気が付けば少しずつ変化をみせていた。始まりから見ればあまりにも変わり過ぎている現状は、あの頃の雅が見たらなんと言うのだろう。
信じられないと詰るのだろうか、馬鹿馬鹿しいと斜に構えるのだろうか、ありえないと断絶するのだろうか。今となってはわからないけれど、きっとどちらにしたって想像すらついていなかった世界だ。
色付いたとか花が咲いたとかそんな表現とは違うけれど、確実に世界は変わっていっている。気付かない内に、こっそりと。
太陽が肌に突き刺すような暑さを出し始めた季節、雅は向こうからやってきた大志に気が付いた。長袖の雅と違い、大志はもう半袖だ。少し気が早い。
「みっやびちゃ〜ん! ぽよはお〜!」
手をぶんぶん振って元気に挨拶をする大志、だから雅もそれに応えた。
「おはよう」
なんて言って笑った雅に、この世の絶望を一片だけ垣間見せた秋平の顔が印象的だった。随分と様を変えた雅に驚いているのだろう。
いつも通りの昼食風景だった。秋平がいる点だけがいつもと違ったが、それでもたまに三人になることもあったから特に異質な訳でもない。にこにこと見えない尻尾を振り回す大志がおはようと元気に叫んだから返事をした。ただそれだけだ。
「どうしたんだよお前……変なものでも食ったのか」
「雅ちゃんんんん! 聞いて聞いて今日は秋平が作ったから肉弁当じゃないんだぜ! ちゃんとおかずが入ってるんだ〜すっげえだろ! もうね、これは一緒に食べなきゃ物件!」
「相変わらず馬鹿丸出しの喋り方だね、あんた。……まあ気持ちだけ受け取っておくよ。ダイエットしてるんだ、ショーもあるし」
ぴょんぴょんと跳ねて寄ってくる大志に呆れ顔の秋平、なにか言いたそうに唇を動かす秋平に対して雅は目線を寄越した。
(……ほんと、タイミング悪い)
暗に帰れと言えないから、視線で訴える。秋平は聡いから直ぐに理解するだろう。訝しげな表情になると、どうしようかと思案した。
雅とて譲れない境界線がある。決心した途端にこれなのだから始末に終えない。だけどどうしても言っておかなければならないことがあるのだ、大志に。
時間にすればたった数秒のことでも、二人にとっては長い沈黙。大志一人なにも気付くことなく、能天気にベンチへと座った。
「……あーったよ、おい大志、俺用事思い出したから行くわ」
「秋平に用事〜?」
「それぐらい俺もあるっつの。ちゃんと午後の授業受けろよ。直ぐあるんだから忘れんな」
「うええ……うん、まあ」
「じゃあまた後でな。……高屋も、また」
元々この昼食は二人だった。流石に秋平もいきなり加わるというのには違和感というかそれなりに抵抗があったのだろう。なにがどうなって今日訪れたのかはわからないが、あっさりとその場を引くと手をひらひらと振って去って行った。
大志もどうして連れてきたのだか。連れてきたわりにはどこかへ行っても止めることもないし、雅が秋平と一緒にいるというだけで店に押しかけるということをしてのけたのに、こういうときは邪魔をされても平気だというのだろうか。
思考が変なところばかりにいく。雅は頭を振ると、秋平に視線をくれてやることもせずベンチへと座った。
(調子狂う……こんなのばっかり)
前までは開いていた隙間が少し狭まった。触れそうで触れない腕の距離が今の二人の距離のようで、妙に照れくさかった。
「雅ちゃん……へへ、なんか、なんかだね! ぱねえぽよあげじゃんね!」
「だから意味わかんないってば」
穏やかな時間が流れる。どきどきと煩く喚く大志の心臓だけが、ここでは速いもの。
この空気が慣れていないというのもあるけれど、この間の一件から目に見えてわかる変化に少しの戸惑いと照れがあったのだ。信じられないような夢を見ているような、些細なことだけれど大志にとっては大きなもの。
優しさがくすぐったい。もっともっとと強請りたい反面、いつものように罵ってもほしいと思う。相反する気持ちが、恋をしている。
「雅ちゃん」
「なに」
「……うええ、うーあれ、呼んでみただけって言いたかったって言うか〜そういうの、あれだ! うう! っていうね、ちょっと、お試しみたいな? うっひゃあ、ああ、ごめん……」
「……あんたの言ってる言葉、半分も理解できない」
呆れたように笑う顔が可愛い。雅もそうしていれば歳相応の大学生なのだ。本人が言っていたように、どこにでもいる男の子。
少し大人っぽいだけ、少し綺麗なだけ、少し浮世離れしているだけ、少し遠くに感じるだけ、少し他人とは違うだけの。
「あ、の」
大志の喉が渇く。いつになく空気が穏やかで優しいから変に緊張してしまう。押せ押せの大志の態度は雅が受け入れてくれなかったからこそ成立していた。だからこんな風に受け入れてもらえると、次になにをしたら良いのかがわからない。
言い掛けた大志の言葉など聞かなくてもわかっていたのか、それとも興味がないだけなのか、雅はいつもより小さなお弁当を開けると白に染まっている中身を見ながら言葉を出した。
「ねえ」
思ったより甘く出た言葉に驚いたのは雅だった。はっとして口を噤むと、気まずそうに目線を落とした。
いい加減諦めが悪過ぎる。不思議そうにこっちを見る大志の視線だけが刺さって、どうにもいかなくなる。さっきまではあんなに照れていた大志も、純粋なだけなのか雅との距離を縮めると驚くような近さから覗き込んできた。
「雅ちゃん? どうかした?」
「……どうか、って……どうもしてないけど……」
「うっそ〜なんかちょっと変じゃね? わかんねえけど〜う〜ん」
「煩いな、別にほんと……」
なんでもない。そう、なんでもない。ただ少し世界が変わって気持ちが引っくり返って、それを認めることができなかったことを消化できるようになっただけなのだ。
嗚呼、もう良い。良いのだ。認めた、それを言葉にする。したらもう戻れない。だけどどの道引き返すことなんてできない。
(……好きだ、なんてね。ほんと、ありえないって、これ)
性別概念だとか異性愛者のはずなのにとか、第一懐かれただけで同性に傾くってどうよとか、そんな葛藤こそあれど悩んだって苦しんだって解決しないのならそっと蓋をしてそのままを受け入れるしかない。
だけどそっくりそのままバッドで打ち返した言葉だけは言えない事情も雅にはあって、相手が大志だからこそ言っておかなければならないこともある。
純粋にきらきら輝く瞳があまりに汚れていないから、雅ははあと溜まった沈殿物を吐き出すかのような息を出すと大志の顔を押しやった。
「……今日の夜、ひま?」
「えっ」
「だから、あんた今日の夜ひまかって聞いてんの」
「え、えっ、そ、それって……」
「なに顔赤くしてんの? そういうんじゃないから。……あんたに見てほしいものがある」
「お、俺に? 見てほしい、もの」
「そう、あんた……大志にね」
そう言ったときの大志の顔は、ある意味二度と忘れないだろう。あんなにも面白い顔をするのならもっと早くに名前を呼べば良かったなんて思ってしまうほどに変だった。
どの道雅も存外に緊張していた。ダイエットと称して少なくしたご飯ですら食指が進まず、味なんて覚えてもいない。寧ろあのあとのことをあまり上手く思い出せない始末だ。
本当に調子が狂う。ものだ。本当に。
結局随分と遅くなってしまった。というのにも理由がある。雅が日付変更付近まで仕事をしていたのと、大志もバーのバイトをしていたからだ。
今日の夜が暇かと雅から聞いたのにも関わらず仕事があることをすっかり忘れていた。結果オーライだったが、それなりに焦っていたことはどうやら事実らしい。
夜も随分と更けてから二人は歌舞伎町で落ち合うと、そのまま徒歩で雅の家へと向かった。雅の見てほしいものが雅の家にあるからだ。
冷たくて暗い部屋に電気が灯る。緊張気味の大志を部屋に通して床に座らせた。
「直ぐに着替えるから待ってて」
理由もなにも聞かされずにそう言われた大志は頭にハテナを描いていたが、雅の様子に黙って頷くとフローリングにぺたりと腰を降ろした。
雅も貧乏学生だ。大学こそ両親の恩を受けているものの生活費は全て自己負担。ドラァグクイーンになりたいだなんて言って勘当に近い形で家を出た雅だから仕方がない。
両親は雅のことを認めるつもりも受け入れるつもりもないらしいが、それでも最後に親としての義務は果たしたかったのだろう。それが素直に嬉しいと、雅は今になって思う。
ワンルームの六畳の洋室。ベッドと、仕事用具と、クローゼットしかない。娯楽用品などない。そんな部屋で雅は生きている。
「み、雅ちゃんんんん!?」
いそいそと脱ぎだした雅に驚いたのは大志だった。確かに部屋はここしかないが1DKだ、大志がきているのだからせめて扉の向こうのキッチンで着替えてほしい。
目に毒な光景が広がる。大志は赤面した顔を抑えると、情けない声を上げた。
そんな大志に構うことなく雅は着替えを終わらすと、今度は床にある少し大きなボックスを引き寄せて開いた。そこにはメイク道具一式が入っていた。
ここにきて漸く、雅のしたい行動がわかった。理由まではわからないが雅は今ドラァグクイーンになろうとしている。
派手なメイク、厚化粧にも程がある。時間が掛かるそれは見ていて飽きない光景だ。正直やり過ぎじゃないだろうかと思う節はところどころあれど、言葉にはしない。
着々と仕上げていく雅は最後にウィッグを被るといつかの店で見たようなドラァグクイーンの姿になった。
「み、雅ちゃん……?」
立ち上がってこちらを見た雅に、大志は上擦った声を上げる。見上げた雅のドラァグクイーンの姿はどこか面白可笑しい格好ではあるが、綺麗なのも事実だ。
雅は大志と向き合うようにして腰を降ろすと、真っ直ぐとぶれない視線で見返してきた。
「ドラァグクイーンになるのが、私の夢なのよ。そう言ったのは覚えてる?」
おかまのような口調、大志は少し驚くとこくこくと頷いた。
「理解のない人や、あんたみたいなノンケからしてみればさぞかし可笑しな存在でしょうね。おかまって一括りする人もいるわ。男女だなんて馬鹿にする人も、気持ち悪いって言う人も、存在自体に嫌悪を抱く人だっているわね」
「お、俺はそんなことない!」
「ええそうね、でも本質のところでは私たちにしかわかりあえない存在だってことは重々理解しているし、世間から見れば異質なものだってことも認めているの」
雅は手持無沙汰に揺れる大志の手を引くと、そっと己の手を上から重ねた。
「だけどね、私はそんなことどうだって良いのよ。この歳で代え難い夢を見つけられたことは本当に奇跡だって思ってるもの」
ぎゅっと強く握られる。雅が緊張しているのが手から伝わってくるようだ。大志は唾を飲み込むと雅の顔を真正面から見つめた。
「いつかあのステージで踊って歌うの。私が真ん中に立ってメインでね。日本一のドラァグクイーンになりたい。私があの人に憧れたように、憧れられる対象になりたいの。それも夢なの」
「雅ちゃん……」
「そのためならなんでもできるわ。なんだって捨てられるし、我慢できる。なにを犠牲にしたって良い。家族も地位も、友達も恋人もなにも望まない」
「そ、そうなの……? 雅ちゃんはほしいもの、それしかないの……?」
「……ええ、そうね、そうなの、そうだったのよ……それしかなかったの。私にはそれしかなかったのにね」
雅は視線を横に向けると、なにを思うのか小さく笑って正面に向き直った。
「踊り練習してるの。歌も音楽もないけれど、見てくれる?」
戸惑いながらも頷いた大志に雅はほっとしたような表情で立ち上がると、練習しているのだという踊りを見せてくれた。
大志には縁のない世界だ。理解もできないし、きっと一生わかり合えることもないだろう。気持ちが悪いと思わないのもそれを雅がやっているからで、赤の他人がやれば嫌悪を抱くかもしれない。それほど特殊な世界だ。
大志だって頭が柔軟な訳ではない。普通の男だ。本当に普通の男なのだ。だからこそ、異質な世界全てを受け入れることができない。
それでも雅のことは純粋に綺麗だと感じるし、凄いとも思う。ありえないほどケバくって背もでかい雅が女の格好をして踊っていてもただの男にしか見えない。だけどそのちぐはぐな世界観が雅と融合してなんともいえないものになる。
(きれえ……ほんと、すっげえ雅ちゃんきれいなんだ)
うっとりとしてしまう。恋は盲目といったところなのか、雅の持つ世界観に酔っているのか、それとも何事に対しても夢を追い続ける素直な姿に感動しているのか。
踊り終わった雅は大志を振り返ると、清々しい顔で短い息を吐いた。
「どうだったかしら」
「う、うん! すっげえ! すげえきれかった! ほんとなんつーの、その別世界っていうか……うーうーあの、とにかくすげかったんだ!」
「……ねえ? これが私なの。女の格好して可笑しなメイクして気持ちの悪い口調で喋って、可笑しな夜の片隅で踊るのが私なの。こんな半端な私を見てもあんたはまだ好きって言えるの? このままの私もあんたは受け入れるの?」
真剣な瞳が大志を射抜く。だけどそんな空気にも怯まず、大志は変わることなく底抜けに明るい声を出すと大袈裟な動作で頷いてみせた。
「うん! どんな雅ちゃんでも好き! 正直そのドラァグなんちゃらっての? 俺にはどう考えたってさっぱりだし、多分雅ちゃん以外の人たちはありえねって思うかもしんねーけど、その、ううん、あの、なんつーかやっぱり雅ちゃんは俺にとって救世主なんだ!」
「救世主って……あんたほんと救いようのない馬鹿ね。ほんと馬鹿……趣味も悪いし、最悪ねあんたって」
雅はそのまましゃがみこむと、大志の頬に優しく触れてそっと顔を近づけた。
甘くて蕩けそうな表情をしているのは誰なのだろう。穏やかな声で言葉を発するのは誰なのだろう。そうやって雅が言った夢物語のように、この世界こそが夢なのではないのだろうか。
「……たいし」
化粧の人工的な甘い香りと、雅の持つ香りが漂う。ふわりと匂い立つころには距離がゼロになって、雅は大志の唇を一舐めすると小さく口付けた。
小さく呼ばれた名前も、変な味がする唇も、存外に柔らかい唇も、世界こそが実態のない触れられる幻のようだ。
大志はぽかりと呆気に取られると、唇が離れた感触でさえ理解できずに雅のことを見つめ返すことしかできなかった。
「絆されたわ、私」
そう、言われた。雅が言った。大志はやっとのことで反応を示すことができた。
「ふふ、認めたくないけど、……まだ受け入れたくもないけどね、好きみたいよ。あんたのこと。信じられないでしょう?」
「す、きって……」
「その好きよ。どうしてかしらね、あんたのこと馬鹿にもできないの。私も大概趣味が悪いのね」
近過ぎる距離がぼやける。間近で目を細めて笑った雅の存在がどこか異世界のようだ。
はっきりと告げられた言葉がどこか覚束ない脳内でリフレインする。大志の脳味噌がいつにも増して活発に動いても、その言葉を上手く理解することができないでいた。
だけど雅は確かに言ったのだ。好きだと、そう言ったのだ。