いつも通りの出勤風景。嫌だと愚痴りながら森に入って着替えることなく幹部室に入る。そこには雨乞の出勤を待っていたであろう世話役があくせくと働いていた。
己より小さな身長の世話役がくりくりとした黒曜石に似た瞳を雨乞に向ける。上から下へと視線が動けば、怒ったようなそれでいて困ったような表情になった。
「イチ大佐! またその格好でここに入って! いい加減着替えてきてくださいよ!」
「いや、なんていうかお前のそれ聞かないと出勤した気しねえんだよな……」
「日常になるまで僕に言わせないでください。首領がきてたらどうするつもりなんですか」
「首領たって……ここには滅多にこねえだろ。あの人がどこにいるかなんて誰にもわかんねえんだし」
「それもそうなんですけどね……一応ナンバーツーなんですから、それ相応の身形はしておいてくださいよ」
世話役はそう言うと書類を雨乞の机に置いて溜め息を吐いた。雨乞はそんな世話役を気にする訳でもなく、己の机に近付くと溜まっていた郵便に目を通す。
主にその郵便の内容は先日の現場についての評価だったり改善点だったり、新発売の商品の詳細だったりする。後でゆっくり目を通すことにすると目新しいチラシを手に取った。
それは義神戦隊ギーレンジャーとのコラボ商品の宣伝であり、イチ大佐とレッドが対決している様子を象った大人向けのフィギュアであった。こんなものも発売するのだとしみじみ思えば、先日過ぎった疑問が浮き彫りになってくる。
雨乞に不躾な視線を送っている世話役を見ると、躊躇いがちに唇を動かした。
「あ、のよ……ちょっと聞きたいことあんだけど」
「その前に着替えてきてください」
「ちょっとだけ、直ぐ終わるから」
親指と人差し指で時間を表す隙間を作れば、世話役は仕様がないといった風に頷く。それに乗じて聞きたかったことを問うた。
「アークモノー団って義神戦隊ギーレンジャーと業務提携してるんだよな? つーことは、兄弟会社のようなものか?」
「まあ、そんな感じですね。経営や方針などは全く異なりますが、お互いがいないと成り立たないのでそういった面では通じていると思いますよ」
「……義神戦隊ギーレンジャーのメンバーの個人情報とかわかるのか?」
どくどくと鳴る心臓を押さえてそう聞けば、不審さを露にさせた瞳が返ってくる。慌てて詳しく説明をすれば納得したようなしていないような微妙な面持ちになった。
「レッドが知り合い、ですか……まあ有り得ないこともないですね。お互い素性は隠しているし、素顔も見られてはいないですからね」
「ああ、別に住所とかが知りたい訳じゃねえんだ。名前だけで良い。……その、気になってな」
「名前だけなら直ぐに出ますよ。現場登録ベースの必須事項でもありますからね。じゃあレッドの名前検出している間に着替えてきてください。じゃないと教えませんよ」
「……わかったよ」
雨乞がだらしない所為か徐々に世話役が強かになっているような気がする。雨乞は居心地悪くなりながら草臥れた黒スーツから大佐服に着替えるために、幹部室を後にした。
特別レッドの素性が知りたい訳ではなかったが、時折ふと不安になったりする気持ちを否定したかった。気にし過ぎだと、レッドは関係ないと、そうはっきりとした事実で否定したかっただけ。
まさか本当に知り合いだなんて思いもしなかった。気の所為だと思っていた。なによりも有り得ないことが現実になって、雨乞はどうして良いのか途方に暮れた。
世話役に言われた通り大佐服に着替えた雨乞は先ほどのげんなりとした気持ちが嘘のように、晴れ晴れとした気持ちになった。かつかつとヒールを響かせながら、薄暗い幹部室に入ればPCを弄っている世話役が雨乞の方を見る。
「出ましたよ、名前。登録ベース見ます? 名前と血液型と誕生日と顔写真がありますね。見たところイチ大佐との接点はなさそうですが……年齢も違いますし」
このときまでは虎の威を借る狐のような気分だったのだ。アークモノー団のイチ大佐。崇められるべき存在であると、そんな気分だったのだ。
強制的な光が目を射す。雨乞は瞼を狭めると、映し出された登録ベースを見て言葉を失った。
「し、ろせ大河……?」
顔写真と共に連ねられていた名前。雨乞は身体中を走った雷に、呆然と立ち尽くすしかなかった。
名前にも顔にも嫌と言うほど見覚えがある。何度も見た訳ではない。たった半日時間を共にしただけの相手だったが、雨乞にとってはまさに忘れられない相手だったのだ。それは悪い意味で。
耳元にリフレインする軽薄そうな言葉。嫌味ったらしい笑みに、やらしい手付き。人の話を聞かないヒーローとはかけ離れた人物。そう、あの白瀬だ。おでん屋台で出会ってしまったが最後、雨乞を未知の世界に引き摺り落とした白瀬だった。
「あれ? イチ大佐知り合いなんですか?」
「知り合いも、なにも……」
「偶然ですね。まさかレッドとイチ大佐が知り合いなんて。それこそすっごい偶然じゃないですか」
平和そうな世話役の言葉もどこか遠い。警報を鳴らす脳内では、白瀬の言った言葉がずっと回っていた。
小さい会社だとか、一人辺り何人も相手をするだとか、業務提携をしている会社があるだとか、いろいろとキーワードはあった。だがそれで気付くという方が可笑しい。
最初から下半身の緩い白瀬とレッドを結び付けるものはなにもなかった。寧ろ一番遠い場所に位置する人物だ。雨乞とて悪役の大佐には似合わない日常と趣味を持っていたりするが、白瀬ほどではない。
子供の目標で、大人の尊敬の眼差しで、ヒーローで、そんな人物はあの朝ベッドで雨乞を手篭めにした白瀬だと知りたくなかった。
大佐服を身に纏っていることも忘れて、素に戻っていくような感覚。雨乞は瞬きも忘れてそれに見入った。
「……イチ大佐?」
不安げな世話役の声と、雨乞の持っていた携帯の音が重なる。動転していた雨乞はそれにはっと気付くと携帯を取り出した。
「勤務中ぐらいはマナーモードでお願いしますね」
「わ、わりい。……もしもし」
余りに焦っていた所為で着信元を見ることなく電話に出た。尚且つ勤務中だということも忘れていた。出てから非難するような世話役の視線で気付いたのだ。だが出てしまったものはどうしようもない。
一呼吸置いて聞こえてきた声音に、雨乞はびくりと肩を震わせた。
『あ、もしもしー? 俺だよ〜、覚えてる? 白瀬でーす! 忘れてないよね?』
「あ、……」
『声聞くの一週間ぶりだね〜。ずっと電話しようと思ってたんだけど何分俺も忙しくってさあ、ちょっとどたばたしてたのよ』
白瀬の声が電話越しに聞こえる。その相手はまさにパソコンに表示されている相手だ。レッドなのだ。
『それで今日会えない? 溜まっちゃって溜まっちゃって俺の息子が爆発寸前っつうの? いやね、相手がいなかった訳じゃないよ。ただ雨乞さんが忘れられなくって! え? どきどきした? だめだめ、俺はみんなのものです。なんつって!』
「今日……?」
『金曜日だし雨乞さん明日休みでしょ? またエッチしよ。すっごく良かったから、またシたくなっちゃって。やべえ、思い出しただけで勃ってきたよ。すげえ、中学生かっての、ね』
「いや、その、あ、の……」
『あ、やべ今から出勤だわ。呼ばれちゃった。じゃあ今日の夜、あの場所で待ってるね。あ、ほらおでん屋台んとこ。時間はこの前と一緒で! じゃあ待ってるからまた後でね』
「まっ、……」
待て、とそう言う前に途切れた電話。雨乞は呆然と電話を握り締めるとツーツーと鳴る切れた音を聞いていた。
なにが起こったのかいまいち把握できていない。レッドが白瀬で、白瀬がレッド。そのことに気を取られ過ぎていて電話の内容まで頭が回らなかった。そうして気付けば大変なことになってしまっていた。
掛かってきた電話の内容をゆっくりと反芻する。纏めれば白瀬は忙しかった。だから溜まっていた。セックスがしたい。だからヤらせろ。そういうことなのだろう。
否応言う前に勝手に取り付けられた予定。雨乞は携帯を手から落とすと困窮とした。
「……やべえ、やべえ、やべえ!」
「イチ大佐?」
「ど、ど、ど、どうしよう……どうしたら良い? なあ、どうしよう……」
「……なにかあったんですか?」
「レッドが白瀬さんで、白瀬さんがレッド……嘘だろ、なあ、もう、どうすれば良いんだよ……。ありえねえだろ、こんなこと……」
壊れたブリキのように同じことを繰り返す雨乞にはなにを言っても無駄だと思ったのか、世話役はPCを切ると立ち上がり仕事に戻ることにした。どうせ緊急の仕事などないのだ。雨乞一人さぼろうがなんの影響もない。
中佐辺りがこの雨乞を見たら発狂するだろうな、と思い幹部室に立ち入り禁止の札だけ掛けると世話役は出て行った。それからも暫く床に蹲って閉口していた雨乞はこの一日なにも仕事が手に付かなかったのである。
仕事が終わっても雨乞はなにも行動する気が起こらなかった。今日は珍しくアークモノー団の会社に清掃会社が入るので残業禁止な故に終業のチャイムが終わるなりさっさと会社を後にしたが、それ以降どうすれば良いのか困り果てていた。
金曜日の夜ということか街中は人で溢れ返っている。これから呑みに出かけるのであろうサラリーマンや、夜の街に出勤するキャバクラ嬢やホストたち。
雨乞はそれらを見つめながら、花壇の縁に腰を掛けていた。
「はあ……」
携帯を手に取る。時間はもう直ぐ七時を差そうとしていた。待ち合わせの時間だ。といっても勝手に取り付けられた約束なためすっぽかしても文句はないだろう。
だが元々の性格がお人よしな雨乞な故に放置してしまうということができなくて、かといって素直に行くというのも躊躇われる。そうして迷いに迷って動けなくなっていたのだ。
白瀬に会えばかなりの確立でホテルに連れ込まれてしまうのだろう。雨乞も白瀬も良い大人なのだから断れば良いだけの話だが、話し上手な白瀬のことだなんだかんだ言いつつ上手に丸め込まれてしまうことは目に見えていた。
友人関係だけならばそうそう悪い相手ではない。話し易い空気を持っている白瀬にならなんでも話せそうな気がしたから。
だけど身体の関係とレッドと言う正体を知ってしまった今、これ以上付き合いを続けるのは憚られる。イチ大佐という己の正体を隠し通せたとしても、正直係わり合いになりたくないと思ってしまっていた。
無情にも流れる時間と人の波に埋もれていた雨乞だったが、後ろから肩を叩かれて驚いたように振り向いた。
「雨乞さん? こんなとこでなにしてんの?」
「……し、ろせ……さん」
「丁度良かった。偶然だね〜。俺も今から向かうとこだったんだ。この間のおでん屋台で呑もうかと思ったけどここで会ったんだし、ちゃんとした店入る? あ、俺焼肉食いてえな。精つけないとエッチたくさんできないし」
「あ、いや、ちょっと今日は用事があって……」
「じゃあ行こっか! 美味しい店知ってんだ〜。雨乞さんもいっぱい精つけてね。今日は泊まりなんだし」
「と、泊まり!?」
「一晩中エッチも良いけど、朝起きての一発も魅力的だよなあ。あー迷うな〜一週間エッチできないなんて死んじゃう! って思ったもんな。でも雨乞さんに会えて良かった。これで俺の中に溜まってる精液吐き出せるもん」
にっこり爽やかに笑った白瀬のあまりに下品な台詞に、雨乞は開いた口が塞がらなかった。昨日平和を守るだとかなんだとか言っていたレッドなのだ、この下品極まりない男が。
呆然とただ白瀬を見つめることしかできない雨乞に、白瀬は舌なめずりをすると頬に指を滑らせた。ごつごつとした骨ばったそれが柔らかい肉を押すように触れる。思わずぞくりと粟立った肌に、雨乞は身を引いた。
「徐々に慣らしてあげるね。俺好みの身体に調教してあげるから」
もう嘘だとかレッドだということが信じられないとかそんなことはどうでも良かった。ただ逃げなければいけないと思った。
だけど人の話を全く聞かない白瀬は雨乞が用事あると言っても耳を傾けず、無理に腕を引くと夜の街に引っ張り込むのであった。
それからも散々だった。焼肉屋に引っ張ってこられた雨乞はひたすら白瀬が勧めるままに呑み食いした。あまり好きではない肉を食べさせられ、精がつくからといってホルモンも食べさせられた。
久方ぶりに胃に入れた油は重く、ずしんと圧し掛かるような気持ちにさせた。それに加えビールやチューハイや呑め呑めと言われてもうなにがなんだかわからなくなった。
強引過ぎる白瀬ではあるが、微妙に雨乞の限界を知っているのが雨乞の押しの弱さに拍車を掛けているような気もする。
結局のところ話し上手で勧め上手な白瀬に乗せられるままだったが、楽しい時間でもあった。不安要素さえ除けば良い人なのだ。アルコールによって認識能力が低下した雨乞に根気良く付き合ってくれるから、きっと駄目なのだと思う。
白瀬が本当に嫌な奴ならば良かった。雨乞は仕事の愚痴を聞いてくれる貴重な存在に惹かれてしまい、意識を失うようなところまで呑んでしまったのであった。
どさり、とした衝撃で目を覚ました。重い瞼を抉じ開けるようにしてみればそこには白い天井。酷い既視感だ。これは先週あった出来事と全く同じではないだろうか。
億劫な身体を起こして頭を何度か振ればやはりそこはホテルの一室。前と違うところといえば時間がまだ夜で、白瀬も起きているというところだろう。
雨乞を運んできたらしい白瀬は起きた雨乞に対してにっこりと笑みを浮かべると、頬に触れてきた。
「目覚ましたの? 気分はどう?」
「……気持ち悪い」
「まあいっぱい食べてたし呑んでたからね。シャワー浴びる?」
「……シャワーっていうか、……え? あれ? え……あ、ちょ、ちょっと待て」
「もう待てない。やっぱシャワーは後にしよ。凄くエッチしたくなっちゃった。焼肉パワーかな?」
にじり寄ってくる白瀬に逃げを打つ雨乞。安っぽいホテルの一室のベッドで攻防をしても雨乞に勝てる術などない。アルコールで弛緩した身体は思ったよりも力が入らないのだ。
ベッドに押し付けられて降ってくる唇を甘受してしまう。きついアルコールと焼肉の油の味がする気持ち悪いキスの味ではあるが、雨乞の口からも同じような味がしているはずなので気にはならない。
男に押し倒されて意識ある内の貞操の危機だというのに、白瀬のキスがあまりにも気持ち良いから雨乞はどうでも良くなってしまった。
なんの変哲もないただの平凡な人生だ。ひょんなことからこんなことになってしまっているが、強い嫌悪感がないからこれはこれで受け入れても良いのではないかと逃げを打つ心が打開策を提案してくる。
だがそこまで思って留まった雨乞は白瀬の肩を押しやると頭をぶんぶんと振った。駄目だ、絆されてはいけない。このままでは白瀬の思うままになってしまうではないか。
セックスは確かに気持ち良かったような記憶があるし、白瀬と共有する時間は楽しい。だけどこれは間違っている。
欲情を認めた白瀬の瞳に射抜かれて思わず怯んでしまう雨乞ではあったが、決死の覚悟で聞かないであろうけれども抵抗の言葉を言ってみた。
「や、やりたくねえ」
「なんで? ここ勃起してんのに?」
「え!? 嘘、え、ええ!?」
「雨乞さんもその気なんじゃん、ねえ? やっぱり身体の相性良いんだよ、俺たち」
「いやいやいや、つーかその前に俺たち会っちゃいけねえ関係っていうか、……その、な、その、あれだ、駄目なんだっていうか」
「俺がレッドだから? 大丈夫だって。そういうのはプライベートとは別でしょ? 仕事は仕事、プライベートはプライベート。ベッドの上まで公私混同してちゃなにもできないよ」
ちゅ、と唇にバードキス。だけど雨乞は白瀬が言った爆弾過ぎる発言に頭が真っ白になってしまった。