千夜一恋 05
 ラミアと一夜を明かしてから幾夜が経っただろうか。そうそう邂逅するはずもなく、ラミアの身元についても調べさせてはいるものの詳細は未だ上がらずじまいだった。
 シャヤールもラミアのことばかりに現を抜かしている場合でもない。舞い込む執務をこなしながら自らも調べてはいるが結果は当然の如く成果なし。元々密偵などに長けていない所為もあってかうだつもあがらない。
 そろそろシャヤールの限界が近いか、と文官長が内心びくびくしていればまるですべてを見計らったかのようなタイミングでシャバードがセーレ宮殿へ戻った。
 文官長のように諜報、密偵に長けていても本業があるが故になかなか動けないものが多い中、シャバードは自由だった。マハルーン国の王弟という立場にあるものの、仕事はあってないようなもの。
 年がら年中王の命のままに世界を流離ったり、時に行方不明になったりと好きなことをして人生を満喫していた。
 ただでさえむさ苦しい見目が遠がけの帰りということも相俟って、更に耐え難い風貌になっている。あからさまに不躾な視線を送りながら執務室を出て行った文官長と違い、シャヤールは待っていましたといわんばかりに目を輝かせた。
「シャバード、待っていたぞ。お前にしてはなかなか遅いからどうなることかと思ったよ」
「まあ少し寄り道してたからね。でも残念ながら王の期待できるような報告はない」
「……なんだって?」
 長旅から帰って直ぐ身体を休ませることもしないで、シャヤールの執務室へ素っ飛んできてくれたことは素直に嬉しい。シャバードとてやらなければいけないことがあるのに、シャヤールの内情を察してラミアの方を優先してくれたのだから。
 期待をしていた。シャバードはきっと有益な情報を持ち帰ってきてくれると、期待をしていたのだ。
 だからこそ肩を竦めて首を振ったシャバードに、シャヤールは驚きを隠せなかった。
「実際に存在していたのかどうかも怪しいね、これは。情報がなさ過ぎるというべきか、隠蔽されているというべきか……まあ前者だろうけど」
「そんなことが有り得るのか」
「まあそんな落胆しないでよ。収穫がゼロだったっていう訳でもないんだからさ」
 片眉をあげたシャヤールにシャバードはにこにこと笑んでみせると、書類が積み重なっている机に手を置いて、簡略的に得た情報を纏めてくれた。
 はっきりとラミアの出生といえる民族かはわかりかねるが、遠くにある砂漠地方でそれらしき移動民族がいたということは事実らしい。詳細までは知られていないが、その移動民族は存在自体が幸福を呼ぶとして崇められていたという。
 しかしあまりにも強大過ぎる恩恵を保持するとして深く係わり合いをもつのがタブーとされ、夫婦となるのも禁忌に近く、ましてや仕官や給仕にするなどもってのほか。主として崇めるべき存在に近かったとかなんとか。
 だけどいつだったか奴隷専門の盗賊に乱獲され民族全員根絶やしにされたとか、奴隷として連れ去られたとか、神となって地上からいなくなったとか、様々な憶測が飛び交うようになった。どうも姿を忽然と見せなくなったことにより、そんな噂が流れたらしい。
「今は存在すらしていないって話だよ。ラミアがいう民族かどうかまではわからないけれど、比較的似ていると思わない?」
「ほう……初めて聞いたな。面白そうな話だ」
「それに人ならざるものっていう噂もある。しかし見た目は人なのに人じゃないなんて、じゃあ一体なんだっていうんだろうね」
「さあな。それを調べるのがお前の役目だろう? この件はしばらく保留にしておく。お前はまた引き続きディダーリの監視と証拠を集めてくれ」
「おや珍しい。そっちに関心がいったの?」
「俺はいつだって真面目に仕事をしているさ。ディダーリのことだって片時も忘れたことがない」
「まるで口説き文句だね。彼は口説かれるのは嫌がりそうだけど」
 笑えない冗談を言ってのけたシャバードは、書類が積み重ねられてある上に報告書をぽんと置いた。
「シャバード、お前に命ずる」
「はい、なんなりと。王よ」
 母体は違うといえども同じ王の血を引いて生まれ、共に育った身だ。身分こそかけ離れてしまったものの、仲が良いといわれる兄弟ではある。昔のように砂漠を駆け回ったり、駱駝を使って競争したりなどできなくなってもだ。
 わざと畏まって敬礼をするシャバードに、シャヤールは積み上げている書類の中からとある文書を取り出すと目の前にぽんと差し出した。
「ラマハンの国家情勢と王宮内の重鎮リストだ。良く目を通しておけ。お前にはある重大な任務を課す。ラマハン国家と連絡をとってディダーリを拘束するための包囲網を張ってくれ」
「……俺の記憶が正しければラマハンは今、ディダーリの掌中にあるんじゃなかったかな」
「ほう、覚えていたんだな。そうだ、ラマハンは今やディダーリのものといっても過言ではないだろうな」
「ならばこんな馬鹿げたことをしたら……ディダーリに筒抜けだ」
「そう急くな。俺だって無鉄砲に言ってる訳じゃない。とりあえずはその文書を見ろ」
 怪しげにシャヤールを一瞥したシャバードはおずおずと伸ばした手で文書を手に取った。見目とは正反対であるが慎重派のシャバードだ、負け戦に投じることに不安を感じたのだろう。
 だがそれも最初だけで、文書に目を通すと驚いたように顔をあげた。
「これは……」
「文官長もたまには役に立つだろう。ラマハンはもう腐ってどうしようもないが、国家内には腐らずに虎視眈々と復古を狙っているものもいるということだ」
「このリストの人物にコンタクトをとって、ということかな?」
「そういうことになるな。ただ先も言った通り、ラマハンの大半はディダーリ側にいると考えておけ。慎重に頼むぞ」
「王ってほんと人使い荒いよね。任された仕事は全うするけれど」
 苦笑一つ零し手を振ったシャバードは文書を懐にしまうと、シャヤールの視線に見送られ執務室を出て行った。シャヤールしかいなかった執務室は人気がなくなると急に静けさを増した。
 外はむわりとした熱気で渦巻き、さぞかし暑い思いをしなければいけないのだろう。セーレ宮殿とて涼を感じられる設計になっていてもじわりと汗が滲むほどの暑さだ。今日は特別太陽が厳しい。
 シャヤールはやる気を失うと、筆を置いて椅子に深くもたれかかった。
(……これほどまで情報がないということは、信じ難いが人ならざるものの可能性もあるのだろうか。もしくはラミアが嘘をついている、か)
 しかしどうしてもラミアがシャヤールに言った言葉に嘘があるとは思えない。偽って艶美に魅せようとしていたとしか感じられない時点で、シャヤールはラミアの術中にはまってしまったというのか。
 すべてを中途半端にしておいて続きが聞きたければ別料金など、玄人の店でもそんな阿漕な商売はしない。ディダーリも良くぞ考えたものだ。
 シャヤールはううんと唸ってみせると、むくりと立ち上がった。
「重症だな……」
 会って話がしたいと思うことは、既に引き返せないラインまで到達しているということなのだろうか。
 シャヤールはあの夜のことを思い返すと、ちりちりと焦げつくような焦燥が胸に走るのを覚えた。この感情がなんという名をしているのかは、未だ知らなくて良い。

 静けさが支配する世界。太陽は眠りから覚めず、空は未だ暗いまま。だけど白んでゆく地平線を見れば夜明けは直ぐそこにきていた。
 シャヤールは自室でその様子をゆったりとした気持ちで見ていたが、一羽の白い鳥が齎した吉報に慌てて支度をし始めた。
 時間がない。手短に済まさねばならない。シャヤールは寝衣の上に軽く布を覆うと顔を隠し、こっそりと私室をあとにした。
 文官の朝は早い。こっそりと抜け出したことが露見してしまえば、またこってりと絞られるかもしれない。最悪見張りの数も増やされるだろう。
 王という立場にも関わらず、自由がないとは如何なものか。王であるからこそ自由がないのか。
 シャヤールはまるで盗みに入った盗賊の如く息を潜めると、見張りの目を掻い潜ってセーレ宮殿を抜け出した。セーレ宮殿の警備に些か不安を覚えたものの、入る場合と出る場合では違うのかもしれない。
 自分の首を絞めることになるかもしれないが、一応忠言はしておこうか。シャヤールは朝日が昇る予兆を背にしながら、ゆっくりと活気づくバザールの方へと足を走らせた。
(朝議に間に合えばよかろう。そうだ、何食わぬ顔で戻ってやればあれも煩く言わないだろう……たぶん)
 世界に光が差す。海の方面では船が入港しだし、街は商人が続々とバザールへ出向く。店を構えるものは仕込みにとりかかり、一家の母は朝餉を用意し始める。
 夜から朝へと変わるように、世界が目覚めていく。太陽とともにあり続ける人の朝がやってきた。
 シャヤールは支度で忙しなく動いている商人で溢れ返るバザールを抜け、細い抜け道を駆けた。少々遠回りになるものの早朝はこの道しか通れない。人気がある場所はなるべく避けたいのだ。
 ここ最近の運動不足が祟ったか、目的の場所に着く頃にはシャヤールにしては珍しく少し息を乱して薄らと汗を掻いていた。
(あれの言っていた場所はここか……?)
 視線をぐるりと回す。しかし目当ての姿はない。いつかの日ラミアと邂逅した例の場所、小さな噴水がある十字路にシャヤールはきていた。
 街に張り巡らせたシャヤールの目はなかなかに多く、すべてを網羅することができなくてもそれなりに把握することはできている。
 主に犯罪などに重きを置いて賢鳥を散りばめているのだが、一匹だけ文官長に秘密で違う仕事をさせていた。それがラミアの追跡である。
 用心深いディダーリのこと、シャヤールを警戒してラミアを外出させることを良しとしていないはずだ。だがラミアがもしシャバードのいうように幸福を呼ぶ存在だというのなら、すべての自由は奪わないはず。
 となればラミアが自由になる時間は、マハルーン国の王であるシャヤールが宮殿から出られないような時間。深夜から早朝にかけてとなる。狙いを定めて見張らせていたのが当たったようだ。
 シャヤールはラミアの姿を捉えたという報告を齎した知らせに慌てて支度を済ませると、早朝というのにも関わらずこんな場所くんだりまで足を運んだのであった。
「……ラミア!」
 視線を巡らせる。噴水の周りにはいなかったが、細い小道にラミアの姿を捉えた。
 思いのほか大きな声が出てしまったようだ。びくりと肩を震わせたラミアは振り返ると、シャヤールの姿を目にして戦慄きを露にさせた。逃げようと駆け出すものの、中腰でいたためか上手く走ることができず足を縺れさせ転倒してしまった。これ幸いとばかりにシャヤールは距離を縮めると、ラミアの腕を掴んだ。
「お、王様……なぜここに……! 離してください!」
 随分と殊勝な姿だ。閨でまみえたときとは大違い。どちらかといえば初対面のときの人格と似ている。
「随分と態度が違うんだな。お前と瓜二つの存在がいる訳ではあるまい? ラミア。どっちが本当のお前だ」
「離してっ、離してください!」
「俺に本当のことを教えてはくれないか」
 些かやり方が強引だとわかっていた。だけどシャヤールは内心焦っていたのだ。一進すらできない現状に焦れていたともいうべきか。ディダーリに文を寄越せば直ぐにラミアはシャヤールの元へくるだろう。だがそんなものは求めていない。シャヤールが求めているのはいつだって真実だけ。
 辛辣な表情でラミアを見抜くシャヤールに物怖じしたのかそれとも言える術をもたないのか、ラミアはだんまりを決め込むと唇を噛みしめた。
「ラミア」
 瞼が小さく震える。なにかに耐えるような仕草はとてもじゃないが、シャヤールの前で堂々とした立ち振る舞いをみせていたものには見えない。今のラミアには艶美さもなにもあったものじゃなかった。
 だがこの頼りなくもか弱いさまに、シャヤールはどうしてだかそそられずにはいられなかった。男色でないとかそういう問題ではない。ラミアには惹きつけられるなにかがあった。
(不思議な気持ちだな……。美しいラミアよりも、怯えて情けない顔をしているラミアの方が……よっぽど良い)
 ぐ、っと腕を掴む力が強くなる。どうしてもわかりかねる感情が降って湧いて、シャヤールの心を独占した。
 強いて言うのならば、見も蓋もない言い方になるがむらむらとしたというのが適切なのだろうか。
 シャヤールは空いている手でラミアの顎を掴むと、俯いている顔をあげさせた。
「どうしても口を割らないと言うのか」
「……卑怯です。このような手は……」
「卑怯もなにもあるまい。こうして邂逅できたことが俺にとっては奇跡であり、お前にとっては失態だったというだけのことだろう」
「でも……」
「仕方ない。どうしてもというのなら、こちらにだって考えがある」
 硬い物言いにラミアが震えた。睫が小刻みに揺れる。黄金の瞳にはあくどい表情でラミアを追い詰めるシャヤールの姿が映っていた。
 こんな悪趣味なことは好かないがこれも仕方がない。言い訳だけは十分に、シャヤールはラミアの身体を引き寄せると薄く引き結ばれた唇に口づけた。
「ん、……っ!?」
 間近で見たラミアは驚きのあまり瞠目させると、ぴしりと固まってしまった。近過ぎる所為かあまり見えたものではないが、それでもラミアの表情は美しくもあり愛らしくもある。
 本当はこのまま薄い唇を強引に抉じ開けて、温かい舌を引っ張り絡めて思う存分甚振りたい。小さな口を蹂躙したい。溢れ返った唾液を飲ませ、啜らせ、吐息すら奪うような口づけをしたい。と思えるほどに欲情はした。
 脳の片隅で悪魔が誘惑に打ち負けて囁きかけてくるものの、そんな安易なものに負けて危険を冒すほど馬鹿でもない。
 大体ラミアのように奴隷とされてもなお美しさを誇ったまま違った意味で重宝されているのであれば、それなりに防衛の手段はもっているはず。
(例えば毒とか、反撃とか……かな)
 口腔に毒でも仕掛けられていたとなれば、これほど馬鹿な話もないだろう。口づけに夢中になって殺された王など笑い話にもならない。毒の耐性があるといっても、致死までは至らないだけで弊害は起きるのだ。
 それに単純な方法でいけば、このまま滑らせた舌を噛まれてしまうという手もある。これは地味に痛く、羞恥を煽るものがだ。
 シャヤールは口惜しげにラミアの唇をぺろりと舐めると顔を離した。驚きのあまり固まっていたラミアはやっと状況を把握することができたのか、褐色の肌をほんのりと紅に染める。
「あ、あ、あっあなたはなにを……! なにをするんですか!」
 新鮮な反応だ。シャヤールが口づけた唇をごしごしと手で拭うと、涙目でぎっと睨んでくる。あの夜に言った通り純潔を守っているのか。まさか唇までとは思わなかったが。
 シャヤールはご機嫌のままラミアを拘束していた腕を解放してやると、一歩分後ろに下がった。
「すまない。お前があまりに可愛くてね」
「そんなこと言い訳になりません! 王様、あなたの考えていることが俺にはわかりかねます」
「お駄賃だと思ってくれれば良いかな」
「……お駄賃……?」
 聞き慣れない言葉にラミアが表情を顰めさせる。自由の身となったことも忘れたのか、それともシャヤールに興味が湧いたのか、はたまた逃げ出すことを忘れているだけなのか、立ち止まっていることを良いことにシャヤールは言葉を続けた。
 朝日はもう昇り始めている。シャヤールにとってもラミアにとっても、残された時間は少ない。
 脳裏では文官長が口を尖らせて怒っているのが浮かんだが、方法がこれしかないのだから仕方ない。しかしシャヤールは愚か者ではないが故に同じようにはいかないということをわからせねばなるまい。
 シャヤールは自信たっぷりと笑みを浮かべると、仰々しく手を差し出した。
「近々お前のことを買おう。その見返りとでも思ってくれて構わない」
「……身売りはしていません」
「案ずるな、手は出さない。……信憑性がないと言いたげな顔だな。まあこれは一種の悪戯というよりは興味、になるのか……いや純粋にしたかっただけだな。ラミアはどんな可愛い顔をしてくれるのか、興味が湧いただけだ」
 シャバードではあるまいのに、惚けた台詞ばかり並べ立てている。これではラミアからの評価は下がる一方だ。