アンバーは不思議な存在だ。内面を知ってからよりいっそう、アメジストはそう思うようになった。
見つめているころはどこか理想を押しつけていたのかもしれない。そうであるべきだという偶像のアンバーを作りあげ、噂話で脚色をし、崇めるようにして感情を捧げていた。由来を聞いてきっとそういう人なのだと、想像に恋をしていた。
だけど世界は音を立てて、急速に色を変えた。アンバーに触れられたあの日から、アメジストの世界は大きな革命が落とされてしまったのだ。
(アンバー、こっち見てよ)
手元に宝石を寄せて眺めているアンバーに視線を送る。だが如何せんアメジストに興味すらないのか、様子を窺っている気配すら感じられない。完全に空気と化している。
アメジストは嘆息を吐くと、膝を抱えて頭を乗せた。日に日にわがままになっていくこの感情を持て余している。
アンバーのテリトリーに居座るようになってどれくらいの日が経ったのか。毎日のぼる太陽や顔を出す月を見ているというのに、経った正確な日数を把握していない。
ただ懸命にアンバーに愛してほしいと、無駄な足掻きを続けてばかりいた。そうして知れば知るほどに偶像のアンバーは音を立てて崩れて、真実の姿が見えるようになった。
うつくしいのは当たり前として、近くに寄ると良い香りがする。どこから発生しているのか、心を穏やかにさせてくれる香りだ。それに身体そのものが漢方の役割を果しているのか、長寿で健康、弱った感情や傷付いた箇所を癒す力を秘めているともいう。
アメジストの心での一番の変化といえば、それは人臭さにある。
想像のアンバーはただ穏やかに微笑んでいるだけだった。神経質で潔癖、宝石嫌いだとわかっていても会話をしたことがなかったから、喋らない存在だとどこかで思っていたのかもしれない。
だからアンバーの言葉を間近で聞いて、アメジストはますますアンバーに対し懸想を募らせるばかりになったのだ。
不機嫌だったり、神経を荒立てていたり、困っていたり、迷惑しているだろう溜め息を吐いたり、良いことばかりではなかったが、時折空気が抜けるように微笑んだり、少し照れてみせたり、そんな表情にアメジストは胸がきゅうっとしめつけられた。
知れば知るほど、アメジストの恋は加速をするばっかり。だって、アメジストにとっては初めての恋。見た目から入った恋でも、綺麗な花を咲かせて虹色に輝くことができた、大切な恋なのだ。
(ねえ、アンバー、聞こえてる? こっち向いてってば)
意味のない念を送っては、じいと睨むように見ていたのには流石に気付いたのか。肩から前にさらりと流れた髪を戻す仕草ついでに、アンバーが顔をあげた。
「あ」
目が合う。眉間に皺がきゅっと寄っているさまから、随分と存在に煩わしさを覚えていたようだ。アメジストは嬉しくなると、抱きしめていた自分の膝から手を離してアンバーのもとに駆け寄った。
やっと、話しかけるチャンスができた。自分の世界に篭もっているアンバーを誘い出すのは、簡単なようで難しい。ずっと一緒にいるからこそ難しいのだ。
「アンバー」
「……あなた、黙っていても煩いのね。集中できやしないわ」
「なに考えてたの? ずっと俺の視線に気付いてた? ねえ、アンバー」
「少しは落ち着きなさい」
アンバーの隣に座れば、沈み込みの良いソファが二人分の体重を含んで傾いた。身体を寄せるアメジストに、アンバーは嫌そうな顔はしたものの振り払おうとはしなかった。可笑しい、いつもなら触らないでと煩く言うくせに。
触れ合っている肩が熱い。アメジストは表面にはおくびにも出さず、胸のどきどきを抱えるとアンバーを見上げた。数センチ高いところにあるアンバーの影が憂いを帯びていく。
「アンバー、どうしてそんな顔になってんの」
「……私はそんなに大層な宝石じゃないわ。神聖化しないでちょうだい」
「いきなりなに? 俺、そんなこと言ってねえよ」
「視線が煩いのよ。そんなにきれいな瞳で見られても困るだけなの。私は宝石でもないわ。いってしまえばただの樹脂よ。あなたたちとは違う……」
初めてかもしれない。アンバーが心の奥底に眠っていたであろう言葉を吐き出すのは。
重い溜め息を吐いて、両手で顔を覆った。さらりと流れた髪が窓から差し込む光を吸い込んで、ますます黄金と輝く。きれいと言いそうになって口を閉じた。今だけは禁句のようだ。
なにがあったのか知らないが、アンバーは少し弱っている。それだけはアメジストでもわかる。
膝に肘をつけて、上半身を倒したアンバーの頭部が寂しそうに見えた。存外に華奢な身体を抱くと、アメジストは頼りない頭部に頬を寄せる。
二つ重なって奏でるぬくもりが、優しいものであればアンバーの腐敗した心を掬うことができるのか。
「……私はね、とても脆いわ。硬度なんてあってないもの。熱にだって弱いし、消えていくだけの湿った宝石。誰かに守ってもらわなければ、壊れてしまうだけなの」
ほろほろと、零れていく感情が哀しみを帯びている。
「あなたたちのように洞窟で逞しくなんか生きていないわ。薄暗い軟らかな土の中で、生きてきた。だから、だからこの世界がとてつもなく嫌なの。存在したくないの。皆は神聖化して私に群がるけれど、私は、私は静かな場所で眠りたい。誰に見つかることもなく、誰を知ることもなく、孤独に嘆きながら消えていきたい」
あんまりだ。アメジストはアンバーの心なんて知ったことはない。アンバーの悲しみはアンバーしか知る由がないのだから。だけどその言葉だけは違うと思った。
アンバーは世界を否定するほどに、世界を知っていない。アンバーが嘆くように、アメジストだって世界を憎んでいる。
誰だって生きるのはつらい。しんどい。投げ出してやりたい。それでもほんの少しの、僅かな、消えてしまいそうな希望に縋って生きている。そのために生きている。
アメジストの生きる意味がアンバーだとするのなら、アンバーの生きる意味もアメジストにしてやれば良い。世界を憎んでも、生きていて良かったと思わせたい。
震えそうな肩を抱き寄せて、アメジストは流れる髪のカーテンを横に割った。色をなくしたアンバーの表情は、無を色濃く映すと感情すら隠してしまった。
「アンバー、ねえ」
屈んで口づけた。秘密の愛し方。無防備なアンバーはアメジストの口づけから逃れることもできずに、それを許容した。
二度目の唇は冷たくて、だけどどこかやさしくもある。柔らかな感触にアメジストは心臓がじわりじわりと膨らむような感覚すらあった。
「いらないのなら、俺がもらっても良い?」
「……それは、駄目よ」
「なら、生きているってことになるよ。アンバー、生きているから俺のことだって嫌いなんだよ。消えたら、なにもなくなる。こうして嫌がることも」
「知っているわ。だから、望むのでしょう?」
「無理だと知ってるくせに?」
「知っているからこそでしょ。……馬鹿ね、私も少し喋り過ぎたみたい」
「聞けて良かったけど。俺は、アンバーがアンバーを嫌っても、アンバーのことあいしているから。それだけは知っていて」
もう一度だけ、触れるだけの口づけをした。ちゅうと優しく吸いついて、香る匂いに心を沸かせる。もっともっとと身体が欲を掻いても我慢しなければならない。ゆっくりと決めたじゃないか。
嫌がるかと思った。激高するかと思った。だけどアンバーは二度の口づけに対しなにも言うことすらなく、濡れた唇を拭くこともしなかった。
だからアメジストはアンバーに寄りかかって、消えてしまいそうな身体を抱きしめた。
「アンバーって、琥珀ともいうの?」
「あら、どうしてそれを知ってるの?」
「アンバーの部屋にある本に書いてあった。本来は空気が入ってたり、虫が入ってたりするのが主流なんだ?」
「そうね、そういうものが多いかもしれないわ」
「じゃあアンバーは貴重ってこと?」
「必ずしも貴重が高級とはならないけど、珍しい部類ではあるんじゃないかしら」
先ほどまでの情緒不安定さがふっと和らぐ。無知さを露見させればさせるほどに、アンバーの声が優しさを帯びていくのがわかった。アンバーは博識故に知識に頼られると嬉しいという表情をすることが多い。
騙っている訳ではないが、アメジストはわざと話題を反らしてアンバーを深淵から引っ張った。
「琥珀って響き好き。アンバーの瞳の色そのままだね。アンバー自身だから当たり前なのかもしれないけどさ」
「可笑しなことを言うのね。あなただって和名があるでしょう? 紫水晶だったかしら、それとも紫石英?」
「響が好きじゃない!」
「他には翡翠、珊瑚、紅玉なんていろいろあるわね。宝石そのものが字面でわかるから、私は好きだわ」
アメジストは唇で名前を象ると、出したてのひらに指先で文字を描いてみた。だけど知識が浅いアメジストにはどんな風に書くのかさえわからない。辛うじて文字は読めるけれど、書くことなんて無理だ。
ここで生きていく上で、必要がなかったから学ばなかった。今になってせめて自分の名前くらいは書けるようになれば良かったと思う。
そんなアメジストを見てなにを心に浮かばせたのか、アンバーはアメジストの手に触れると、やわらかな指先でゆっくりと文字をなぞらえた。それは初めてアンバーからアメジストに触れた瞬間だった。
「馬鹿ね、字も書けないの? 紫水晶ってのはこんな風に書くのよ」
「ね、ねえ、琥珀は!? 琥珀はどんな字になる?」
「少し複雑だけどわかるかしら」
ゆっくりと教えるように指が動く。だけどアメジストにとっては、琥珀の字も大事ではあったが、アンバーからの接触の方が大事であった。こんなにも幸福を感じる瞬間があっただろうか。
複雑な絡み合いは到底理解できない。アメジストは琥珀の字を脳裏に浮かべるけれど、どんな形をしていたのかさえおぼろげだ。読めるはずなのに、いざ記憶に頼って書こうとなると真っ白になるのだから不思議な話だ。
どこかぼんやりとしてしまったアメジストになにを思うのか、アンバーは指の動きを止めると観察するように見つめた。
「……な、なに?」
心臓が破裂してしまいそう。過去最高に加速を始めた心音が耳にまで到達した。じりじり焼けつくような熱は、すべてを燃やす業火にも変わる。
琥珀色の瞳に映るアメジストの狼狽した姿こそ、滑稽なものもない。はくはくと意味のない言葉で空気を震わせて、アメジストは逃げるように瞼をぎゅうっと瞑った。
見つめるのは好きだが、こんなにも熱く見つめられるのは苦手だ。しかもアンバー相手となれば尚更だろう。
アンバーはなにを思うのか、アメジストの手に触れたまま凛とした声を響かせた。それは風のように穏やかであったが、胸を突く痛い質問でもあった。
「アメジストはどうして、セックスばかりするの?」
簡単なようで、深い質問だ。アメジストの存在意義にさえ通じるものがあるかもしれない。なんてそんな大層な生き方をしていることもない。ただ、アンバーらしくない質問に瞠目してしまっただけ。
開けた世界ではアンバーが瞳を輝かせて、答えを待っていた。
「さあ、それは難しい質問だね。だって、俺という存在意義になってしまう。アクアマリンのようにセックス自体に依存をしている訳ではないんだ。気持ち良いことは好きだし、気持ち良いことをしてあげるのも好き。だからといって、セックスをしなければならないっていうほどではないかな」
「ならどうして? 私にはわからないの。書物にも書いていないでしょう? 愛している対象でもないのに、そうやって触れるなんて狂ってるわ」
「ふふ、狂ってるよ。……そうだね、狂ってるからが正解かもしれないね」
指先が冷たくなる。仄暗い洞窟にいたことを思い出した。誰かに見つけてほしくて、見つけてほしくなくて、ただひっそりと生きていたあの頃のことを。世界なんていらないと願っていた。
「……俺は、愛してほしいだけ。誰かに愛されたい。愛していてほしい。息をして生まれたからにはなんらかの理由をもってここにいる。それが誰かから愛されたという理由になるのなら、俺も世界を愛せるような気がするんだ」
「あなたにしては珍しく抽象的な物言いをするのね。でもあなたを愛してくれる宝石なんて、たくさんいるでしょう? 大きな愛に包まれているはずよ」
「だめだよ。前にも言っただろ? 俺はね、力が強いの。悪い意味での。だからね、あんまり長くいれない。違う宝石と一緒にいると、俺の影響が及んで弱ってしまうんだ」
「ああ、確かあなたパワーストーンでもあったわね……。でもそうだったら、私はどうなるの? 私だってあんまり長く一緒にいたら駄目なんじゃない?」
ふ、と触れていた肩が離れていく。アンバーは穏やかに笑って、流れた髪の毛を後ろに戻した。しゃらりという音がしそうな世界観に圧倒されてしまいそう。
アメジストは拳を作ると、アンバーから視線を外して窓の外を見つめた。あの日のような雨は降らない。
「アンバーは大丈夫。アンバーは俺よりも力が強いから、俺を殺してくれる」
「あら、それが目的なの? ずっと一緒にいられる宝石を捜していたっていうことかしら」
「違うよ。……だって、アンバーは、こんな風に近づく予定もなかった。見ているだけで良かった。……言っても信じないだろ。ずっと、心の宝石箱にしまっていくつもりだったなんてさ」
きらきらとした感情が溢れ出す。世界に飛び立とうとした恋心は、愛した人に触れることを望んだ。それが破滅の世界に向かったとしても。
「そっちの方が安心したのに」
冷たい声が零れた。振り返れば、感情をなくしたアンバーが琥珀色の瞳を閉ざしてそう口にした。
「あなたも、可笑しなことを言うのね。愛なんて……知りたくないわ。感情のまやかしで溺れきるなんて逃げにしかならない。現実の畏怖から逃れる術が、誰かに依存することなんてぞっとしないわ」
小難しいことを言うもんだ。だけどそれがアンバーの考え方。アメジストと違って当たり前だ。ふたりは決して同じものではない。ないからこそ嫌悪して、惹かれる。
「ねえ、アンバー」
滑らかな頬に手を触れた。両手で包んで顔を向かせる。悲しみとも憎悪ともつかない表情を浮かべたアンバーに、アメジストは囁くようにして顔を近づけた。
触れても逃げない。アンバーのこんなに近い場所へとアメジストはやってきたというのか。
瞳と瞳とかち合わせて、琥珀の中に薄紫を見つける。不思議な色合いは、ふたりにしか出せない色なのだ。
「きもちいいことしようよ。アンバーとセックスしたい。愛しあう手っ取り早い方法でしょ?」
「……嫌よ。汚らわしいって、言ったじゃない」
「もっともっと好きになりたい。好きになってもらいたい。今、アンバーに触れてるけど、気持ち悪くないんだろ? だったらさ、もっと先にいったって大丈夫なんじゃない?」
「そういうのを屁理屈っていうの。慣らされただけだわ」
可笑しいわね、というように笑ったアンバーの表情が花をほころばせるものと酷似していて、アメジストの胸がきゅんとわなないた。
こんなにも愛おしくなる感情を、アンバーに教えたい。自己満足だろうとも教えたい。
「じゃあね、すごいキスしてみる? セックスに似た、愛し方のひとつ」
囁いた言葉は悪魔の誘惑となって、アンバーを擽った。きっぱりと否定するものだと思ってばかりいたのだが、アンバーは顔を縦にも横にも振らなかった。
だからアメジストは動き出す身体をどうすることもできなかった。
あまい蜜のような世界だ、ここは。アメジストを泥沼に嵌まらせて、逃がしはしない。きっと、アンバーに否定された世界こそがアメジストにとって地獄になるのだと今日初めて知った。知りたくなかったことだったけど。