うそでもいいよ 06
 束縛したがりの、やきもちやき。ルビーからはかけ離れた言葉が、おかしなことに今のルビーには合致してしまうのだから人生なにが起こるのかわからないというもの。
 一生片想いしてよ、と囁かれた言葉に頷いたのは良いけれど、エメラルドが恋をしている相手がサファイアであることを前提としている。対象がサファイアでないのなら、ルビーの中に秘めたる感情がくらりと揺らめいてはさざめきを大きくさせ、思わぬところで現れたかと思えば牙を剥いてしまう。
 こんなつもりではなかった。さっさと見切りをつけて捨ててしまいたいのに、日を重ねるごとに重さを増していく感情は歯止めすらきかない。
 薄暗く否定された恋を腐らせていたエメラルドの歪んでしまった心に触れたが最後、どうしようもないくらいに抜け出せないところまできてしまっている。
 虚勢を張るエメラルドの背に頬を寄せて、側にいるから、なんて陳腐な言葉を吐きかけた。まじないのような言葉はルビー自身にも言い聞かせているような呪いでもある。
 エメラルドと契って目に見えて変わったことは多くあるだろう。あの日を境にルビーの生活は激変した。今までどうやって呼吸をしてきたのかさえ忘れるくらいの、大きな革命が起きてしまった。
 セックスは好きかどうかわからない。エメラルドに擬似でも愛される行為に胸はそこはかとない幸せを感じるものの、嘯いてみえるその熱に芯まで溶かされるほどルビーとて馬鹿ではない。
 それでもルビーが狂ったようにエメラルドとセックスするのは、一種の独占欲からなるものだ。
「ルビー、お前も変わり過ぎでしょ。僕の知らない宝石みたいになっちゃってさ」
 ダイアモンドの部屋で、ルビーはソファに蹲りながら軽蔑を含んだ声音を聞いていた。なにも言わずに主君でもあるダイアモンドの部屋を訪れたルビーに、最初こそ嫌そうな顔をしてくれたもののなにも聞かずに部屋に入れてくれた。
 ここ最近のルビーとエメラルドの醜聞は北の城で持ちきりだったために直ぐに用件がわかったのだろう。
 相変わらず豪奢でちぐはぐで、目に煩くもある部屋だ。すべての宝石を散りばめ贅の限りを尽くしたこの部屋はダイアモンドらしくもあり、ダイアモンドらしくもなく、まるでダイアモンドの存在をあやふやにさせるような心地でもあった。
 薄く翳った瞳をあげて、ダイアモンドを映す。ソファの肘かけに埋め込まれているエメラルドをなぞれば、ダイアモンドが目の前に仁王立ちした。
「最低の顔してるね。馬鹿じゃん」
「……ちょっと疲れてるだけ」
「色情魔にでもなりてえの?」
「そういうことじゃねえけど……」
 冷たい瞳にねめつけられて、漸くルビーは息を吐く。現実だと知らしめるには十分の言葉だ。サファイアも心配そうにルビーを見てはいたが、そういえば声まではかけなかった。それくらいルビーは異常になっているというのか。
 自覚はあるのだ。壊れ始めているのではないかなんて、誰かに言われなくてもわかっていた。
 エメラルドとセックスをした日から、ルビーは更に恋に溺れていった。エメラルドを好きになり過ぎて、どうして良いのかわからなかったのだ。
 ただエメラルドが違う誰かを愛するのは嫌だと思った。あんな風に汗を滴らせて、掠れた声音で名を呼んで、熱いくらいの体温で包んで擬似でも愛するのだと考えるだけで身が焼け焦げそうだった。
 だから奪った。すべてルビーが引き受けて、エメラルドとの蜜月にすべてを投げ打った。ひとりの時間もなにもかもを捨てて、ただエメラルドとセックスをするだけの時間ばかりを作ったのだ。
 エメラルドが性欲を抱えてどうしようもないのなら、全部ルビーが引き受けるから、どんなことでもするから、なんだってやるから、だから他の宝石に触れないで、なんて言ったルビーをエメラルドはどう思っただろう。豹変してしまった関係に少しでも嘆いているのだろうか、それとも面倒だと一蹴したかったのだろうか。
 ほんの少し優位に立てていた位置を自ら捨ててまで、ルビーはこの堕落の道を選んだ。特別な友達よりも、その他大勢のセックスフレンドを取った。
 つらくて、苦しくて、どうしようもない世界に瞼を開ける度絶望を覚えてもなにも変わらない。変わることなどない。ただサファイアを求めてぐずるエメラルドの熱を解消させるための道具にしかならないのだ。
 ただ本音を零すことができるのなら少し疲れた。体力的にも精神的にも擦り切れたルビーは、エメラルドが寝静まるのを見計らって部屋を抜け出し、ダイアモンドの部屋へと駆け込んだ。
 ダイアモンドは良い顔をしなかったけれど、この部屋にいると浄化作用が働いて身が楽になるのだ。宝石の女王でもあるダイアモンドの特殊な力は部屋だけでなく、本人からも発せられているのだからますます頭もあがらない。
 だからこそダイアモンドは誰も愛さないのだろう。愛される存在である彼は、いつだって愛されない存在を探している。エメラルドに愛されたいと望むルビーや、サファイアに愛されたいと壊れていくエメラルドを、いつも侮蔑を滲ませた瞳で見つめてきた。
「気休めにしかなんねえのに、お前はそれでもあいつが良いんだ」
「……心配してくれてんの?」
「まっさか! 僕は僕が一番かわいいからね。お前らがどうなろうと知ったこっちゃない。良くもまあ御三家でどろどろの愛憎劇を繰り広げてくれると呆れはしても手助けしようなんて毛頭ないし、終わらせる気もない。勝手にしてくれって感じじゃん」
「ダイアモンドらしいな」
「でも壊れてもらっちゃ困るよ。お前らが潰れたら誰が僕の面倒を見るの。だからほどほどにしてよ? お前らはセックスするために生かされてるんじゃない。僕を守るために存在してるってこと、忘れるな」
 守るもなにも、脅かす存在など皆目いないこの世界でそれを言うのか。ダイアモンドの気随に彩られる瞳に射抜かれて、ルビーは緩く笑った。相変わらずわかりにくい色だ。
 深く息を吸って、ゆっくりゆっくりと吐き出した。熱っぽさの残る身体は少し無理をし過ぎた証拠かもしれない。
 もとよりセックスは受け入れる方に負担がかかるという。しかも覚えたばかりのルビーは慣らされることもなく、休むこともなく、それをのべつ続けてきた。しかしそれはエメラルドがしかけた行動だとしても、受け入れると覚悟して享受しているのはルビーの意思だ。
 全身がじりじりひりひりと、疼きに苛まれる。腫れぼったい身体は指先ひとつ動かすのが億劫で、身体を休ませてくれるダイアモンドに触れて現実に戻ってこれたかのような感覚でもある。
 鉛のように沈んでいく体温。ルビーは瞬きさえやめてしまうと、ダイアモンド、と呟いた。
「なに」
 つっけんどんでいて、淀みのない声。ルビーは心臓の表面を少しだけ毛羽立たせると唇を弧に象った。
「エメラルドは、……サファイアじゃないと、幸せになれないのか、な」
「さあね。僕の知ったことではないよ。……ああでもひとつ言えるのは、あの愛し方は一種の依存と呪いにも見えるな」
「のろい」
「サファイアを愛しているエメラルドでいなければいけない。きっと自分に暗示をかけてるんだろうね。だからそれ以外見ようともしないし、変わろうともしない。弱虫な男だ」
「……かわれるのか?」
「あいつ次第じゃねえの。……でもきっとあいつの中で改革があったとしたら、それをなかったことにして振り出しに戻ろうとするんじゃない。心の平穏を脅かすものは排除する。そういう宝石かもね」
 ダイアモンドがしゃがむ気配がする。瞼すらもちあげる力をなくしたルビーは畏まるほどの主君ではないにしろ、こんな状態であることに申し訳なくも思った。
 触れたら壊れてしまいそうなほど、華奢なダイアモンドの指先。口先ばっかり汚くて狡猾な性格をしているけれども、見目だけならば壊れてしまいそうに儚いうつくしさをもっている。
「エメラルドは、サファイア以外を愛することに怯えてるんでしょ。もし違う誰かに心を傾けて再び裏切られたらどうしようって、闇の中で震えてる餓鬼と一緒じゃん。だからこそ誰も愛さない。サファイアに愛されない世界ならば、これ以上傷つかなくても済む。そうして自分の殻に引きこもって、セックスに溺れてる屑でしかねえ宝石だよ。お前はそんな宝石を愛するって言うんだね」
 呆れ半分のダイアモンドの言葉に、ルビーは笑うしかなかった。
 例えエメラルドが世界で一番の屑な宝石だったとしても、それでもルビーだけはなにがあってもエメラルドを愛してしまうのだろう。
 一度抱えた感情は色褪せることもなくルビーをくすぶらせる。それはエメラルドの弱さに似ているが異なった弱さであった。
 本当はルビーだってずるい。ダイアモンドはすべてを知っておきながら、それでもそのことは口にしなかった。わかりづらい優しさに触れて、ルビーは少しだけの睡眠へと誘われていくのであった。

 それからほんの少しの力をわけてもらって、ルビーはダイアモンドの部屋を出て行った。毎回毎回世話になってばかりでいるルビーではあるが、御三家では唯一ダイアモンドに懐いているということもあって、ダイアモンドの方もルビーにはいささか弱いところがあった。
 わかりづらい優しさに浸りながらエメラルドの部屋に行く。夜更けと早朝の間のこの世界は淫事に耽ることすら終えて、皆が安らかな眠りにつく時間でもある。
 なまぬるい風を感じながら重い足取りで廊下を進む。悪い噂も、囁かれる悪口も、なにもかも耳に入らないようにしてエメラルドの部屋にこもりきりでいた。誰も尋ねてこられないように権限をフル活用してエメラルドを独占した。
 エメラルドは忘れることができたらそれで良いらしく、今のところは文句もない。サファイアはルビー宛てに文を寄越してきているが、怖くて開封できなかった。
 豪奢な扉を開けて、エメラルドの匂いで満たされた部屋に入る。静まった空間にあるひとつの気配に酷く安堵してしまうと、ルビーは起こさないようゆっくりと寝台へと近づいた。
 眠るにしては広過ぎるこの寝台は、誰かと睦みあうためだけに存在している。大きな寝台の端っこでぬくもりをほしがってむずがる子供のように身体を丸めているエメラルドを見て、どうしようもない愛しさに胸を軋ませた。
「エメラルド」
 側に寄って床に膝をつける。血の気のない頬に手をあてれば、少しのぬくもりを感じた。
 やわらかくてあたたかくて、生きている証拠。狂ったように淫事にのめり込んで少しでも悪足掻きをしたいと願っている弱いエメラルド。
 なにも知らない宝石は色情魔だとか、狂っているだとか、気違ったとか、囁くだろう。真実の姿を見ようともしないで、想像を舌先に乗せてはさも真実だといわんばかりに喋るのだから始末にも終えない。
 こんなにもうつくしく、弱く、儚い宝石がどこにいる。愛されたいと、愛することが怖いと言っている臆病者なだけだとダイアモンドは言うけれど、それでもルビーにとってはかけがえのない宝石なのだ。
 例え世界の悪者であったとしても、ルビーだけは最期までエメラルドの味方でいたい。
「……愛してしまって、ごめん」
 愛も淫事も知らなかったルビーが触れた感情は思ったよりも大き過ぎたみたいだ。別人のように改変されてしまった心を時折寂しく思うことはあれど、後悔はしていない。
 きっとエメラルドを愛するために生まれてきたのだと思う。花を咲かせずに蕾でいた理由は、この瞬間を待っていたからだ。
 そうっと顔を近づけて、額に口づけを落とす。たじろいだエメラルドがかすかな気配に瞼を震わせて、ゆっくりと開くのが見えた。長い睫が暗がりで上を向く。おぼろげな薄緑の瞳には燃えるような赤が映っていて、それだけで幸せに浸れた。
「……ルビー」
 嫌そうで呆れていて、少し安心したようないろいろな感情が混ぜられた声。珍しくも睡眠が勝っているのだろうか、エメラルドは唇を開けど言葉を発することがない。
「起こして悪かった」
「……なにか、あった? シーツが冷たいね」
「少し、ダイアモンドと話をしてきたんだ」
「ああ、どうりで。懐かしい匂いがすると思った。……相変わらずそうだね」
「ごめん、眠いよな。無理して話さなくても良いよ」
 エメラルドの唇を人差し指で押さえれば、少し驚いたように目を開く。寝起きということもあってかいつもより素直なエメラルドがかわいくて、ルビーの心臓は直ぐに駄目になってしまう。
 ブリキのように妙な音を立てて動き始める。加速していく恋の終わりなど見えてもこない。
「……ルビー、お前はほんとうに、どうしようもないね」
 冷ややかな指先がルビーの手首をなぞる。エメラルドは透明を色映した瞳のままルビーの腕を取って引き寄せると、寝台の上に引きずり込んだ。
 寝起き特有の熱い体温がルビーを包む。セックスしてからそのまま寝たエメラルドはしどけない格好のままで、やわらかな布をまとうルビーの肌越しにはあまり伝わることがなかったが、それでもじんわりと侵食していくような熱が愛おしくも思った。
「エメラルド?」
 なにも言わないでルビーを腕の中に囲ったエメラルドは、存在を確かめるように背に指を滑らす。いやらしい動きなどない触れ方は久方ぶりで、どこか緊張してしまったルビーは身体を強張らせた。
 張り詰めた空気がぴんと凍る。エメラルドの微かな吐息と心拍に耳を傾けながら、ルビーは得体の知れぬ緊張感に包まれていた。
「……お前は、いつだって熱いね。焼け焦げそうになるよ」
 あまえている風を装って、エメラルドはルビーの首筋に顔を埋める。軋むほどに抱きしめられて少し痛みを伴ったが、珍しくも弱みをみせているエメラルドにルビーはらしくもなく場違いにも胸をときめかせていた。
 救われない愛が、こうして終わることをまた諦めてしまう。
 必要とされればそれだけで胸が歓喜に騒いで、変わりでも代用品でもなんでもエメラルドが触れるだけで特別な存在にすら思えてくる。
 愛だの恋だの、今でもルビーは良くわからない。サファイアが馬鹿にしたようにお子様のままなのだろう。狂気なまでのエメラルドに傾ける執着だけが、浮いては二人を深淵に落としていくのだ。
 救いの手など必要としていない。ただエメラルドがいれば良い。そんな風にどうしようもない思考に囚われてしまう日がこようとは思いもしなかった。
「エメラルド、俺はどこにも行かないから」
 抱き返すように指を背に乗せて、離れないよう力を込めた。小さく笑う気配が側から聞こえて、落ちるだけしかなりえないこの関係をそれでもエメラルドは必要としている。
「……ルビー、お前の方が狂ってんじゃない。趣味が悪いって言われるでしょ」
「それをエメラルドが言うのかよ」
「だって、俺みたいな宝石とか死んでもごめんなんだけど。どこが良いのかさっぱりだね。顔だけしか取り柄ない。しかもこの宝石箱じゃ、顔の美醜なんてものは関係がないよね。総じて美しいものばかりなんだから」
「それでもエメラルドが一番きれいだよ」
「はっ、ほんと呆れたよ。お前には」
 ぐるりと姿勢が入れかわる。エメラルドは起きあがるとルビーを身体の下に押し敷いて顔を覗き込んできた。暗がりの逆光だ。なにも見えない。仄かな月明かりに光る瞳の色だけが、ルビーの瞳には映された。
 熱いくらいの体温に焼かれてしまう。エメラルドは爪先でルビーの下唇を押したかと思えば、潜めた声で尋ねてきた。
「ダイアモンドと、どっちがきれい?」
 主君たるものを貶す言葉をもちえていない御三家にそれを聞くのも酷な話だ。それでもエメラルドも、ダイアモンドも、そうしてルビーも、答えなど聞かなくてもわかっていた。
 だからこそ尋ねては音にさせて、優越感を覚えている。エメラルドも同じ穴の狢だ。
「エメラルドに決まっているだろ」
「その唇が紡いだ言葉、ダイアモンドが聞いたら殺されるんじゃないの」
「どうだろね。ダイアモンドは許してくれるんじゃねえのかな」
「許すかもね、お前だけ。まあ良い。目覚めさせた責任くらいはとってくれるんでしょ」
 不埒な動きをしてみせる指先に逆らう意思など存在していない。ルビーがその指を熱い舌先でなぞると、誘うように真っ赤な口腔へと呑み込んだ。
 早くどうにかして。壊れてしまったルビーを砕いてほしい。もうどうにもなりはしないのだったらどうにかなる選択もないのだから、ああ、もういっそうのこと、この腕の中で殺されたい。