ルビーがエメラルドを愛している。そう言われても実感はない。だけどサファイアが言うのなら真実なのだろう。ルビーは頭では理解できなかったが、心が肯定をするようにかたかたと加速を始めたので間違いはないらしい。
とくりとくりと平常通りの音を刻む心臓がエメラルドに関するだけで速く動いていくのだから、まったくもって身体とは嘘をつけない別個の生きもののみたいだ。
悪足掻きしたくて、ルビーはああだこうだとサファイアに否定を重ねてみたものの、最終的に付き合ってくれなくなったサファイアに自分で考えろと部屋を追い出されてしまった。答えなどとっくに出ているのに違うと突っぱねたいのは、今の状況が存外に気に入っているから。
誰からも見捨てられたエメラルドを救うことで、エメラルドのヒーローになろうとしている。暗闇の中膝を抱えて泣いているエメラルドに触れれば、サファイアのことをあやふやにさせてあげられているような気がして。ルビーにだけ心を傾けてくれるような気がして。深く考えないでもそれが恋の予兆だとわかっていたのに、ルビーは目を背けていた。
どうにだっていかない。エメラルドの心からサファイアが消えることなんて絶対にないのだ。言い切れるほど、側で見続けてきた。
すとんと落ちてきた感情を受け入れるのは早かった。もともとそこに存在していたものを、見ないふりから見るように変えただけなのだから。ルビーはもう一度エメラルドの部屋に向かった。
会ってなにがしたい。確かめたいだけか。重くなる足取りが前に進まなくなる。エメラルドの心の壁にさえ思えてくるほど、頑丈な扉が二人を隔てる。
ルビーはエメラルドの部屋の前に立つと、彫り模様に指を這わせた。うねりをあげて、ひんやりとした扉にぬくもりはない。この向こう側でエメラルドはなにをしているのだろう。
音を立てないように扉を引いた。先ほど出て行ったばかりだというのに、またきたのかと嘲り笑われるだろうか。それとも強引に手を引かれて、再び無慈悲な言葉を投げかけてくるのだろうか。いいや、なにもなかったかのように呆れた顔で出迎えてくれるかもしれない。
期待と落胆、不安と混沌が混じって、ルビーは扉の奥の世界を開けた。覗き見しているよう妙な緊張感がある。うっすらとベールを脱いだ世界を、ルビーは真っ赤な瞳に映した。
「サファイア……」
エメラルドはここにいない宝石の名を象って、似てもいない宝石の身体に指を這わせていた。
そのままの状態で固まったルビーは覗いた世界から色が失われていくのを、どこかでぼんやりと見ているような錯覚に陥った。がらがらと崩れ落ちる音は、なにが壊れていく音なのか。
エメラルドは最初からそうだったではないか。暇さえあれば誰かと肌を重ねて、寂しさを拭うようにセックスに溺れた。サファイアでなければ誰だって同じだと言ってみせた言葉が答えだ。
熱くなって、なにも考えないでいられるその時間だけにエメラルドは救われているというのか。ルビーが積もらせた言葉よりも、誰かも知らない宝石を貫く熱の方が、エメラルドにとっては幸福だといえるのか。
エメラルドはルビーの知らない宝石と仲睦まじくベッドで欲望を貪っていた。唇を重ねて指を絡めて、肌を触れ合わせ汗を滴らせる。淫靡な空気が扉を潜ってルビーのもとにまで届いてきそうだ。思わずたじろいで、唇を噛んだ。
見たくない、だけど目が離せない。
あれがサファイアだったのならばルビーの心も空くのか。いいや、気付いてしまったあとでは例えそれが誰であろうとルビーは受け入れることができない。ルビーでなければ、ならないのだろう。
まだルビーは誰かを深く愛する気持ちも、性に溺れる感情もわからない。それでもエメラルドを幸せにしたいという気持ちだけは誰にも負けない。
胸が、握り潰されるような痛みがした。軋んだ心が悲鳴をあげて、ルビーは爪先で扉を引っ掻く。どうせ最初から気付いていたのだろう、エメラルドはルビーの方を見ると唇を弧の形に歪めてみせた。
見せつけるように、名も知らぬ宝石の肌に唇を寄せる。断絶された二人の世界は決して混じることがなかった。
あの宝石の代わりになるとルビーが言えば、エメラルドはこともなげに受け入れるだろう。ルビーを抱くことに躊躇いもなく、ルビーが大切にしていたと思っていた絆も容易く壊してみせる。そんな宝石が、エメラルドなのだ。
ルビーはゆっくりと扉を閉じた。見えなくなった世界に心だけを置いて、扉に額をつける。たった一枚の壁がこんなにも、ああ、こんなにも分厚い。
「だからって僕のところにくる? うざいんですけどー」
足蹴にされても頑としてソファの上を動かず、肌触りの良いクッションに顔を埋めてルビーは首を振った。
「はあ? ばっかじゃねーの。早く帰ってよ。僕お前の主君なんだけど?」
「……良いじゃん、たまには」
「そういう問題? ったくさー僕だって暇じゃないし」
「どうせパールと喧嘩するだけしかしてないだろ? 俺の面倒見てくれたって良いじゃん」
「パールとか言うの禁止! まじ気分最悪……」
ダイアモンドの苛立った声が響く。なにを隠そう、ここは北の城の頂点と言っても過言ではない宝石の総代ダイアモンドの部屋であった。
ルビー、サファイア、エメラルドの三人はダイアモンドを取り巻く御三家と言われているほどダイアモンドとの繋がりは濃い。どちらかといえば忠誠を尽くし、配下に従えるといった関係性なのだがこのくだらなくも平淡で退屈な世界ではその意味すらないものとされている。
力関係の差はあれど、現実を鑑みれば仲の良い友人のような関係だ。最もサファイアもエメラルドもダイアモンドとは反りが合わないのか、なにかがない限りなかなかダイアモンドの部屋には近寄ろうともしていないが。
そういった意味でいえばダイアモンドもまた、ルビーだけに心を許している存在といっても強ち間違いではなかった。
「で? お前はどうしたいの?」
「ぎゃ!」
首根っこを掴まれてソファから引き摺り落とされる。地面に寝転がったルビーの上に跨ぐようにしてダイアモンドが立った。白く艶めかしいおみ足がルビーの顎に触れたかと思えば、ん? と首を傾げて見下ろされた。
「エメラルドがサファイアにぞっこんなのは最初からわかってたじゃん。なに今更って感じ、僕からすれば」
「……んなこと言ったって、俺だって今更ってのはわかってるけど」
「好きだって気づいたのが最近っていう言い訳しちゃう? ほんとくだんない。セックスするなり玉砕するなりなんなりすれば良いじゃん。どうせサファイアはエメラルドに落ちないんだし? 適当に身体だけでも繋がっといたら」
「お前んところにきた俺が馬鹿だった!」
「僕に相談するお前が悪い。ねえ、ルビー」
爪先が首を擽って、ゆっくりと身体を這っていく。傍からみれば妙なプレイのようでもある。なすがままのルビーはダイアモンドの好きにさせるとくすぐったい感触をそっぽ向いてやり過ごした。
ダイアモンドに相談したところで助言がもらえるとは到底思ってもみなかった。期待なんてしてなかったし、打開策だって存在しない。知っていたのについ言葉が零れたのは、誰かに聞いてほしかっただけなのだろう。存外にルビーも構ってほしいと喚く子供なだけかもしれない。
どうせならダイアモンドが神様ならば良かった。エメラルドを想う恋心だけぱくりと食べてもらいたかった。なんて、そんなことは宝石である自分たちが呼吸をすることよりも不可能なことに近いのかもしれない。
エメラルドを想う感情をなくしたら、ルビーはどうなってしまうのだろう。抜け殻のように亡骸になるかもしれない。
「ルビー」
胸倉をぐっと掴まれて引き上げられた。相変わらずたいした力だ。身長も体格もルビーの方が勝っているというのに、その力はどこから生まれてやってくるのか。
「お前は馬鹿だからな、どうせその気持ちも一瞬だ」
「……一瞬?」
胸倉を掴まれたまま、宙ぶらりんな体勢でダイアモンドを見上げる。いつもは見下げている顔が高くあるというのは些か妙な気持ちでもあるが、ダイアモンドだから仕方ないのかもしれない。
ダイアモンドの姿を瞳に映せば、すべての宝石はイミテーションだ、と思うくらいにうつくしい。なにがどううつくしいのか、説明できないうつくしさなのだ。
言葉では精解できない。見てもわからない。なんとも不思議な感覚なもので、ルビーはずっと狐につままれているような違和感すら抱いていた。
きらきらと輝く瞳の奥に、困り果てたルビーの顔が見えた。情けない表情だ。御三家とは到底信じられない。眉が下がって泣きそうなくらいに情けない。
「次の瞬間には、明日には、悲しかった気持ちもけろりと忘れている」
「……なにそれ、俺そんな馬鹿じゃねえよ」
「馬鹿だろ。馬鹿しかねえじゃん? でも断言できるね」
空気を食んだダイアモンドが胸倉を掴んでいた手を離す。必然的に支えを失ったルビーはごつんと頭を床に打ち付けた。微妙な高さだったので痛みはさほどないが、それでも痛いものは痛い。
思わず頭を抱えて唸った。そんなルビーに構うことなくダイアモンドは高笑いをしてみせるとソファへと腰を落とす。優雅なものだ。相変わらずなテンポの不規則さについていけない。
「エメラルドも手遅れだが、お前だって手遅れだしー? きっと明日になれば、エメラルドが独りでいるかもしれないとかなんだの言ってあの扉を叩くね。馬鹿でしょ? お前も。報われないのにさ、放っておくことができない時点でどうにもならないんじゃない。排他的な関係に堕ちていくのを、僕は見てるだけ」
「……お前ってほんとわかんねー」
「お前がわかりやすいだけでしょ? あは、エメラルドが好きで好きで仕方ないって顔してるし、多分ね、寝て起きたらお前はいちばんにエメラルドのところに走るよ。僕はそんな予感がしてる」
「なんの自信だよ、それ」
「可哀想にね。ルビー、だからどうしても、本当にどうしても悲しくて死にそうだったら僕のところにまたきなよ。お前の恋心ぐっちゃぐっちゃに殺してやるし」
不敵な笑みを浮かべるダイアモンドに、ルビーはううと唸るだけ。嫌な予感が拭えないその甘い誘惑に乗れるほどルビーとて馬鹿ではない。
「……遠慮しとく。まだ生きてたいし」
「ざーんねん?」
「でもありがと」
「慰めてるつもりはないんだけど。っていうか、ほんと出て行くんなら早めにしてよー? 今日しか甘やかさないから」
ダイアモンドの柔らかな声に頷いて、存外甘さで満たされている優しさに浸かった。明日になれば、なんて明日のことなど明日にならなければわからない。先読みできる訳でもないのにダイアモンドの言うことは可笑しなことばかりだ。
それでもそれが言霊となって現実になってしまうのも確かなのだ。
エメラルドは今頃なにをしているのだろう。独りじゃ寂しいから、誰か引っ張り込んでセックスの続きをしているのかもしれない。一人だけじゃ足りないから、二人三人と熱に埋もれて恍惚としているのかもしれない。
快楽だけが救いの手だなんて、悲しい話があるものか。ああだけど、得るものすらないルビーも悲しい話の中の主人公なのだ。
一体どれほどの悲しさを積み重ねてこれば、あんな風に歪んでしまうの。
「……ダイアモンドは、誰かを愛したことがある?」
誰からも愛される美貌をもっていながら、誰のものにもならない孤高の宝石。我が主君、といえば格好はつくかもしれない。ダイアモンドは首を傾げる、誤魔化すように笑みを浮かべた。
「僕を愛さないものはいない。つまんねー世界だろ」
愛されない誰かを、愛するというのだろうか。誰も彼も愛を説く言葉はルビーには難し過ぎる。噛み砕けるほどの知識も心もない。
ごろりと床に寝そべって、目を瞑った。明日になればすべて無になっていたら良い。ダイアモンドも、サファイアも、エメラルドもルビーもなにもかも、息のしていない石ころに戻れればこんなにも悩む必要はなかった。
なんて一度でも呼吸をしてしまえば、その世界には戻れないことも知っている。
言い分で言えば、ダイアモンドが正しかった。エメラルドと会いたくないとごねたのは半日にしかならず、結局は言葉の通り独りでいるのではないか、誰も本質を理解してやれないのではないか、そんな風な建前を用いてエメラルドの部屋にきてしまっている。
沈黙が場を制する。しどけない格好でベッドに寝そべるエメラルドは、情事後の空気を隠さずにそのままでいた。痛いくらいの視線に、ルビーは顔を下に向ける。
「……わかってんの」
冷たい声が響く。ルビーはとうとう目を瞑ると首を横に振った。わかっていたけど、わからないふりをした。
今朝方、ダイアモンドの部屋から抜け出したルビーはそのまま直でエメラルドの部屋に向かった。ベッドの上で狸寝入りしていたダイアモンドが嘲り笑ったのを聞いてはいたものの、いてもたってもいられなかった。
恋を覚えたてのルビーは、一時でさえエメラルドと一緒にいたかったようだ。不思議な話ではあるが自分のことなのに、自分を理解できていないなんて馬鹿極まりない。
エメラルドの部屋にノックもなしで踏み込んだ。あられもない声と水音、いやらしい光景に昔こそルビーは慌てふためいていたものの今となっては慣れたものだ。
びっくりした様子の宝石と、訝しげなエメラルドの瞳に晒され、ルビーの心臓は音を立てて潰れた。
「出て行って」
そうして訳がわからないといった顔をしている宝石を引っ張って、そんな台詞とともに部屋から無理に追い出したのである。
もちろんこの事態に黙っているほどエメラルドも大人しくはない。苛立ちを露にしつつ解放できずに疼いている熱を持て余しているのか、掠れた声音でルビーを責めた。
悪いのはルビーだ。わかっている。だけど耐えられなかった。仕方がない。
「わかってんでしょ」
乱れた衣服を整えることもせずに、エメラルドはそのままでルビーに近付くとしゃがみ込んだ。行為はしていても前技の状態だったらしい、エメラルドは着衣したままだ。
ゆっくりと瞼を開く。欲に染まったエメラルドの瞳に、ルビーが映っていた。
「……エメラルドはさ、愛されたいのか」
「愚問だね、そういうの」
「セックスが」
「すべてじゃないってどうして言い切れる? 俺は、サファイアに愛されたい。あいつらはそれを埋めるものでしかない。それだって全部は無理だし」
「……もう、やめろよ」
指先が、エメラルドの手の甲に触れた。鼓膜に心臓が張りついたかのように、ばくばくと煩く鳴っている。
唇で形成される言葉を紡いでしまえば、もとには戻れないだろう。それでも歩んでしまいたいと思えるほどに、ルビーはエメラルドに心底惚れていたようだ。
やっぱりと笑うダイアモンドの顔、馬鹿じゃないのと呆れるサファイアの顔、ごめんねと軽薄そうに笑うエメラルドの顔。どれもこれも簡単に想像できるのに、可笑しいな、恋に溺れるルビーの顔だけが想像できない。
「それで? お前はどうされたいの」
「……代わりに、なる」
「なれないって言ってるじゃん。馬鹿だね、お前もさ。見る目ないって言われない?」
「言われた」
「報われないのつらいけど良いの。俺はサファイアしか愛さないよ」
「知ってるよ。でもどうしようもないのは、お前が一番わかってんだろ? 俺は、……俺だって、わかんねえんだよ。でもさ、知ったら、知ってしまったらさ、もう戻れないって……それくらいはわかるんだ」
くしゃりとエメラルドが表情を崩して、可哀想だね、と吐き零した。ルビーに向けての言葉なのか、自分に対して言っている言葉なのか、ルビーにはまだわからなかった。