お狐様のいうとおり 03
「犬神はん、もうねんねしはったんかえ? こないなもんやあらしまへん。もうちょっと辛抱してもらわな蠱術でけへんやん。うちずうっと憧れてたんえ。そない楽しいことあるんやさかい、一度くらいしてみたいと思うても可笑しくはあらへんやろ?」
 その言葉に項垂れていた犬神がぴくりと反応した。大袈裟に震えてみせる瞳はなにを映すのか、小さく唸るとこんな状況にあるというのに反抗するような形で楯突く。
「あんな呪いを……信じていると申すのか? 我は蠱術で生まれた忌まわしき存在などではないっ。あんな馬鹿げたこと……人間の傲慢が生んだ因習だ」
「せやかてその言い伝えがあるいうことは、嘘いう訳にもいかへんのちゃうえ?」
 ぐっと噛み締めて湧き上がる怒りを静めようと拳を握った。玉藻前が軽快にいう口車に乗せられて逆上しては喜ばすだけにしかならないだろう。それは得策とはいえない。
 ここで犬神がなにを言おうとも、玉藻前は犬神で蠱術することを完遂する。なにがあってもやり遂げる。そんな気がした。
「なあ、犬神はん……あんさんかいらし顔してても大妖怪や、それはうちもよおわかっとる」
 焼け爛れて黒くなってしまった火傷痕をそうっと押された。神経さえも焼けきられたそこは既に痛みを感じなくなっていたが、炭になった奥に隠れている肌は未だ生々しい傷跡を残したまま。鈍く伝達を広げ、無傷な神経を抉った。
 じゅくりと爛れた肌に爪を当てられただけなのに、情けなくも犬神は全身を震わせると痛みに鳴いた。
 どうしてこんな目に合わなければならないのか。その疑問すら問えぬまま抗えない相手に拘束されている以上、犬神が抜け出せる道は飽きるのを待つしかない。
 大人しく、大人しく、そう興味が失せるような人形になりきれば終わるのだろうか? だけどそうなればなるほど玉藻前が残忍さを増やすことなど、今の犬神には知る良しもない。
「南海道で流行っとる蠱術のやり方は犬畜生に限ったことやさかい、大妖怪の犬神はんには通用せえへんと思うとるんやけど……犬神はんはどない」
「……我は蠱術など大嫌いだ。あんなやり方をすれば犬でなくとも呪いが生じる。人とは愚かなものよ、それに気付かぬままときには有難いものとして崇めるのだからな……」
 忌々しげに吐いた言葉に、玉藻前はふうんと唇を尖らせると思案を巡らせた。
 蠱術というのは名の通り呪詛である。犬神がきらいをみせている南海道で賑わっている蠱術といえば、やはり犬神作りだろう。人々は犬神憑きと蔑む一方で犬神作りに勤しみ有難がる不思議な生きものだった。
 やり方は簡単だ。いろいろな説がある犬神作りであるが、一番有名なのは犬を首だけ出した状態で生き埋めにするか、もしくは支柱に括りつけ、届きそうで届かない位置に餌を置く。
 そうして餓死する瞬間までその状態で放置し、餓死をする一歩手前でその犬の首を切り落として骨になるまでその首を焼けばその人に犬神が憑くといわれている。
 極めて簡単に妖怪が形成でき、尚且つ守り神ともなると南海道では真しやかに囁かれていた。
 その興味深い歴史に好奇心を擽られたのは、南海道に只ならぬ思いを抱いている玉藻前だ。目前にいる犬神や、犬神が支配下においている犬神たちが人如きの呪いで形成して生まれた犬神ではないと知ってはいても、それでも根深く信仰されていることに興味は失せない。
 力の弱い存在でも呪詛という形で成り立ち、有り得るからこその犬神の拒否反応ではないのだろうか。玉藻前の知らぬところで何度も苦渋を飲ませられてきたに違いない。
 だけどそんなことは玉藻前に一切の関係もなければ、同情をひくようなことでもなかった。
「嗚呼、でもしてみたいん。うちかて神通力や妖力使わずに、呪いっていうもんやってみたかったんえ」
「っ、それごときのために我の体を使うと申すのか!」
「ええ実験体や思いまへん? 犬神作り体験なんて滅多にできるもんやあらへん。どないしよか……従来通りのやり方じゃあ、あんさん耐えられそうやし、殺してしもたら意味なくなるもんね」
 ぞくり、と犬神の肌が粟立った。犬神作りの蠱術とは殺して初めて成り立つ呪いだ。だが殺さずにやる、となれば殺されるも同然の苦しみを味合わされるはめになるのか。
 相手は言わずと知れた玉藻前である。妖怪界では知らぬものなどいないほどの大妖怪。犬神など南海道の長になったからといって足元にも及ばない。
「たった三日間の余興や。それぐらい、犬神はんやったら我慢できるやろ……?」
 恐怖で縮こまった犬耳に玉藻前がそうっと囁いた。甘いようでいて、毒を含んだ絶望への近道の言葉が余計に恐怖を煽る。
「犬神はん大食らいなんやてね、でも三日間じゃ物足りんわなあ。仮にも大妖怪や、餌抜いたくらいでどうにかなってたら生きてかれへんもんね」
「玉藻前……」
「かといって暴行したり遊んだりするんやったら、蠱術やのうて違うもんになってしまう思うんよ。なあ?」
 伸びた爪が首筋をなぞって、首輪を嵌めている喉元を掴んだ。ぎりぎりと優しく締め上げるそれは息苦しさよりも、玉藻前が全てを掌握しているのだと知らしめる行為にも思えた。
「まあだけど所詮はお遊びや。蠱術紛いでもかまへん。うちのやり方でやらせてもらうさかいに、あんさんはただうちに身を任せて死なんようあんじょうおきばりやす」
 尻尾の付け根を強く捩じり上げられる。獣紛いの妖怪にとって肉体よりも神経が集っている尻尾は弱みでもある。神通力を溜め込んでおける場所でもあるからか、乱暴な扱いをされれば激痛が走る。
 唸って体を倒した。痛みに悶え吠えれば、満足そうな玉藻前が嗤う。少しでも逆らえば倍になって返ってくるというこれは確信だ。
 だから犬神はどれほどの屈辱を覚えても、痛みに苦しんでも、なにがあろうとも三日間が過ぎ去るまでただ耐え忍ぶだけにしようと決めた。それが犬神の、生きる道。
「三日間、じりじり追い詰めて成功させますさかいに期待しとって? 忘れられん日々にしてあげるえ」
「……ど、うして……我なの、だ。玉藻前とは、関係のない……ではないか」
「犬神はんが憎うてこないなことしてるんやあらへん。恨むんなら、生まれを恨み言うたやろ? あんさんが、そうやな、南海道の妖怪じゃなければこないなこと、きっとなかったやろうに……お気の毒様」
 玉藻前の尻尾が四本から九本に増えた。まわりを覆っていた空気が禍々しく変化し、悪狐のものへと変わる。これが玉藻前の本当の姿、稲荷山で仮初の善狐の姿は所詮表の顔に過ぎないのだろう。
 全身を駆け巡る悪寒が止まらない。妖怪としての絶対なる圧迫感が、犬神を縮こまらせていた。所詮長に選ばれたといっても犬神は田舎妖怪。それほど力がある訳ではない。
 そもそも南海道の妖怪に選ばれたのだって、皆が嫌がって辞退したからなのだ。本来ならば一番力のある隠神刑部の狸爺がやるはずだったのに、面倒臭がって犬神に押し付けた。南海道でそれなりに信仰がある妖怪だからと、理由をつけられて。
 悪い気はしなかったから許諾したもののこんな裏があったのか。知っていればやらなかった。こんな目に合わずに済んだ。
(あの狸爺のことだ、千里眼でも使ったのか? 散々だな、……我はこんなとこで朽ちるのか……)
 恐怖という名の感情に呑まれ過ぎていた犬神は、呼吸困難に陥った。玉藻前は敢えてそれを狙ったのか、優しく犬神の肌に触れる。
「これはほんの序章や。まずは環境から整えますえ?」
 扉も窓もない、陰険な部屋に灯されていた申し訳程度の狐火が消えた。そう思えば直ぐに部屋を囲むようにしてぐるりと壁側一面に蒼い狐火が灯る。涼しげな色合いとは違い、その炎は身を焼け焦がしそうなほど熱かった。
「あつうてあつうてしゃあないようになるわ、これから。この狐火は特殊なもんでな、色は綺麗やけど触ったら骨まで焼き尽くす業火になる。触れんでも空気を焦がし、温度を上げ、息苦しさにのた打ち回るんえ」
「は……、っ」
「でもこの鎖じゃあの炎に触れて死ぬこともかなわんね。無駄な考えは捨てるんやで。そのうち喉が渇いてしゃあないようになる。それが蠱術の一つ、飢餓。厳密には喉の渇き、かえ? あんさん腹は減らんでも、喉は乾くやろうに」
 犬神が熱さから逃れようと体を捻れば、首から伸びた鎖がじゃらりと鳴った。その重い感触が煩わしく手でぐいっと引けば動くはずのない鉄の首輪がぐっと締まった。
「ぐ、ぁ……っ、なに、を……」
 呼吸が狭まる。ただでさえ熱気で呼気の確保ができないのに、首輪まで締まればたまったものではない。苦しげに喉を掻き毟る犬神に玉藻前は笑みを湛えて煙管を狐火に当てた。
「ああ、言い忘れてたえ。その首輪、触れたら締まる仕様になっとるんえ。無茶に外さん方が身のためや」
 会話をすることすら苦しいのか、鼻に皺を寄せた犬神は犬耳を垂れさせると床に寝そべり苦しげに息を吐いた。じいとしているだけでも体力が消費されていく。干からびていく。逃れる術も、なく。
「業火の熱さ、干からびる喉の渇き、容赦なく締め付ける首元。……あとはあんさんの矜持をずたぼろに壊して、うちに服従させるまで洗脳でもするかえ? それとも、ぎりぎりの線引きで弄んであげましょか……? 犬神はん、あんさんも厄介な妖怪に引っかかったもんやねえ。同情しますわ。嗚呼、嗚呼、お可哀想」
 朦朧とする意識は、酔わされているのかもしれない。意識が遠退いていく。どこか遠目に己の体を客観視しているような、浮遊感にも似た感覚に捕らわれた。
 犬神はゆっくりと肌を這う玉藻前の手を、抗う術もなく受け入れる。
「流石、腐っても大妖怪……かいらしこと」
 へたりと垂れ下がった犬耳に玉藻前の唇が寄せられたかと思えば、生温い感触がした。ざらついた舌でべろりと舐めたかと覚えば、鋭い歯で遠慮することもなく噛みつかれた。
 引き千切られたのではないかというほどの痛みが走って、体は無意識にびくりと大きく跳ねると逃げるようにもがいた。
「逃げられもせえへんえ? なあ、犬神はん」
 徐々に暑さの所為で汗ばみ始めた肌を玉藻前はゆるりと撫ぜると、朦朧としている犬神を見た。どこか焦点が合わずに苦しげに唸ってはいるようだが、意識はあるらしい。瞳の奥に隠された怒りが、消え失せてはいなかった。
 ここまでして自我を保っていられるのは流石大妖怪ともいうべきか。玉藻前が特別に調合した狐火は、同じ妖狐でも根を上げるほどの業火なのだ。これに耐えうるは玉藻前と、そうして仲間内のあの二体だけではないのだろうか。
 逃れようと無意識に床を這う犬神の手を取って、玉藻前は小刻みに震える指先に口付ける。
「犬神はん、褥での淫事は得意かえ?」
「……は、ぁ? いん、じ……?」
「ああ、その様子やと知らへんのえ? あんさん箱入り娘みたいやな。生娘っていうん……大妖怪なのに珍しもんやな。南海道ではそういう求められへんかったんかえ? 誰かに仕込まれたとか、教えてもろたとか、あるやろうに」
 些か不思議そうにそう言った玉藻前に対し、犬神はまわらない脳でその言葉を何回も繰り返していた。
 犬神とて初心といえどもそこまで馬鹿じゃない。淫事がなにを差すのかがわからないというほど世間知らずでもなかった。そういった経験はなかったが、そのような風習が人の間であることは知っている。
 それに感化され、妖怪がその真似事をしていることだって知識としてはあるのだ。
(だが、あれは……男女のまぐわいのはずだ)
 子を宿すために人にとっては必要不可欠の行為だと聞かされていた。交わりで子を成さない妖怪からしてみれば、縁のない行為だ。稀に人と妖怪が交わって半妖のような出来損ないが生まれてはいるものの、所詮は相容れぬ入れもの同士、子は直ぐに死んでしまう。
 犬神は楽しそうにこちらを窺っている玉藻前に対し、ゆるりと考えを巡らせてから言葉を紡いだ。
「知っては、いる……。ただ、あれは……人のすることだ。我には関係がない」
「あはっ、流石田舎妖怪! 天晴れと言いたいところやけど、へえ……そないなことなってんの……おもろいなあ、ほんま。初心な犬神はんに教えてやるさかいに」
「なに、を……っ」
「淫事いうんはなにも人同士に限ったことやあらへん。妖怪同士もしますえ? それに男性体同士だって可能なこと、犬神はん知らんやろ? 一度覚えたら癖になりますえ。うちがやさしゅう教えたりましょ」
 暗がりの中で玉藻前の赤い瞳がぎらりと光った。まるでその光に拘束されたかのように体がいうことを聞かなくなる、動かなくなる。
 玉藻前が言う淫事は、きっと淫らで気持ちの良いことなのだろう。純粋に素直に教えを乞えばそんな有り体のことだと思う。
 だけどこんな状況下だ。痛みと苦しみと、そして抗えない快楽を植えつけて犬神の自由を支配しようとするはず。それに対し恐怖を心が訴えるが、もう犬神にはどうする術も残されてはいなかった。
 じりじりと肌の表面が焼き尽くされる。吐く呼気すら炎に呑まれてしまいそうな圧迫感。玉藻前の手が不埒な動きをみせようとも、その感覚すら犬神にはなかった。
 首に嵌められた首輪には妖力を抑えるものまであったのだろうか。尻尾に念じてみてもびくりともしない。少しでも楽になろうともがけばもがくほど、体から妖力が抜けていくようだった。
(これでは……嗚呼、本当に……蠱術をするつもりか……)
 忌まわしい風習だ。犬神にとっては忌むべき呪いでもある。馬鹿馬鹿しいことのためにどれほどの怨念を湛えた出来損ないが生まれ、人々に傷跡を残していったのだろうか。
 あんなものは廃れるべきだ。人如きが容易に手を出して良いものではない。そうっとしておいてほしい。見ようともしなければ、見られもしない存在だ。犬神にとっては関わるべき相手でもないのに。
 だけどどうしてだか、今では人によって苦しめられてきた蠱術を同胞の玉藻前によってなされようとしている。
「優しいだけやとつまらんかえ? せや、喉潰してしまおかなあ。息もできんよう鳴かせてやればもっとかいらしいなる?」
 涼しげな顔をして玉藻前は犬神の喉元を緩く締めると、出した舌で頬をべろりと舐めた。そんな悪趣味なことをしてなにが楽しいのか。
 玉藻前がいうように淫事ができるからといって、犬神の体など楽しくもないだろう。貧相で、貧弱で、玉藻前が持っているような豪華さも妖艶さもなにもない。ただの田舎妖怪だ。
 喉奥が圧迫される。狭まる器官、犬神ははあはあと細い息を吐き散らすと熱さと苦しさに眼を強く瞑った。
「かいらしなあ、ほんと……囲っておきたいえ」
 恐怖も絶望も、怒りも憎悪も、それすら消えかかるほど犬神にとっては地獄さながらの世界。なにもせず、ただ寝転がっているだけで喉は渇きを訴えて、体は逃げを打とうともがく。
 下手に大妖怪であることが仇となって、この苦しみから逃れられない強さが今だけは憎々しい。
 聡い玉藻前のことだ、力量を判断しての采配なのだろう。これは犬神専用の蠱術なのだ。名だけを借りた、忌むべき因習。
「へえ? 意外と手触りはええんやねえ。妖狐さながらかもしれんえ」
「あ、……う、っ」
「今の犬神はんじゃあ、これが痛いのか気持ちええのかもわからんのちゃう? 残念、うち淫事には長けてるえ、きっとええ気持ちにさせてあげることできたん」
 傷一つない犬神の胸元を、爪を立てた玉藻前の指先が這う。とても淫事の触れ合いとは思えないそれは、ただ悪戯に肌に赤い線を残していった。
「自慰はしはるの。妖怪といえど、淫らな気持ちになったことくらいあるやろ」
 耳元で玉藻前がそう語りかける。犬神の申し訳程度に結ばれてあった腰布を解いて、露になった中心を晒した。恐怖故かそれとも愉悦には届かないからか、まだなんの反応もみせていないそこはだらしなく萎えている。
 こんな場ではなにも感じないだろう。そう高を括っていた犬神であったが、玉藻前の指がそこに触れればひくりと中心が鳴った。
「く……ぅ……」
 鼻にかかった声が漏れる。訳がわからない状況下に置かれた所為の反動か、愉悦だけは直ぐに拾うらしいご都合主義の体だ。
 犬神は悔しくなって下唇を噛んだものの、強く触れられれば触れられるほどそこは硬さを増していった。
「かいらしこと。ここは素直やわあ。あんさん、自慰もあまりせえへんねやろ? あかんで、妖怪といえどそないなこと体に毒え。だからこんなうちが触ったらこないなことなるんえ」
「ん、……ぁ、あ……我に、ふれ……るな……」
「もう逃げられんって覚悟したらどうえ? あんさんも大概ひつこいなあ。まあ犬神はんの性格なんかもしらんけど、うちの好きにさせてもらうさかい精々三日間足掻いたらええわ。ぜえんぶ無意味やけど、ねえ」
 ぐ、っと強く中心を握り締められ、強い悦楽と痛みに犬神の体は大袈裟に跳ねた。腰を高く上げて愉悦を拾うとするが、その一方では痙攣が止まらない。
 たった一部に触れられただけで、体まで玉藻前に陥落してしまったようだ。なんとも情けない。