がやがやと騒がしい歓楽街で雨乞は呆然と立ち尽くしたまま、怪しげに光るネオンを見つめていた。
残業もない金曜日の夜。酒に強くないが呑むのには持ってこいの時間と曜日だ。なのに足はびくりともそこから動かず、どうしようかと彷徨わせた視線はずらりと並ぶ看板を見つめるばかりであった。
仕事中は大佐服に包まれ虎の威を借る狐のような気分になっているのだが、一度それを脱いでしまえば雨乞はアークモノー団の大佐ではなく、そこらへんにいるただの男になってしまう。
気も強くない、度胸もない、そして一人でなにかをすることができない。
酒は呑みたいが一人で居酒屋に入る、たったそれだけのことができなくて二の足を踏んでいる状態であった。
元々人付き合いが得意ではない雨乞の交流関係などないに等しい。アークモノー団に入ってからそれにますます拍車がかかった。人に言えない就職先での仕事の悩み、誰かを誘って呑んでも愚痴一つ言えないのであれば誘う気も削がれるもの。
それに秘密結社★アークモノー団の面子と呑むというのも、なんとなく遠慮したい気分であった。
「……いい加減、学べってか」
繁華街のネオンに戸惑ってしまうのは、なにも今日が始めてではなかった。毎回呑みたいと思ってここにくるのだが、それが実現したことなど一度もない。
大衆居酒屋は煩く人数が多いために、一人で入るのには意外とハードルが高い。こじんまりとした個人居酒屋なんかは一見さんお断りといった雰囲気が出ているような気がするし、それに立ち飲みなど論外だ。あんなものは上級者しか入れない。
そうぐだぐだと悩んで前に進めていた足を、一歩後ろに下げる。
やはり今日も居酒屋で呑むというのは諦めた方が懸命かもしれない。そんな度胸などない。寧ろ一人で入るということが恥ずかしくて、とてもじゃないが素面の状態ではできそうにもなかった。
いつものコースか、そう思った雨乞はコンビニに向かうことに決めると繁華街から足を遠退けたのである。
毎回のことだ。繁華街で呑もうと決めるものの居酒屋に入ることができず、コンビニで酒を買って公園に行き野良猫相手に独り酒というのは。
胃に優しげな肴と、アルコール度数の低いチューハイと、そして野良猫。夜の公園に人気もないので野良猫相手に愚痴っていても変質者だと通報されることもないから、雨乞は存外その呑み方を気に入っていた。
独り寂しいかもしれないが、孤独の方が楽だ。気兼ねすることなく好きなペースで呑める。
雨乞は良くなった気分のまま公園へと向かうと、ステップを踏むのであった。
家に程よく近い場所にその公園はある。昼は子供の遊び場になっているそれは、夜ともなれば誰一人としていない閑散とした居心地の良いスペースへと変わるのだ。
雨乞はきょろきょろと視線を彷徨わせながらその公園に入ろうとしたが、仄かに漂ってきた出汁の匂いに足を止めた。
「や、たい……?」
公園の前にぽつりと建つ屋台。いつもは焼き芋だとかたこ焼きだとか、そんな屋台が建っている場所に何故かおでんの屋台が建っていた。
そうだ、屋台の存在を忘れていた。しかし屋台も雨乞にとってはハードルの高い存在である。
あの人を寄せ付けておいて、どこか拒絶しているような雰囲気に尻込みしてしまう。のだが、おでんの誘惑に抗うことができなかった。
時間が早い所為か、人通りがない所為か、屋台には一人しか客はいないようだった。後姿から想像するに若そうな男だ。これなら雨乞がひょいと顔を覗かせても、大丈夫かもしれない。
手に持っている肴や酒はいつでも呑める。だがこのおでんは次の日にはないかもしれない。それに独り酒デビューするのには良いチャンスではないのだろうか。
気が合ったらそこで呑んでいる人と仲良くなっちゃったりして、話で盛り上がっちゃったりしてなんて。ああ、とにもかくにも呑んでみたい。おでんが食べたい。雨乞はその欲求に勝つことができず震える手で暖簾を開けた。
「へいらっしゃい」
気の良い人好きのする親父の声がかかり、雨乞はどくんと鳴った心臓を押さえると、挙動不審ながら軽く会釈しておざなりに置かれた椅子に腰をおろした。
椅子一つ空けたその隣には、雨乞が推測した通り若めの男が熱燗を片手にはんぺんを食べていた。それに視線を向けながらも差し出されたおしぼりを手に取り、ビールを注文した。
「おでんはなににします?」
「え、あ、……と、大根と玉子と、はんぺんを頼む」
くつくつと煮えるおでんを前にそう口にすると、雨乞は視線を男から外し手元へと移した。
だがどうやらそれが男の気を引いたらしい。横で呑んでいた男は雨乞に視線を向けると、なんと話しかけてきたのだ。
「お兄さん独り?」
「……え? あ、俺か?」
「そー」
「独りだ。……その、貴方も、か?」
「貴方って……まあ、そうだよ。独りで呑んでんの。ここのおでん上手いよ〜。ちなみにね、俺は大根がおすすめ。お兄さん頼んだやつね」
「そうなのか、……その、初めてだから、……こういうとこで呑むのは。どうして良いのか迷うな」
どきどきと意味もなく鳴り出した心臓に気付かない振りをして言葉を返す。上手く話すことができているだろうか。
独りで飲むということにも、呑み先で話しかけられるということも初めてな雨乞にはこういったときどうして良いのか、全くもってわからなかった。
そんな雨乞の葛藤など知らないのだろう。人見知りしなさそうな男は椅子一つ乗り越えて雨乞の隣へと腰掛けるとにっこりと笑みを見せた。
「じゃあ一緒に呑もうぜ。独りで呑むよりかは、二人の方が楽しいだろ?」
「……そういうもんか?」
「そういうもんでしょ」
ね、と歯を見せて笑う男。爽やかなその笑顔に、雨乞はぎこちないながらも笑みを返した。
黒の髪に黒のスーツという出で立ちの雨乞とは違い、男は派手目の茶髪に奇怪な服装をしていた。目鼻立ちははっきりしていて、どちらかといえば男前に入るのだろう。垂れ目がちで甘い顔立ちはこんなところで独り呑まなくても良いように思えた。
だがモテそうだからといって独りで呑まないという訳でもないのだろう。たまにはそんなときもあるのかもしれない。雨乞は勝手に自己完結をすると、ビールを一口喉に流し込んだ。
「お兄さん、仕事帰り? それにしちゃあスーツ黒だけど……もしかして葬式の帰りとか」
「いや、仕事だ。変わった仕事先でな、黒スーツだと決められているんだ。貴方は?」
「その貴方ってのやめない? なんか痒くなるんだけど、あ、そうそう俺、白瀬 大河(しろせ たいが)ってゆーの。お兄さんは?」
「雨乞 市、だ。その、白瀬さんも、仕事帰りか?」
「うん、そー。こう見えてもサラリーマン的な? そんな感じなのよ、俺。雨乞さんも大変だね〜。俺より若そうだけど、幾つなの?」
「二十六だ。白瀬さん、も、若そうに見えるけど」
「俺〜? そう若くないよ。三十路近いもん。もう二十八。やんなるよな〜、婚期もまだなのに三十路の方が近いなんてさ。なあ、親父! 俺のどこが駄目だっつーんだよ」
はあ、と溜め息を吐きながらもどこか楽しげに笑う白瀬は、雨乞の目にはそんな歳に見えなかった。というよりは気持ちや言動が若いから若く見えるのだろうか。
陰鬱で薄暗い性格をしている雨乞から見れば羨ましいほどに底抜けて明るそうな白瀬は、一瞬にして雨乞の憧れのような存在にも見えて、どこかで張っていた拒絶の壁ががらがらと崩れていくような気がした。
「その、白瀬さんは、……仕事に満足しているか?」
「え? なになに、なんかの勧誘?」
「いや、……その、転職を考えてて……。土日祝休みだし、有休もあるし、給与も良いんだが……ちょっと人には言えない職業っていうか、嫌じゃないんだ。合っているとは思うし、でも、……迷っている部分もあって」
初対面の白瀬になにを言っているのだろうという思いはあったけれども、それでも雨乞は勝手に喋りだす口を止める術がなかった。
具体的には言えない。なにも言えないのに、白瀬の柔らかい雰囲気と温かい眼差しにゆるゆると溶かされた警戒心が消えて、頼ってしまいたいという気持ちにさせた。
きっと困るだろうとわかっていても、なにも言えないだろうとわかっていても、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。本当はずっと言いたかったのかもしれない。
なにも行動を起こせる勇気はないけれど、ただ愚痴ってみたかっただけだ。
そのままぺらぺらとぼかしながらも話す雨乞に、白瀬はうんうんと頷くと、わかるよ、と言った。
「俺の職場はさ、雨乞さんとこの職場と違って土日でも出勤あるんだよね。規約上は休みなんだけど、少人数ってゆーの? 俺んとこ社員少なくてさ〜少人数で経営してんのよ」
ちゃぷん、と白瀬さんの持つ熱燗の中身が揺れる。
「で、提携ってゆーか競ってるってゆーか、ライバル社と一緒に仕事してんのね。その仕事先は俺んとこと違って社員の数が半端ねえの。まじ多いの。それをさ、少人数で相手すんだよ。わかる? 相手は全員たま〜にこっちくるって意識だろうけど、こっちからしたら半端ねえ訳よ」
「なにが?」
「なにがってその大人数を少人数で相手すんの! だからさ〜休みなんてあってないようなもんで、もう労働基準法違反してるじゃん的な? 一人当たり十人以上だよ、担当! やばくない!?」
「それは大変そうだな……」
「でしょ。給与良いけどもうちょっと休み欲しいってゆーか、まあ良いんだけどね。仕事内容は楽だし。お互い苦労するね」
「いや、白瀬さんの会社の方が大変そうだ」
ビールから冷酒へと鞍替えした雨乞は、慣れぬ味に四苦八苦しながら舐めるようにその酒を呑んだ。熱燗をぐいぐい煽っている隣でビールというのはあまりにも色気がないので変更したのだが、少し早まったかもしれない。
喉にカッと焼けるような味を感じながら、白瀬の言葉にうんうんと相槌を打った。
「でもさ〜なにが一番嫌って女作れないところ? 女できても仕事のこと言えねーし、不規則だからあんま会えねーし。でもセフレってのも歳的になあ。結婚してえ訳じゃないけど、まともな関係も築きたいよね」
「せ、ふれ……」
「ヤるだけってのは魅力的じゃん? 後腐れないし。好きになられたら面倒くせーけど」
「……す、げえな。そんなの」
「そう? この歳になるとそういうの普通じゃない? つっても最近は玄人の女とばっかりなんだけどね〜。下世話な話、金はあるからさ」
ハハハと笑った白瀬さんの白い歯と浮いた台詞のアンバランスさに、雨乞は顔を赤くさせるとその言葉を心の中で反芻させた。
セフレだの玄人だのあまりにも無縁な世界だった。仕事をこなすのでいっぱいいっぱいだった雨乞は、ここのところそういったことにとんとご無沙汰だったのだ。
元々性には淡白な方だ。女性の柔らかい身体は好きではあったが、薄暗い性格故にそんな派手に遊んだこともなければ、経験もごく普通のものしかなかった。
限界まで仕事で煮詰まったときはそういった女性を家に呼ぼうかとも考えたが、それは未遂で終わっている。というのも電話をして家に呼ぶということに抵抗があったからだ。
酔った所為か男二人だからか、話題が怪しげなものに変化していくのに乗じて、雨乞は思い切って尋ねてみた。
「その、白瀬さんは、家に、……そういった人を呼んだりするのか?」
「……デリヘル、とか?」
「……ああ」
顔に熱が集るのがわかる。雨乞は視線を落とすと、白瀬の言葉を待った。
「そりゃ家に呼ばないでどこに呼ぶの? あ、ホテルとか?」
「そういうんじゃなくて、恥ずかしく、ないか? 電話とか、……きたときどうしたら良いんだろう、とか」
「あれ!? もしかして雨乞さんって童貞? チェリーボーイ?」
「ち、ちげえよ! ……ただ、風俗利用したことねえだけ、だ。してみたいなって、……思ったり、しなかったり、する、んだけど」
「あ〜ね、恥ずかしいんだ。へ〜そ〜、まあ気軽に思えば良いんだよ。相手はそれが仕事なんだから、雨乞さんが慣れてなくたって上手くしてくれるよ。ってあれ? なに話してんだ?」
恥ずかしげに口篭った白瀬に、雨乞も釣られて照れると誤魔化すように冷酒を一気飲みした。
途端喉が焼けるような激しい衝撃に襲われるものの、意識は妙に冴えている。緊張しているのだろうか。いつもなら絶対に潰れてしまうだろう酒の量でも酔えずに、雨乞はおかわりを催促した。
「……つーか、雨乞さん、溜まってんの? オナニーしないの」
「……する、けど。人肌も恋しいな、って、思ったり、も」
「ふーん? そういうもん? 人肌ね〜確かに独りでヤるよりは誰かとヤった方が気持ちいもんね」
「まあな。……今度、電話してみる」
「そんな堅くなんないでよ、ね? 頑張って。じゃあ雨乞さんが無事にデリヘルに抜いてもらえるように乾杯する?」
「……いや、なんか格好わりいから遠慮しとく」
「はは、確かにね〜。じゃあ彼女できるように乾杯しよ。お互いに、さ」
それから熱燗を持った白瀬と冷酒を持った雨乞は、怪しげな話題から仕事の愚痴など、初対面とは思えないほどに打ち解けるといろいろな話題で盛り上がった。
美味しいおでんと、美味しいお酒、そして話し易い人。その三種類が揃えば怖いものなしだ。
久しぶりに楽しいと思える時間を得た雨乞は、自らの限界も無視して呑んだ。それは呑んだ。限界まで呑んだように思う。
白瀬との会話も途中でしどろもどろになる。おぼろげになっていく記憶で、どこまでが現実で夢かも曖昧だ。
ただ感じていたのは、楽しい、熱い、目が回る、苦しい。そして痛い、気持ち良いだった。
ずきずきと脳髄を直接突かれているような激しい頭痛で雨乞は目を覚ました。
勢い良く起き上がった所為だろうか、一際ずきりと脳に響いた痛みに呻いた雨乞は頭を抱えると布団へと再度沈んだ。が、布団という異質のものに考えをぴしりと止まらせた。
「……布団?」
どうして目の前に気持ちの良い柔らかな感触の布団があるのだろうか。必死になって記憶を辿ってみるものの、雨乞の記憶は白瀬というおでん屋台で出会った男と呑んでいるところで止まっていた。
そこから先が全く持って思い出せないどころか、なにも覚えていない。気が付いたら朝になっていて、雨乞は布団で寝ていたのだ。
天井は白く、布団も白い。頭は痛く、間接の節々が痛む。雨乞はぎこちなく動く首と、どこかで制止をかける脳を振り切って隣に視線を移した。
こういったパターンは初めてだが良くあることだ。酔った勢いでベッドに雪崩れ込んでセックスをするなど、漫画アニメドラマのテンプレートだろう。そうしてお互いに記憶がないというのも、お決まりのことだ。
「……まじ、かよ」
そう決してぶれることがなく、良くあることだからテンプレートという。
隣にはやっぱり裸の白瀬が気持ち良さそうに眠っていて、それをじいと見つめる雨乞も例に漏れなく裸だ。普通ならば痛まないところがずきずきと痛いのも、ベッド横のゴミ箱にティッシュがあるのも、サイドテーブルに封の開けられたコンドームがあるのも、これは、やっぱり、そういうことなのだろう。
人生二十六年生きてきて初めてのテンプレートは、女という通例の出来事ではなく、異質の男との出来事になってしまった。
そう、誰が思うのだろう。日本をかけて芝居する秘密結社★アークモノー団のイチ大佐が、どこかわからぬ男と褥を共にして焦っているのだと。レッドと戦うより苦戦しているのだと。誰が思うのだろうか。