お狐様のいうとおり 07
 慣れない無体に体がついていかなかったのか、泥のように眠っている犬神を置き去りに玉藻前は亜空間から出た。まだ時刻は昼を少し過ぎたぐらいで、稲荷山はなにかと忙しく妖狐が走り回っている。
 昼間は稲荷神社総本山の方へ参拝に訪れる人も多いから妖狐としての仕事も多い。
 玉藻前は誰に気付かれることもなく己の結界内から外へと出ると稲荷山を降りた。こっそりと気配を消し見回るように歩けば、人には見えないだろう妖狐が人のまわりをうろうろとしているのが見える。
 どうしてあそこまで隠れることもなく堂々としているのにも関わらず、人には見えないのだろうか。
(うちのように妖力がたくさんないと見えんもんやろか……嗚呼でも故意に消したら見えへんようなるわな)
 愚か過ぎてどうしようもない。闇に溶け込むようにして現れる同属を化物と罵る口が、太陽の下に眷属されているというだけで神と崇める。
 人は妖怪を、妖狐を、玉藻前をどのような位置に置きたいのか。
 ぐるぐるとまわるのは犬神のことばかり。人に固執して人ばかり追いかけて、どうしてそんなに人を求む。
「……しゃあない、一回きりや」
 玉藻前はその場で詠唱を口ずさむと妖力を練って己へとかけた。婀娜っぽさを兼ね備えていた遊惰な玉藻前の姿はみるみる内に小さくなると、年端のいかぬ少女のような少年ともとれる曖昧な見目の童子へと変貌した。
 元より玉藻前は女性と偽って天皇を騙していたほどだ、変術には自信がある。体は紛うことなき男性体ではあるが、性別を騙すことなど造作もない。
 女性らしい婀娜っぽさも、男性らしい野蛮な仕草も、老人の老い耄られた姿や愛くるしい童子などなんにでも変わることができた。
 ただし欠点があるとしたら、人に化けるという時点で妖力がなくなってしまうことだろう。妖力を使うには元の姿に戻ることが条件となってしまうためにそこが少し厄介でもあった。
 だが見目だけでなく完全なる人になれるのだ、化けている間は。こんなに都合の良いものもない。玉藻前はこれ幸いと丈の短い着物の裾を引っ張るとにたりと笑みを浮かべた。
「ほな、行きましょか」
 誰に言う訳でもなく、玉藻前は稲荷山を降りると京の町へと繰り出した。
 都ともなれば厳重な対妖怪の結界が敷かれてある。忌々しい陰陽師ではあったが腕は確かで、悔しいが先手を打たれてしまった以上玉藻前ですらおいそれと破ることができない。むしろ不利な部分が大きい。
 だからといって妖狐のまま町へと繰り出せば結界に弾かれ中に入ることすらできない。だからこそこうして童子の姿で降り立ったのだが、結界内に入るとやはり嫌な気分に包まれた。
(流石というべきやろか……? 人に化けても根は妖怪か、そう長居はでけへんようやな……)
 きしきしと肌が軋むような圧迫感を覚える。妖力を断ち切って人そのものになっても、玉藻前用の結界がよほど強固なのか排除しようと微量の力で訴えてきた。
 玉藻前は用件だけをさっさと済ますことにすると、稲荷山に早々帰ろうと切り替えた。
 こんな童子のままでは襲われたときなにもできない。結界内から出ないと妖狐にすら戻ることもできないのだ。
 玉藻前は当初の目的であった人間界の都周辺の調査に乗り出すと、人の目を使って様子を窺った。
(天下の陰陽師とはこれ如何に。……牛耳ってるんは天皇やなく陰陽師ということか。嗚呼、ありえへんことでもないわな。うちかて天皇だけなら容易やったんに、もう人間界も終わりや)
 人でごった返す碁盤の道を宛てもなくふらふらと歩き回る。がやがや煩い喧騒の中、耳を傾ければ誰かの噂話や心の声が玉藻前の耳へと届いた。
 平安の世も終わりへと近付いて、いずれ都は新たな組織を作り大胆な改革を行なうだろう。天皇がどうなるかまではわからないが、そうなれば妖怪の世も少しずつ終わりへと近付く。
 ただでさえ陰陽師の動きが活発になって、妖怪退治に精を出しているのだ。このままでいけば力のないものは直ぐに消され、力あるものは恐れを抱いて隠居するしかない世へと変わる。
 玉藻前独りが頑張ったところで世はどうにも覆らない。闇の眷属全てが名乗りを上げ戦いに身を投じなければ妖怪が日の目を浴びて歩ける時代など到底やってこないのだ。
 だが最初からこうなる運命だった。闇の眷属だった時点で勝負はついている。所詮日陰のものは太陽には打ち勝つことができない。
 足掻き続けていても、どうしても無駄だった。あの日、玉藻前が失敗した時点で道は絶たれた。あれこそが唯一玉藻前に残された人間界を乗っ取る最後の機会だったのだ。
「……しゃあない、か。うちも興味が失せてしもたんやなあ」
 あれほど欲しがった京が今はどこか遠くに感じられる。喉から手が出るほどに欲した人間界への欲望もない。
 あの日なくしたのは届く手だけでなく、欲望も一緒だった。恨みだけが残ってしまったが、もう突っ走れる気も無茶をする気もない。するには危険が多く、そして護るべきものが増え過ぎた。
 ぐるりと京の町を見渡す。童子の視線は低く、空はどこまでも高く、そして人はあまりに多い。玉藻前の掌中に余るほどだ。
「犬神はん、……けどわからんのえ。うちには到底わかりまへん」
 どうしても、人とはわかりあえない。共存できない。光と闇は表裏一体だとしても混ざることは決してない。おのが主張を続ける限りは、未来永劫わかつままでいるのだろう。
 だから玉藻前と犬神も、わかりあえることなどない。玉藻前が強者として犬神を弱者として支配している内は、いや支配してしまったからにはわかりあえることもなく混じれることもなく、平行線を辿る。
 忌むべき存在で下等な生物としか見られない人を、犬神は心の奥底で求めている。愛して欲しがっている。共存したいと願っているのだ。
 どれだけ玉藻前が犬神を陵辱しても支配しても恐怖で従わせても依存させても使役させることができたとしても、犬神の奥底にあるものが変わることはない。不変の、愛。
 そう思うと、玉藻前は胸がちりちりと焼けるような不快な感情を抱いた。嫉妬にとても良く似た憎悪の感情は、不安定だった玉藻前の心を揺さ振ると暗示をかける。
(うちは犬神に蠱術をするんえ。そうや、せやから監禁したんやあらへんの。長年の恨みを晴らすために、うちは蠱術をせな……せなあかへん)
 わからなくなる。足元がぐらつく。時間にしてみれば一日にも満たないのにも関わらず、こんなにも感情を乱されている。可笑しくさせられている。玉藻前の玉藻前としての矜持が消えていくようで初めて恐怖にかられた。
 やらなければならないと義務化してしまえば元に戻れるのだろうか。犬神を初めて見たときのような、全てを踏み躙って壊してやりたいという気持ちを取り戻せるのだろうか。
 手元に置いておきたいなどという酔狂な考えを放り出せるだろうか。
 玉藻前とあまりに正反対過ぎた。存在も考え方も生き方も。だから教えてほしかったのか、知りたかっただけなのか、知っていてほしいのか、共に歩みたいだけなのか。
「はは、ほんに阿呆らしくてやってられまへん……。うちは誰や? そう、玉藻前。白面金毛九尾の狐、大妖怪や。こないなことでぐらつくようなたまではあらへんのえ」
 誰に宣言する訳でもなく玉藻前は己に言い聞かすように声を出して決意表明を改めると、内側でぐすぐすと燻っていた甘い感情を捨てきった。童子の見目を捨てるのと同様に京へと置いてきた。
 結界内を出て妖狐の姿へと戻り返る。どれだけ思案しようが玉藻前は闇の眷属であり、表舞台では歩めない。歩めないからこそ畏怖される存在でいなければならない。
 京の町を見て本当はなにを知り得たかったのか。なにを得てしまったのか。なにに気付いてしまったのか。それには蓋をして鍵をかけた。感化されただけということにしておいた方がきっと楽になれる。
 後ろ髪引かれる思いばかりが先立って歩みが遅くなる玉藻前を見ていたものは誰一人としていない。童子のような心許ない表情をしていたことも誰も知らない。
 稲荷山へと戻り返った玉藻前はいつも通りの婀娜っぽさで嫌味に笑うと、残忍さを認めた。そう、それこそが玉藻前の生き方でもあり気質でもありそのものでもあった。

 行くときはこっそりと見つからないように出た玉藻前であったが、帰るときは堂々と正面玄関から戻り入った。玉藻前は例の亜空間に篭もっていると、伝令を受けていた門番は玉藻前の姿を目に留めると瞠目して慌しく佇まいを直す。
「天狐様! あ、あの本日はあちらの方へ篭もっていると窺っていたのですが……」
「ああ、堪忍ねえ。少しばかり用があって秘密裏に出てたんえ。驚かしてしもたやろか」
「滅相もございません! お疲れでしょうか? 直ぐに上のものに連絡いたしますが」
「ええよ、直ぐ亜空間に行かなならんしね。それより変わったことはなかったかえ?」
「稲荷の山は何事もなく平和なままでございます!」
 びしりと言い切った門番の妖狐に玉藻前はにこりと笑みを浮かべると、ぴくりと立ち上がっている狐耳を撫ぜて中へと入った。
 愛くるしい妖狐の姿を見ただけで猛っていた心が洗われるようでもある。完全なる玉藻前の住処へと入ってしまえば、わらわらと妖狐が転がっているのだから堪らない光景でもある。
 纏わりつく子狐をあやしながら奥へと進む。未だ人化できない子狐などは、目に入れても痛くない。もふりもふりとした子狐が集団で固まっているさまなど正に全てを抱きしめたいほどの可愛さだ。
 うっとりと顔を緩めた玉藻前であったが直ぐに用件を思い出すと気を引き締め、中央間へと向かった。
 そこには何匹かの妖狐が忙しそうに紙の束を見ては確認したり、書き加えたりと、事務仕事に勤しんでいた。妖怪世界なれどそれなりに情報や情勢には気を使っているし、文などの交換も盛んに行なわれている。
 玉藻前の姿に気付くと皆一様に手を止め視線を向けた。
「うちのことは気にせんでやって。少し調べものしたら直ぐに出るし」
「ですが……お手伝いしましょうか?」
「大丈夫え。確認するだけや、そない時間もかかりまへん」
 言うや否や玉藻前は決まっていた本棚の前へと立ち止まると迷うことなく一冊の本を取り出した。犬神の呪詛を取り扱った本は少し埃を被っていたが、最近見たばかりとあってか綺麗に拭われていた。
(蠱術の作り方はもうええの。どうすれば犬神を)
 捲くる紙の音だけが玉藻前の耳についた。ある程度見た内容は何度見返しても変わることなく、新しい発見もない。玉藻前はやはりという落胆をみせると本と閉じて元に戻した。
 こんなことは足掻きにしかならないのだ。玉藻前はそう確認し終えると、きたとき同様颯爽と着物を翻し中央間を出て行った。
 足早に向かう先は限られたものだけが足を踏み入れることができる玉藻前の懐ともいって良い場所だ。妖狐の出入りは簡単だが、それ以外となると玉藻前の許可が必要だった。
 歩きもできない妖狐の子守部屋や、酒呑童子や鞍馬天狗の宴会場、玉藻前の私室、そうして玉藻前の作り出した亜空間に飛べることができる境界がある。
 一瞬だけ空気が震えた。玉藻前はそれを肌で感じると戻り返ったことを誰に言うでもなく、寧ろ出ていたことにすら気付かれていないのだ。そのまま口元を小さく動かして犬神を監禁している亜空間へと飛んでいった。

 玉藻前がここを去ったときと全く変わらずに犬神はそこにいた。
(……学習能力あらへんのちゃうかえ。うちに散々痛い目合わされたいうんに、たった少し甘やかしたらこうや)
 犬神の世界を脅かすものなどいないのだと、いわんばかりに穏やかな寝顔を晒して寝ている。緩くした所為か苦痛を与えるはずの狐火にも慣れた犬神は、体力妖力こそ底をついたもののなんとか辛うじて生を繋ぎとめていた。
 嗚呼そうだ、繋ぎとめているだけなのだ。所詮は死にかけで蠱術途中の哀れな身。死ぬことはないとわかっていても、死んだ方がましだと思わせるほどの苦行を強いられているのだ。
 最も今からこそが玉藻前にとっての本番でもある。蠱術とは関係なく、犬神の呪詛にすら関わりのない玉藻前独自の術式を犬神に施すのだから。
(さあ、おねんねの時間は終わりえ? 夜になれば呪詛のお勉強のお時間の始まりや)
 太陽が沈んで、月が顔を出す。闇の眷属が世に蔓延って己を主張しようと活気にならんばかりの空気がやってくる。支配するのはなになのか、玉藻前は狐火を強く灯すと犬神の首に繋がれてある鎖を強く引っ張った。
「う、あ……」
 寝惚け眼で犬神が覚醒した。起き抜けで状況を上手く把握できなかったのか、床に手をついてきょろきょろと視線を彷徨わせるが玉藻前の顔を見るとああ、と落胆の声を出した。
 輝いていた犬神の瞳から失せた光は、まるで太陽と同じようにこの世から姿を消した。闇が世界を覆うのと同時に訪れたのは絶望の色合いで、犬神は全てを把握すると大人しい人形のようになった。
 こんなことがしたかったのか、果たしてそれは如何に。玉藻前は考えることを投げ打つと、高らかに宣言した己の矜持だけで物事を進めることにした。どの道どうにもならない不条理しかない。
「今日が最期の夜やねえ? とはいっても夜を過ごすんはたったの二日やったけど」
 そう、それしかない。たったの、それだけの世界だ。
「明日にはあんさんは自由の身え? さぞかし待ち遠しいやろう。帰りたいやろう。それも少しの我慢や。過ぎれば笑い種にしかならへんのえ」
「……我は」
「犬神はん、お犬様やったら無駄口は聞かれへんのちゃうかえ? 嗚呼、うちもあんさんに口を与え過ぎたみたいや。明日まで無駄口叩かれへんようにしたるさかい」
 声を聞きたくなかっただけと、誰かが囁いた。玉藻前を揺らす全てのものから逃げたいだけかもしれない。それが犬神だというのだから信じられない話ではあるけれど。
 だけどどうしても問われれば、拒まれれば、なにかしら言葉を投げかけられるだけで玉藻前の信念が揺らいでいくのだ。
 例えばそう鞍馬天狗が変わったように、酒呑童子が変わったように、劇的に人格すら根っこから変えてしまう変化が玉藻前にも訪れることが怖い。怖い。怖かった。
「なに、を……っは、ぅ」
 首輪を引いてぶれない瞳を間近でねめつける。与え続けているのは玉藻前のはずなのに、一つも変わらない芯の強さをまざまざと見せつけられる。どんなことがあっても、犬神は誰にも変化させられることがない。あるとしたらそれはそう、忌むべき人。
(気に食わんのかえ? うちはそれが嫌だと申すのやろか? 犬神を変えたいと、うちの手で変えたいと、そう思ってるんちゃうの)
 そんな馬鹿なことがあって良いはずがない。玉藻前は自嘲すると恐怖を隠しきれない瞳に性悪く笑いつつ、犬神以上の恐怖に彩られている己の姿を見て震えた。
「うちは、うちや。未来永劫、白面金毛九尾の狐として生き、そうして死んでいく。誰の手にも汚されまへん」
 犬神の口腔へと手を突っ込んで舌を引っ張り出した。犬などは舌が長いが犬神はやはり人化している所為か、そこら辺りは人のものと変わらない。限界まで引っ張ると、苦しげに犬神が鳴く。
 これは対犬神用に作った玉藻前の術式だ。最もこんなことをされれば犬神じゃなくてもその行為自体でそうなってしまうのではないかという懸念もあるが、妖力を抑えるという取ってつけの役割もある。
 とどのつまりは玉藻前の安心を得たかっただけなのだ。
 舌を引っ張り出したまま髪の毛に挿していた簪に紛れ込ませていた金製の針を取り出した。幾ばくか太いそれは玉藻前の中指程度の長さしかない。一体なにに使うのか、思案したものの己の状況を試みれば直ぐにわかった。
 青褪める犬神に笑みを濃くした玉藻前は出したままの舌を舐めると、針を翳した。
「お利口な犬神はんやったらもうおわかりやね? 煩い口は塞ぎましょ。もう犬神はんに言葉を喋らす権利はあらへんのやから……堪忍ねえ、そうしてさようなら」
 出した舌の真ん中辺りに針を突き刺すと、犬神が大袈裟に体を揺らして痛みに悶えた。びりびりと全身を襲っていく毒のような正体がわからずに、意識すらあやふやになる。
 舌を突き抜かれた痛みよりも、毒による術式の方に心が痛んで仕様がなかった。声も出せなければ意識にすら制限がかかる。なにかを深く考えることができないのだ。靄がかかって、どうしようもない。
 虚ろな瞳で玉藻前を見上げたが、玉藻前は作り上げた笑みでこちらを見やるだけ。嗚呼、だけど、その瞳が悲しみで縁取られているのだけが犬神の心を掴んで離さなかった。