ぬるい春 05
 吸い込まれそうな琥珀の世界。魚眼の映り込みに、不可思議なものさえ感じる。
 近付けば空気が熱を振動させて体温が近くなる。微かに上下する身体が生きていることを教え、触れた肩先は思ったよりも熱をもっていなかった。
 肌と肌を密着させて、アンバーの膝に乗りあがる。瞬きしかしない瞳はアメジストを変わらない色で見つめるばかりだ。
「アンバー」
 だから甘やかな声で名前を紡いで、揺れる水面のような琥珀を誘いだした。鼻先をアンバーのものと擦りあわせて、怖くない、気持ち悪くもない、愛したいのだと触れた皮膚から伝わるように心を込めた。
 風によって冷えた鼻先の温度が中和されていく。唇だけでキスをするものではない。言い方さえ変えれば、どこだって触れ合わせばキスのようなもの。
「目、瞑らないの?」
 間近で見つめても、ぼやけてなにも見えないのに。きらきら光る黄金色が目に痛いだけ。だけど閉じるのももったいないかもしれない。アンバーの表情すべてを記憶して、触れて、もっておきたい。
 声を、息を吐けば空気が震える。アンバーの囁くような声音は、この距離だからこそ拾える気もした。
「なんだかね、閉じるのがもったいないわ」
 おかしいでしょう、なんてあまりにも無邪気な顔で言うものだから、アメジストの心臓が粟立って仕様がなかった。目尻に皺を寄せて、口角をゆるやかにあげて、そうして頬の熱を少し高める。あどけなくて、色っぽくて、愛らしくて、可愛い。そんなアンバーの表情を見て、恋をしているアメジストがなにを感じるかなんて一目瞭然ではないか。
 ぐわんぐわんと警報が鳴る。張り詰められた甘い空気を、ぎゅっと凝縮させて食べてしまいたい。壊したくない。とっておきたい。けれども肉欲に支配されたアメジストは我慢ができなかった。
 戸惑いをみせる両手で、アンバーの頬を支えた。角度を変えて顔を近づける。遠からずにあった距離が徐々に縮まって、唇に柔らかな支配を落とせばゼロになった。
(ああ、溶けちゃいそうだよ、アンバー)
 じゅくり、と心臓が腐敗して溶けていく。好きという感情が熱をもち過ぎたみたいだ。心臓だけでは支えきれない。
 どくどくと、全身に送られる血液細胞にまでアンバーへの感情が濃縮されて、爪先からてっぺんまで愛に満ち溢れている。薄い色をした皮膚の直ぐ下には、アンバーを想った感情が常に流れ続けているのだ。
 なまあたたかい舌を唇からそろりと覗かせて、アンバーの唇に触れた。愛撫するような触れ方に、アンバーが嫌悪を抱いてしまわないか些か不安だったものの、それほど抵抗らしい抵抗もない。
 アメジストはそれを皮切りにアンバーの下唇をゆるりとなぞらえて、上唇に柔らかく歯を立てた。
「くち、あけて」
 吐息混じりに囁けば、アンバーは大人しくアメジストに従ってくれる。情熱的にアンバーから口づけを求められるのも理想の形ではあるものの、こういったことに免疫どころか嫌悪を抱いているアンバーをもみしだくように慣れさせるのもなかなか悪くはない。
 薄く開いた唇の入り口に舌を忍ばせると、小奇麗に並んだ小さな粒を確かめるように舌先で舐めあげた。歯の表面こそ敏感な神経は通っていないものの、そこを微かになぞらえられるという感触がアメジストは好きなのだ。だからアンバーにも教えてあげたかった。快楽を得る、ということを。
(あ、あ、でも、だめ)
 知らず知らずのうちに興奮をしてしまっていたらしい。アンバーを攻めているだけなのに、アメジストの下肢はうずうずと疼いて仕様がなかった。
 性欲の強い方であるアメジストが、この部屋にきてからというもののそういったことからとことんご無沙汰だった。セックスはもちろんのこと自慰だってしていない。アンバーが性というものを感じさせないから、アメジストも性を出すことを躊躇っていた。
 だけどこんな風に快楽を得るためのキスをしていれば、身体の奥底で燻っていた性がちりちりと燃え上がってアメジストの悦に直結する。
 触れたい。触れられたい。ぐちゃぐちゃに溶けあって愛したい。愛されたい。アンバーに、愛されたい。
「は、ァ……」
 はしたなくて、みっともない。アンバーを攻めながら興奮して喘ぎを零すアメジストは、我慢が効かなかった。
 奥底でたじろんでいるアンバーの舌に触れた。ぼてっとしていて、熱い舌だ。アンバーの、誰も触れたことがないであろう舌。アメジストは慎重さも忘れて舌先でアンバーの舌に触れると、ゆっくりと擦り合わせた。
「ん、ふ」
 ひりひりとした微弱な電流が舌からゆっくりと全身に広がっていく。核心に触れる愛撫さえない、しかも攻めている状況でこんな風に感じるのは初めてだ。
 細胞ひとつひとつが支配されて命令されているよう。蜂蜜のようなどろりとした倦怠感に包まれると、アメジストは夢中で唇を貪った。
 上顎をなぞり、逃げを打つ舌と絡ませあう。ちゅくり、という水音を響かせれば愉悦に繋がる。隙間が開けば口づけを深くして、唾液すら零さないほどに密着した。
 頬に触れていた手は我慢が効かず、いつの間にか上へとのぼると絹のような手触りの髪に触れる。しゃらりと指の中で踊るアンバーの髪は、触れるのさえ躊躇われるほどのうつくしさを誇っていた。
 違う、すべてが宝石だ。瞳を覆う薄い膜も、唇から溢れる唾液も、アメジストの良いようになっている身体も、すべてが。
「っ……くう、ふ」
 ぞくぞくっと背筋から一気にあがるような、激しい快楽が突き抜けた。アンバーがおろしていた指先を、アメジストの背に流したのだ。やらしさはなく、ただゆるりとなぞるような触れ合いに、アメジストが感じてしまっただけ。
 おかしい、こんなのは、知らない。アメジストは耐え切れなくなって、アンバーの口腔を貪ることをやめた。これ以上触れ合っていれば、頭が可笑しくなりそうだ。
 唇を離せば、溢れた唾液が口端から零れる。アメジストが追うようにアンバーの顎に舌を這わせば、頭上でくすりと笑む声が聞こえた。キスを嗾けて翻弄していたのはアメジストの方だったのに、いつの間にか形勢逆転して翻弄されていた。アンバーはなにひとつしていないのに。口づけにさえ、答えなかったのに。
(アンバー、くるしいよ)
 はあ、はあ、とあがった息を零す。下肢が痛いほどに張り詰めて、じゅんと染みるのがわかった。どろどろに溶けた思考ではまともな言葉さえ紡げない。熱くて、淫らで、とろけて、どうしようもなかった。
 じゅくじゅくに溶けきった身体が、欲している。快楽を、アンバーを、欲しがっている。
 こんなのはあんまりだ。どうにかして熱を発散したい。触れ合いたい。ぐちゃぐちゃにしてほしい。性を刺激して。与えて、求めて、壊れるほどに愛してほしいのに、アメジストが求めた指先は冷たいままで、濡れた唇をなぞるだけだった。
「気持ち悪くはなかったわ」
 こっちは気持ち良くて死にそうだというのに、つれない言葉を吐くものだ。返答する余裕すらない。
 余裕を片鱗に覗かせているアンバーは可哀想なほどに欲情に塗れたアメジストの頬を指の背で撫ぜると、冷たさを残すてのひらで覆った。
「あついわね、アメジスト」
 些細な触れ方ですら、愉悦を拾ってどうしようもないアメジストをどうにかしてくれないか。このまま生殺しだというのならば、せめていっそうのことその手で殺してくれたって良い。
 だけどアンバーのあたたかな体温に絆されて、アメジストは世界を許した。耐え忍ぶことが試練だというのなら、我慢しようではないか。とても、とても厳しいけれど。
「……俺は死にそうだよ、アンバー。でも唇で愛しあえるほどにはなったから、良いかな」
「あら、セックスしてとは言わないのね」
「ゆっくり攻略していくよ。してくれるのなら大歓迎だけど」
 ちりちり、欲が燻る。アンバーは笑うだけで、アメジストの頬をただただ冷まそうとしてくれた。
 今はそれでも良い。なんていえるほど余裕もなかったけれど、そういうことにしておきたい。触れられている事実に、少しだけ前進した性の虜に、愛が深まった心に、血液の濃度を増した想いに。
 ああ、どうしようもなくアンバーを愛しているのだとアメジストは再認識した。

 月が闇夜を照らす。月光浴には最適の夜だ。真ん丸のフォルムにアメジストは頬を緩ませると広い寝台から足を出して床につけた。
 ここにきた当初は同衾することを嫌がって寝台にあげさせてもらえなかったが、距離を置くことを条件にやっと最近になってやわらかな寝台で共に眠ることを許された。
 アメジストは人一人分のスペースをあけて穏やかに眠っているアンバーを確かめると、窓より遠くの景色を見て裸足で絨毯を踏む。今夜は絶好の好機だ。
 宝石の力を強めるのは満月が一番。月明かりに照らされて安眠をとっているアンバーを尻目に、アメジストは物音を立てないように扉へと向かった。ほんの少しだけ、この部屋を出ようと思った。それはここにきてから初めての試みだ。
(アンバー、ずっと眠っていてね。……戻ってくるから)
 戻ってこない方がアンバーのためになるのかもしれない、と心の底に過ぎった考えではあるものの、アメジストはこの狭い世界から抜け出すことを良しとはしない。アンバーに拒絶されるまではもがいて必死に縋りついていたい。
 堅城の扉を開ければ、そこは煌びやかで甘い世界から切り離された現実だ。アメジストは一度だけ振り返ると、薄暗い世界へ身を投じて扉を閉めた。
 戻ってこられる保障なんてどこにもないのに、またこの扉を潜れる自信はあった。
 アメジストはアンバーが住む別塔の形状を理解していた訳ではなかったが、アンバーの話と部屋にあった資料から大体の推測で把握していた。この建物は北の塔に繋がっている、というよりは繋がるように増築されたようなものだ。
 北の塔の最奥から遥か頭上にのびる螺旋階段。頂上には目映いほど琥珀をあしらった扉があり、それを開けば直ぐにアンバーの部屋へ通じるという仕組みだ。
 誰でも入ることができそうで、入ることができない。というよりは誰も寄せつけないといった方が良いのか。特別鍵がかかっている訳ではないが、誰も開けようとはしない閉ざされた世界でもある。
 アメジストは耳に高く振動するようにして響く音を立てながら螺旋階段をおり、北の塔へと抜けた。今アメジストの身柄がどのような形になっているのかは知らないが、他の宝石に見つかると厄介なことだけは重々承知している。
 件でもいったとおり、北の塔の住民は総じてプライドが高い。許可も得ずに北の塔にいるなど言語道断。アンバーの世界とは切り離されたここでアメジストを守ってくれる宝石などいないのだから。
 アメジストは見つからないよう息を潜めると、目的の場所であるエメラルドの部屋へと急いだ。エメラルドならば交流もある上に、アメジストに嫌悪は抱かない。いきなりの訪問に驚きはするだろうが、拒否まではしないだろう。
 しかし、エメラルドの部屋に行ったアメジストは違う意味で肩透かしを食らうことになった。
「アクアマリン? 残念だけど、ここにはいないよ」
 気だるい様子を隠す気すらなく、エメラルドはしどけない格好のままアメジストを見上げた。わいわいといつものように乱交しているとばかり思っていたが、今日は一人でなにやら物思いに耽っていた。珍しいこともあるものだ。
 アクアマリンならば絶対にエメラルドの部屋に入り浸っているだろうと意気込んできた手前、アメジストは出鼻を挫かれてしまった。
 北の塔から出てしまえば、もう二度とアンバーの部屋には戻れない。だからできるだけ手短にことを済ませたいのだが如何なものか。どうしてもアクアマリンと会っておきたいアメジストは途方に暮れた。
「なに、アメジストってばアクアマリンに用があったの?」
「ここにいるって思ってたんだけど……。俺ずっとアンバーの部屋にいるんだ。当分出て行く予定もないし、急に姿消したからそれ言っておこうって」
「ああ、そういえば最近姿見ないと思った。アクアマリンも捜してた、よ? わかんないけど。アンバー、ね。お前も凄いの狙ってるな。セックスはしたの」
 髪をかきあげて、エメラルドはベッドをおりた。そのまま距離を近づけてくると、アメジストに触れる。頬を撫ぜて、唇に触れられた。真摯な表情はなにを意味しているのか。もしかしたら思い出しているのかもしれない。エメラルドが唯一愛したサファイアのことを。
 違う誰かに重ねてキスをされた。触れるだけのそれはなにもアメジストには教えてくれなくて、ただ唇が触れ合う感触しかしなかった。それだけなのだ。
 濃密で甘い、アンバーのキスとは大違い。エメラルドは緩やかに笑って、アメジストの唇を手の甲で拭った。
「避けるかと思ったのに」
「刺激に飢えているからね。で? アクアマリンはどこに行ったの」
「俺はアクアマリンの監視役でもないんだけど? なあんだったっけ、……言わないとだめ?」
「言いたくない? その名前を」
「わかってるなら聞くなよ」
 きれいに整えられた爪先が、アメジストの髪に触れる。彼とは似ても似つかないそれにすらなにを重ねるというのか。エメラルドはこうして深淵に捨て置いた感情を掬っては、時折哀しげに唇を震わせるのだ。
 狂っているのか。狂わされているのか。忘れられない想いを抱えたまま、通じることも破棄することもできない愛はエメラルドの中で何色に育ち、どんな形をしているのだろう。
 アメジストもアンバーに受け入れてもらえずに拗れてしまったら、それはきっと苦しい色に変わるのだろう。希望もなにもない恋だけど、諦めたくはなかった。
「エメラルドの反応でわかったからもう良いよ。言わなくて。あっちに行けばいるってことだろ」
「まあ、そういうことになるんじゃない」
「……彼の代わりなんてどこにもいないでしょ? 俺だって、全然似つかないのに」
「一瞬だけでも忘れられたら良い。お前にはわからないだろうね」
 髪に口づけをもらって、エメラルドに送り出された。いつもより随分と大人しい様子から考えて、今日はそういう日なのだろう。次にまみえるときはいつもと変わらずに、偉そうに宝石を侍らせて快楽に溺れているに違いない。
 いや、苦しいからこそ快楽ですべてを塗り潰してなかったことにしているのだ。少し前のアメジストも同じだった。いや、今だってなにも変わらない。
 アメジストは懐かしい記憶を頼りに、サファイアのいる場所へと向かった。どうやらアクアマリンはサファイアのところにいるらしい。
 エメラルドの部屋からそう離れていない場所にあるその部屋は、今ではもうすっかりと用がなくなり、足すら踏み入れなくなった場所だ。昔は身体を高めあったりしたものの、サファイアだけの大切な宝石を見つけてからはさっぱりとそういうこともなくなった。サファイアの宝石とアクアマリンが仲が良いから、その関係でこっちにいるのかもしれない。
 扉をこつこつと叩く。直ぐに聞こえた声に、アメジストは扉を開けた。そこにはテーブルを挟んで小難しい顔をするサファイアと面倒臭そうに紅茶に口をつけるアクアマリンがいた。
 勝手に開いた扉に二人の視線がこちらに向く。アメジストは手を振ると、アクアマリンの方を見た。
「アメジストじゃん! 今までどこに行ってたの〜!? 心配してたんだから!」
「ああ、アンバーのとこ。いろいろ話そうと思って抜け出してきたんだ。サファイア、ちょっと勝手に部屋入ってごめんね」
「……構わない、けどあまり騒がないでよ。向こうの部屋でトパーズが寝ている」
 サファイアはそう言うと立ち上がって、気を利かせたのか席を立った。窓に寄りかかって真ん丸に輝いている月を見上げている。
 アメジストはアクアマリンの隣に座ると、手短に終わるように話を切り出した。投げ出された手を握って、きれいな薄透明の水色を覗き込むように。
「今さ、わかってると思うけどアンバーのとこにいるの。まあいろいろあって全部言うと長くなるからはしょるけど、それなりに距離を縮めてきている……ような気がするんだよね。勝手な思い込みかもしれないけど」
「良かったじゃん。セックスしたの?」
「……エメラルドもアクアマリンもそのことしか頭にないの!?」
「え〜だってえ、アメジストだってどうせセックスしようって迫ったんでしょお?」
 図星なだけになにも言えず言葉を詰まらせてしまった。話を聞いていたサファイアに鼻で笑われる。もう、放っておいてくれないか。
「とにかく! しばらく帰れないから。俺、本気で、本気だから。その、だから、だからね、アンバーのこと愛してるから、だから……」