あの日を境に、シャヤールのまわりでは少しずつではあるものの変化が訪れていた。
幾夜を過ごして、幾夜を待ったのか。望んでいた満月はとっくの前に姿を現して、上弦の月も下弦の月に移り変わっている。相変わらず漆黒の色は変わらないというのに、月は日々変化をしているというのだから不思議なものだ。
バザールで得た金が少しずつ減っていくのと反比例するようにラミアとの時間が増えて、知らないことが知っていることになっていった。
些細なことに過ぎない話題、くだらない噂話、面白可笑しい寓話、胸を躍らせる童話、お伽噺など。種類は問わずいろいろな話を枕元で聞かせてくれたラミアを、シャヤールは殊更愛おしく思うようになっていた。ラミアの出生である一族が例え人に害を及ぼす存在だとしても、こうして話聞かせてくれているシャヤールにはなんの害も訪れていない。
幸福もいらない。地位も名誉も金銀財宝も、それよりも目前で密やかに語るその身こそがほしい。
触れることも叶わぬまま、ただ耳を澄ませてラミアの声を聞いた。千夜が待ち遠しいのと同じくらい、千夜がこなければ良いとも思う。この惰性な時間をずっとずっと過ごしたかったのかもしれない。
すべてを知らないようで、ラミアはきっとすべてを知っているのだろう。こうして一緒にいられる時間がそうそう長くはもたないと、いずれは千夜を迎えられないまま終わってしまうのだと、わかっている。
聡明なラミアのことだ、シャヤールがなにをしてディダーリがどうなっているのか、明確に把握しているに違いない。全知をもっていても聞かないということは、諦めたのかもしくは興味すらないのか。
シャヤールが焦がれるほどに、ラミアは焦がれてくれていないのかもしれない。この些細な夜の密会も、楽しみにすらしていないのかもしれない。
焚き込められた香が、空気を分散させる。蝋の灯りでは表情をうまく読みとれない。触れた指先程度の温度も、こころまでは伝え聞かせてくれないのだ。
(ラミア……お前はいったい誰なんだ)
わからないまま時間だけをともにしていく。心の奥には触れられそうにもない。焦燥ばかり募っては、シャヤールの悩みが増していく。ただこうしていられるだけで良いのに、現実がそれを許さない。
シャヤールは筆を置いた。墨がじわり、と紙に滲む。気落ちしたようにも見えるシャヤールに目敏くも気付いたのか、文官長が側に寄ってきた。
「如何されました? なにか杞憂でもございましょうか」
「……そういう訳ではないのだがな」
昼餉を知らせる鐘が鳴る。執務室に緊張の途切れる空気が拡がって、皆一様に筆を机に置くと立ち上がった。忙しい文官の一日ではあるが、食事休憩は如何なる場合でも手を休めることが必至となっている。シャヤールにこうべを垂れてわらわらと出ていく文官たちをぼんやりと見つめて、シャヤールは言葉を濁した。
これといってなにかがあった訳ではない。言うに至らないことなのだ。くだらないと一蹴できてしまうほど。
先ほどまで執務に勤しんでいた空気も、ものの数分でがらんどうとしてしまった。二人きりになったこの部屋はいつにも増して静けさが目立つ。
「……ディダーリの件なのだが、上々だそうだ。今朝ラマハンに潜入しているシャバードから伝書鳩で連絡がきてな」
「進展があったのですか? 王よ、私にももう少し早く知らせていただきたかったです」
「すまない、時間がとれなくてな。それでこの書状になるのだが」
引き出しから取り出したシャバードからの手書を文官長に見せる。シャヤールが憂いていたことはこの案件ではないのだが、上手く誤魔化せたようだ。どの道ディダーリのことも目下の悩みではあったので、強ち騙しているということにもならない。
ディダーリも相当追い詰められているらしい。あれほど目立って悪行三昧を繰り返していたのが仇となったか、神は世を見ているということは本当だった。
「これは……」
「ラマハン国家の数人とコンタクトをとった結果、上手くいったようだ。謀反を企てるほどには至っていないようだが、やはり王宮内で王に反旗を翻したいと思っているものも多いらしいな。問題は王がディダーリの傀儡な上に、逆らえば打ち首になることか。声を大にして言えない状況というのが合っているのかもしれん」
「しかしこれを見るとかなり劣勢になっていることは明らかですね。これからどうするのでしょうか……」
「だから先日からの催促になるという訳だ。ディダーリから文が届いていただろう? 奴も相当追い詰められている証拠、ラマハンを見切るつもりだろう」
文官長はふむ、と頷くと腕を組んだ。風向きはシャヤールの良い方向へと吹き変わりつつある。
別件にはなるがつい先日、マハルーン国は大きな功績をあげた。マハルーン国の武官たちが率いる対盗賊用の警備隊が、ディダーリの所属する盗賊団を捕縛することに成功したのだ。
すべてを牛耳っている頭領ディダーリこそ捕縛するどころか証拠すらあげられなかったが、ディダーリの手足となる盗賊団の半数以上の捕縛ともなれば、その盗賊団も立ち行かなくなることは目にも明らかだった。実際問題、それ以来目立って大きな盗賊団の目撃情報は届いていない。
小さないざこざや盗みならまだしも、ディダーリが保有する盗賊団は声が大き過ぎた。いわばことを荒立て過ぎたのだ。
悪逆非道の行いを繰り返してきた盗賊団の拘置となれば商人たちも大喜びで、バザールは更に盛況をみせ、マハルーン国にとっても大きな利益を齎す結果となった。ディダーリに関しては収入源の多くを盗賊で賄っていたのか、大きな打撃になったらしい。殊更焦りをみせていた。
(それもそうか……盗賊の頭領ともなれば、これほど美味しいものもないだろうしな)
再び賊を集めて党を組むとなれば、それなりに資金もかかるし手間もかかる。監視状態にあることをわかっているディダーリも馬鹿ではない。動けない身である故に新たな盗賊はもう組まないだろう。これでディダーリの収入源は奴隷産業と、ラミアだけになった。
どうしてそうまでして金を欲しているのかは未だわかっていないが、シャヤールに文を寄越す程度には切羽が詰まっているらしい。ラミアも今はシャヤールにしか拝謁していないと聞く。一国の王であるシャヤールから、金を毟り取ろうという算段なのか。請求額が一気に跳ね上がったのを見ると潮時なのかもしれない。
「それに先も言った通り、ラマハンの動きも怪しくなってきているしな」
「まあそれもそうでしょうね。あんなことを繰り返していれば国として破綻するか、国民の反乱を買うに決まっているでしょう。反乱や内戦が起こる前に片付けたいのが本音ですが」
「どの道ディダーリが失脚したとなれば、ラマハンの現王にも退いてもらわねばな。あそこの第二王子辺りが良いかもな……。推挙でもしておくか」
「時間の問題のような気もしますね。我々が手をくださなくてもラマハンは終わりです。ディダーリも焦った時点で身が綻びつつあることをわからないのであれば、お仕舞いですね。神が裁きをくだすまでもない」
「……そうだな。シャバードにも帰ってきてもらいたいところだし、早々に片付くと良いのだが」
机に戻されたシャバードからの手紙を丁重に折りなおし、引き出しにしまって鍵をかけた。筆を所定の位置に戻したシャヤールを見て、文官長も肩の力を抜く。
「食堂に行かれますか? それともここに運ばせましょうか」
「いいや、散歩がてら食堂に行く。お前もどうだ?」
「私は結構です。ですがあとから行くので時間が合えばお願いしましょう。それよりも王よ、ディダーリの文の件は如何されますか? そろそろ潮時かとも思うのですが……。ラミアもこれ以上は引っ張れないでしょう」
「わかっている。もう考えてはいるんだ。次回で最後にしようと思っている」
千夜まで、届いたのだろうか。わからぬまま終わってしまう薄情な関係だ。所詮はディダーリを介して、金で繋がっていただけにしか過ぎない。こう言ってはなんだが二人の間に確かなものなどなにもなかった。
ただうつくしくお伽噺を嘯くラミアの声を、夢見心地で聞いていた。それしかなかった。それがすべてだった。
進む時計の針を止める手段もない。まわる星は数を増やして、満ちる月は姿をみせる。
言葉にすれば簡単なのに行動にしようとすれば難しいことになる。恋に落ちただけのことが、恋としていさせてくれない。
シャヤールは頭を振ると、予め書いておいた手書を文官長に押しつけた。最後通牒となるそれはラミアとシャヤールを繋ぐ、本当の意味で最後の引見の申し込みだった。
ゆらゆらと炎が揺れる。蝋に灯った火は小さくとも、確かな温もりと明るさを部屋に拡散させた。
寝台に寝そべってゆめうつつ、ラミアの声を聞いている。今日の話はなんだったか、夢と希望を抱いて海へと航海に出た冒険者の物語の締めくくりだ。
ながいながい物語の終焉。待ち望んでいた話の結末も、どうしてだか楽しみに思えない。もう少し長くなれば良いのにと思ってしまう。
「こうして彼の長い長い航海は、やっと終わりを迎えたのでございます。手には金銀財宝、溢れんばかりの宝石。しかしそれ以上に彼の得た目に見えないものが彼の宝物になったのです。人と人との繋がり、それこそが彼を航海に旅立たせた真の理由だと、気付いたのでございました」
無情にもふつり、と空気が切れてしまう。終わりをみせた物語は今まででいちばんの盛り上がりをみせ、面白いものとなった。いつものシャヤールなら果実酒を手にさぞかし喜んでいただろう。続きはないのか、と催促していたかもしれない。
浮かない顔のまま寝台に深く沈んでいるシャヤールに、流石に可笑しいと気付いたのかラミアが少しだけふくりと頬を膨らませた。それがいつか見た噴水での表情と酷似して、更に想いを重ねてしまう。
「シャヤール王、今日はどこか上の空ですね。なにか杞憂でも?」
「……ラミア、今夜で幾夜目になろう」
「さあ、本音を申し上げると数えていないというのが真実になります。幾夜も過ごすとなれば、いちいち数えてなどいられないのです。……シャヤール王、気を害されてしまいましたか?」
ラミアの頼りない指先が、シャヤールの髪に触れた。本来なら王という身の上、軽々しく触れられることを躊躇するもののラミアにはこうして好きにさせていた。というより、好きにしてもらいたかったのかもしれない。
シャヤールは目を細めると、伸ばそうとした手をそのままにシーツを掴んだ。
「好都合、かな。その答えは」
「……好都合、ですか」
「ラミア、今日で会うのが最後になろう。薄々は感じていたかもしれないが、少し事情が変わってね……。こうしてラミアの夜伽が聞けなくなるのは悲しいが」
髪を梳いていたラミアの手が止まる。微かに震えた指先は、なにを指し示すのか。
シャヤールは上半身を起こすと、戸惑ったままのラミアの手を掴んだ。そのまま引き寄せ指先に口づける。抵抗の気配はない。
「今夜が、きっと千夜だと思うのだが……ラミアはどうだろう」
運命がこないというのなら、運命を作ってしまうのもありかもしれない。最後というのなら溺れ死ぬまで足掻き続けるのが、シャヤールにできるすべてだ。
ラミアは触れられたままの指先に視線を落として、考えを巡回させた。迷う唇が震えている。何度か開閉すると、瞼を伏せた。
「シャヤール王」
「……どうした?」
「あなたが千夜というのなら、そうなのでしょう。丁度話も尽きてしまいました。今から俺は話をすることもできない、ただのしがない奴隷でしかありません。嗚呼、どうすれば良いのでしょうか。あなたが言うように、千夜に話が尽きてしまうなんて」
ほんのりと灯った火が頬にも映って見える。ラミアは薄紅に染まるとシャヤールの手を握り返した。
とくとくと、血液が流れる音が聞こえてくるよう。てのひらしか触れていないというのに、全身が熱くなって胸が掻き立てられるように騒いだ。
「ラミア」
「変わった王様、俺の身が毒と知っていながらも手を伸ばすなんて、可笑しな話ですね」
「それでもお前たちは人に焦がれたのだろう。人の身でありながら、人ではないと苦悩して、それでも人であろうとした。俺はそんなラミアに惹かれていったのだ」
「……千夜だけの夢ですよ、シャヤール王。物語にも千一夜など、存在していないのですから……」
千夜を越えた一夜など、存在などしてはいけない。物語はここで終わる。朝を迎えたらすべてが無になって、ラミアの前からなくなってしまうのだ。
なにも語らないシャヤールはラミアを引き寄せると開いたままの唇に触れた。薄暗い二人だけの閨で、初めて交わした口づけであった。
慣れていないのが随所に表れている。腰を抱いて寝台のシーツに押しつけるよう倒せば、ラミアの手は戸惑ったように宙に浮いた。口づけされていながらではそこまで頭も回らないのか。初々しいところが可愛いとも思う。誰にも穢されていない証拠が、シャヤールの劣情に火をつけた。
柔らかな唇を割って舌を忍ばせた。いつかの日舌を噛まれるやもと危惧していたもののそれもなく、容易に舌の侵入を許したラミアの口腔は火にくべたかのような熱さだった。
蕩けてしまいそうになる舌が奥で鎮座している。シャヤールは舌をぬるりとまわすと、歯をなぞって焦らした。
(……毒の気配もない、か。色気のない)
どうしても確認してしまう癖がついている。毒の気がないことに気がかりが消え失せると、シャヤールはラミアの両頬をもって唇を貪った。
小さな舌を引き寄せて、ざらつきを重ね合わせる。ぬるりとした感触は背筋を走って快感へと変わり、ラミアの緊張を解した。がちがちに固まっていた身体が緩む。白むほど握っていた手は頼りなく伸ばされるとシャヤールの肩に触れた。
「ん、う……」
少しずつゆっくりと急かすこともなく慣らした所為か、徐々に耐性がついたラミアは素直に快感に浸った。翻弄されてばかりの舌に少しでも報いようと、舌をおずおずと伸ばすとシャヤールの舌に触れる。
ひりひりと電流が走った。あまりにも拙い舌技が愛らしくて、シャヤールの我慢も振り切れた。
あれほどまで凄艶に婀娜を演じていた閨のラミアも、一度ボロを出すとここまで変わり果ててしまうものか。今のラミアはどう足掻いても性に対し耐性のない子供同然だ。この容姿でここまで初心なのが奇跡に近い。一族では大切に育てられ、ディダーリの元では上手く可愛がられていたのだろう。
(それとも特殊な力が原因か? どの道俺にとっては好都合なだけ、か)
力をなくしていくラミアが、シャヤールを咎めるように肩を叩いた。夢中になって唇を貪り過ぎたようだ。口を離してやれば大袈裟に肩で息をしたラミアと目が合う。
黄金の瞳に薄い膜が張る。歪む色は光の屈折によって虹色にも見えた。シャヤールがいちばん気に入っている、ラミアの場所だ。
覗きこむようにして瞳を見つめていれば、ラミアは困ったように睫を揺らしシャヤールを見上げる。
視線が交差した。ラミアの瞳には、シャヤールはどう映っているのだろう。
「あ、あの」
「……どうした? いくら初心といえど、今からなにが行なわれるかわからないというほど無知ではないだろう?」
いやらしい言葉だ。シャヤールはラミアの腰布を引き抜くと、そうのたまった。ラミアは歯噛みしてシーツを掴む。婀娜さを演じることも忘れているらしい。
困ったようにか細く震える姿は、見目よりも幼さを際立たせる立ち振る舞いだった。
「どうして、どうして俺などを……」
闇夜に溶け込む小さな声こそが、本音なのだろう。シャヤールは脱がす手を止めないまま、諭すように言い聞かせた。
「ラミア、いつのことだったか、お前の話した童話に異国の恋物語があっただろう。恋に落ちたのは一瞬、一目見ただけで心を奪われてしまった王子の話を。……その姫はどうだったか、お前なら知っているはずだ」
「姫、は……姫も王子を一目見たときから、恋に落ちていた」
「そういうことだ。理由が必要か? 一目見て落ちた恋は幻だとでも言うのか? 童話の中では死ぬまで幸せに暮らしたのだろう。俺には時間が必要だとは思わない。定義もない。ラミア、ただお前に惹かれているという理由だけではいけないのだろうか」
「姫などでは、ないのですよ」
「それも飽くまで仮定の話だ。ラミアだから、と言っておこうか」
紡げない言葉は、ラミアの心に沈殿していった。ふつふつと降り注ぐ言葉の雨に否定することも疲れたのだろう。
伸ばされた手がシャヤールの頬を掴んで、引き寄せた。優しげな口づけは言葉のない返事ともとれる。
二人で過ごした時間は決して多くはなかったが、少なくもなかった。閨で語り合った夜こそが二人を繋ぐ物語の始まりとなったのだ。