元々玉藻前は神通力、千里眼、妖術、呪詛など妖怪が特別に持つ力やある程度妖怪として成熟しなければ得られない特殊な力などのものを誰よりも多く所持し、そして自由に使うことができた。
悪狐になったときの容姿が良い例だ。巨大な九本の尾全てが玉藻前の神通力と考えると、底知れない力を秘めていることにもなる。
犬神のような一端の妖怪よりは上位だが玉藻前などの位から見れば下位の中途半端な存在では、玉藻前の施す呪詛に抗うこともできない。それを一心に身に浴びると犬神は頭を抱えて唸った。
「嗚呼、堪忍ねえ。直に苦しくもなくなるさかいちょっとの辛抱え」
玉藻前のわざとらしい声さえ遠くなる。犬神は視界が潰されると、脳味噌を直接握りしめられているような壮絶な頭痛に襲われた。
四股にも力が入らない。風を切った体は床に倒れ、起き上がることすら困難になる。もがこうと伸ばした手は己の自由では動かなくなって、とうとう瞼ですら犬神の意思が通じなくなった。
突き刺された針は未だ犬神の舌に刺さったまま。おそらくこれが全ての根源だろうが、抜くこともできない。
出した荒い息が脳に響いて全身がかっと熱くなる。びりびりと鈍く痺れるような感覚が指先にまで広がって、体を無理に引っ張られたり縮ませたりされているような感覚にもなった。
(嗚呼、もしかして……これは、この呪詛は……)
犬神の心にふ、と沸いたのは懐かしいものだった。全身を引き千切ってばらばらにされていくような酷い痛みではあるものの、どこか記憶にあるもの。
二度と経験などすまいとあのときは誓ったが、よもやこんな形で再び味わうことになるとは思ってもみなかった。
犬神の体が徐々に変化を見せ始め、全身に毛が生える。そのまま大きな獣の姿になるとどすりと床に倒れた。
「はあ、えらいかいらしもんやなあ……犬神はん、まだまだ子供やないの」
てっきりもう少しぐらいは大人だと思っていたが、犬神の体はまだ成獣になりきれておらず玉藻前のような大妖怪から見れば子獣も同然だった。特に玉藻前も獣化できるから余計にそう感じた。
犬神は人間体である玉藻前の身長を少し凌ぐ程度の体躯しか持っていない。散々痛めつけた所為か毛並みもどこか悪く、痩せ衰えている。色合いや見目は合格点といっても良いか。
強制的に犬神を犬化させた玉藻前は、長い舌を出したまま荒い息を吐く犬神を見下げた。
「どんな気持ちえ? 久しぶりに獣の姿になった感想は」
答えられる口も持たない。玉藻前は可笑しくなって笑うと、鎖を引いた。
「正にお犬様そのものやな。主人には従順にせんとあかへんえ? 最も噛みつく力も残ってないやろうけど」
そうっと閉じられた犬神の瞼こそが真実を物語っていた。
ある程度の力を持つことができる妖怪は、元の形に影響された見目になってはしまうものの人に化けることができた。完全なる人になるには玉藻前など変化術の得意な妖怪種族の上位くらいにならないと無理ではあったが、ある程度人の形を象れるだけでも立派なものだった。
獣や魚、鳥など妖怪そのものの形と違い人化したときの利点といえばやはり動きやすさと隠れやすさだろう。大妖怪になればなるほど早々に危険を察知し、逃げることも大事になってくるからだ。
そんな風に妖怪は人化できたが、一つだけ欠点もあった。それは一度人化してしまうとその状態のまま維持しなければならないということだ。元の姿に戻ることはもちろん可能だが、そうした場合また人化する際に多大なる妖力を労費してしまうのだ。
なのでよほどのことがない限り苦痛を伴う変化術を好んでするものもおらず、人化してしまった妖怪はその状態のままでいることが多かった。
犬神のように強制的に元の姿にされてしまう形でも、蓄えていた妖力を勝手に消費させられてしまう。ただでさえ玉藻前の蠱術で散々な目にあってきたのだ。ない力を極限まで減らされてしまい今や正に虫の息。
だけど下手に期待をしてしまうぐらいなら犬神はこのままで良いとも思った。汚らわしいものを見るような目で蔑まれるだけの、こんな姿のままで良いと。
誰にも好かれることのない犬神の本来の姿は、恐ろしくもあり、哀しくもあった。
(どこが痛いのか、わからないくらいに痛い……いたい)
もう、なにが痛いのか、苦しいのか、辛いのか、嬉しいのか、安堵するのかも麻痺している。
犬神の巨体に覆うように重なる影を感じて、犬神はそろりと重くなった瞼を上げた。
「犬神はんの首は、繋がっているんやね」
玉藻前が確かめるように犬神の前へと座り込むと首筋を撫ぜた。もふりとした首元は獣たちの噛み付きから守るために毛が多くなっている。それに加え玉藻前が装着した首輪まである。玉藻前はそれらを避けるようにして指を差し込むと、犬神の首の繋ぎ目に触れた。
蠱術で死に絶えた犬神は首を打ち落とされるからそう感じたのだろうが、妖怪化した時点で首は繋がる。飽くまで死に絶える姿がそれなだけであって犬神本来の姿ではない。
そう言いたいのに、口は動かない。犬神は悲しげに鼻で鳴いた。その折の玉藻前の表情があまりに無表情でぞっとした。
窓がない部屋、寧ろ現実世界と繋がっているのかさえ定かではない空間では時間も量ることができなかったが、獣化したことにより幸いにだが感受性だけが高くなったようだ。
丁度月が真上に昇る頃合だろうか。闇に眷属する身がほんの少し浮き上がって、犬神に力をくれた。
「……えらいたいしたもんやな、犬神はん」
そろりと上半身だけ起き上がったことに驚きを隠せないのか、玉藻前は触れていた指先を離すと険しい表情をする。
「まあでもなにもでけへんのはわかってるんやろう? 犬神はん、はようはようと鳴いてもあと少しの辛抱え。うちもあんさんも、あと少しや」
蠱術を完成させてなにを得たいのか。毒すら持てぬこの身こそが毒なのだと、玉藻前は知っているはずなのに。
獣化したことによって犬神の妖力は最大限にまで引き落とされたが、本来の妖怪気質のものを取り戻すこともできた。それは即ち犬神の体から出る禍々しい毒のことだ。
息を吐くだけで、存在しているだけで、犬神は毒を齎す妖怪だった。漏れ出したその毒は周りだけでなく犬神をも蝕む猛毒。故に犬神は人化することによってそれを防ぎ、抑えつけていた。
聡明な玉藻前がそれを知らないはずなどないのに、どうしてそこまでこの形にさせたがったのか。犬神の側にいるだけで玉藻前ですら毒に蝕まれるというのに結界も張っていない。
せめてもと、玉藻前を遠ざけるように鼻先で押しやればなにが面白いのか大笑いしてみせた。
「犬神はん、あんさんはどこまで己を犠牲にすれば気が済むんえ。うちがどれだけ考えてもちいともわかりゃしまへん」
「くう……」
「人のどこに愛すべきところがある? 裏切られて、利用されて、虐げられて、殺されて……あんさんの利点になるとこなど一つもありやしまえへんやないの」
犬神の舌に刺さっている針を玉藻前は引っ張った。痛みばかりが舌から広がるが、人化していたときに感じたような激痛も頭痛ももうない。ただの傷跡に成り下がっていた。
「犬神はんはえらい心が綺麗やけど、気質に対して心が綺麗過ぎたんかもしれへんねえ。うちには到底理解もできまへんけど」
指先が顔を撫ぜつけた。聞きたがっているわりには、自己完結しているようにも思える。
玉藻前は最初から犬神の言葉など必要ともしないのか、独りで問いかけては独りで解決してどこか言い聞かせているようにも思える。
「愛した花も、愛した獣も、愛した妖怪も……愛した人も、皆犬神はんの毒で死んでしもたんえ。犬神はんが愛そう愛そうと、触れる度に猛毒にやられて儚く散ってしまう。触れる前に消えてしまう。逃げてしまう。そないな現実に目を背け、己を殺したくなったんやね」
嗚呼、そういうことか。犬神の心を話す玉藻前に納得した。心を読まれているのだと。
「だけど犬神はんは力ばかり得てしもた際に人化して生き長らえた。そうして得たのは、触れることのできる幸せと……失った代償。ずうと心にあった人に対する欲求や。毒を用いるためだけに作られた存在が、毒を作り出そうとした人に存在を乞うて認めてもらいたあなって……嗚呼、ほんにあんさんは阿呆や」
撫ぜつけていた指先を離した。玉藻前は息を吐くと、やはりといった風に諦めにも似た表情をした。
「やはりうちと犬神はんは相容れへん。人は人でしかない。うちにとっては……価値のないただの入れ物や。犬神はんのように愛することなど到底できまへんな? だけど気持ちはわかったえ。うちが知りとおてしょうのなかったことや」
ぐるると鳴いた犬神に玉藻前はかどわかすような笑みを湛えるとそうと立ち上がった。
「万人通ずるものはありまへんいうことやな、犬神はん。うちにはうちの、犬神はんには犬神はんの世界と意識、知識がある。混ぜることも交わることも、理解して理解されることもあらへんのえ。それは覆りまへん」
狐火が淡く青藍なものから、轟々と燃える炎の色へと形を変えた。その炎は見目通り肌をちりちりと焼いてくるような熱さを訴えるものの、ある意味妖怪の姿に戻った犬神にとっては前より堪えれそうなものだった。
力ない巨体を持ち上げれば首元の鎖がちゃらりと音を立てる。か細い鎖だがこれを千切ってしまえるほどの力は犬神にはない。玉藻前の喉元に食らいつくことすらできない。
「嗚呼、残念え。犬神はん……ほんに、どないしよかねえ」
全てを諦めたような、そして悲しいのだと玉藻前らしくない表情をしてみせるものだから犬神の心がざわめきたって仕様がない。このまま行かせたらいけないと本能が叫んでも体が動かない。
玉藻前は長ったるい上に重々しい豪華絢爛な着物を翻すと、懐から取り出した煙管を口に咥えた。どこからともなく火が灯って、美味しそうに吸い込めばまた犬神の見慣れた余裕綽々の表情へと戻る。
綺麗に作られた仮面を被っているのだ、玉藻前は。そうして犬神から心を遠ざけた。
「もう犬神はんには、興味も失せましたえ」
深み入るようにそう吐き捨てて、玉藻前は背を向けた。きっと、玉藻前がいう蠱術の完成まで姿を見せないつもりだろう。だからこそ意味深ばかりなことを言う。
犬神が唸ってその存在を留めようとしても、玉藻前は見向きもせずに空間から消えてしまった。残されたのは轟々と燃える狐火と犬神だけ。玉藻前の名すら紡ぐことができない体で、獣の呻きを上げた。
施された蠱術も、首輪にかけられた呪詛もそのままだ。先ほどまであった温もりはもうない。残る香りだけが証拠となって燻り続けるだけ。犬神が地面に鼻先を擦りつければ、なにかが消え失せるように舌に刺さったままの針がすとんと床に落ちた。
(玉藻前……どうするつもりだ? 我を、我を……どうしたいのだ)
南海道の長になったという挨拶をしにきた犬神を、気に食わないというそれだけの理由で監禁し蠱術をしようと試みた。最初こそ殺したいほどに憎んでいたが、元より犬神の心は接触に慣れていない。ほんの少しの素顔と優しさだけで呆気なくも陥落してしまった。
今では玉藻前の温もりに安堵すらしてしまったのだ。どれほどの苦行を強いられても、どれほどの痛みを植えつけられても、初めて優しくしてもらったという記憶だけで犬神はそれだけで殺されても良いと思うほどに。
(我を捨てるのか、見捨てるのか。いつも皆そうだ。我を独りにする……)
孤独に苛まれるのなら、眠りにつきたい。目覚めることのない眠りに。幾夜過ごしただろう。孤独と戦い続けて、希望を見て、助けを求めて。誰も必要としていない身なら、いっそうのこと。
(嗚呼、駄目だ。駄目だ。我にも、護るべきものが、いるのだ。いるのに……)
くうんと寂しげに鳴いても、反応すら返ってこない。体を蝕む毒や徐々に憔悴させていく蠱術よりも胸が痛い。玉藻前に見捨てられたという事実が、なによりも痛かった。
次にまみえるは三日目の晩だと、犬神はないに等しい確信を持っていた。きっともう最期まで顔を合わせないのだろうと。だからこそこの見目にしたのだろうと。
たった一日の出来事だ。時間にしてしまえば取るに足らない時間。だけどそんな短い時間に、犬神は大切なものを見つけてしまった。
従うのなら、玉藻前なのだと。魂が訴える。
(……玉藻前の言う通り、我はどうしようもない馬鹿なのかもしれない。あれほど理不尽な目に合わされたというのにこの体たらくだ……可笑しくて笑えもせぬ)
鳴き続けても、体力が減るだけ。次第に鳴くことにすら疲れた犬神は体を丸めると、浅い呼吸を繰り返して瞼をおろした。
願わくは次に瞼を開ける再には最期の瞬間で、考える時間もなくて、気がつけば南海道へと帰っていて、そうしてつまらない日々を謳歌して息絶えるのだとそう思う。悲しいかな、そういう道筋なのだと。
犬神が遠吠えをいくらさせようとも届かない。亜空間とは現世界のどこにも繋がっていない場所。即ち玉藻前がどうにかせねば、一生出られないともいうべき場所でもある。
玉藻前が絶命してしまえばその場所も消え、その場にいた犬神も存在すらなくなると知っているのだろうか。
命を直で握られている状況で犬神は懐いた。玉藻前に、腹を見せたのだ。それがどうしようもなく怖くて、怖くて堪らない。全てを見透かしてしまいそうな瞳が玉藻前には恐怖だった。
亜空間から出てきた玉藻前は足早に廊下を歩くと先に突き抜けた。忙しく仕事へと奔走している妖狐さえ、見慣れぬ玉藻前の形相に驚いて立ち止まってしまうほど玉藻前は焦ってもいた。
なにがどうしてこうなったのか、それすらわからぬほどの焦燥感。立ち止まっていられるほどの状態でもない。説明をつけろと言われても、どうにも難しい。
(嗚呼、だからどうして! もう、堪忍して。どこまで従順になったら気が済むんえ)
玉藻前の脳にこびりついて離れない犬神が玉藻前に囁きかける。健気な瞳で、献身的な体で、自己愛な言葉で、玉藻前を追いつめる。まるでそう、弱者は己なのだと知らしめているような気にすらさせる。
焦り過ぎて世界が見えていなかった玉藻前の前に見慣れた足が見えた。ぎょっと驚いて立ち止まれば、相変わらず自由気侭に玉藻前秘蔵の妖酒を大胆にも呑んでいる酒呑童子が現われた。
「相変わらずじゃのう、うぬも。さて、如何なることでお悩みか? 儂が聞いてやろうぞ」
薄桃の髪が月に照らされ淡く光る。鬼随一の美を誇る酒呑童子はのっそりと体を起こすと、玉藻前へと近付いた。
闇に眷属する妖怪世界で長寿と力、名誉をほしいままにしているのが玉藻前ではあるがそういう性格ではないだけで酒呑童子も玉藻前と同じぐらいの世界を生き、力を保持している。
少々人間に対しやり過ぎた殺戮をしてしまった所為で痛い目に合い、それから大人しくしているものの牙はまだ鋭いほどに尖っている。
玉藻前は文句を喉まで言いかけて、大人しく留まることに決めた。酔った状態の酒呑童子ほど厄介な妖怪もいないからだ。
「あんさんも相変わらずやね、ちなみにその妖酒はうちの宝物やってわかっててやっとるんえ? 結界まで破ってけったいなことしてくれるね。ほんにあんさんとは気が合いそうにもないわ」
「儂をあの部屋に閉じ込めたことが祟ったな。世の酒は儂のものじゃ。文句も言えまいな?」
「……悪いからこそ、とも言うべきかえ? まあええよろし。鞍馬天狗じゃ話にならんえな。あの子もまだ若い」
遥かを生きた玉藻前と酒呑童子にとって、鞍馬天狗は下位に入る。それほどの時間を過ごしてきたのだ。世の酸いも甘いも知っている両人からしてみれば、腹の探り合いなどしても無意味なこと。
酒呑童子の大らかな気にあてられて、玉藻前はらしくもなく笑みを零すと手に持っている酒を奪い取った。
「これはうちのもんえ。もうあげまへん」
「そういうとこをいけずと言うんじゃったかのう?」
「そうや、いけずって言うんえ。うちはいけずな上に腹の読めんいけすかない妖怪えな」
自嘲した玉藻前に、酒呑童子は真面目な顔付きになるとしみじみといった風に言葉を吐いた。腕を組んで視線を遥か向こうへと追いやる。月が下がった空には夜明けが今か今かと待ち構えていた。
もう直ぐもう直ぐ、朝がくる。三日目の朝が。終わりの、朝がやってくるのだ。
「……策は失敗というとこか。うぬが張った罠に引っかかってしもうたか? 慎重にし過ぎたのが仇になったか、もしくは出会う前から既に決まっていたのか……まあこうなるべきものじゃったのかもな」
「もううちには関係あらしまへん。結果だけ見て終わりがくるのを待つだけや」
「そう思うとらんくせにのう。玉藻前、直に答えは出る。今うぬがなにを考えていようとも、いざ直面になってしまえばどうにもすることなどできやせんのだ」
「嫌やわあ。ほんに……ほんにあんさんとは気があいまへんな」
眉を下げて目を細めた玉藻前の表情が、月夜に映えて酒呑童子は嬉しくなった。