるプライベート空間に、他人を招き入れたことなど一度もなかったからだ。
ほとんど勘当のような形で実家を飛び出し、大学から一人暮らしを始めた。両親すら入ったこともなければ、友達と呼べる友達がいない雅の部屋に訪れるものなど大家以外いもしない。
思ったより嫌悪感も抵抗もないのが気に掛かるところではあるが、今はいち早く眠りにつきたかった。
「雅ちゃん雅ちゃん! タクシーつかまったよ!」
「あー……うん」
「そういえば雅ちゃんってどこに住んでるの? 俺はねえ〜大学から徒歩十分くらいのとこ〜秋平がこれだってさ〜すげえよね、俺の家なのにこれだ! って〜便利なんだけどね〜」
「……俺もそれくらい」
「まじい!? あれ? もしかしたら? もしかして? ご近所さんとっか〜!? きゃっふう〜たぎる〜!」
「頭いたい……」
それから乗り込んだタクシーに住所を告げれば、更にテンションの上がった大志。どうやら大志が住むアパートのご近所らしい。家まで近いとか悪夢なのだろうか。夢なら是非とも覚めてほしい。
酒を呑んでいる雅以上にテンションの高い大志は始終ずっと一人で喋り続け、慣れない車に酔った雅が沈黙を徹し続ければタクシーの運転手に絡み始め、いつの間にか二人で盛り上がってしまっていた。
仕事や大学生活とは違う疲れがどっと雅に襲い掛かる。もうなにも考えずに眠ってしまいたい、そんな気持ちだ。
家に呼んでしまったは良いものの、雅の家にはなにもない。ああ、そうだ、もうなにもなくても良い。構うことすら億劫になる。
存外に雅は酔ってしまっていたらしい。マンションに辿り着いて己が住む部屋の前まで辿り着くと、張り詰めていた糸がぴんと切れたかのようにふっと身体から力が抜けて意識が遠退いていった。
決してこれは酒酔いと車酔いが悪化したからとかそういう理由ではない。そうじゃない。かといって大志が安心するからという理由でもない。そうでもないのだ。
理由なんてこの際どうだって良いだろう。雅は心地好いまどろみを感じながら、遠ざかる大志の声になんだか可笑しくなった。