案の定、胡散臭げにシャヤールを一瞥してみせるとラミアは逃げる体勢を構えた。拘束具がついていようと、ラミアの足ならばきっと自由に逃げ遂せることができるはずだ。もちろん本気で逃げるのなら今直ぐ逃げているので、取り敢えず話は聞いてもらえるらしい。
シャヤールに向けた視線に軽蔑の色を滲ませていたが、一筋の希望も混じっていた。それに賭けたいと、思う。
差し出したままの手で、ラミアの手首を握った。恐怖に身体を竦ませるさまがまた欲をそそる。ことは言わないでおこう。
「手をつけたからには約束は違えない。きっと数日後にディダーリからこう言われるだろう。ラミア、でかした! あの小僧からお前を所望する文が届いたぞ! とね」
「……どうしてそこまでわかっていながら、俺に関わろうとするのですか。このままでは……王様もいずれ彼のものたちと同じ運命を辿るんですよ」
ディダーリについていながらも、不信感が拭えていないからこその言葉。シャヤールを気遣って言おうとした全容は尻すぼみして闇に消えていく。あくまでディダーリの奴隷、迂闊なことも言えやしないのだろう。
「俺はお前の話が気に入ってね。続きが気になって眠れやしないんだ。早くあの話の続きや、違う話、いろいろ聞きたくてうずうずしているんだよ」
「王様……?」
「所詮俺も今までラミアが相手をしたものどもと同じさ。お前の話の虜になった、ただの男にしか過ぎない」
歯に衣着せぬ言葉の羅列が、良くもまあすらすらと飛び出てきたものだ。性格ではないとわかっていつつも、シャヤールも必死だったのかもしれない。
きれいに整えられたラミアの指先を撫ぜる。少し震えてみせたそれは、それでもシャヤールを振るうことはない。
「お前は今まで何人もの男と夜を過ごしてきた。幾夜になるのか、きっと数え切れないだろうな」
「……如何わしい言い方はおやめください」
「しかしお前とて千夜を迎えるころには、話題も尽きるだろう」
「そんなことはありえません」
「その日が俺であれば良いと願うくらいは許されるか。千夜の日に、俺の閨で話の尽きたお前を是非とも見てみたいね。ラミア、楽しみにしているよ。次にまみえるときは夜かな」
「王様、おっしゃる意味が俺にはわかりません!」
「夜に会おう」
白い鳥がシャヤールの肩に乗って、ぴいぴいと鳴く。太陽もすっかりと姿を現していた。このままでは朝議に王が不在という自体を引き起こしてしまうことは目にも明らかだ。
名残惜しいと思いつつラミアの手首から手を離すと、晒していた素顔を隠し覆って、なにか言いたげに唇を開閉するラミアの唇に指を押し当てた。口づけをしたいものの、そうそうできるはずもない。
そのまま踵を返したシャヤールはラミアの視界に映る間は遊惰に走っていたが、角を曲がって完全に姿が見えなくなることを確認すると形振り構ってられずに、必死な形相で走り抜けた。
こっそりとセーレ宮殿を抜け出したことが公になるのもできれば避けたいことではあるが、文官長に見つかって大目玉を食らい説教をされる方が何十倍も嫌だ。嫌なのだ。
王になったというのに、幾つになってもどんな立場になっても怒られるときには怒られる。
シャヤールは太陽を睨みながら、垂れる汗など構いもせずセーレ宮殿へと一目散へと帰って行った。
余談ではあるが朝議には間に合ったものの、文官長には抜け出したことがばれ、セーレ宮殿内の警備が更に厳重になったことは言うまでもなかった。
勝手に護衛もつけずセーレ宮殿を抜け出したことを咎められ、前にも増してきびきびと動くようになった文官長にシャヤールは口を開閉して言い淀むと書類を捌いていた手を止めた。
いずれ言わなければならないことであったが、雷が落ちるのは目に見えている。シャヤールは捌いた書類を更に検閲している文官長に声をかけた。
「……少し、話がある」
声のトーンを控えめに、押し殺すようにしていったシャヤールに文官長は顔をあげた。なにごとかと思っていることだろう。深刻そうな空気を作ってしまった所為でどことなく重苦しい。
「なにか緊急がございましたか」
「そういうのではないんだが……この際だからはっきり言おう。ディダーリに文を送ろうかと思っている。宣戦布告のものではなく、ラミアを呼び寄せるための」
「ラミアを……って王! 反対です! あなたなにをおっしゃっているのか自覚はございますか!?」
「ああ、もちろんだとも。国庫には手をつけない。生憎とバザールで稼いだ小銭があるんでな、資金は俺の懐から出すつもりだ。もちろん会いたいがために言っている訳ではないぞ」
ほんの少しその気持ちがなかった訳でもないが、それを言うとややこしいことになるので黙っておいた。懸命な判断だろう。お堅い文官長のことだ、軽蔑されるに違いない。シャバードのようになれとは言わないが、もう少しくらい柔軟になっても良いものの。
シャヤールは両手を組んで顎を乗せると、判決を待つ罪人のような緊張感に包まれた。
「王のお気持ちも察します。ですがあまりにも危険な賭けです。財がどうのこうのという問題ではないのは、王ならばおわかりになるでしょう」
「俺も馬鹿ではないからな。ディダーリの企みなどお見通しだ。危険がつき纏うのも承知している」
「ならばどうして……。確かにラミアの情報源は有益なものになるでしょう。金銀財宝程度でどうにかなるのなら、むしろ重宝すべきものだともわかります。しかしあのディダーリの宝物を懐に入れるというのが、私には気がかりで仕様がありません」
文官長が慎重になって否定にかかるのも、シャヤールの想定の範囲内であった。ディダーリの目的は目に見える金銀財宝、地位、名誉、そして権力。ラマハン国を掌中に入れた暁には、きっと貿易や商業が盛んなマハルーン国に照準を合わせることは目にも明らかだった。
食い荒らそうとしているのだ。ディダーリは、この国を。
マハルーン国はこれでも代々受け継がれる、世襲制の王国だ。国の象徴となる王が頂点に君臨し税をもらって国を運営している。その代わり国民は王の庇護の下自由に暮らしていける保障があった。
賢王揃いの王家として評判も高いシャヤールの家系は、代を移すごとに繁栄してきたといっても過言ではない。
国民から慕われ、崇められているシャヤールは最早神聖化していた。仮に蹴落としたとしても、ディダーリが王に挿げ変われることは絶対にない。世襲制というのも理由のひとつだが、国民がそれを許さないだろう。
となれば目的はマハルーン国の国庫すべてか、シャヤールの弱みを握り傀儡にして操るかだ。
(まったく愚か過ぎて言葉も出ん。あいつの企むことが身に余ると思いもしないのか)
シャヤールは否定しか紡げない文官長に、些か困った風に眉を寄せると判を机に置いた。
「俺が閨であのようなこどもに近い青年に、寝首をかかれるとでも言うのか? ラミアはきっと自分の責任だといってディダーリを擁護するだろうな。しかしそれだとあまりに幼稚な作戦だ。奴隷のした罪は主人が負わねばならん。そうなればディダーリはマハルーンの財産に手もつけられない。意味がないとは思わないか」
「それは……」
「ラミアを通す閨を客人用にし、警護の数を増やせばよかろう。流石に閨まで見張りはいらないが、外に待機ぐらいならば目を瞑るしお前も安心だろう。……どうだ? これで文句もでなかろう」
「……参りましたね。王よ、そこまで用意してあったのなら私の意見を仰がずに遂行すれば良かったでしょうに」
「一応は断りを入れるのが礼儀というものだ。お前は文官長でありながら、俺の右腕としても働いてくれる。俺が考えて行なう行動に賛同をしてもらいたいというのが本音かな」
「あなたには敵いません……。で、言うからには勝算があるのでしょうね」
ない。と言えばどんな顔をするだろうか。シャヤールは誤魔化した風に笑みを象った。
「取り敢えずはラミアを呼び寄せて情報収集しつつ、騙されている振りをしようと思う。何度も呼び寄せればディダーリとて、疑いもせず俺がラミアに夢中になったと思い込むだろう? ラミアの方もディダーリにそのような報告をするはずだ」
「ほう、それでディダーリを油断させるという訳ですか。……なんのために?」
「人というのは欲をかく生きものだ。俺を骨抜きにしろ、という命令もきっと変化をみせてなにか決定的なものになるかもしれない。ボロを出すことを祈っているしかないというのが現状。……なんとかなると考えているのだが、どうだろうか」
「王にしてはあまりにも詰めが甘い計画ですね。……しかしそこまで言うのであれば信じましょう。海老で鯛が釣れるか雑魚が釣れるか楽しみにしていますよ。どの道私とシャバード様でもディダーリを追い詰める予定ではございますので、王が失敗をしても大丈夫なように手筈は整えておきますね」
「……言うようになったな、お前も」
確かに行き当たりばったりな作戦かつ私情が入りまくりなのであまり強く出られないところが痛いところだ。シャヤールは存外に攻めていられるのではないかというほど呆れを滲ませた文官長にそれ以上はなにも言い募らなかった。
全てはラミアと会ってから始まる。婀娜っぽく笑うラミアはシャヤールにとって天使か悪魔か、どちらに転ぶのだろう。できるならば悪魔の面を被った天使であってほしい。最後の最後に微笑んでくれたら、きっと。
(お前を奴隷生活から解放してやるといえば、それもまた俺のエゴになるのだろうな。もしかしたら望んでいるのかもしれないと思いつつも、どうにもできないんだ)
足枷を切った奴隷の行く末などたかがしれている。所詮は奴隷に落ちた身、すべてなくしたあとに自由を得たとしても、奴隷であった身体では自由に羽ばたくことができずまた同じような職業に身を落とすものも多くない。
ラミアはどうなるだろうか。見目麗しいから誰かの囲い人になるか、もしくは娼館で働くか、盗賊にでも襲われてしまうか。どの道優れた見目をもっていたとしても、才がないのであれば野垂れ死ぬ運命だ。
嗚呼、その分であればラミアはお得意の饒舌な話術をもっているから、もしかすればなんとかなるのかもしれない。
ありもしない妄想に脳を費やしていれば、責めるように文官長が咳を払った。
「王、ディダーリ宛ての手紙を私が預かってお届けしましょう。その代わり、王は今まで以上に政務に勤しんでいただきますからね。肝に銘じてください」
さり気なく脇に避けていた書類を、まんなかに寄せられる。シャヤールはむっとしたものの逆らえる手段もなく、渋々と筆を手にとり文字を滑らせた。
あとでディダーリに送る文を書こう。仰々しく、かつ大胆に、そして切実に。ラミアのことを綴っておけばディダーリも両手を揉み込んで喜ぶに違いない。王という立場があるので法外な金を請求される可能性もある。懐を肥やすためにバザールへと赴かなくてはならないな。
仕事だバザールだラミアだディダーリだ、シャヤールの一日はあっという間に過ぎていく。
せめて政務をしてくれるシャヤールの分身でもいればもう少し上手く立ち回れるのに、と嘆くのであった。
ディダーリ宛ての文に、少しの賄賂をつけて送った。情熱的な文章は如何にラミアが美しいか、話の続きが気になるかを書き連ね、どうしても会いたいのだということを強調した。極めつけに王の印をつけておけば完璧だ。疑う余地もなくシャヤール本人のものだとわかる。
文官長にはやり過ぎだと些か窘められはしたものの、これくらいが丁度良いのだと押し切って返答を待つこと三日。近くにいる割には勿体ぶらせた期間を置いて、ディダーリは容認の返事を寄越した。
疑問点はあるがここまで上手くことは進んでいる。シャヤールは執務室に文官長とシャバードを呼び寄せると届いた手紙を見せた。
「おや……思ったよりは金を請求してこないのですね」
「私も思った。強欲なディダーリのことだ、法外な金を請求してくるかと構えていたんだけど良心的と言っても良いくらいだね」
「これこそディダーリの策でもあるんだろう。最初は安く、呼び寄せる度に高くなっていく寸法だ。現段階だとあまりラミアに現を抜かしていないかもしれない、と用心を踏んでのことだと俺は思うが」
諸手を挙げてシャヤールの申し出を受け入れたディダーリは、紳士的かつ良心的な返答を寄越すと金の受け渡しやラミアを訪問させる際の手際などについて説明をしてくれていた。
拍子抜けといえば拍子抜けしたかもしれないが、まだすべては始まったばかり。ラミアとの引見も無事に決まったことだし、二日も時間の猶予がある。その間にせねばならぬこともしておきたい。
シャヤールは一向に嵩が減らない書類を見て嘆息を吐くと、二人が持ち寄った報告書を引き寄せて目を通した。
「さて、まずはシャバードだな。ラマハンとのパイプは繋いだか」
「まだ少数精鋭だからなんとも……という感じかな。手応えはあるけど行動を起こすには心許ない面子でもある。もう少し探ってみるけど腐敗しきっているからね、案外全員ってこともありうるかも」
「そうなれば良いのだがな……ディダーリに食い荒らされる前となっては時間もない」
「そこなんだよね。今はマハルーンに滞在しているといってもあっちの手も緩めてはいないみたいだし、意外と俊秀だからね、彼も。足がつかないようにしている。でも奴隷殺しの罪状は確定しているから、ラマハンさえ動けばあっという間だ」
「……そこが難点なんだがな」
ううん、と唸って頭を掻いた。次から次へとシャヤールに降ってかかる厄介はなくならない。本来ならば国の然るべき機関で罪人を裁くところではあるのだが、残念なことにディダーリはマハルーン国民ではない。いわば客人ともとれる。
国が違えば法律も違う。同盟や平和条約を結んでいたとしても、易々と裁けないことが現実問題として立ちはだかっている。
現状でいえば、ラマハン国家さえ動ければディダーリは即禁固刑になる。しかし肝心のラマハンが沈黙を続けているどころか、ディダーリ自身がマハルーン国に滞在しているから障害がでてきたのだ。
ラマハン国がマハルーン国にディダーリ確保の協力を申し出てこない限り、マハルーン国はディダーリを確保できないし、逆にラマハン国もマハルーン国にいるディダーリをマハルーン国の許可なしに捕らえることができない。
そういった法律のいざこざをなくすために、シャヤールは熱心に諸国へ書状を送ったり国際会議を企てたりしているものの、結果はあまり良いものでなく未だ実現できずにいる。
(なんとかならないものか……)
若き王と、憧憬されることばかりではない。若さ故に足元を見られがちで信用されない場合の方が多い。マハルーン国では喝采を浴びていても外に出れば小僧でしかないのだ。
シャヤールはシャバードの報告書に目を通し終わると、気が乗らないまま今度は文官長が持ち寄ったものを一瞥した。
「ああ、そういえば収穫祭が近いのだったな」
「南海の気候とあって作られるものは限られてきますが、今年も豊作ということで国民は大喜びですよ。地の恵みに感謝したいと早くも街が活気立っています」
「日照りもなく、息災であったな。セーレ宮殿からもなにか奉納しよう。くれぐれも織物などと空気を読まないものはよしてくれよ。この時期だ、甘い果実でも贈ってやろうか」
「そうですね。手筈を整えておきます。それと東の諸島より書状があり、貿易をさせてほしいと打診があったのですが」
「こっちに寄せてくれ。ああ、シャバードすまないな、とりあえずは続行してくれ。なにか動きがあったら報告を頼む。こちらからも随時文官長に事態を把握しておいてもらうから、俺が掴まらない場合はそっちで済ませてくれ。後に指示をする」
執務室がわっと俄かに活気を戻す。日々変化していく仕事は到底シャヤールだけで捌けるものではないからこそ、こそこそと談議している時間も限られてくるのだ。
シャバードは人の良い笑みを浮かべると、了解とだけ唇で象って執務室を出て行った。その数分後に入れ替わりで文官たちが仕事を抱えてわっと入ってくるのだから、上手い具合にできている。
(今夜は満月だ。月見でもしながら酒でも煽ろうか……)
さぼるにさぼれない仕事量、新たに舞い込んでくる依頼、続々と届けられる情報、救いを求めやってくる難民、共存したいと望む国からの打診。
シャヤールはひとつひとつに目を通すと、しっかりと皆で話し合い、結果を出してきた。マハルーン国の象徴こそシャヤール本人に違いないが、国はシャヤールが作っているのではない。様々な人々の意見や働きで成り立っているのだ。
だからこそシャヤールはそのために惜しみなく精を尽くし、尽くされ、生きている。
ラミアと引見するのは二日後の夜。それまでには少しでも仕事が減っていれば良い。楽しみである時間は後回しの方がより倍増して楽しめるというものだ。
シャヤールは珍しく脱走することも余所見することもなく、一日中書類を捌き続けたのである。