夢色薔薇色な世界が広がっているなんて妄想にもなかったが、もう少しくらいときめきを感じさせてほしかった。あんまりな現状にアメジストは床に這い蹲ると、情けない声をあげた。
立ち入り禁止のアンバーの部屋に運良く入れてもらったアメジストは、これ幸いとこの機会を逃すべからずと居座ることに決めた。もちろん当の本人であるアンバーは嫌がったが、押して押して押しまくって了承させた。というよりは断固としてアンバーの部屋から出なかっただけだが。
北の塔の別塔ということも相俟ってか、ここから眺める景色は最高だ。今まで北の塔でも一部しか出入りすることができなかったために、このような形でよもや宝石箱の中身を観望できるとは思いもしなかった。
すべてを一望できる景色。アンバーの世界はこんなにも広かったのか。なのにも関わらず、当の本人は陰気さを出すように内職に勤しんでいた。
「ねえ、アンバー、暇なんだけど」
「なら出て行ってちょうだい」
「……なにしてんの?」
手元から視線を外さずに、ちまちまと面倒くさそうなことをしている。アンバーの部屋に居座って二日しか経っていないが、大雑把にはアンバーの性格を把握しつつあった。
神経質なのは前から常々わかっていたことだが、どうやら手先が器用なのを利用した地味な趣味をもっていた。ものを作り出すことを得意とするというべきか、とにもかくにもアメジストには耐えられない作業だ。
(そういえば、この部屋もきらきらめかめかしてるよな)
ぐるりと目を動かせば、豪華絢爛な金銀細工宝石が散りばめられている。壁にかかった煌びやかな布も、窓を縁取る艶美なカーテンも、床に敷き詰められている幾何学のカーペットも、おそらくアンバーが手作業で作ったのだろう。
ここにきてからというもの時間の経過が酷く長く感じる。閉鎖された世界、暇は重々承知だ。だからこそ宝石たちは各々で世界を作り上げて関係を築いたり、セックスに没頭したり、なにかと暇を潰せる手段を見つけてきた。宝石たち手を取り合って。
だがアンバーは宝石と関わり合うことを否定して、拒否している。即ちひとりで時間を過ごす手段しかないということだ。
それはとても有意義に思えて、とても寂しいこと。
「……手伝ってあげようか?」
沈み込みの良いソファで日の光に照らされ遊惰に編みものに勤しむアンバーに近寄った。琥珀で作られた宝石のカーテンが風で煽られシャラシャラと音を奏でる。耳に涼しい音だ。
アメジストは地面を這ってアンバーのもとに行くと、本人同様堅城を彷彿とさせる衣服に手を伸ばした。露出の高いアメジストと違い、アンバーの着込みようは異常だ。暑くないのだろうか。そうまでして肌を見せたくないのか。
膝小僧に指を這わせた。アンバーに睨まれる。編みものを編んでいた手を離すと、アンバーはアメジストの手の甲を強く捩じった。
「いったい! な、なにすんの!」
「触らないでちょうだいね。穢れちゃうわ」
「酷い〜! 人をばい菌みたいに言わないでよね」
「あら? ばい菌じゃないならなんていうの? 害虫の間違いだったかしら」
「……そんなこと言うのアンバーだけだよ!」
はあ、と溜め息が零れた。今までうつくしいと言われて持て囃されていたのが嘘のよう。アンバーには色気もなにも通じない。こんなのは初めてだ。
魅力がないのだろうかと落ち込んでみたりもしたものの、こうやって会話を交わせていることこそが奇跡なのだ。こんなに偏屈で堅物で潔癖だとは思いもしなかったが、本来なら言葉を酌み交わすことすらできなかった。それを思えば今の状況を不幸と嘆くにはあまりにも傲慢だ。
追い出されずにいることこそが、アメジストにとっては誤算だったのだから。
いくら居座ると宣言して言語道断だといわんばかりに抵抗を続けても、アンバーの方が位は高いし権力もある。本気になればアメジスト如きこの部屋から追い出すことなど造作もない。出て行けと怒鳴るだけで済む話なのだから。
それをせずに存在を許容してもらえているのは、もしかしなくても凄いことなのではないか。面倒、関わりたくない、触れたくないというのが理由にあったとしても同じ空間にいる限り、関わるのは必須。それをどうして最後まで拒絶しなかったのか、アメジストにはそれがわからない。
部屋にいさせてもらえているうちが、好機だ。落とせはしなくても、アンバーの心にアメジストという存在を深く刻み込まねばならない。
決心を新たに、アメジストはアンバーの太股に触れた。もちろんお堅い衣服の上からだ。
「だから触らないでって言ってるじゃないの」
「良いでしょ。減るものじゃないんだし」
「穢れるの」
「ねえっていうかそれ、なに編んでるの。これ以上部屋を装飾してどうするつもり?」
「ったく……違うわ。装飾のためじゃないの。時間のね、潰し方がわからないのよ。私はもういなくなったって構わないもの。でもこうして生かされているでしょう?」
「哀しいよ、そういうの。もっと楽しいことたくさんあるのに」
「価値観が違うのよ。あなたの考え方を押しつけないでほしいわ。私は、ひっそりと眠っていたいだけなの」
伏せた瞼の先で、金色に光るまつげが光にあたって輝いた。きらきら、と。まるで宝石だ。やはりアンバーの身体すべてがうつくしく、はかなく、もろい。
アメジストは震える指先を伸ばしてみたけれど、宙で戸惑ってしまった。おいそれと素肌に触れることはまだできない。それがきっかけで追い出されるのは勘弁してほしい。どういった心境か知らないがアメジストを受け入れてくれるのだから、線引きくらいは見分けないと。
触れていた太股から手を離して、仕方なくアンバーから離れた。
(話しかけたら返事はするけど、話しかけてはきてくれないんだよね)
一瞥しただけだ。琥珀の瞳にアメジストが映ったのは一瞬だった。直ぐに琥珀は手元を映し出す。アメジストなど眼中にもないのだろう。存外に面倒くさがりな気があるから、それも一因しているのかもしれない。
アメジストは仕様がなしにアンバーの部屋を物色すると、最近見つけた酒棚を開けた。
「ん〜、今日はどれにしようかなあ」
欲求にはいつだって正直だ。性欲が解消されないのならば、それは食に直結してしまう。とはいっても酒になるのだが。
アンバーの部屋は珍しい酒で溢れていた。どれもこれも貢ぎものだというのだから、やはりアンバーは高嶺の花とされている。この閉じ込められた宝石箱で酒を入手するのはかなり困難を極めるのだ。宝石夫人に呼ばれて外に出してもらわない限り、物資を手に入れる手段がない。
造ることはできても、手間のかかることを誰もしようとはしない。必然的に頼ってしまうのはやはり完成品だろう。
連日舞い込む贈りものの品々に手すらつけないアンバーを尻目に、アメジストはそれをこれ幸いとばかりに消費した。いつもは北の塔の住人にあげたりするようだが、アメジストがいる限りそんなことはさせない。勿体無い。
アメジストはお気に入りの酒を棚から取り出すと、そのまま煽るようにしてぐいっと呑んだ。
「あ〜! おいしい! 今日もお酒が美味しいね」
嫌そうな顔でアンバーがじっとりとした視線を向けてくる。煩い、鬱陶しい、勝手に物色するな、そう言いたいのが言葉にしなくてもわかる。
プライドが高く、扱いづらい反面とてもわかりやすい。思い描いていたアンバーはきらきらとした偶像の神であったが、現実の厳しいアンバーの方がアメジストはずっと好きだ。恋に恋をしていた時期よりも、もっともっと好きになった。愛してしまった。気持ちが止まらない。
「アンバーも呑む? 口移ししてあげようか」
気持ち悪いと蔑まれても、めげるはずもない。アメジストにとってはアンバーがどんなに下劣で最低で最悪でも、愛すべき存在なのだから。
「……結構よ。遠慮しておくわ」
「へえ、美味しいのに?」
「あなた、お酒好きなのね。ああ、そういえばアメジストは悪酔いを防ぐ効果があったわ……だからあなたも酒豪なの」
「博識だね、アンバーは」
「知恵は財産よ。最も死に逝くだけなら意味はないのでしょうけど」
ぐび、とアルコールを呑んだ。血液細胞にまで行き渡る感覚が癖になってやめられない。手に入れること事態少なかったから、こうして遠慮なく呑めることは久しいのだが。
アメジストは遠くを見つめるアンバーの瞳に、どこか寂しさを覚えた。
それからも平穏な日々は続いた。いつ追い出されるか、という懸念はあったものの、アンバーは汚らわしいだの煩わしいだの言うわりにはアメジストを追い出そうとはしなかった。鬱陶しがってはいるけれど構ってもくれる。可笑しな関係だ。
口先ばかりで拒否をしていても、身体は存外に嫌じゃないのか。
アンバーという不思議な存在に触れて、アメジストはますます心を奪われていった。初めて見たときに落雷を受けた衝撃は今でも忘れていない。今度は染みていく水のように少しずつ侵されて恋に落とされている。
アメジストはアンバーが好きだ。どうしようもなく。
しとしと、雨が降った。宝石箱の世界では珍しい天候だ。大概が晴れだというのに、雨とは椿事。優れない気持ちはあったものの、太陽光が消えた世界にアメジストは意気揚々と窓側を陣取って鈍色の空を見上げた。
(まあ、雨だからといって油断もしてられないか……)
アメジストが弱いのは太陽光だけでなく、紫外線も含まれている。曇りや晴れのときよりは些かましとはいえど、ゼロという訳でもない。長居はできないだろう。
降り注ぐ透明な雫をただただ認識しようと目で追っていれば、珍しく後方からの視線を感じた。
「……アンバー?」
振り向けば、編みものをしている手を止めてアンバーがこちらをじいと見据えていた。
「なんでもないわ。雨の音を聞くのは久しぶりだから」
「雨って珍しいから。あの粒がさ、全部宝石だったらきれいだね。きらきらしてる。空から降ってくるの、全部宝石。ダイアモンドかな、クリスタルかな、不透明でもかわいいかも。半透明とかね、色がない、透明なもの。誰にも染まらないもの。そういうのってすごくきれいだと思わない?」
「どうかしらね。私は色がある方が好きだわ。黄褐色、気に入っているのよ」
「アンバーの色もきれいだよ。純度が百なんだって? 空気すら混じってないなんて信じられないな。でも、だから、きれいなんだね」
うつくしいだなんて言葉、聞き飽きただろう。宝石を彩る言葉として一番使われている。本当はもっと他の言葉で褒めてあげたいけど、アメジストの少ない語彙では言える言葉ももたない。
でも、うつくしいことには変わりがない。光を吸収し透明さに輪をかけて力強く発色するさまはまさに圧巻といっても過言ではなかった。
「あなたは、自分の色が嫌いなのかしら」
「ふふ、アンバーは知らないだろうけど、俺のこときれいって言ってくれる宝石も多いんだよ」
「知っているわ。あなたも人気者なんでしょう。北の塔の住民が話していたのを覚えているわよ」
「みんなね、この瞳の虜なの。紫水晶では一番の高貴さを誇っているし、それに俺の力は特殊だから……霊的要素が強いっていうのかな、その分深い関わりが禁じられている。一緒にい過ぎると、駄目になるんだってさ」
アメジストに纏わる、くだらない話だ。宝石に魔力が備わっているなど誰が決めたのか。嗚呼、だけど本当かもしれない。結局のところアメジストはいつだってひとりぼっちだ。
愛に飢えて愛を欲しても、愛をくれる人がいない。
「俺はやっぱり、透明が好き」
ぽたぽたと指先に雨粒を乗せて遊んでみる。なに色にも染まっていないようで、この世のすべての色を凝縮させたようでもある。捉え方など、千差万別。
「……セックスする気になった?」
なにか言いたそうに歯噛みしたアンバーにそう言ってやれば、眉間に皺をきゅっと寄せて首を左右に振った。まったく、つれない態度だ。
「まさか」
「全然靡いてくれないね」
「あら、そう? 残念だったわね。……でもそうね、退屈はしないわ」
「退屈かあ……アンバー、世界って広い?」
「あなたの話はいつも唐突ね。世界って言われても、どうなのかしら」
途中まで編まれた編みものから手を離すと、アンバーは隣に置いた。ふう、と息を吐くと眉間を揉む。目が疲れたのか、休憩するらしい。そういう仕草などを見ているとアンバーも生きているのだと実感する。
あまりにも綺麗で美しいから、呼吸すらしていない宝石のようだと思っていた。触れられるのに、あたたかいのに、信じられなかったのだろう。
立ち上がれば風に乗ってアンバーの良い匂いが届く。鈴の音がしゃらしゃら鳴るような不思議な音をさせて、アンバーは酒棚へ向かった。珍しく呑むのだろうか。
「……ずっとね、眠っていたの」
独り言のような声音。小さ過ぎて上手く聞き取れない。雨の音がしとしとと煩く聞こえた。
聞き返すほどの空気でもない。凛としていて、静かなアンバーは想いを馳せるように瞼を伏せると、酒棚の硝子を指でゆっくりとなぞった。
「木の下で永遠ともいえる時間、私は眠っていたわ。そこはとても暗くて、静かで、なにもない孤独の世界。少しずつ私という宝石が形成されていくのを、ただひたすらに待つようなそんな地獄」
「アンバーはその頃からの記憶があるの?」
「ええ、あるわよ。アンバーと呼ばれる形になる以前のこともね」
不思議な話だ。アメジストは、アメジストになる前の記憶はない。アメジストになってからの記憶でさえ曖昧だ。はっきりと意思をもったのは、存在する宝石として息をしたとき。
その瞬間、アメジストはなにを思ったのか。
「私は死にたかったわ」
「……え?」
「このまま宝石として朽ちていくのだとばかり思っていたのに、こうして存在してしまった。息をしてしまった。生を受けてしまった。木の下より地獄ね」
絶望に彩られたアンバーの瞳が、硝子玉に変わる。きらきらの琥珀がどこにもなくて、アメジストは漸く思い出した。ああ、そういえばアメジストも最初は同じ絶望を抱いていたような記憶がある。ひっそりと暗い世界で永遠を生きるのかと、絶望をしたのだ。
だけど、息をして変わった。生をもって、希望を抱いた。アメジストは。
「俺は嬉しかったよ。世界に縛られていた身が解放されて、世界を踏みしめることができるんだと知ったとき、うれしかった」
「……正反対ね、私たち」
「きっと、アンバーもいつか思うよ。うれしい、って。俺がそう感じさせてあげようか?」
「遠慮しておくわ。……でも少しだけ、あなたのことを知っても良いと思えたわ。そうね、あなたが言うように宝石を知ることも悪くはないのかもしれないわね」
「だったら最初は俺にしてよ!」
「馬鹿。言ってみただけよ。そんな気、更々ないわ」
笑みを象った唇が、強張っていた。作りもののそれにもうつくしいと感じてしまう辺り、アメジストも大概病気かもしれない。
ただアンバーの生きる意味になれたら良いなんて、叶わない理想を抱いてアメジストは再び泣き顔の空を見つめた。容赦なく降り注ぐ雨が、アメジストの心を映しているようだった。
本当は誰よりもアメジストがこの世界を拒んでいる。