お狐様のいうとおり 05
 それを知った上で、言うのが馬鹿馬鹿しいと決め付けている鞍馬天狗も仕様がない。いつしかなにごとも諦めるということが前提になってしまっている。どれほど願っても得られなかったものが、たった一つあっただけで。
 口を閉ざした鞍馬天狗をどう解釈したのか、玉藻前は面白可笑しく唇を吊り上げると甘ったるい煙を吐き切った。
「所詮は同じ舞台ゆうてもうちらは相容れへん生きものえ。百鬼夜行があるように妖怪とて千差万別、考え方も生き方もそれぞれちゃう」
「ああ、そうじゃな」
「現に犬神はんは人を拒みながら恋うてる。あんさんは元は人間や。それに同じや思うてた酒呑童子も今や凶暴さを失って酒に溺れとるだけ。でもうちは違うえ。忘れられる訳がない、ずっとずっと恨んでたんえ。それだけで生きてきたんや! 人間如きに追いつめられたけど、あのときうちが出した殺生石で皆殺しにできたんえ! 陰陽師が邪魔さえしなければ……!」
 激情した玉藻前に同調するように、わらわらと生えた尻尾が九本になって悪しき空気を纏った。人のことになると感情の抑えが効かないのか、なにを言ってもその進行は止められない。
 鞍馬天狗は滲み出す瘴気に眉を顰めると、錫杖を縦に何度か振って軽い結界を張った。
「うちを見縊った罪は一生かけて償わしたる! 大人しいだけの狐じゃないんえ、よおくわからせたらななあ?」
「うぬはほんに執念深いのう……目をつけられた人間もさぞかし苦労するだろうに」
「今更なにを言うてはるん。うちは京全域の人という人を、何世代にも渡って祟ってやるまでや」
 眼下に広がるは、碁盤の目の京。帝が住む場所もなにもかもが一望できる素晴らしい景色だった。
 玉藻前はこの全てを掌中に収めて支配したいという。あまつさえ京だけでは留まらず全国をも、と。なんと強欲なのだろう。だけどそれがある意味純粋な妖怪のあり方でもあった。
 そうきっと鞍馬天狗も酒呑童子も犬神も、人間と関わり過ぎた。接点を持ち過ぎた。情を、置いてしまったのだ。
 ただ穢れを知らぬ玉藻前は、妖怪を守るという点では人以上に優しいものを持っているのかもしれない。偏った目線で見なければ。
「ほんに、人は愚かな生きものえ」
 厳かな空気にも似た空間が、風に揺らされた。玉藻前がそうっと瞼を閉じる。
「いもしない神を崇めてるんえ、それがうちとも知らずに。人間どもが祈り崇めてる神は、この玉藻前。殺そうとした悪狐玉藻前! なにも知らずになあ? 哀れな生きものや……同情すら虚しゅうなるな」
「うぬは……根性までひん曲がってるの」
「愛おしゅうなるわ。皆、口に出せなくなってるだけや。心の底から人を恋うてる妖怪なんておらん、おるはずがない」
 断言した言葉は、どこかそうあってほしいと思わせる玉藻前の気持ちにも似ている。
「なによりも弱いくせに、なによりも残酷。……取り得もあらしまへん。嗚呼、愛おしゅうて殺したくなってまうわな」
「……犬神も、か?」
 伏せていた瞼を上げる。玉藻前の硝子玉のような瞳にはなにも映っていない。鞍馬天狗は皮肉げに笑うと、玉藻前の横を通り過ぎた。
「夜も更けたな、玉藻前よ」
「……殺しはせえへん。ちゃんと帰しますさかいに」
「うぬが犬神に固執している理由が少しだけわかったような気がするのう。まあ、精々手加減を忘れずに」
「あんな田舎に稲荷がないのは気に食わんけど……まあ逆に田舎臭さが移っても堪忍やし、我慢したりますわ。面倒なことは嫌いやしな。鞍馬天狗、今回だけやで」
「恩に切る」
 後ろを振り向かずに去っていった鞍馬天狗に、玉藻前はそれ以上声をかけることもなくただ気配がなくなっていくのをじいと待った。
 天上に広がるのはどこまでも続く暗闇と、数え切れない星々たち。そこに住まうものからすれば、種族が違うとだけで争う人と妖怪はさぞかし醜い言い争いをしているだけにしか映らないのだろう。
 人が妖怪を悪と決めつけ己が領分を増やし続ける強欲さを持っているのなら、無闇に人を襲って食らっては弄んでいる妖怪はただ残虐なだけの生きものになる。
 きっと両分とも譲れない信念と思いがあるからこそ、永遠にわかりあえない。違った道のまま生きていくのだろう。そうしていつか世の中は、人が治める世界になる。
 鞍馬天狗は知りもしないだろうが、未来が見えている玉藻前にとっては現状がただなによりも腹立たしいのだ。未来は決して変えることができない。それを知っている。
 足掻いてももがいても、どう苦労を重ねても努力もしても、人がいつか君臨する世で妖怪は虐げられる。
(だからうちは足掻くんえ。どうにもなりはせんとわかってても、や。気持ちだけはいつだって人の上を生きていたいやん)
 堅城である稲荷の世界も、人から見えないだけで見えざるは焼き払われるのか。神であって良かったと思う前に、非力な人に勝てない力ばかりの境遇を恨む。
 嗚呼、だから帝がほしかった。天皇に挿げ代わりたかった。捻じ伏せる力ではなく支配できる力を。そうしたらきっと今よりも住み易い世界を創れたのに。
「うちも……歳を重ねてしもうたんかえ」
 感傷的になって自嘲した。虚勢を張るだけの相手はここにはいない。ただ静かなる闇が広がっているだけだ。
 玉藻前は煙管を口から外すと、鞍馬天狗とは違う方向へと足を向けた。ほんの少しだけ独りになりたかった。そうして考えたかったのだ。犬神を初めて見たときに感じた衝動と、どうにかしてやりたい残虐さと、虐げる度に沸き上がるどうしようもない愛しさの解釈を。

 山間から見える鮮やかな色彩が拡散して散りばめられる。薄れていく紺に混じるようにして朱が射して、光が少しずつ上がっていく。二日目の、朝が足音も立てずに忍び寄ってきた。
 犬神が訪れたのは夕刻だった。三日間などあっという間に過ぎ去っていく。寿命も記憶も果てのないほどに長い妖怪にとっては、取るに足らない時間。たったの、三日なのだ。
 こうしている間にも時は進んでいく。今日を過ぎれば、明日には帰る。犬神は四国の長へと、戻りゆくのだ。
「白狐はん」
 朝がくる。くる。静かな稲荷の明けに、眠たさからぼうとしていた白狐は玉藻前の声でびくりと意識を覚醒させた。
 妖怪とて一応は空腹を感じたり睡眠を欲したり愛を求めたりする。基本的な感情の回路は人と変わらない。居眠りしていたことに少しの気まずさを感じた白狐は口元を拭うと項垂れた。
「あ、あの……すみません」
「ええの、そんなこと気にせんでも。今日なにか大事な用会ったかえ? 緊急でせなあかんこととか、誰か訪問してくるとか」
「今日ですか? いえ、なかったと思いますけど……天狐様、お出かけですか?」
「少し、な。なにかあったら稲荷山に思念でも飛ばしてくれるかえ? 少しばかりここを離れるえ」
「わかりました。支度の方でお手伝いすることはなかったでしょうか?」
「ええ、ええ。大丈夫や。そない遠くに行く訳やあらへん。ちいとばかし見えへんところに行くだけやさかい」
 いつもにも増して機嫌の良さそうな玉藻前に、どこか言い知れぬ恐怖を抱いた白狐はそれ以上追求することをやめて頭を垂れると玉藻前を見送った。勘ではあるが、きっとあの犬神と時間を共にするのだろう。
 あれのどこに玉藻前が惹かれた、いや興味を持ったのか気になるところではあるがたかが白狐如きが踏み入れて良い領域ではないことは重々承知していたので、なにも言葉すら発さなかった。
 稲荷の妖狐は、利口が取り得だ。稲荷神社の門番を任された白狐なれば、全国総本山の稲荷大社の白狐なればそれはもう向かうところ敵なし。憧憬の目すら向けられる。
 煌びやかで幾重にもなる着物を引き摺って玉藻前はなにもない空間で忽然と姿を消した。残るは甘い甘い、玉藻前の煙管の香り。まだ玉藻前がいるかのような錯覚にもさせた。
「……さてさて、仕事じゃ仕事。稲荷の山は今日もなにもない。なにもない。なにも、ない」
 人型から狐の姿へと変わった白狐は廊下を勢い良く走っていくと稲荷山を下山する。仕事は稲荷の、大門番。誰にも譲れない大切な仕事だ。稲荷大社を守るのが、仕事。
 なにもない。なにもない。なにかあっては、いけない。なにかあるようなら、隠してしまうまで。消してしまうまで。稲荷の山へと。

 玉藻前は怠惰な動きで閉ざされた部屋へと舞い降りた。窓もなにもない、寧ろどこに存在しているのかさえわからない空間。湿った空気が頬を撫でる。虚ろな硝子玉のような瞳は、床に伏せっている犬神を映した。
「小さなもんやな」
 零した言葉にすら、反応をみせない。玉藻前のような大妖怪が目前にいても、犬神は二日目の早朝の時点でそれに気付かぬほど弱りきっていた。
 妖怪は神通力という特別な力を保持している。それは結界を練るのに必要だったり、人を脅したり殺めたり、誰かを傷付けたり、ときに癒したり、人からすれば有り得ないだろうとされている能力を発揮する源である。
 動物型の妖怪は尻尾に、人型の妖怪は体に、鳥型の妖怪は羽に、妖怪によって神通力を蓄えている場所も違う。玉藻前や犬神は動物型なので、尻尾に神通力を蓄えている。
 尾の大きさは力の多さにも比例した。現に玉藻前はわらわらと大きな九本の尾にたくさん蓄えている。だが犬神はどうだろう。ここに拝謁にきたときよりも、痩せ衰えてしまったようにも見えるほど頼りない尾をしていた。
 生きるために、それこそ必死になっているのだ。意識がない状態でも神通力を使って生命を維持している。それほどまでに苦痛を担わせているのがこの蠱術であった。
 玉藻前は床にうつ伏せになって浅い呼吸を繰り返している犬神の顔を覗き込む。苦渋が滲む表情は青白く、消えゆきそうにも見えた。薄らと掻いた汗と上下に揺れる体、漏れた熱い息だけが存在証拠。
「……犬神はん、そない必死になってまでこの世に生きる意味をもう見つけとるんかえ」
 尋ねても、答えはない。玉藻前が愛し憎んだこの世はなんと生き辛いのだろうか。変えてしまいたくなる。塗り替えたくなる。だけど決して玉藻前の掌中には入らぬ世界。
 犬神の世界は、どんな形をして、どんな色をして、どんな匂いがするのだろう。
 死ぬ瞬間まで、いや死んでからも生に執着をして蘇った執念の妖怪犬神。忌まわしきは生まればかりで、こんなにも小さくて脆い。玉藻前にとっては子同然のような弱さでもあった。
 薄い皮膚で覆われている瞼を擦った。開けば憎悪と恐怖に染まった鈍色の瞳が曲がった玉藻前を映し出すのだろう。それはそれで、愉しみも増える。
 玉藻前は犬神に蠱術をすることによって、真の意味でなにを求めているのだろう。わからずに、ただ悪戯に虐めているだけだ。
 犬神の尻尾を掴む。急激に力をなくしている所為か毛の乱れが目立つ上、手触りも良くない。反応すらしない犬神に退屈さを覚えた玉藻前はそろそろ起こすことにした。
 時間の猶予もあまりない。内に巣食ったものの正体が知りたい。逸る鼓動を押さえ付けて、尾の付け根を強く抓った。
「っ、ひう……!」
 甲高く情けない声が響く。起き抜けで状況を上手く把握できていないのか、どろりとした瞼を上げた犬神は痛みに縮こまると子供のような頼りない表情で膝を抱えて玉藻前から距離を取った。
 嫌だ、嫌だと心が叫ぶ。怯えだけを露にさせた犬神を可哀想だと思う半面で、どうしようもないほど虐げてしまいたい嗜虐心が沸き上がる。掌中に収めてどろどろに壊してやりたい。好きにしてみたい。
「起きたかえ?」
 ほろり、と意味もなく零れた犬神の涙が汗と混じって床に落ちた。
 一晩経ったことで状況をより現実的に把握したのだろう。理不尽さと過ぎた恐怖にどうすることもできず、耐えるにしても地獄のような時間に犬神の心はすっかり参っていた。
 だがこれこそ、玉藻前の狙っていた状況でもある。
「犬神はん、えらいかいらしいことしてうちにどないされたいんえ?」
 のっそりと近寄ればふるふると首を横に振る。極限まで追い詰められた犬神の心は今、全身で玉藻前を拒絶していた。それこそ絶好の機会なのだけれど。
 ひたすらに虐めたあとは、ひらすらに甘やかす。飴と、鞭。救いようのない世界に突き落とした本人であろうとも、救いの手を差し伸べれば犬神はそれに縋りざるを得ない。そうして待っているのは、どうしようもない落ちきった依存。
(かいらし、かいらし子。あんさんの全て、うちにちょうだいえ?)
 煙が燻っている煙管を犬神に近付けた。目に見えて震え出した犬神は逃げられもしないのに、目をぎゅっと瞑って犬耳を伏せる。完全なる支配に上がる口端、玉藻前はわざとらしく息を吐いた。
「阿呆やねえ、ここは、これが最後え……?」
 煙管を頬に押し当てればびくんっと激しく体が揺れる。犬神は呻いたが、思ったよりも衝撃がないことに気付いたのかおそるおそると目を開ける。
「……熱く、ない」
「狐火は調節できるんえ? うちの言うことを聞く炎やさかい、熱うくにもできるし冷たあいのにもできるん」
「なぜ、……こんなことを……」
 犬神の心の領域までぐっと狭まる。距離を縮めた玉藻前は犬神の犬耳を柔らかく食んだ。垂れ下がっているそれを優しく愛撫するかのような動きに、犬神が居心地悪そうに佇まいを直す。
 戸惑っているのがありありと、手に取るようにして伝わってくる。だけどそれでもその行為をやめず、ひたすら犬耳を優しく食んで舐め、ときに息を吹きかけてやった。
 親犬が子犬にするものに似ているのかもしれない。ふ、っと微量ながらに犬神の張っていた気が緩む。強張っていた肩の力が抜けたことを確認した玉藻前は、犬神の体を引き寄せるとそうと抱きしめた。
「犬神はん、四国の長になる言われたときどう感じた? やりとうないって? それとも、牛耳ることに悦を見出した?」
「は、はあ……なにを……いきなり」
「四国妖怪は変わったん多いいうけどほんまかえ? 京妖怪よりは、根性ましそうやけどねえ?」
「……玉藻前?」
「うちに教えてたもれ。朝はお勉強のお時間や。犬神はんのこと、もっと知りとおなってんえ……」
 少し寂しげに、だけどどこか甘さも含めて犬神にそう囁いてやった。孤独という環境に苛まれ続けていた犬神に効く甘い毒は、優しさだ。誰かに必要とされる、求められる、そんなことに滅法弱い犬神を玉藻前は利用した。
 案の定犬神の垂れ下がっていた犬耳が元気はないもののぴんと真っ直ぐに立った。期待を孕んだ鈍色の瞳に、悪そうな顔を隠して作った笑顔を乗せている玉藻前が映っていた。
(ほんにかいらしいて……どうしようもない馬鹿やね、このお犬様は)
 理不尽にあれほどまで痛めつけてやったことをもう忘れたのか、犬神は頬を綻ばせると言葉に色を乗せた。
「わ、我の話など聞いても面白くもないだろう……友もおらぬ。それに、……仲間も人の元だ。妖怪として縛られずに生きている犬神など我しかいないのだから」
「犬神はんは、使役せえへんのえ? ああ、そういえば言っとおたなあ蠱術で生まれたんやないて」
「我はその蠱術によって生まれた犬神たちによる、溜め込まれた怨念と生に執着する負の気が集って生まれた特殊な妖怪だ。だから、村八分で……誰も我のことなど……四国の長といえど隠神形部が面倒だからと押し付けられただけだ。力不足だと言ってはみたものの……」
「……隠神形部の狸爺」
 言葉にしただけで玉藻前は内から沸き上がる苛立ちで噛み千切ってやりたい衝動にかられる。古今東西狸と狐は対のように扱われてきたが、玉藻前からすればあんな汚らわしい見目のものと同類にしないでもらいたい。
 狐の方が知名度も力も美しさもある。だから狸はいつまでも田舎止まりで、狐は都がある京を中心とした全国なのだ。
「た、玉藻前……? 我がなにか、気を悪くさせるようなことを言っただろうか」
「……気にせんでええ。うちもな、ちいとばかし狸に悪い思い出があったんえ。ほんにあやつらほど図々しゅうて汚らわしく、生きる価値のない妖怪もおらんえなあ」
 嗚呼きっと四国の長が隠神形部の狸爺で、ここにくるのもそうだったら玉藻前はなにも言わず殺していただろう。これ幸いと。
 犬神を殺さないのは、どうしてだろうか。気に食わないのならそうすれば良いのに。座敷童子も、鞍馬天狗も、神さえも文句は言わないだろう。玉藻前にはそれだけの名分がある。