「あーっ! すっきりした〜」
うーんと伸びをした白瀬は、湿った前髪を掻き上げると気だるい身体で廊下を歩いた。雨乞はといえば廊下の真ん中で死んだようにうつ伏せている。
白瀬が雨乞の家を訪問するやいなや行為に傾れ込み、そのまま三発くらい抜かずに体位だけ変えてセックスを楽しんだ。久しぶりだったからか、お互いかなり燃えた気がする。
ベッドに行く時間すら惜しかったのだ。最もそう思っているのは白瀬だけなのだが。
最近雨乞がメディア露出していたので姿そのものは見ることができたけど、映像だけじゃ物足りなかった。触れられないことに鬱憤が溜まっていた白瀬にとって、この逢瀬は多大なる欲の解消にもなった。
結果は最高だ。いつもより雨乞が色っぽい仕草をしたり、喘ぎに艶が増していたりなどして煽られっぱなしだったのだ。
思い出すだけで下肢に熱が集る雨乞の痴態を思い出しながら、白瀬はにやにやとしまりのない顔で冷蔵庫を開けた。
「あれ〜? 雨乞さんビールがないけど〜」
大きめの声で言ってみるが雨乞からの返事はない。聞こえていないのだろうか。渋々と重い足取りで廊下へと戻れば、先ほどのまま微動だにしない雨乞がそこにいた。
「なにしてんの? 雨乞さん」
「……な、にして……って、動けないんだよ」
「あーそうなの〜?」
「そうなのじゃねえだろっ! 大体廊下でヤるなんて……! 背中はいてえし、股関節だってびりびりするし、全身重いし! 動くのも億劫だろうが!」
「つか俺お腹減ったんだけどさあ、晩ご飯なに?」
「晩ご飯なにって……! 信じらんねえ! この状況でそれ言うかよ!」
ぎゃあぎゃあと喚く雨乞は本当に動けないらしく、蚯蚓のように廊下を這うとごろりと仰向けになった。
白瀬はそんな雨乞を見てしゃがむと白瀬同様汗で濡れた前髪を分けてやる。
「出前取る〜? 俺的には雨乞さんの手料理が良いんだけどお」
「今日は無理、ほんと勘弁して」
「仕方ないなあ、ほら、起きて」
白瀬は己と体躯の変わらない雨乞を軽々と抱き起こすと、そのままの体勢でソファまで連れて行った。腐っても戦隊のレッドを張っている白瀬だ、力は十分あるのだろう。
雨乞とて軽々とまではいかないが、白瀬を抱き上げることならできないこともない。最近は特にメディア露出の所為で身体を作っていたので前よりは鍛えられていた。
だがセックスの後の疲労感だけは鍛えようもない。いくら筋肉や体力をつけても足腰の負担や精神的な疲労、気だるい満足感には抗えなかった。
「シャワー浴びてえ……」
「あ、一緒に浴びようよ〜。言ってたじゃん」
「言ってねえよ……つーか廊下も掃除しなきゃいけねえし、だるい……」
「あー……あ? ああ! 忘れてた! 雨乞さんちょっと待ってて!」
なにかを思い出したのか白瀬ははっとした表情をしてみせるとそのまま急いで廊下へと駆けていった。そうして一分も満たない内に戻ってきたかと思えば、四角い竹かごのようなものを抱えていたのだ。
そういえば白瀬がきたときに持っていたような、持っていなかったような。また白瀬の私物がこの部屋に置かれるのだろうか、とげんなりしてみせた雨乞だったがそれががたごとと動いたのでかなり驚いた。
「え、は? ちょ、それ今動いたぞ」
「だって猫が入ってるんだもん」
「……猫!?」
白瀬は慎重にそれを床に置くと蓋を外して中から黒色の愛らしい子猫を取り出した。生後まもないのだろう、白瀬の両手に収まってしまうほどのそれは見慣れない場所にふるふると震えていた。
「かあいいでしょ〜! 俺が飼ってる猫なの。っていうか最近飼い始めたんだけどねえ」
「……いや、それは良いけど……なんでここにいるんだよ」
「ほら、俺今全国まわってるでしょ?」
「そんなこと言われても知らねえよ。白瀬さんがなにしてんのか……」
「そっか、言ってなかったねえ。ごめんごめん。連絡しようとは思ったんだけどさあ、テレホンセックスとかしたいじゃん? でもすっげえ忙しくってそんな暇もなかったのよ」
白瀬は子猫を抱いたまま雨乞の隣に腰掛けると、空いている手で雨乞の頬を擽った。その甘ったるい仕草にむず痒くなった雨乞はそれから逃げようと試みたものの、案外その感触が心地好くなかなか離れることができない。
仕方なくそのままにしておくと、白瀬が話すここ最近の出来事について耳を傾けた。
少し、ほんの少し、本当にちょびっとだけ気になっていたのだ。ネットで見てもいまいち把握できなかったし、白瀬からの連絡もなかった。いきなり姿を消したら心配もするだろう。
だから雨乞から尋ねる前に白瀬から言ってくれたことが有難い。
「なんかさあ、義神戦隊ギーレンジャーとアークモノー団には圧倒的な力の差があるってことを痛感したから、修行に出るべく全国をまわるっていう企画をしてんの」
「へ、あ、そうなんだ……」
「各地に散らばっている過去のヒーローたちに学びを乞うて、幻の力の源を手に入れて、とかそんなゆっる〜い企画とさ、全国の子供たちに勇気と力を与えようってんでヒーローショーとかもしてんの」
そういえば悪役のアークモノー団と違って義神戦隊ギーレンジャーは子供や親、生身の人間との触れ合いが多い。アークモノー団はゲリラ取材だのインタビューなどしかなく、親はおろか子供にだって会わない。というより会えない。
悪役だからこそ、公の場にはあまり出ないのだ。最も雨乞は子供が苦手だったので好都合なのだが。
「じゃあ大変なんだな」
「大変も大変。鬼畜スケジュールだよ! こっちに帰ってこれないしさあ、ホテル住まいだし? 外食ばっかでもう無理っ! 五人揃っての行動が原則だから全国まわるのにちょお時間かかんの!」
「なんでこっちに帰ってきたんだよ」
「流石に休みくれって懇願したっつーかねえ、俺も人間だからさあ、やっぱ息抜きとか恋人との触れ合いとか大事じゃん? エッチもできなかったしい」
「……で、その猫はなに」
「これ〜? だから俺のかあいい子猫ちゃん」
「いやそれはわかってっけど、なんでここにいんの」
くりくりとした瞳でこちらを見上げる子猫に愛着心が沸かないこともないが、雨乞にとってあまりに小さ過ぎるそれは不用意に扱えば潰してしまいそうにも見えた。
ちょっと力を入れて抱き締めたらぽきっと折れてしまいそうだ。子猫はとても可愛いが怖い。怖い存在にしかならない。
恐々とした様子で子猫を見つめる雨乞に白瀬は飄々とした態度でとんでもない言葉を吐いた。
「全国まわってる間さ博士はラボ待機なのね。それで預かってもらってたんだけど後半、っていうかこの休暇終わればまた全国まわるんだけどそのときは博士も同行するんだよねえ」
「……すっげえ嫌な予感するんだけど」
「だから預かってくれる人いなくってえ、雨乞さん家で預かってよ。一ヶ月くらいだし、ね? お願い! 健気な恋人のお願い聞いてくれるだろ?」
「いや、いやいや、むり! 俺猫とか飼ったことねえし! なんか踏み潰しそうでこええし!」
「大丈夫大丈夫、いっちゃんちょお丈夫だから〜」
「……いっちゃん!?」
「この子の名前〜。雨乞さんに似てるでしょ? この子。だから飼ったんだよねえ。どうせなら名前も雨乞さんからもーらおって思ってさあ、市でしょ? だからこの子もいっちゃんって言うの」
にあ、と鳴いた子猫は名前に反応しているかのようだった。白瀬の手の中からするりと抜け出すとソファの下におりて雨乞の足に擦り寄る。
全てにおいて突っ込むべきところが多過ぎるその発言に、雨乞はどこから突っ込んで良いのかすらわからなくなった。
というより深く突っ込めば地雷を踏みそうな気がするので聞かなかったことにしよう。そうしよう。
雨乞は呆然と己の足に擦り寄る小さな存在を見つめ続けると、どうしようか、本当にどうしようかと先のことばかり不安になった。
ここで無理だと拒否をしても暴れてもなにをしても白瀬の発言は覆せない。逆らえない。というより白瀬は人の話を全く持って聞き入れないのだ。
甘える子猫のように雨乞に擦り寄ってきた白瀬こそ、犬のようで実は猫のような気質なのではないか。甘えるときは甘える癖にそっけないときはそっけない。なにより我儘だし、とてつもない寂しがりや。
ここまで分析できるほど時間を共有してきたことにも雨乞は驚いたが、慣れというか白瀬に対し情ができてしまったのがなによりの誤算だ。
「あっまごっいさ〜ん、ご飯食べたいなあ。お風呂にも入りたい〜。でもいちゃいちゃも捨てがたいしい、雨乞さんはどれが良い?」
全て却下だ。なんて言えるはずもなく、取り敢えずは害のないご飯とでも言っておくべきか。だけど生温かい人肌に触れる感覚がとてつもなく心地好くて動く気になれない。
独りの寂しさを感じないようにしていた雨乞の心の扉をぶち壊してするりと侵入してきた白瀬の存在が、ここまできてなくては寂しいものなのだと実感するようになっていた。
頬を擽る柔らかい髪の毛も、ふわりと漂ってくる汗と体臭とシャンプーかなにかの人工的な匂いも、ぴたりとくっついて離れない肌も、とくとくと聞こえる心音も、全てが雨乞の心に染み入ってくる。
焼きが回ったものだ、本当に。ミイラ取りがミイラになってしまった。いや初めからミイラでもなんでもない。振り回されている内にはまってしまったのか、考えることすら嫌になる。
「……どれでも、良い」
悔しいけれど、とくとくと白瀬より早く打った鼓動に逆らうこともできず、雨乞は柔らかな髪の毛をくしゃくしゃと撫ぜると頭部に鼻を埋めたのである。
それから重い腰を上げてぶうぶう言う白瀬のためにご飯を作った。簡単なものだったがかなり喜んでくれたので、疲れた身体を酷使したことが多少救われたような気にもなる。
プチトマトの観察日記もしたし、興味があるという白瀬にガーデニングを教え世話もした。お風呂は流石に別々に入ったけれど。文句を言われたが見た目的に苦しいので却下だ。
いちゃいちゃもしていないが、ごろごろと甘えてくる白瀬に付き合ってやったのでまあ良しとしよう。話によれば休みは三日間だけでそれが終わると今度は北の方に出向くらしい。
正義のヒーローも悪役と違っていろいろと大変な仕事を抱えているようだ。全国各地に行ってご当地の食べ物を食べられるという点は羨ましいが、移動がきついということなのでそれはちょっと遠慮したい。
寝たくない仕事やりたくないずっと休みたいと騒ぐ白瀬をなんとか寝かし付けた雨乞は、世話役にもらったPCを立ち上げ先ほどから足元で鳴いている猫を見た。
「……なんだよ、餌ならやらねえぞ」
このマンションがペット可だったところが皮肉な話である。雨乞はペットなど飼う予定はなかったのだ、たまたま入居したマンションがペット可だっただけで。
白瀬に子猫の飼い方を教えてもらったが、きちんと世話ができるか不安だ。家に独りにさせるのがなんとなく危ないような気もするし、二三日ならともかくまた暫く帰ってこられないと言っていたので結構な期間預からなければならないのだろう。
何故雨乞に預けるのか、本来ペットに慣れている人に預けるのが最良だろうに。
しかし文句を言っても白瀬のお願いを却下することができず聞き入れてしまった雨乞にも責任はある。強引かつ無理に物事を進められるのに弱いのと、甘えたような声を出すからなんとかしてやらねばとその瞬間は思ってしまうのだ。
よくよく考えれば理不尽なことばっかりなのだが、雨乞は滅法白瀬に甘かった。
「……だから、用があるなら飼い主のところに行けよ。そりゃこれからお前の世話をするのは俺だけどよ、……今はちゃんと飼い主がいるだろ」
「にあ……」
「トイレか? トイレはあっちだ。水? 水はそっち。なに? 違う? なんだよ」
尻尾をぴんと立て雨乞の足元に擦り寄る子猫。立ち上げたPCで飼い方や仕草、サインなどを検索して見てみるも子猫の行動がなにを意味しているのかさっぱりだ。
あまりに小さくて儚くて愛らしいそれは、今にも潰れそうで雨乞には怖くて仕方がない。
金色の瞳をまん丸とさせ雨乞に向かって鳴く子猫。同じ名前を持つ子猫は雨乞と違ってとても可愛い存在だ。一体どこが似ているのやら。
しつこく擦り寄る子猫に痺れを切らした雨乞はPCをシャットダウンさせると、その体を持ち上げて腕の中へと収めた。
「うへえ、ちっせえ……なんだこれ……」
ぎゅっとしただけで潰れてしまいそう。それほど子猫の体は小さい。
子猫は雨乞の匂いや温度に安心したのか、それとも人懐っこいだけなのか、膝の上で丸くなると目を瞑り大人しくなった。どうやら体温を求めていたらしい。
「……いっちゃん? だっけ、お前の名前」
尻尾を揺らして、雨乞の問いに返事をした。
「ちゃんも名前なのか? それとも俺と同じイチなのか?」
それには答えずに子猫はくうくうと息を吸って吐いた。
この子猫、毛艶がかなり良い。艶々と光沢のある黒色は濡れ烏のような色合いを持っている。首元にも可愛らしい赤のリボンがちょこんとあり、白瀬の愛情をたっぷり受けて育っているのだろうなというのがありありとわかった。
なんだかんだ言って白瀬は動物が好きそうだ。それに寂しがりやだし、この子猫は丁度良いのかもしれないな。
「……寝るか」
穏やかな呼吸をさせた子猫をそっと抱き上げ、雨乞も寝室へと移動した。
子供の頃の夢は両手両足を広げても有り余るベッドで眠ることだった。流石に大人になってしまった今その夢は諦めたが、全てを諦めた訳ではない。
そこまで大きいベッドを買う余裕はないが多少の贅沢はした。独り身ではあるが雨乞の夢の断片でもあるダブルベットが寝室にはどどんと存在しているのだ。
だから白瀬が勝手に寝ようともスペースは十分にあるが、一緒に寝るという心の抵抗は消えない。恥ずかしいのか嫌なのか遠慮したいのか、それはわからないがそう感じてしまう時点で雨乞は白瀬に対しそれなりの感情が沸いてしまっているのだろう。
全く持って嫌になる。白瀬がもう少し大人で心が広くゆとりのある人間だったら雨乞は躊躇することなく全てを受け入れていたのかもしれないが、それならばこんな関係にもならなかったし、もしかしたら沸き始めている想いも存在していなかったのかもしれない。皮肉な話だ。
「ほら、飼い主の横で寝ろよ」
子猫を白瀬の顔辺りに置いてやれば、子猫は安心しきったように首元に埋まり幸せそうに再び寝に入った。白瀬も白瀬で慣れた感触なのか無意識に子猫に擦り寄っている。
見れば見るほどに大事にされているのだと、そう思わせる子猫を白瀬は雨乞に預けた。どこかくすぐったいような感覚が雨乞を襲う。
白瀬はなにも思っていないのかもしれないが、大事な宝物に触れて良いのだと、それをどうにかする権利を得たのだと、思わざるを得ないではないか。信頼されていると、安心されていると。
少し、ほんの少しだけ恋人らしいかもしれないと思った雨乞であったがその思考にむず痒くなると頭を掻き毟って枕に顔を埋めた。
「最悪……」
古今東西押して駄目なら引いてみろ、という言葉がある。まんまと引っ掛かってしまった。なんという事実だ。最悪どころか奈落の底ではないか。
なにも知らず幸せそうに眠る白瀬の顔が今だけは憎く、そして愛らしいものに見えてしまった瞬間でもあった。