ラミアと出会ってから幾夜も経たないうちに巡った好機。運命の導きはそう遠からずの場所にあったようだ。
にこにことしまりのない笑みを浮かべたディダーリが、両手を揉み込んでセーレ宮殿を訪問してきた。予感がしていたのでシャヤール自身は然程驚きはしなかったものの、文官長などは目に余るほど警戒心を露にしていた。
シャヤールとていけ好かない相手ではあるがおくびにも表情には出さない。これも王としての勤めのうち。
以前訪れた際は選りすぐりの美女を献上しようとしていたが、素気なくシャヤールに断られたことを覚えていたのだろうか、此度の贈りものは目映いほどの貴金属や装飾品、織物などの無難な品であった。
食物になれば毒の心配があり、人間だと門前払い。ならば害がなく価値のある現物資産にしたというところか。シャヤールに追い払われないよう先手を打ってくるとは余程なにかを成し遂げたいようだ。
一体なにを企んでいるのやら、乗ってやることも面倒だ。玉座からこうべを垂れているディダーリを一瞥し、気が乗らない態度を滲ませつつ手を上げた。
「顔を上げよ。此度の献上品、ありがたく頂戴するとしよう。狭い宮殿ではあるが貴殿の部屋も用意させていただいた。長旅で疲れているのであれば一晩宿を用意させていただくが如何か?」
「ははあ、王よ、その優しさ傷み入ります。是非その恩遇に甘えさせていただきたい」
「ならば早速用意をさせよう。……さて、それでお前の用はなんだ。まさか俺に貢ぐためだけに宮殿を訪れたのではあるまい」
「流石とお見受けいたします。王よ、あなたさまに是非見ていただきたいものがあるのです。今夜私めが宴を用意させていただくのでどうか招かれてはくれませぬか?」
鋭い視線がシャヤールを見据える。左右からちくちくと痛いほどに刺さるのは、小言ばかり言う右大臣と、慎重過ぎる左大臣だった。言葉にしなくても言いたいことがわかってしまうのは今まで散々口酸っぱくして言われてきた賜物なのか。
シャヤールは即答しそうになったところを止めると、悩んでいる素振りをみせてディダーリを焦らせた。
「なにか不都合がございましたでしょうか?」
歯切れの悪い態度を示し、シャヤールは背もたれに深く背を預けると不承不承な態度で頷いた。
「……ディダーリの申し出はありがたいが、王としての立場もあるのでね。悪いが宴の給仕や食物はこちらで用意する。それでも良いというなら是非開いていただきたいのだがどうかな」
「それは構いません。王の住居である宮殿に滞在許可を得ただけでなく、宴を開ける機会も設けさせていただけた。それだけで身に余る光栄です。王を楽しませることができるよう全力を尽くします」
「ああ、楽しみにしている。左大臣、ディダーリの手伝いをしてやってくれ。手を煩わせるがよろしく頼む」
王としての有り体な対応に、控えていた家臣は皆がほっと安堵したように息を吐いた。ディダーリから妙な申し出をされたとき、きっと王ならば疑うこともなく許可を出すと思われていた証拠だ。現に出していただろう、きっと。睨まれさえしなければ、なにかあっても対処できる自信故にほいほいと安請け合いしたのが容易に想像できる。
(しかし余裕だな。なにか裏があるのか……)
セーレ宮殿の人の手を借りることになっても構わないという。本当にただの宴なのだろうか。シャヤールはてっきり宴の最中になに嗾けてくるとばかり思っていたのだが、これではなにもできないはず。
シャヤールは数人のお供を伴って左大臣と共に出て行くディダーリの背中を見つめてぼんやりと思考を巡らせた。
「……どうしたものか」
このタイミングでディダーリが訪れたとなれば、確実にシャヤールを貶めるか取り入るかになるだろう。なんらかのメリットで近付いてきているはず。ディダーリの秘策を用いて今までと同じようにマハルーン国まで食おうとしているのか。
噂となにか関係があるのかもしれない。ディダーリの宝物が関わる噂となにか。
(まあ良い。この隙にディダーリの身辺を詳しく洗わせるか)
ラマハン国の領主といえどもディダーリの悪行は目に余る。これ以上手が進むとマハルーン国にも影響が出る。そうなったときには既に遅いのだ。なる前になんとかしなければいけない。
ディダーリの悪行を洗いざらい掬い上げ事実として叩きつけて、捕らえなければならない。当面の目標はそれにしようか。
「王よ、今宵の宴に私も参加して良いかな」
王室から余所者がいなくなればこれ幸いと、隅で大人しくしていたシャバードがはしゃいだ声でシャヤールに問うた。
「別に構わん。だが女には手を出すな。ディダーリの宴とあらば迂闊な真似もできないからな」
「玄人を呼んで侍らすのはどうだい?」
「玄人も侍女も、だ。まったくお前は煩悩しかないのか? この時期に現われたディダーリの企みを探るだけで疲れるというのに、お前の話を聞いていると馬鹿になりそうだ」
「ディダーリの企みねえ。……ああ、だけどある一時から急激にディダーリの元に権力が集るようになった話は知ってる? 元から領主としてラマハンでの地位はあったけど、今よりは強大じゃなかった。普通の領主だったはず」
「そういえばディダーリの金回りが良くなった頃ぐらいか? ラマハン国内でも内輪揉めが多くなって国としての機能が弱っていったな」
まさにディダーリが全てを奪い尽くしているような錯覚にすらさせる。ラマハンが国として動かなくなったところを上手い具合につけ狙い、今や一領主であるディダーリこそがラマハンの舵をとっていると聞いた。
おそらくはもう潰えるしか未来のない国でも、搾りかすまで啜るつもりだろう。となればマハルーン国に頻繁に出入りし、シャヤールの機嫌を伺ってばかりいるのはマハルーン国庫を狙っているということも考えられる。
気恥ずかしいことだが、シャヤールは賢王である自負があった。おいそれとディダーリ如きに足をとられ、失脚するほど脳が足りてない訳ではない。誰かの意見ひとつや財宝で目が眩むこともありえない。
考え過ぎの脳が考えることを放棄したのか明後日の方向を向いたシャヤールに、シャバードは更に言葉を重ねて玉座の肘掛に手を置いた。
「宝物の話は覚えている?」
「ああ、先日それらしき男と会ったな。酷く見目麗しかったが……なんというかただの青年にも見えた」
「いずれその正体に気付くだろうね。ディダーリはあれを使って権力を集めている。可笑しな話だと思わない? 美しいだけの奴隷がどんな人間も虜にして財を食らうというんだから。彼らには秘密がある。俺はそれが知りたい。王もそうだろう?」
「……まさか本当にイフリートとでもいうのか」
「イフリート? 精霊のことかい?」
「いや気にしないでくれ。全ては今夜明らかになる。ディダーリがどんな宴を用意するのか楽しみに待っているとしよう」
寓話の伝説だ。イフリートもジンも。この世界のどこかに存在はしていても、それは決して人間如きが踏み入れることのない領域にいる儚い生きものだ。
シャヤールはこの目で見てみたいと切望する一方で、見られないとわかっているからこそ惹かれているのだ。
ふつりと脳裏に浮かんだラミアが、笑ったような気がした。笑顔など見たこともないけれどこんな風に笑うのかもしれないと思った。
俄かにセーレ宮殿がざわつくのを肌で感じていた。シャヤールが奔放的な性格で暇さえ見つければ宮殿を抜け出し、バザールを練り歩きながら身分を隠して民と触れ合うことが好きなのは皆が知っていること。
しかし可笑しな話ではあるが、シャヤールは政治的な立場からいえば鉄壁の処女と揶揄されるほどに他人を受け入れることがない王としても有名だった。
元よりマハルーン国を大きく発展させようとは考えてなどいない。この領土を保ったままで良い。民が恙無い生活を送れるための努力は惜しまないが、金銀財宝がほしいだとか権力をもちたいだとか、王ならば一度は見る夢をもつことすらしないある意味質素な考え方だった。
外交の場で美味しい話を嗾けられても首を縦に振らないシャヤールは欲がない奴と笑われることはあっても、誘惑に揺らぐことがないとして手堅い信用を得ていたので無難な立ち居地に収まることができていた。
そんな王がディダーリを宮殿へ招き入れただけでなく、滞在を許して宴まで開かせるというのだからセーレ宮殿はその話題で持ち切りだった。
給仕や侍女が慌しく奔走するのを傍目にシャヤールは宵の口まで、文官長にせっつかれながら政務に精を出したのであった。
夜鳥が鳴く。闇夜に映えるのは轟々とした炎。生きているもののように不可思議な動きをし、見続けていれば瞳に火が宿るやもと思わせるほどの目映さである。シャヤールは微かに熱を感じる程度の距離に腰を据えると、果実酒を煽った。
ともあれ無事にディダーリの宴は火蓋を切って落とされた。なにを企んでいるのやらと懸念していた心持ちが、肩透かしを食らった気分だ。
左大臣に内情を尋ねてみれば殆ど用意をしたのはセーレ宮殿側であり、ディダーリといえば資金を提供しただけというではないか。
「シャヤール王、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
シャヤールの元に訪れ酌をするものも、セーレ宮殿の侍女ばかり。宴を楽しんでへべれけになっている家臣やシャバードの緊張感は一体どこに消えてしまったのか。
呆れ半分に冷やされた果実へ手を伸ばせば、すっと影が差した。
「シャヤール王」
きたか、と思った。むしろ待ち草臥れていた。ディダーリが本題であろうことを持ち込んだのは、宴も随分と更けてからであった。
辺りに酒の匂いが蔓延している。頭の固い家臣のガードを少しでも緩くしておきたかったのだろう。後ろで控えている武官たちは構わないとなると、頭脳でくるとみた。
シャヤールはゆったりとした気振りで顔を上げると、如何かと首を傾げた。
「ディダーリよ、此度の宴の開催まことに感謝する。最近はなにかと宮殿内に篭もりっぱなしでね、些か退屈な思いをしていたんだ」
「それはそれは光栄でございます。しかし私が本当に見せたかったものは、宴などではございません。聡明な王のこと、もう私の噂は耳に入っているのでしょう? 宝物と称された奴隷を寵愛しているという噂を」
「ああ、傾国の美女も敵わない美しさだと聞いている」
「その通り! 彼は青年でありながら人離れした美しさを誇る踊り子なのでございます。彼が踊れば見るもの全てを魅了してしまうほどの色香の持ち主……シャヤール王には男色の気はないとお伺いしておりますが、一度舞をご披露してもよろしいでしょうか? そのあと閨に同伴させましょう。女人と違って囲う必要もございません。もちろん奴隷なのですから、お好きにしていただいても構いません」
なんとまあ下世話な話か。文官長辺りが耳にしていれば卒倒しそうな台詞でもある。シャバード辺りは大喜びするかもしれないな。
マハルーン国に滞在している身でありながら、その先の王に軽々しく言う発言ではない。身分を誇張して威張るつもりなど更々ないがこの言い草にはシャヤールも良い気はしなかった。
(まあよほどの自信があるのだろうな。天狗になるのも頷けるほどの)
数々の船を沈没させてきたセイレーンを司った気でいるのだろう。宝物を持ち出せばシャヤールも骨抜きになって取り込むことができると考えたのか。思考が浅はか過ぎる。
シャヤールは思い止まると納得した。そうか、これが可笑しな点だ。
これほどまで大見得を張るということは、必ず成功するなにかがあるということ。秘密は宝物にある。確信した。人ならざる力が働くのかもしれない。
肯定しか望んでいないのであろうディダーリの下に、お望み通り肯定を差し出した。
「……ならば是非とも見せていただきたい。丁度退屈していたところだ」
ディダーリの瞳が怪しく光った。薄気味悪い笑みを浮かべると髭を触り、まるで天下をとったかのような悪人面で片手を上げた。合図だったのだろう。演奏をしていた音楽隊の奏でる音楽が、ゆったりとした淫靡めいたものに変化する。
「シャヤール王よ、心ゆくまでお楽しみください。彼のことはどうかご自由に。また朝方お迎えに上がります」
すっと身体を引いて影に隠れたディダーリを追うよりも、目の端で過ぎった透けた布にシャヤールは意識をもっていかれた。悔しいことにディダーリの言う通りだ。踊り子である彼、宝物、そうラミアはシャヤール相手に妖艶と微笑むと軽快なステップで足を踏み鳴らした。
(ほう、……これは)
聞き馴染みのない淫靡めいた音楽とともに踊るラミアの色香は、いつかまみえた昼間の姿とはかけ離れた姿であった。
なにも変化したところなどないはずなのに、なにもかもが別人のようである。煌びやかな装飾品が揺れるたびにしゃんしゃんと音を鳴らして、風と共にふわりと揺れる腰布はたゆたう蝶のよう。
酩酊していた大臣らが感嘆の声を上げる。とろりと目を蕩けさせて惚けているさまから、既に虜になっているらしい。シャヤールに向けて踊っているというのに、周りがこの様子では仕様もない。
シャヤールに視線を送り、唇を震わせて哀願する哀しくもうつくしすぎる踊り子は、壮絶な色香を振り撒くとまるでこの世のすべてを掌握しているような表情で笑った。
いうなればラミアは猛毒をもった蝶だ。鱗粉を撒き散らして、毒を蔓延させている。痛みのない毒に気付くものはいない。既に侵された身では、なにが悪かすら気付くこともできないからだ。
(しかし種を見破ってしまうとあまりにも呆気ない単純なものだ。酒に酔わされるのと似ている)
妖しく紫めいて光るラミアの瞳の不自然な揺れは、炎が乗り移ったからではない。彼は実際に炎を操り、不可思議な光をもって催眠をかけていた。
いち早く気付いたシャヤールはラミアに目を向けているさまを装って、絶妙な線上で視線を合わさないようにしていた。ざっと辺りを見渡せばシャバードもくらくらとラミアに酔っていると見受ける。よほど強い暗示が働いたのか。
シャヤールは敢えてラミアに心酔しているふりをして手を伸ばした。踊り子に触れる。演舞の最中にはご法度とされている行為であった。
「王、様……?」
あどけない様子で、ラミアが動きを止めた。戸惑った演技まで白々しいが上手なものだ。シャヤールとて負けていられない。
踊り子が踊りをやめても音楽は続く。妖しげに、誘うように、奏でられ続ける。
ラミアの細腰を抱いたシャヤールはうっとりとした面持ちをしてみせると、手をとって指先に額を当て擦った。
「君と話がしたい。……如何かな? 俺の閨に、きてはくれないだろうか」
ひくり、と肩が震える。ディダーリの姿は見えないが、どこかでほくそ笑んでいるに違いない。獲物がかかったと。
その気であるのならば乗ってやろう。人の性が性欲だけで動くのではないとわからせてやろうか。なにもわかっていなさそうなふりをしている随分と婀娜な踊り子に。
シャヤールに導かれ、ラミアはセーレ宮殿内へと足を踏み入れた。大臣の許可も得ずにディダーリの内縁者と閨を共にしたことがばれたら雷どころの騒ぎではないだろう。シャヤールは咄嗟の機転で王の閨ではなく、宮殿内の客室用閨へと行き先を変えた。
どの道どこに入ろうがこの幼い踊り子の知識では理解もし得ぬだろう。彼はきっと、なにも知らないだろうから。
急いで閨に入ったシャヤールは我慢できないとばかりにラミアを強引に寝台へ押し倒した。予想にもしていなかったのだろう、ラミアは驚愕の色を表情から隠せずに滲ませている。
震える身体を押さえつけ、両手首を頭上でまとめて寝台に縫いつける。顔を近付ければ恐怖に苛まれたのか、目をきつく瞑って歯を食い縛った。
(なんだ、まだ子供じゃないか。すればこの手の淫惑ではないということか……。初物であり続けながら手玉にとっていたとは恐れ入る話だな)
そのまま観察するようにラミアの強張った表情を見ていたシャヤールに、可笑しいと感じたのかラミアは薄く瞼を開けると仰ぐようにシャヤールを見上げた。
「お前だと思っていた。二度目だな、会うのは。ラミア、俺の顔を覚えているか?」
鼻から下を隠すように覆っていた布を取っ払えば、ラミアは丸い瞳を更に丸くさせて言葉を失った。シャヤールはラミア本人だと気付いていても、ラミアは今の今まで気付かなかったらしい。
両手の拘束と解かないままシャヤールはふるふると震え出したラミアの頬をなぞった。
「さあ、種明かしをしろ。お前はなにを企んでいる? とはいってもお前じゃないな、ディダーリだ。ラミアはなにを命令されて、なんのためにこうしているのか教えてはくれないだろうか」
「……あなた、王だったのですか」
「ラミアこそ、ディダーリの忠実な下僕とはね。精々奴隷程度かと思えば……粗方不思議な力でも買われたんだろう。まあ良い。残念だったな、ラミアがかけたまじないは俺には効かなかったようだ」
晴れ晴れと笑ってやれば、シャヤールの下で拘束されているラミアが悔しそうに唇を噛んだ。