しかし次の瞬間には表情を余裕たるものへと変えて、シャヤールを笑うように強気な態度をみせた。
「流石かの有名なシャヤール王、俺のまじないが効かないとは恐れ入りました」
「どんな仕掛けになってる」
「単純明快なものです。音楽隊の奏でる不可思議な旋律と、俺の身体に予め仕込んでおいた香が混じることで一種の催眠状態に陥ります。というよりは催眠にかかりやすい状態と言った方が正しいのでしょう」
「ほう……あの曲が、ね」
「音楽隊には楽譜を渡し、俺は衣装に仕込むだけ。別々ならばなんの問題もない代物でしょう?」
ラミアの言う通りだ。音楽を聴いてもなにかが起こる訳もなく、ラミアの香とてただの匂いとして捨て置かれる。よもや合わさることによって相乗効果が働くなど誰も考えないだろう。
シャヤールは顔を隠すために布で覆っていたのが功を奏したのか。それでも幾分か離れていたのにも関わらずセーレ宮殿内の重鎮を沈没させるとは恐れ入る効果だ。
「あとは簡単、あなたのおっしゃる俺が使える微力な眼力で催淫効果が生まれるだけの話です。心配しなくても朝を迎えれば元通り、後遺症などの心配もありません。少しいやらしい気分になるだけのものですから」
「どうしてそんなことをする必要がある」
「わかっているくせにそんなことを言うのですね。目的はひとつ、あなたの閨にくること。それだけです」
「お前はいつもこんなことを強要されてやっているのか」
シャヤールの問いには答えずに、ラミアは自嘲するような笑みを浮かべた。昼間にまみえた姿からは想像もつかない淫靡さだ。どちらが本物の姿なのかわからなくもある。
戸惑うシャヤールを見越していたのか、拘束が緩んだ隙に下から抜け出すとそのまま上半身だけ起き上がらせた。
「シャヤール王」
伸ばされた指先は、シャヤールの頬をなぞる。好きにさせてみたがそれ以上ラミアは触れようとはしない。
「知りたいのならば教えて差し上げましょう。ディダーリ様の秘密を」
「……どういう風の吹き回しだ?」
「俺の術にかからなかったご褒美とでも言っておきましょうか」
ラミアはシャヤールの頬から指先を外すと、明後日の方向を見つめながらぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出した。そのお話は遠い昔のことで、ディダーリの過去だった。
ディダーリの生まれはラマハン国の端っこに属する田舎であった。少ない土地を所有する領主の嫡男として育てられたディダーリは平凡な生活を謳歌し、有り体の恋に落ちて家庭を築いた。子こそ成し得なかったものの、夫婦生活は幸せに満ちていたらしい。表面上は。
全てが砂の城の如く崩れ去ったのは、いつだったか。
奴隷を給仕にしていたディダーリの屋敷は、仕事で屋敷を空ける多いディダーリのために奴隷と妻だけの空間になることが多かった。だからといって誰がその不貞に気付けたというのか。
たまたま仕事がなくなったディダーリは妻への贈りものを抱えて帰宅した。その日は二人が夫婦の契りを交わした日でもあった。目前で繰り広げられる光景は艶美に喘ぐ妻と、妻を激しく掻き抱く奴隷の姿。
絶望に落ちるのは一瞬だった。怒りに染まったディダーリは恐怖を叫ぶ妻を殺し、奴隷の首を刎ねた。数分の出来事だった。
「それからです。嗚呼、可哀想なディダーリ様、誰も信じることができなくなり愛をお金に換えてしまいました。お金しか愛せなくなったのです。ディダーリ様はそのために力を欲しました。力を得ようと、野心に燃えたのでございます」
元よりディダーリは商才が他人よりも優れていた。シャヤールほどではないが、それだけでもディダーリには十分だった。目をつけたのは憎むべき奴隷。悪魔になりきれない人の甘さをついた、奴隷商法だった。
手っ取り早く奴隷商人に挿げ替わったディダーリは、見目の麗しい奴隷ばかりを買い漁っては酷使する日々を続けた。房事を徹底的に仕込み、同じ領主や王国の人間に売りつけなんでもさせた。壊れても代えの利く奴隷は、掃いて捨てるほどいたからだ。
悪魔に魂を売れるほど残虐なことをできる人はそう多くはない。誰しもが考えつく商法でも、実践するものがいなかった。ディダーリはそこをついたのだ。
「そうしてもうひとつ、ディダーリ様には可笑しな趣味があったのです」
買いつける奴隷の中に、時折ディダーリの興味を引くものがいた。処女の少女だ。ディダーリにしかわからぬ、なにかをもった少女。そんな少女は房事を教えられることなく、花よ蝶よと持て囃される短い極楽を与えられた。
その日は突然にやってくる。奴隷が犇めき合う中、少女は呼ばれる。なにも知らない少女は足取り軽くディダーリの閨へと足を運ぶのだ。嬉しそうに、と。
「少女を最低のやり方で犯した翌朝、ディダーリ様は少女の胸にナイフを突きつけて殺すのです。いつかの日、愛した妻を殺したのと同じように、少女の貞操を奪って殺してしまうのです。噂では奥方に似た容姿だとか、不貞を働いた奥方にはない処女という純潔さを穢すことで満たされるとか、いろいろな説もありますが真相を知るのはディダーリ様だけ。ディダーリ様はそんな悪行と狂気を繰り返して、精神を保っているのでございます」
なにも言わない、なにも考えない、なにもすることがない、ただの紙切れや硬貨を集めてはうっとりと悦に浸るディダーリ。物言わぬ存在はディダーリを裏切ることはない。
金を集めるだけ集めて幸せを感じていく心はもう、壊れかかっているのだろう。いや壊れている。壊れているのだ。
心を満たしてくれるものが人ではなくなった瞬間に、ディダーリは悪魔へと変貌した。人に戻れることはもう二度とないだろう。今やなにをしても心が痛むことがないという。
ディダーリを愛してくれるのも、ディダーリを悲しませてくれるのも、すべてが物言わぬ財産と成り果てた。
「果てもない、終わりもない、暗闇を彷徨ったまま、ディダーリ様はそれでも財産を求めることをやまない。愛と違って本当のところでディダーリ様を愛してはくれない存在は、終わりがないのです」
「金を集めることで心を満たす、か」
「いずれは狂ってしまうだけの御身、どうなさるのでしょうね。いいえ、もう狂っているからこそできる悪行とも言えましょう。ディダーリ様の心はあの日に置き去りのまま、今も救われずにいるのです」
ディダーリの過去がどうであれ、許すことのできない悪行をディダーリはしてきている。妻に裏切られたからといって、奴隷が憎むべき存在だからといって、殺戮を繰り返して良い言い訳にはならない。
財産を集めることもそうだ。国を潰して民を苦しめてまでそうする理由がわからない。シャヤールには理由を聞いても理解のできないことだった。
「シャヤール王よ、このお話が嘘か本当か、信じるのはあなたのお心ひとつ」
ラミアはそう言うと、ディダーリの過去と悪魔に成り果てた理由を話し終えた。
言い方は悪いが一端の奴隷がどうしてそこまで詳しく知り得ることができたのかが不思議でならないし、ディダーリの味方であるラミアがシャヤールに言うことについての利点も見つからない。
だが嘘だとも思えないのだ。シャヤールは嘆息を吐くと、悩むように腕を組んだ。
「興味深い話だな。すっかりと聞き入ってしまった。……しかしそれでは解せない点もある。お前も奴隷だ。その奴隷が何故そこまで知っている」
「確かにおっしゃる通りです。俺もただの奴隷。ですが愛玩具にされる奴隷とは訳が違うのです」
「綺麗な装いをしてもらっているところを見れば、先ほどの話しに出た処女の少女と同じ扱いにも思えるが男。それは違うのだろう?」
「ええ、シャヤール王の言う通り、俺の身は純潔でありますがディダーリ様の閨には呼ばれることがない正真正銘の男です」
「ますますわからんな。お前はなんのために綺麗な服を着てこんなことをしているんだ?」
その問いに、ラミアは一瞬だけ遠い目をすると悲しげに笑った。たった数秒のこと。次の瞬間には先ほどから見せていた淫靡な表情に戻り、シャヤールを挑発するよう下から覗き込んだ。
「俺にも興味をもったのですか? シャヤール王」
素直に頷くことは癪だったが事実なのは確かだ。シャヤールは頷いてみせると、ラミアの頬を手の甲でなぞった。
なかなかどうして男色の気はないはずだが、ラミアには惹かれるものがある。
ラミアはシャヤールの手をとって愛おしそうに頬ずりすると、薄づきの唇を震わせて再び言葉を紡いだ。凛とした、きれいな声だった。
「シャヤール王、俺の見目は美しいでしょう? 声も、身体も、顔も、すべてがきれいで欠品のない、そんな生きものなのです。観賞用として生きることを余儀なくされた民族といえば、理解してもらえるでしょうか」
「……民族?」
「うたを歌えない金糸雀。美し過ぎる身体で舞を踊って、美し過ぎる顔で人を酔わせる。……だけど美し過ぎる声は歌をうたえない」
ラミアは目を伏せて、一呼吸置いた。
「その代わり、この声は人を虜にする魔術めいたものが秘められているのです。宴で魅せた眼力も我らが民族の特別な力」
「そのような民族など聞いたこともないな」
「ええ、聞くはずはないでしょう。我が民族は人を狂わせるものを持ち過ぎた。幸運を呼ぶと言われる一方で、不幸を齎す不死鳥とも呼ばれたのですから。この声で、この顔で、この身体で、人を酔わせて虜にし夢中にさせる。歌えない代わりに長けた話術は、人の精神を狂わせるほどの魔力を秘めている魔性の民族なのです」
シャヤールは俄かには信じ難い話だった。人と同じように見えるラミアが、同じように見えるだけでなにか得体の知れない存在だなんて到底信じ切れるはずがない。
どちらかといえば現実的な方だ。イフリートやジンを信じる一方で、いないと割り切っているからこそ憧れていられることと酷似している。
ラミアの顔をまじまじと見つめた。褐色の肌、黄金の瞳、白銀の髪、どれをとっても美し過ぎるそれは人を酔わせるためだけにあると嘯くのか。
「シャヤール王」
伸ばされた手が、シャヤールの頬にかかる。黄金の色をした瞳にはシャヤールが映っていた。
「あなたの瞳は不思議な色を湛えているのですね。薄緑のような薄水のような、透き通っていて何色も混じったかのようなとてもきれいな色」
「ああ、隔世遺伝だと言われているな。遠い昔、マハルーン国の王家にこのような不思議な色をした魔術師がいたらしい。いつの代だったか、そのときの王がそれに手を出して孕ました家系だ」
「その魔術師も、さぞかしシャヤール王同様に美しかったのでしょう。あなたは我が民族でもないのに、とても美しい」
ラミアは指先を頬から外すと、外を見渡せる窓を向いて瞬きをした。
徐々に濃紺の空が白ばんでくる。気付かないうちに随分と話し込んでしまったようだ。もう朝が直ぐそこまでやってきている。
「シャヤール王よ、夜明けがもう直ぐきます。今日のお話はここまで。また会える日がくるのでしょうか」
「……どうだろうな」
「またまみえる日があったのなら、お話の続きをして差し上げましょう。次はシャヤール王が興味を惹いている我が民族のことでも。嘘か真か、信じるのはシャヤール王次第です」
音もなく寝台から降り立ったラミアは振り返ることもないまま一直線に扉へと向かうと、閉じられた扉を開いてその向こう側へと消えていった。別れを惜しむ素振りもなく、呆気ないものだ。
シャヤールは閨に漂うラミアの残り香を鼻腔で感じると、困ったというように片手で顔を覆った。
あの話が本当だというのなら、なんという厄介な民族なのだろう。シャヤールはううんと唸って、寝台に突っ伏した。
(美しいと共に酷く儚げで……偽りに塗れていたようにも見えたな)
シャヤールには作り上げられた存在に感じてしまった。ラミアの姿はあの昼間に見たものが真実だと思ってやまないのだ。
すっかりとのめり込んでしまったシャヤールはやらなければいけないことが山積みのようにあるとわかっていつつも、なかなか寝台から顔が上げられずに暫しの間だけ頭を悩ませた。
ラミアのことが忘れられないなど、別れたばっかりの口ではどうも言いにくい言葉である。
夜が明け、朝日が差す。眠る街が起き始めるのと同じようにセーレ宮殿にも朝がやってきた。
ディダーリの帰還は呆気ないものだった。元よりラミアをシャヤールの閨に送ることだけが目的だったのだろう。文官長の予想立てではもう少し粘って滞在するかと思われたが、あっさりと身を引くと早々に奴隷を引き連れ帰っていった。
はっきりしている事柄といえば、ディダーリの目的は未だ果されていないということだ。マハルーン国の城下町にあるホテルへ暫く身を寄せているから、なにかあれば是非尋ねてきてほしいという伝言だけを残した。
ラミアを信じていなかった訳ではないが、どこか不安要素でもあった催眠も朝がくるのと同時に解けたようだ。皆一様になにがあったのかあまり覚えておらず、酒に酷く酔ったような気分だと零した。ずきずきと痛む頭やだるい身体は、所謂二日酔いの状態に似ているそう。
シャヤールは執務室に文官長とシャバードを寄せると、朝議を遅らせて緊急会議を開いた。左大臣、右大臣共に信用はしているが腹心といえばこの面子なのである。
椅子に座ったシャヤールの前に立つのは姿勢正しくしている文官長と、頭を抱えているシャバードだった。
「あ〜頭がぼうっとする。昨日呑み過ぎた記憶はないんだけどなあ」
「シャバード様、昨日の宴は楽しかったですか? 騒がしい声が宿舎にも聞こえていましたよ」
「ああ、お前はこなかったんだっけ? 相変わらずそういうとこ変わってないね。もう少し羽目を外したら良いのに」
「私まで酒に溺れてしまえばいざというとき、誰が指揮をとるというのですか。目先の娯楽に捕らわれるほど私の身は安くありません」
文官長の言う通り、彼は昨日の宴に参加しなかった。元より酒や宴の類が苦手で悉く避けていた身だ。強制参加でもない限り姿を見たこともない。
シャバードほど宴に溺れる身ではないがそれなりに娯楽として好んでいるシャヤールからすれば、文官長の息抜きはどこにあるのかと些か気にはなるものの問えることでもない。
こほりと咳一つで場を制すると、簡単に昨日のことを説明した。ラミアが特殊な状況を用いて催眠術をかけたこと、ディダーリの企みはラミアを閨にあげることにあったこと、ディダーリの最終目標としているところはやはりマハルーン国の国庫いわば金であるということを。
飽くまで憶測でしかないが、ディダーリはラミアを使ってシャヤールから金を搾りとりたいのだろう。男色でもなく、浪費家でもないシャヤールに目をつけるとは些か大胆な気もしたが、こういう男ほど色気に溺れた際には金を惜しみなく使うことは立証済みなのかもしれない。
「そんなことがあったのですか……しかしあまりにも大きな賭けにでましたね。もしくはそれほどラミアという青年に力があるのか。どの民族かも気になるところではあります。生憎と私の知識ではそのような話は聞いたことがないですし」
「確かにね。聞いたことがないよ。しかし調べてみればなにかが出てきそうだ……。王、それを私に調べろというご命令でも?」
「まあそういうんじゃない。ただ気にかかって、お前たちなら知ってるかと思っただけだ。知らないのか……」
「それよりも王よ、そのラミアという青年が喋ったことが本当かどうかもわからない状況、こちらの方でも一応は調べてみますが深追いは不要ですよ。なにかあればこの私かシャバード様に言いつけてください。王自ら行動なんて馬鹿げた真似は絶対におやめください。王は曲がりなりにもマハルーン国の象徴なのですから」
文官長のすべてお見通しだといわんばかりの目つきにシャヤールは苦虫を噛み潰したかのような表情になると、背もたれに深くもたれた。なかなかどうして鋭い男だ。先を越されてしまった。
(……金を積んでラミアを呼び寄せたいだなんて言えば、確実に怒るだろうな。いやそんなことはさせてくれないだろう)
しかしどうしてもシャヤールはラミアに会いたくて仕方がない。なにも色事だけの問題で言っているのではないのだ。すべての鍵をラミアがもっているからこそでもある。
文官長やシャヤールが密偵に長けていて、諜報としても活躍していようと限度がある。深層までは手が届かないだろう。だからこそディダーリはラミアを使って大金を手にすることができた。
それにラミアは、きっとシャヤールにしかあの話は言っていないはずだ。妙な確信がある。
困った。ディダーリのことだ、ラミアをそうそう外には出さないだろう。これで会う方法は完全に立ち切られた。一握りの望みをもって街を徘徊するのも悪くはないが、あまりにも確率が低過ぎる。
「……王、まさか」
「皆まで言うな。わかっている」
「わかっているのなら、良いのです」
シャヤールは脳裏に懐の財産を思い返して、どうしようかと困り果てたのであった。