「イチ大佐、最近なんか雰囲気変わりましたね」
いつも通り幹部室で小難しい文字ばかり並ぶ書類と格闘していたら、世話役にそう言われた。雨乞は顔を上げてそうだろうか、とふと思い悩む。
「……気の所為じゃねえの?」
「いや〜気の所為じゃないですよ。柔らかくなったっていうか、うーん、言い難いんですけど……レッドと上手くいってるんですか?」
「……別に……普通、だろ」
ふいっとそっぽを向いた雨乞の頬に差した朱に、世話役は心の中だけでにやりと笑みを浮かべた。
やはり気の所為なんかではない。確実に雨乞は変化した。幸せのオーラが滲み出しているのだ。そう言っても頑として受け入れないだろうから言葉にはしないけれども。
前まではレッドの話題を出したら、付き合ってないだの無理矢理だの関係ないだの言っていたあの雨乞がこのざまだ。雨乞からはなにも聞き出せはしないだろうが、二人の中で確実に大きな変化が出ていることは確か。
心の中で応援をしている世話役は、雨乞の雰囲気が変わることによってネットの動向も変わっていくのだろうかとふとそんなことを思った。
「んだよ、んなじろじろ見やがって……なんか言いたいことあんのかよ」
「いやいや〜なにもないです。なにもないなら、なにもないんです」
「はあ? てめえの言ってることたまにわかんねえ」
「わかんなくても結構です。それより大佐、来月の有休消化の希望が提出されてないって総務部から連絡きたので早めに出しておいてくださいね」
「あ、おお、わかった」
世話役はお盆に乗せてあった珈琲をデスクに置いた。
雨乞は基本的に人が良く流され易くお人好しの性格をしているが、実は結構面倒くさい性格だったり細かいとこに拘ったり几帳面だったりする。
今普通に置いた珈琲だって雨乞の好みの味を再現するまでにかなりの期間を要したのだ。
ブラック珈琲に牛乳を五デシリットル程度、砂糖はティースプーンの三分の一、それが雨乞の好み。苦過ぎず、甘過ぎず、中間でもない曖昧な味。
当初は眉間に皺を寄せたり、不服そうだったり、言葉にはしないが内心思うところがあったのだろう。その顔を満足させたくて世話役は頑張った。無駄な努力に時間を費やした。
こうして苦節数年、雨乞の好みの珈琲を提供することができるようになり、珈琲を飲んだあとのほっと一息ついた雨乞の満足そうな表情を見ることができたのだ。
「ああ、……僕って完璧……!」
「……どうしたんだ?」
「いえ、ただの独り言です。それより」
そう言い掛けたところで幹部室の部屋が大袈裟な音を立てて開いた。案の定というより寧ろそれ以外いないだろうと思われた人物中佐が大量の紙束を抱えて中へと入ってきた。
見るからに重量感のあるそれを己のデスクにどさりと置いた中佐はそのまま仕事をするかと思われたが、やはり大佐信者である。雨乞の姿を目に止めるやいなやとろりと惚けた表情になると足元に跪いた。
「イチ大佐、本日もとても麗しゅうございます! この中佐、貴方様のお顔を拝見するだけで幸せな気持ちで過ごしていけそうです!」
と、芝居がかった台詞だが本気でもある。雨乞は最早大佐に成り切るのさえ億劫で、珈琲を啜った。
白瀬と同棲してから早一ヶ月と少し、お互いに距離を縮めてなんだか絶妙な関係になったりしている。白瀬と雨乞の間には今のところなんの問題もない。
のだが、それによって中佐の行動がヒートアップしてしまった。
元々雨乞のストーカーをしていた中佐だ。同棲するとなれば一発でばれる。せめてもの対抗なのか送迎を申し付けた中佐に、反対する白瀬。二人の中はまさに険悪とも思われたが、どうしてだか未だに理由がわからないが雨乞がいない間に意気投合したらしい二人は酒を呑み交わす仲になっていたのだ。
男同士というのは良くわからない。雨乞も男だが、白瀬と中佐に関しては本当に生態がさっぱり理解できなかった。
だが仲良きことは良いことだ。中佐は蚊帳の外であるが、絶妙なバランスで付き合っていけていた。のだがやはり白瀬がいないところや白瀬と雨乞が一緒にいるところでは、レッドとの付き合いに不服を申し立てる中佐と言うのが実体だった。
いつも通りなんの変哲もない仕事風景。繰り返し、繰り返される。雨乞は本日も大佐としての勤務を終え、アークッカーに声を掛けられながら本社を後にした。
白瀬と出会う前まではあんなにも転職のことばかり考えていたのだが、ここ最近はそういったことすら考えなくなった。白瀬のお陰なのかは定かではないが、白瀬がきっかけになったというのはあるだろう。
いつ倒産するかという不安は拭いきれていないし、人に言えないというのも欠点ではあるが、雨乞の周りにいる環境の良さを考えるとそんなことどうでも良くなってくる。
なにかとネットネットと煩いながらも雨乞のことを一番理解している世話役と、雨乞の絶対味方であるストーカーの中佐と、優しいアークッカーや少佐、首領など雨乞にとっては掛け替えのない仕事仲間である。偏屈物ばかりだけど。
それなりに仕事に対しての目標や充実感などで満たされた雨乞は、中佐に送ってもらいながら、もう今は跡形さえなくなってしまった傷の跡を服の上から撫ぜた。
中佐にマンションの下まで送ってもらった雨乞は、毎日お馴染みの言葉を中佐に言い渡し、車が見えなくなるまでその目でしっかりと見届けた。
雨乞の公認ストーカーとなった中佐は堂々とし過ぎているのだ。なので雨乞が言わない限り車中で泊まって朝まで雨乞の護衛をすると言い出す。流石にそこまでされてはなんだか悪いような気もするし、というより護衛もなにも必要としない。
また明日よろしく頼むと言って帰ってもらうほかないのだ。
本来なら送迎もしてもらわなくても良いのだが、そこだけは譲れないらしく、これでもこの状態が雨乞の最大の譲歩なのである。
「ではイチ大佐、また明日お迎えにあがりますので!」
海軍もびっくりの立派な敬礼をした中佐はご丁重な一礼をすると車に乗り込み、雨乞の視界から姿を消していった。
はあ、と一息吐いた雨乞はマンションのエントランスに入りポストを覗いたところではっと思い出す。
「やっべえ、買い物忘れた……」
中佐に送迎してもらうようになってからというものの通勤は随分と楽になったが、買出しをついつい忘れがちになることが多くなった。
前までなら徒歩で歩いていたのでスーパーなりドラックストアなりに身軽に寄れたものだが、現在は車なので事前に中佐に言って寄ってもらうしかないのだ。
なのでつい慣れない送迎に雨乞は買出しすることを忘れてしまい、送迎してもらったあとに徒歩でスーパーなりに行くということが頻繁にあった。
だが今日買い忘れたものはそこまで緊急を要するものでもないので、明日でも良いかという結論に至った雨乞はポストの中身を回収するとエレベーターに乗り込み自室まで向かった。
鍵を取り出し扉を開けば、珍しくも灯りが点いていた。部屋の電気が点いているなんてどれほどぶりだろうか。大抵雨乞の帰りの方が早いので、かなり珍しいことなのだ。
「白瀬さん帰ってんのか……」
性格が出る靴の並べ方。ちぐはぐに散らかされた白瀬の靴をきちんと並べなおすと、雨乞はわくわくと胸が騒ぎ出すのを抑えてリビングに通じる扉を開けた。
徐々に肌寒くなってきたこの季節、人がいるだけで部屋に温もりが宿ったかのような気にさせてくれる。
雨乞はほっこりと温かくなった胸に期待を膨らませながらリビングに入れば、そこには気持ち良さそうにソファで転寝をする白瀬の姿があった。お腹の上に子猫を乗せて。
「……寝てたのか」
起こさないよう慎重に歩みを進めてキッチンに近付けば、雨乞が買い物をしなければいけないと思っていた食料品がカウンターに置かれてある。
部屋は散らかし放題で荒れた姿に変わり果てているが、買い物を行ってきてくれたようだし、まあ良いだろう。
些細であるがこういったコミュニケーションの取り方に憧れのあった雨乞は、言葉にしなくても通じていたのだというところに心がほかほかと温まった。
そのまま放置されてある食料品をあるべき場所にしまい、散らばった部屋を片付けていく。白瀬を起こさないよう慎重に身体を動かし、掃除をし終えた雨乞はそろりそろりとソファに近付くと幸せそうに眠る白瀬の寝顔を覗き込んだ。
「……、なんか、なあ」
未だ言葉にはしていないが、雨乞が白瀬に抱いている気持ちはまさしく恋なのだろう。ここまできても、ほんの少しだけ否定を続ける気持ちはあるものの大方は認めて受け入れている。
漫画のような身を焦がす想いだとか、散り散りになる切なさだとか狂おしいまでの嫉妬だとかそんなものはない。触れれば温かい、触れられれば幸せな気持ちになる。穏やかで安心するような、そんな恋だと思う。寧ろ親鳥に近いような感情かもしれない。
我儘で自己中心的で下品で下半身が緩くなにを考えているのかさっぱりな白瀬だけれど、雨乞の全てを曝け出してくれるのだ。
白瀬とて雨乞に対してはっきり好きだとか心の恋愛をしているだとか、それを言葉にしていないが雨乞は白瀬も気持ちがあるのだと思っている。思っていたい。
雨乞が見ている限り浮気もしていないようだし、風俗にも行っていなさそうだ。寧ろ仕事をしているか、家でごろごろしているか、それだけなんじゃないのだろうかと思うぐらい。
なんだか、なあ。雨乞も焼きが回ったものだ。
むにゃむにゃと漫画のように寝言を言っている白瀬の頬を緩く撫ぜた雨乞は、ここまで絆された己に一つの笑みを零すと立ち上がってベランダへと向かった。
後は晩ご飯の下拵えと、ガーデニング、家庭菜園だけだ。白瀬が起きる前に終わらせておこう。
そう意気込んだ雨乞がベランダの扉を開けようと鍵に手を伸ばしたところで、それを阻む手があった。
「だめだめ〜、それ俺がやるんだからあ」
いつもより低めで、起き立ての声だ。雨乞の肩に顎を乗せ体重を掛けてきた白瀬は後ろからベランダの鍵を開けた。
「……起きたのかよ」
「んーうん、目覚めたってゆうか〜、雨乞さんちょっと遅かったじゃん」
「いや遅くねーよ。白瀬さんが早いんだろ。なんかあったのか?」
「普段激務だから〜、休めるときに休んでって言われた。あ、買い物行ってきたよ〜」
「おー、良く買ってくるのわかったな」
「なんか昨日言ってなかった? メモ取ってたじゃんか。あーでも俺も買ってきたってゆうの忘れてた〜」
くあ、と大きな欠伸をして白瀬は最近揃えた白瀬専用のサンダルに足を通した。
雨乞と出会った頃は雨乞のガーデニング趣味についてとやかく言っていた白瀬も、今やすっかりガーデニングをするようになっていた。といっても白瀬の担当はプチトマトのみだ。
初めて雨乞に食べさせてもらったときのような、甘いプチトマトを目指して目下育成中なのである。
部屋から漏れ出す光を頼りに、白瀬は暗がりの中プチトマトを見つめた。
「育つの遅いね〜」
「そういうもんだって」
「ふーん、なにもしてない? 弄ってない?」
「してねえよ。全部一人でするんだろ」
「うん」
寝起きなのか、素直な白瀬はぼんやりとした面持ちのままプチトマトを見つめ続けた。こくりこくりと船を漕いでいる節からして、相当眠いのだろう。確かに同棲するようになって、如何にアークモノー団がのんびりしているかを実感させられたほど義神戦隊ギーレンジャーの仕事は忙しいのだ。
雨乞はそれに小さく笑みを落とすと、ソファからブランケットを持ち出し白瀬の肩に掛けてやった。
「じゃあ飯の用意してくるから、いっちゃん外に出ないよう見張っとけよ」
寝癖でふわふわになった頭部を撫ぜつけ、キッチンへと向かおうとすれば白瀬が足に縋りつくよう抱きついてきた。
「やだやだ〜」
「やだってなんだよ。飯作るんだって」
「えーえっちしようよ〜。最近してないじゃん〜雨乞さん全然させてくんないし〜」
「だから週末しか無理って言ってんだろ。白瀬さんもそう言ってたじゃねえか」
「でも週末出張してたんだもん。そんなの無理じゃん! もー右手は飽きました! え? じゃあなに? 浮気しろってゆーの? この浮気もの!」
「はあ? なんで俺が浮気ものになんだよ。風俗行けば良いだろ」
「風俗は卒業したんです! あ、でも、たまになら行っても良いけど〜ああっ、じゃなくって〜」
慌てた素振りでサンダルを脱ぎ、ベランダの扉を閉めた白瀬はなあなあな抵抗をする雨乞を引っ張ってソファに押し倒した。
物欲がなさそうに見えてこういう細かいところに金を掛けている雨乞のお気に入りの心地好さが半端ないソファに埋もれるようにして押し倒された雨乞は、逆さまになった視界で欲に塗れた白瀬の顔を目に留めた。
さきほどまで眠そうに欠伸やら目を擦っていた人物と同じには到底見えない。少し、感心してしまう。
いや、だがここで甘やかしては後々厄介なことになるとわかっていた雨乞はさり気なく白瀬の身体を退けようと腕を突っ張ってみたが、それ以上に強い力で押さえ込まれてしまいどうにもできなくなる。
「無理だって! やめろよ、飯だって用意してねえし明日も早いんだろ!」
「そういう問題じゃないし〜人間の三大欲求を満たしたいって思っても良いでしょ?」
「それに俺を巻き込むな! ちょ、どこに手入れて……っ!」
沈むことによって動きが鈍るのだけが、唯一の難点である。触り心地や座り心地などは文句なしなのに、このソファ。
雨乞は脇腹を這い上がってくる白瀬に指先に、下半身が軽く疼くと込めていた力をふっと抜いてしまった。それを見計らったかのように白瀬は首元に顔を埋めると、舌で筋をなぞらえる。
「もう降参〜? 市くん、ここ弱いもんね」
滅多に名前など呼ばないくせに、こういうときばかり名を呼んで雨乞をぐずぐずに溶かしてしまうのだ。
そんな甘ったるい顔で、幸せそうな顔で、蕩けるような声で、雨乞を溶かしてしまわないでほしい。どうしようもないほどになっているから、雨乞はそれ以上抵抗することもできなくて唇を軽く噛むと瞼をおろした。
「く、そ……っ」
恋人だとか、好きだとか、ああもうそんな名称や言葉に捕らわれなくたって、これも十分そうなのかもしれない。確認なんて今更していられないけれど、そう思ったって良いんじゃないかって思う。
雨乞の最後の抵抗は、白旗を上げるであろう白瀬をこうして焦れったい思いをしながら待つだけなのだ。
白瀬が早く言ってくれれば、どうなるのだろうか。身体中に唇や指先で触れる白瀬を見て、雨乞の胸が温かくなった。