漆黒の闇に浮かぶのは上弦の月、あと幾夜過ごせば満月を見ることができるのだろうか。シャヤールは焚き込められた香が散り散りになる客室用閨に備えられている寝台の上から、こうべを垂れるラミアを一瞥した。
水煙管を吸い込んで吐き出せば、香りが二種類に増えて混ざる。
「シャヤール王、再び謁を賜ることができ恐悦至極に存じます」
ここまで変貌をみせてしまうのだから、一種のまやかしかとも思う。噴水のある小さな広場で邂逅した姿が幻のようだ。面影がないというよりまったくの別人。同一人物というのだから、心中でなにを考えているのかすら察せない状況だった。
声をかけるまで顔をあげないであろうラミアから視線は外さずに、シャヤールはつい先程のことを思い返していた。
ラミアが到着する数時間くらい前のことになるか、ご丁重にも西洋文化を真似て封蝋をした手書がセーレ宮殿に届けられた。仰々しくしているさまがまた文官長の神経を逆撫でしたらしい。
呪いや毒の類がないか検分されてからシャヤールに届いたそれを読み上げれば、これからの手順がつらつらと書き連ねてあった。
ディダーリは既に確信したのだろうか、シャヤールがラミアを何度も招来させると。先の見えない未来を案じるなど、手際の良さには呆れるばかりだ。
満を持じて待っていたことが見透かされたような気がして、シャヤールは手書をくしゃりと握りしめた。途端ふわりと漂ったのは、どこか懐かしい匂い。ディダーリの手書からした。
『王? 如何されました』
『……いや、なんでもない』
毒の気配がないのなら案ずることもない。香りがするからといって、なにかがあった訳ではないのだ。因習になりつつあるが、文に香水を垂らして相手に香りを届ける手法などずっと前からあったもの。
それが商売相手、ましてや男からというのが少々いただけないだけで。
(……そうか、この香は……)
シャヤールは懐かしさに目を細めると、くしゃりと握りしめた手書を開いて香が垂らされたであろう箇所を指でなぞった。なにも現れはしなかったが、ほんの少しだけ心が空いたような気がした。
それから直ぐあとだ。シャヤールは見ていないがディダーリ本人がラミアを送り届けにセーレ宮殿の門前まで足を運んだと聞いたのは。
顔を見せようにも一応はこれでも王である。易々と拝謁させるものか、と文官長が突っぱねたらしいのでその話はあとになって伝えられた。
セーレ宮殿が俄かにざわめき立つ。シャヤールは用意をすべく客室用閨に赴いた。既に用意が施されてあったその部屋はシャヤールが好む甘い香が炊き込められており、寝台の横には嗜好品である水煙管が置かれてあった。
寝台に上がり、背もたれに深く腰かける。しばらく待てば、用意を整えたらしいラミアが侍女の案内で閨に届けられた。
秘密裏でもあるこの行動の真意を知っているものは、極少数に限られている。臣下の中でもシャヤールが特に信頼を置いているものだ。
それ以外の家臣からみれば、シャヤールが男色家に転がったとでも思っていることだろう。ここら辺りの文化としては物珍しくもないので恥じるべきことでもないのだが、些か気にかかることではある。
ラミアが美しく着飾って寝台へと近付いてくる。額、耳、首、手、足、すべてにじゃらじゃらとした貴金属や宝石をつけ、妖しく美を誇張させていたが、本来のうつくしさの前では宝石も役には立たないらしい。
薄らと透ける生地をふんだんにあしらった踊り子衣装も、ラミアが少し動くだけで端に施された金の刺繍がひらひらと舞って目を楽しませてくれる。
よもやこんなに金をかけ、シャヤールの前に現われた存在が奴隷だと誰も思うまい。
畏まった礼を述べたラミアを、記憶を掘り起こすついでにしげしげと眺めていたシャヤールは漸く決心をすると、水煙管のパイプから手を離して手招きをした。
「ラミア」
多くを聞いても答えてはくれないのだろう。ラミアは真実よりも、寓話に似せたことばかりを囁くのだ。
許可を得たラミアはゆったりとした動作で顔をあげると、しゃらしゃらと耳あたりの良い音を鳴らして寝台へと寄った。ぎしり、と木がしなる音がする。半身だけを寝台に乗せたラミアはシャヤールに向かうと笑んでみせた。
「今日はなんのお話をいたしましょうか。シャヤール王は前回のことを覚えておいでですか? 随分と我が民族に興味をもっていたように思います」
「お前が言ったのだろう、次は出生である民族のことを、と」
「ああ、覚えておいででしたか。シャヤール王、あなたも趣味が悪い。俺の民族のことなど誰も知りたがりはしないのに……良いでしょう。本日は、我が民族のことをお話いたしましょうか」
ラミアの指先が伸びてシャヤールの手をとった。褐色の肌に、ほんのりと薄紅を彷彿とさせる小さな爪が可愛らしくも綺麗に並んでいる。しなやかな指先はそのままシャヤールの手の甲をなぞると、どこか懐かしげに目を細めた。
故郷に想いでも馳せているのだろうか。ラミアは長い睫で目元に薄らと影をつけると、呼気を呑み込んだ。
黄金の瞳はなにを映すのか、唇を半月に歪ませてラミアは言葉を紡いだ。偽りか真実か、それすらもわからないままラミアしか作れない世界へ誘われていく。
じりじり、蝋が燃える。薄明かりに照らされた寝台は、艶げな気を辺りに散らせていった。
「いつから我が民族、いえ一族が存在していたのか知るものはいません。それほど長く続いていたものだったのか、もしくは歴史が浅いだけなのか、すべてが不透明のまま、空気がそこにあるのと同じように我が一族も存在していたのでございます」
砂漠を彷徨う精霊ともいわれていたほどに、ラミアの出生である一族は皆が皆凄艶たる容姿をもっていた。荒れた砂漠を宛てもなく彷徨い続け砂を食し続けた結果、長く生きられる身体の作りにはならなかったのか、一族として生を受けたものは三十まで生きられれば良いといわれるほど短命の一族でもあった。
美人薄命という運命にあるというのか、男女すら関係なく、跡継ぎを産めば直ぐに用はないといわんばかりにこの世を去ってしまう。いつまで経っても大所帯にはならない小さな小さな砂漠に住む、移動民族にしかならなかった。
「それでも俺たちは幸せだったのです。豪華な食事や、豪華な衣服、豪華な生活。そんなものはありませんでした。生きるので精一杯なのです。だけど俺たちには、唯一の生きる糧ともなる娯楽があったのでございます」
他民族、即ち街に住む俗世慣れしたものと関われば害を及ぼすと伝え聞かされていた一族は、自分たちの中だけで小さな世界を作ると楽しみを直ぐに見つけた。
木で作られた笛に合わせて身体が踊りだす。曲を聴けば誰もが足でステップを踏み鳴らし、華美に踊ることができた。きれいな歌声が響く。天まで届きそうな声音は、聴くものを虜にさせるほどうつくし過ぎた凄艶なるもの。
「シャヤール王、あなたは今こう思いませんでしたか? きれいな声は、歌をうたえないんじゃなかったのか、と」
「……ああ、この間そう言っていただろう」
「我が一族は、最初こそ歌も娯楽の一部として楽しんでいたのです。しかしどういうことでしょう。歌えば歌うほどに、声が枯れて次第には出なくなってしまうのです。不思議なことに魔力を秘めた歌声はうつくし過ぎたのか、それとも危険が過ぎたのか、世に出さまいとしているような気にすらさせて、衰え消えていったのでございます」
最初に気付いたともいうべき被害者は、一族の長であった。一族一の歌い手として憧憬の的だった彼女の声が急に出なくなったのだ。
喉が掠れ、枯れ、尻すぼみになるように消えていく。次第に激痛を齎すと、声そのものが消えてしまった。恐ろしい魔力は他民族を危ぶむだけでなく、自らをも殺す力を秘めていたのだ。
決定的だったのは、とある夜のこと。いつものように歌をうたって笛を鳴らし、踊っていた夜、砂漠に迷ったひとりの男がいた。街から街へ移動する商人だったらしいのだが、途中で砂嵐に巻き込まれ駱駝と生き別れて彷徨い果てていたようなのだ。
このとき既に一族の皆が他民族と関わってはいけないと、他民族の生を危ぶむ力を保持していると知っていたためにあまり歓迎することができなかったのだが一夜だけなら、一夜だけなら良いかと、その輪に入れてしまった。それが悲劇の始まりだとも知らずに。
「たいしたもてなしもできず、質素な暮らしぶりでした。それでもその男を一夜だけ歓迎しようと、我が一族なりの方法で楽しませようとしたのです。しかしどういうことでしょう、夜が更け、宴が深まるとともに男が老けていったのでございます」
それはまるで、生を吸い取られていくような光景でもあった。きれいな音色の笛は断末魔の叫びに、踊りだしたくなるステップは悪魔の誘いに、天からの恵みのような歌声は死を告げる死神の声にもなった。
宴が終わると同時に気付いた。先ほどまで横で笑っていた男が、ただの屍に成り果てていたということを。
「その日を境に、我が一族はうたうことを禁じたのです。魔の力を秘めた我が一族、きっと他民族とは永遠に相容れぬ存在……嗚呼、恐ろしい。俺たちの力は人の命を奪ってまで存在するのかと、震え上がったのでございます。どうして我が一族が他民族との交流を絶っているのかということを、ここにきて漸く知ったのです」
ラミアは知らなかった。幼子だった故に、ただ大人たちの話を聞きかじった程度の記憶しかない。覚えているのはこの身に生まれたことを後悔している母親の姿だけ。
元より不死鳥だと蔑んでいた愛称は誰がつけたのか。遠い過去に他民族と交流があった時代にそう言われ、虐げられていたらしい。
魔の民族との謂れは、強過ぎる力だ。バランスがとれずに崩壊していくだけの関係性ならば最初からない方が良い。黄金を呼ぶ幸福と共に死まで運んでくるならばいらぬと、切り捨てられたのだ。
ひっそりこっそりと息を潜めて生きていくだけの生でも甘受されるのなら、それでも良い。民族は生きることを選び、共存することを諦めた。
書物も口伝えもない。歴史を刻んではすべてを消し去って、噂にも残らぬよう生きてきた。伝説とも呼ばれているのはその所為だ。人に知られてはいけない存在だからこそ、人に伝える術をもたない。
歌をうたえない民族。歌をうたえば命を吸い取ってしまう民族。踊りや笛で他者を誘惑し、話術で惹き入れ、歌で殺す。とてもうつくしく、とても残虐な民族だったのだ。
「殺めるという事実に慄いた我が一族は、衰退していく一方でした。砂漠に生きる術はそう多くはありません。そうして少しずつ仲間が死んで、我が民族は塵のひとつになろうとしていたのでございます」
「どうしてラミアは、奴隷としてここにいるんだ? 誰にも見つからなかったのだろう」
「シャヤール王、隠れて生活を営んでいたとしてもこの地に立っている以上、誰の目からも排除されることはありえないのです。可笑しな話ですが他民族を殺す歌声をもっていたとしても、他民族から生を守る術だけはもっていなかったのです」
悲しげに揺れた瞳はいつかの光景の再現でもしているのか、シャヤールの肌に滑らせていた指先に力が篭もった。
「それはとある日のことでした。いつものように、ささやかな宴を開いていたのでございます。女は華麗に踊り、男は勇ましく笛を吹く、火を中心にぐるりと囲んで交わされるのは寓話の世界。それはもう楽しい楽しい夜でございました」
終わるとも知らずに、明日も同じような日々が続くのだと思っていた。皆信じて疑わなかった。世界を変えたのは、突然過ぎる来客が齎した悲劇。
死神ではない。死神よりも恐ろしい存在、盗賊だ。
「あっという間のできごとでした。気がついたころには、すべてが無に帰していたのでございます」
障害があるものや男は殺され、見目麗しい女は犯され奴隷として連れ去られ、幼子は殺されるかどこかに連れて行かれるか。詳細を知り得ることはできなかったが、ラミアの一族が根絶やしにされたということだけわかった。
「世界を捜せば我が民族の生き残りはどこかにいるのかもしれません。子を成せば民族の血筋は途絶えないのかもしれません。ですが一族で血縁を増やしていた不浄の身、他者を受け入れることはないでしょう。悲しいことですが、長生きすらできないのであれば……もう潰えていても可笑しくはありません」
それからのことをラミアはあまり覚えていない。苦しい、痛い、つらい。そのような感情を抱いて生きていたような気すらする。一族の希望を胸に抱いて、生き延びたラミアの前に差し出された手はどんな意味をもつのか。
とってもとらなくても同じだというのなら、すこしでも泥沼のような生活から抜け出したい。一族復興はできなくても、生きた証を残したい。ラミアは確かにあの民族のひとりとして生まれ落ちて、死ぬまで生き抜いたのだと。
浅黒い手をとった。絶望を知った瞳は半月に歪んでラミアの柔肌を滑る。嘯く言葉になにひとつ真実などない。わかっていて、ラミアはその手をとったのだ。生きる術なら知っている。知っていた。
ディダーリとの出会いが、ラミアの運命の分岐点だった。薄暗い牢から出たのはいつぶりか、目を焼く太陽の光が眩しかったのだけを覚えている。
「ディダーリ様は、命の恩人でもございます。あの方がどのようなことをしていたとしても、知らぬ存ぜぬを突き通し側に仕えるのが俺に与えられた使命なのです」
「それだけなのか……?」
「シャヤール王、言葉を文字通りに読んでいたのでは真実は見えてきません。俺が言った言葉を思い出してください。俺は一族の希望を胸に抱いて、ディダーリ様に救済されました。だから裏切られないのです。嗚呼、シャヤール王よ、聡明なあなたならばきっと言葉の真意に気付くでしょう。あなたは選ばれし王なのですから」
シャヤールがなにかに気付いたように顔をあげれば、ラミアは妖艶に微笑んで指先をゆっくりと唇に触れさせた。指先の温度の高さに、少し肩が揺れる。
「シャヤール王、本日のお話はここまででございます。あなたさまの満足する一夜になったでございましょうか」
「ラミア、お前は俺にはなにも言わせてくれないのだな」
「可笑しなことを言うのですね。なんでも答えたではありませんか」
「そうじゃないだろう。……俺にはお前の考えていることが到底わからないよ」
夜の帳が下りたこの部屋で交わされる言葉の応酬になんの意味が隠されているのか、シャヤールには考えても知る術がない。だけど確実にラミアはシャヤールになにかを伝えようとしているのだけはわかる。
それが救いの手か、悪への手かわかりかねているだけで。
(ああ、だけどお前は裏切らない。それだけわかれば十分なのか)
ラミアの手を掴んで腰を抱いた。ぐっと引き寄せ口づけを交わそうとすれば、寸でのところでいなされる。
「シャヤール王、お戯れを」
冷静を装った口ぶりだが、わずかに口端が震えていた。頬は微かに紅潮し、息が上がっているようにも思う。あまりに真実が見えにくいだけで、ラミアも少しは意識してくれているのか。
言葉が消えた空間で、互いの呼吸だけが響いた。うるさく鳴る心の臓の音が、相手に聞こえてやしないかと危惧しても杞憂に終わる。これほどまで近付いたとて、心の距離はまだ遙か遠くにあるのだ。
会う度に、触れる度に、惹かれていっている。認めても良いだろうか。シャヤールの心は既にラミアに奪われてしまっていると。ミイラとりがミイラになるとはこのことを言うのであろう。
懲りずにもう一度ふいと顔を近付ければ、あと少しで触れるであろう距離でラミアの手が伸びて拒まれてしまった。
「シャヤール王、あなたはきっと勘違いをしておいでです」
「……つれないね、お前は」
「あなたこそ。他のものならば騙されていてくれるのに、あなたはちっとも騙されてくれません」
「残念だ。またの機会にしよう」
素早く両手を拘束して、額に口づけた。唇はいつかラミアからしてくれるまで待っていようか。一生こないのかもしれないけれど。
熱をもった肌に触れた感触が唇に広がる。ラミアは一瞬だけ惚けてみせると、シャヤールに掴まれている手を振るって寝台から逃げるようにおりた。
「嗚呼、残念です。夜明けが近付いてくる音がします。シャヤール王」
「ほっとしただろう?」
「いいえ。楽しみにしているのですよ、これでも。あなたがおっしゃった言葉をいつも心にとどめているのです」
「嘯くのが上手なんだな」
「信じてはくださいませんか? 嗚呼、残念でなりません。シャヤール王、千夜にあなたとまみえていることができるよう、俺は祈っております。あなたの好きにしてくださるのでしょう?」
投げ出されたシャヤールの手をとって、ラミアは手の甲に口づけた。優しげな感触とともに離れていった温度。ラミアは儚げに笑ってみせると、音もなく閨を出て行った。
名残さえラミアは残してはくれなかった。焚き込められた香が仇をなしたらしい。なにも残さずに、跡形もなく存在をなくしてしまった。
(……知ったことなど、真実か否かもどうでも良い。ラミアから語られる言葉の意味を、……俺はどう受け止めたら良いのだろうか)
窓の外は薄暗いまま。夜明けは近付いているのであろうが、予兆は先にも思う。
感じたことだけを信じるというのなら、シャヤールにも希望はある。指先に灯った熱をいだいて目を瞑る。夜明けまで眠ろう。文官長の金切り声で起きようか。少しだけあたたかくなった胸は、良い夢をみさせてくれそうだった。