ドラァグクイーンの憂鬱 08
「は、はあっ……しんどお……」
 慣れない力仕事で無駄な体力を消耗した大志は、ひいと情けない声を上げると床にどすんと腰を降ろした。仕事場で酒ビンやケースなどを運ぶことがあるといっても、いつもとろい大志の代わりに秋平がやってくれていた。
 もとより力もやる気もない大志は秋平に甘えてばかりで、ろくすっぽまともな仕事すらしたことがなかった。
 それに大志が今したことは仕事というよりは、人助けなのかもしれない。
 秋平が仕事中の雅に会いに行くと聞いていてもたってもいられなくなった大志は秋平のアドバイス通り、仕事終わりの雅を待った。流石にこれは怒られるかもという懸念はあったが、どうしても会いたかったのだ。
 仕事終わりの雅はいつも以上に気だるく、色っぽい。見惚れてしまうほどに綺麗だった。
 思わずもっと一緒にいたいと言ってみれば、雅はあろうことか家にくるかと言ってくれた。聞き間違えではない。本当に言ったのだ。
(夢みて〜ここが雅ちゃん家なんだもんな〜うっへえ良い匂い……)
 だから一緒にきた。着いた。入ろうとした。そうしたら雅が糸の切れた人形のように倒れてしまったのだ。大志は己より高い身長の雅を担ぐと、中へと入りベッドに寝かせた。正直骨の折れる作業だった。
「それにしても……雅ちゃんの家なんもねえなあ」
 秋平の部屋はそれなりに綺麗に片付いているが生活感の溢れている部屋だ。大志は汚いけれど、秋平が掃除をしてくれるのでそれなりにまともな部屋。そして雅の部屋は本当になにもなかった。
 仕事用のメイクと衣装と、そんなものが床に散らばっているだけで他はがらんどうとしている。大きな家具はベッドしかない。テレビもPCもラジオもCDプレイヤーもない。
 生活感のない綺麗過ぎる部屋は二人でいてもどこか寒く、寂しくて、大志は規則正しい寝息を立てて寝ている雅にそうっと近付いた。
「……雅ちゃん」
 雅は毎日なにを思って過ごしているのだろう。寂しくないのだろうか。こんな綺麗過ぎる白い部屋で、独りぼっちでなにを考えているのだろう。
 きょろきょろ視線を彷徨わせて、落ち着くことのできない大志はベッドに腕と顎を乗せると間近で雅の寝顔を観察することにした。
 大志が寝ているのは日常茶飯事のことだ。たまに昼休みの逢瀬で寝る場合がある。だけど一度だって雅が眠そうにしていたりだとか、寝たりだとか、そういった場面に出くわしたことがなかったので雅の寝顔が新鮮だった。
 雅だってお人形のように綺麗な顔をしているが立派な人間だ。そこらへんを歩いている、ただの人間なのだ。好き嫌いもあるしお風呂にも入るしトイレにも行くし寝たりだってする。
(すっげえ実感ねえけど〜これって〜うひゃあ……どっきどっきしてきた〜! 寝起きどっきり的な!?)
 雅の長い睫が震える。大志はごくりと唾を飲み込むと、センチメンタルな気分もどこかへ指を伸ばして唇をなぞってみた。弾力はあって淡く色付いて、肉付きも良く思わず口付けたくなる唇だ。
 ふにふにと柔らかい感触を指の腹で楽しんでいれば、興奮してきた。だけど存外にヘタレな大志はそれしかできずに、何度も何度もなぞるだけだった。
「みやび、ちゃん」
 キスが、したい。だけど勝手にする勇気もない。無理矢理だなんてもってのほかだ。こういうのは同意あってこそ意味がある。
 この間はテンパってしまったが、またあんな機会があれば今度こそ大志がリードしてキスをしたい。前回はキスができずに終わってしまったが、絶対してやるのだ。未遂なんかで終わらせない。
 指で唇の感触を楽しんで妄想を繰り広げる。雅がううんと唸れば慌てて指を離して、それ以上触るのをやめた。
 顔をこてりとベッドに埋めてふしだらなことばかり考えた。雅のことで脳内が埋め尽くされる。細胞一つ一つが活性化して、雅に染まっていく。雅のことしか考えられなくなる。
 だってやっぱり好きなのだ。大志は雅が大好きなのだ。どうやったって諦めきれることなんてできない。
 きっかけが顔でも、それしかなくても、雅のことを全て知らなくても雅が己を偽っていてもそれでも好きだ。知れば知るほど深みにはまっていく。これほどまで人を想うことができる恋なんて、初めてだった。
 ストーカーと言われてもしつこいと怒られてもうざいと罵られても、もっともっと近付きたい。傍にいたい。見てほしい。振り向いてほしい。
(雅ちゃん大好き、大好き、だいすき〜)
 いつか絶対振り向いてもらう。好きになってもらう。そうさせる。きっとなる。それを信じて努力を重ねる。
 胸を張って雅のことを彼女だと言えるような日がくると良い。妄想の世界では雅は彼女なのだ。あとはそれを現実にするだけ。簡単だ。頑張ればできる。そう信じて。
「へへ、雅ちゃん、おやすみ〜」
 むずがるようにシーツを握っている雅の手に己の手を絡めて、大志は窮屈な体勢のまま瞳を閉じた。腰を悪くしそうな体勢だが雅と手を繋いで寝顔を間近で見ることができるのにはこれしか方法がない。
 勝手にベッドに入って嫌われたら嫌なので、ボーダーラインはここまで。大志はゆるゆると落ちていく思考に、夢に雅が出てくるよう祈って瞼をきつく閉じたのだった。

 大志の規則正しい寝息が聞こえてきた頃だろうか、雅はゆっくりと瞼を開けた。正直いつ起きようか悩んだ末、ここまできてしまった。
 確かに雅は気を失った。倒れた。だけどそれなりに直ぐ意識は浮上したのだ。大志が雅をベッドに寝かせてそう時間が経たない頃だろうか、意識がふっと浮き上がってきた。
 だけど酩酊感と疲れが織り交ざって、眠気の中でまどろんでいるような状態だったのだ。
 意識はあったけど直ぐに起きられるような状態じゃなかった雅は、大志がやってくれた数々の痴態に息を潜めてじいっと耐え続けた。下手に起きてしまっても面倒かと思ったが、あんなことをされるのなら起きれば良かった。
 中途半端にヘタレで遠慮しいで、でもちょっと乙女のような思春期のような行動だった。されているこっちが恥ずかしくなる。
(大体唇触るだけって……馬鹿じゃないの)
 ゆっくり長い息を吐いて、大志を起こさないよう起き上がった。左手にずっと感じている掌の感触はそのままだ。大志が存外にぎゅっと握り締めてくるものだから、外すに外せない。
 温かくて、ほっとする。いやじゃない。寧ろ心地好い。繋がれている掌だけ、別世界のようだ。
「……、は」
 ぎゅっと握り返してみれば返ってくる力がある。大志はむにゃむにゃと口を動かしながら幸せそうに眠っていた。
 左手は大志と繋がれているから使えない。なので右手を上げて、大志の頬を擽った。普段ぎゃあぎゃあ騒いでいる大志は本当に寝ているときだけは静かであどけない。子供のよう。
 幾分か幼くなった寝顔を見つめていれば、大志がしたことを体験してみたくなった。ただの暇潰し。決して触りたいだとか、思った訳じゃない。
 大志を起こすのは可哀想だし、左手を離せないからベッドから出られない。ここにいるしかない。少し寝た所為か眠気もないのでなにかしたい。だから触るだけ、それしか理由はない。己に強く、言い聞かせた。
「やわらかい」
 伸ばした指で唇を触った。ふに、と凹んだそこは弾力があって想像より柔らかい。男の唇も柔らかいなんて思ってもみなかったから、少しだけ驚いた。案外触るのが楽しくてどうしようかと思ってしまうほど。
 触れれば触れるほどに、鼓動が早まっていく。どきどきしている。早鐘を打つ心臓と同調して、脈の音まで聞こえてきた。
 少しだけ熱いのはどうしてだろう。火照っていく、もっともっとと心が言う。歯止めが効かなくなる。これはまさに、あれなのだろうか。
 さっきまであどけなかった寝顔が可愛く見えてくる。目が腐ってきた証拠だ。ああ、全く本当にどこが可愛いのかさっぱり検討も付かない。
(……馬鹿じゃないの、やっぱり……特別……とか)
 酒の所為にするには鮮明過ぎて、だけど現実としては覚束ない。特別という枠は受け入れることができても、それに名前を付けるのはまだ少しだけ待っていたい。
 だけど大志すら遠慮したことをやってしまいたいという欲求が湧き上がっている時点で、そろそろ覚悟を決めても悪くはないだろう。
 雅は起こさないよう慎重に大志の身体をベッドへと引っ張った。存外に寝汚い大志のことだ、それなりのことでは起きないだろうと踏んでのことだった。
 案の定雅が大志をやや乱暴にベッドの中へと押し込んでも大志はびくともしなければ起きる気配もない。手が繋がっているため少し動かしにくかったが仕様がない。手を離そうとしないのだから。
 そうして目の前に大志の顔がある体勢になると、雅もベッドへと潜り込みそのまま長くもない睫を数えてみた。
 本当に可愛くないけれど、可愛い寝顔だ。馬鹿っぽい。犬のよう。虐めたおしたくなる。
 痛んだ前髪を掻き分けておでこを露にさせた。より一層幼くなった大志に、雅は顔を近付けるとキスをした。もちろん額でも頬でも口の横でもない。唇に、だ。
「ん、……」
 大志が寝息を零す。雅はそのまま何度か角度だけ変えて口付けをした。回数にすれば四五回くらいだろうか、はっと気付いて唇を離した。
(ごめん……あんたでさえ、遠慮してたのにね)
 雅の方からしてしまった。寝込みを襲ってしまった。大志の知らないところで。だけど罪悪感はない。もちろん嫌悪感も。
 ああ、それはそういうことなのだろう。
 雅は大志の頭部を撫ぜ付けるようにして梳いてやると己の眠気を誘った。なんだか勝手にキスをしてしまったがばれなければ良い。そういうことにしておきたい。
 己の心がすっきりとしただけだ。雅はそれ以上考えるのが面倒になると脳を働かせることを放棄した。もとより面倒くさがりだ。なにも考えたくないししたくもない。
 気持ち良さそうに眠る大志の寝顔につられて眠気が襲ってきた。このままベッドで二人して眠れば、起きたときさぞかし大志は驚くのだろう。だけど面倒くさい。ベッドから出すのも面倒だ。
 大志の体温が丁度良い温もり代わりになる。誰かの体温を感じながら、雅は夢へと落ちていった。抱き締めて眠らないだけましだ。だけどこんなに体温が心地好いなんて思いもしなかった。少しだけ、温かいのは幸せなのだと思った。

「ぎゃあああああああああああああ!!!!!!」
 と、耳元で劈くような叫び声が聞こえて雅は慌てて飛び起きた。一瞬ここがどこだかわからなくて、寝惚け眼のまま辺りをきょろきょろと見渡す。さすれば目下でわなわなと震えている大志がいた。
 口をはくはくと動かし真っ赤な顔でなにかを指している。その指の先は雅へと向かっていて、己が指されているのだと気付いた。
「……うるさい」
 時計は未だ明け方で止まっていて、起きていても可笑しくはない時間帯だが些か早いような気もする。夜更けまで働いていた身としてはもう少し眠っていたくて、再びベッドにぼすんと沈んだ。
 嗅ぎ慣れた布団の匂いが雅の鼻腔いっぱいに広がる。温もりを宿したままの布団は雅を眠りに誘うのには十分で、狭いベッドで男二人が寝ていてもその窮屈さに困る前に眠れそうな気がした。
 だけど隣で震えていた大志が再び煩いほどに喚くので、おちおち安眠もできなくなる。
「みーみーみーっみやびちゃ……!」
「……だから、うるさいってば……朝なんだから寝かせてよ」
「うええ! うええ! だ、だ、だだだってえ……な、なになにが起きた!? ここの状況、ね、ねえ雅ちゃんんん……」
「なにか、問題ある……?」
「問題っていうか! え、え、だ、だって俺雅ちゃんと一緒に寝た覚えねえも……! そ、そのあの、ちょっと触ったり、しちゃったけど、その、あの、勝手にベッドとか入るなんて俺、俺……!」
「あーもー……俺が入れたの。風邪引かれでもしたら迷惑だし……もう良いでしょ、眠いから、寝る……」
 くあ、と欠伸を噛み殺した雅は起き上がろうとしている大志を強い力で引っ張ってベッドに沈めた。いきなりのことでついていけないのだろう大志は目を白黒とさせてかっちこっちに固まってしまった。
 薄暗い中でも大志の顔の赤さが鮮明にわかる。息を殺している様子から緊張が伝わってきて、雅は面白くなった。
「あんた、寝ないの……」
「こ、この状況で!?」
「まだ朝には早いんじゃない? 起きたら大学行くんでしょ……まだ時間あるし、寝てなよ」
「え、え、え、で、でも……うええ、あの、その」
「ゆっくり息吐いて、目瞑って……そうしたら眠くなる」
 大志がぎゅ、っと目を瞑る。縮こまるようにして身を丸める姿だとか、息を潜めている姿だとか、見ているだけで吹き出しそうになる。心臓の音がここまで聞こえてきそうで。
 似合わないことをしている自覚なら十分にあった。本来ならプライベート空間に他人など入れもしないのに、ここまで侵入の許可を出している。こちらから、手を差し伸べている。
 前途多難な関係性だ。押され過ぎるから逃げて、ならばと押してみれば逃げられる。どちらか一斉に歩み寄ることもなければ、立ち去ることもない。直線のまま。
 このままでも良いと大志は思っているのだろうか。雅自身も良くわからないままで良いのだろうか。
(今更だって……ねえ、どうしてなんだか……)
 全然眠る気配の感じられない大志の額に掛かっている前髪を摘んでみた。ひくり、と大袈裟に跳ねた身体だが目はぎゅっと瞑ったまま開けようとはしない。
 雅の言いつけ通り眠ろうとしているからなのか、それとも開けた視界に映るものを見たくないだけなのか。
「……ねえ」
「ひゃ、はい……な、な、なにかっ」
「そんな緊張されても困るんだけど」
「み、雅ちゃんが近いからっ……あ、あの、そのっ、ドキドキ、してっ」
「ふうん……でも、そろそろ慣れてよ。あんた俺のストーカーなんでしょ?」
 大志の身体を手繰り寄せて、今度は腕の中に収めてみた。いくら大志が雅より身長が低いといっても、雅自身体型がほっそりしているため腕の中にすっぽりと収まるような体格差ではない。
 だけどそれでも伝わる温度や煩いほど鳴る心臓だとか、硬い身体が妙にしっくりと馴染む。
「温かいとさ、良く眠れるってさっき気付いたんだけど、あんたもそうなの?」
「は、はひ……ひええ、み、雅ちゃ」
「まああんたはそういうの鈍そうだし、わかんないか」
 雅ちゃんだのひいだのはえだの煩い大志であったが、何度か雅が背中をリズミカルにぽんぽんと叩いてやれば口数も減って煩いほど鳴っていた心臓も収まって火照り過ぎていた熱も冷めていくように感じた。
 とろんと眠そうに瞼を閉じて、温もりを求めて自ら擦り寄ってくる始末だ。本当にどうしてこんな状況になったのだろうか。大志が再び寝ようとしている頃になって雅の脳内がクリアになってきた。
 昨夜からというもののどうも調子が狂う。秋平が余計なことを言った所為だろうか、それとも雅の心境の変化なのだろうか。どちらにせよ、もうなかったことになんてできないくらいに触れてしまった。
 他人の温もりがこんなにも満たされることを知りたくなかったと後悔してしまうよりは、知って良かったと思う方がきっと楽に生きていける。けれどもそう簡単に切り替えのできないのが人間でもある。
(犬ってずっと一途だけど……あんたは所詮人間)
 大志の無駄に広いおでこを見ながら、雅は途方にもないことを考えた。早く寝て、起きて、ご飯を食べて、そうしていつも通りの日常へと戻りたい。さすればきっと、きっと、また同じ時間を歩むのだ。
 異質な存在がこの部屋にはあって、明日にはきっとなくなっていて、明後日も明々後日もそれはないもので、雅はそれをきちんと理解していて、時間が進んでいく。
 本当に感情ってものは難しい、と思いながら雅もあと少しだけ睡眠を欲するために瞼をおろしたのである。