繋がれた尾 03
 あの日を境にピスケスはレオと時間を共にすることが多くなった。といっても昔のように身体を重ねたり、愛し合ったりする訳ではない。ただほんの少しの酒を飲み交わす、たったそれだけだ。
 それでもピスケスにとっては心を揺さ振る至高の時間でもあった。
 レオは存外情に脆いところがあるから、ピスケスを無碍にすることなどないとわかっている。その優しさに付け込んで甘えてしまっているのはピスケスだ。
 時折溜め息を吐いたり、眉間に皺を寄せたり、困った顔をするレオに傷付いていない訳ではなかったが、それでもどんなレオでも良いから側にいたいのだ。
 白羊宮の彼との時間を少しでも減らそうとしている己がここにはいて、そんなことしか考えられない思考に反吐が出る。このままではいけないなどと誰よりも理解しているはずなのに、どうしようもなかった。
 ただ一緒にいたかった。嫌われようとも、どう思われようとも、ピスケスはただ隣に立っていたかっただけなのだ。
 酒を煽る手を止める。痛いほどの視線に晒されて顔を上げればそこには予想以上にしかめ面をしたスコーピオが立っていた。
「ピスケス、また呑んでるの」
「……ああ、スコーピオか……どうした?」
「神酒ねえ……いくら双魚宮の酒だからって呑み過ぎじゃないかな」
 話など交わす気もないのか、スコーピオはピスケスが煽っていた酒を手に取るとまじまじと天に掲げてみた。
 咎めたい言葉など幾らでもあるだろうにそれを言わないところがスコーピオらしい。ピスケスは自嘲気味に息を吐き出すと、その酒を奪い取った。
「酒に逃げるのは良くない、だろ」
「それもそうだけど、最近レオと会ってるんだって? 専らの噂だよ」
「……押し掛けてるだけだけどな。レオは優しいから……相手をしてもらってるんだ」
「また悲観的なこと言うんだね」
「だって本当のことだろ? レオはアリエスが好きなんだ」
「ああもう、うじうじうじうじ煩いね、君は」
 ぱこんとピスケスの後頭部に衝撃が当たる。スコーピオはピスケスを殴ったことに満足したのか手の甲を満足そうに見ると、ピスケスと焦点を合わせた。
 ワインレッドの髪が光に当たってきらきらと輝く。思わずまじまじと見つめてしまった視線にスコーピオは満更嫌そうでもなく、呆れたような笑顔をみせてくれた。
「というよりさ、レオのどこが良いの? そこまで執着するほどの星座?」
「……わからない……ただ、忘れられないんだ」
「それって思い出は綺麗になるってやつじゃないかな。冷静に見てみなよ。レオ以上に相性が合う星座なんてたくさんいるよ」
「そう、だな。でも、どうしようもないんだ」
 ピスケスの耳であるヒレがひらひらと泳ぐ。薄水色の透明のそれはきらきらと光を反射すると何色にも変化した。
 目を開けているようで、ずっと目を閉じたままのピスケスは後ろばかり振り返って前に進もうともしない。あの日に立ち止まったピスケスは今でさえレオに依存しているのだ。
 このままではもし仮に上手くいったとしても、前と同じ道を辿るのだろう。レオが大人になったように、ピスケスとて大人にならなければいけないのに。
 スコーピオはピスケスの不安そのものを現したかのように揺れるヒレをむんずと掴むと、心持ち弱めに引っ張った。
「っ、い……」
「ピスケス、今のままじゃなにも変わらないよ。それはわかっているんだろう? もうちょっと地に足をつけて周りを良く見な。レオとどうにかして復縁したいんなら、ピスケスだって変わらなきゃいけないんだ」
「か、わる?」
「与えるだけが、与えられるだけが、愛ではない。お互いにお互いのことちゃんと見て、理解して、信頼してこそ絆ができる。ピスケスは目を瞑って顔を背けて独りで抱える癖があるからね」
「スコーピオ、俺は、どうしたら良い?」
「さあ? それは自分で考えれば良いんじゃない。駄目になるのも成功するのも、全部ピスケス次第だけどね」
 にっこりと綺麗な笑みをみせてくれたスコーピオはそのままピスケスのヒレから手を離すと、なにも言わずに部屋を去っていった。
 スコーピオなりにいつまでも同じ状態のピスケスを心配して励ましにきてくれたのだろう。その気持ちが痛いほどに伝わって、ピスケスは持っていた酒をテーブルに置いた。
 言われた言葉が耳に痛い。どれも事実だからだ。
 このままレオにしがみつくような状態のままでは、いつかきっとレオも愛想を尽かしてしまうだろう。負担にしかなりえない関係だとわかっていても、少しの時間が愛おしくて止めることもできない。
 どう変われば良いか、どうすれば良いか、漠然としたことはわかっていてもそれを行動にすることができないでいるのだ。
 誰かに手を引かれないと歩くことすら困難になっている現状では、なにをしても裏目に出そうな気もする。
 ただレオが好きなだけなのだ。心の奥底から愛しているだけ。手が足が瞳が耳が、唇が心の臓が脳がレオを求めている。欲している。
 理由も意味も起源もない。ただピスケスはレオと同じでありたいだけ。
 レオに愛されないでいるのなら、レオの一部になりたい。融解されてレオの中で生き続ける。
 抱き締められもしない。愛されることも、手を繋ぐことも、話すことも、目が合うこともない。それでも良い。レオの一部として生きていけるのなら他にはなにもいらない。
 この苦しみから解放される術はもう、それしかないようにも思えた。

 いつものように無意識に向かってしまうのはレオの住む獅子宮である。ピスケスの住居である双魚宮とほぼ真向かいにあるそれはどこから見ても黄金の如く光り輝いていた。
 レオと同じようにきらきらとしたものだけを見て生きていきたい。ピスケスを脅かすものは見たくはない。
 それでも、ピスケスにとって見たくないものや見てはいけないものは直ぐ側に存在しているのだ。
 黄道十二宮の世界の真ん中にある光の球体がくるくると回っている。太陽にも似たそれは限りない光のシャワーを世界に広げると、視界を明るくした。
 ピスケスはただ立ち止まってシャワーを浴びながら、獅子宮の前で立ち尽くしているほかなかった。
 濃紺に広がる世界の下、眩い光のシャワーを浴びて輝いているのはピスケスが憧憬してやまないレオの姿と寄り添うように立っている白羊宮の彼アリエスだった。
 お互いの持つ色彩が目に痛い。金と白が交じり合って一つに溶ける。それはどこかお伽噺にも似たほど美しい光景でもあり、二つの影が寄り添うのは至極当然のことのようでもあった。
 違和感すら飛び越えて、ピスケスが願ってやまない融解のような世界だ。
「あ、……」
 ふるりと震えた睫が下がって視界を遮ろうとする。睦まじげに談笑し合う二人はピスケスの姿に気付くこともなく、肩を寄せ合うと獅子宮の中へと入っていった。
 ピスケスはその場で立ち止まったまま、動くことすらできなくなってしまった。
 胸の奥がじりじりと焼き焦がされそうだ。乱れた呼吸は息すら詰まらせて、震える身体はびくとも動かない。
 空気の中溺れてしまったピスケスは、たゆたうヒレをひたりと閉じてしまうと声も上げずに一筋の水筋を頬に作ったのであった。
 流石にこの状況で獅子宮に入っていけるほどピスケスとて無神経ではない。というのは建前で、ピスケスの目前で睦まじい姿を見たくないだけなのだ。
 いつかの頃のようにピスケスに与えられていたものが、アリエスに与えられている光景など想像の中ですら憎らしく、ピスケスにとって拷問のようでもある。
 レオの愛がなくとも耐えられていたのは、レオとピスケスの間には二星座しかいなかったからだ。そこに不安要素が加わればすでに創痍しているピスケスなど壊すには造作もない。
 ただ昔のように愛されたかった。それが無理なら融解されてしまいたかった。それも叶わないというのなら、少しの時間で良いから共にありたかった。それら全てが駄目というのなら、なにが残っているのだろう。
 ふらふらと覚束ない足取りでピスケスは道を歩まずただ真っ直ぐに光のシャワーの下へと近付いた。あまり立ち寄ることが良いとされていない球体はただくるくる回り続けるだけで変化もしない。
 黄道十二宮を一望できる世界の真ん中では、無表情のまま涙を零すピスケスと回り続ける球体のみが存在している。
 そうと触れればじりじりと焼け付く肌。一瞬にして溶けてしまった皮膚が鋭い痛みとなってピスケスの指先を負傷させた。
 胸が痛いのも、涙を流しているのも、全てこの所為にしてしまおう。
 触れれば触れるほどに溶けていくほどの熱を持っている球体は存在そのものを消す力がある。だからこそここに立ち寄ることが良いとされず、触れることすら禁忌に近いことだった。
 全て溶かしてしまえばどうなるのだろうか、そこまで考えて動きを止めたピスケスは予想以上の痛みと疲労に身体をぐらつかせるとその場に蹲ってしまった。
 変わりなく注がれるシャワー。金の世界に似たそこはピスケスにとって安らげる空間になって、そのまま瞼を閉じると安らげる時へと導いてくれるのだった。

 時間にすれば一瞬にしか過ぎないのだろう。揺さぶられる感覚にぴたりと閉じていた瞼をついっと開く。細長く切り取られた視界の中には相変わらず光り続ける金のシャワーと同化するような金の存在がいた。
「レオ……?」
 幻だとそう思いたかった。都合の良い夢だと思い込みたかった。だって現実ならこれ以上に嬉しくて悲しいこともないだろう。
 優しくしてほしい。愛してほしい。振り向いてほしい。そう願ってやまないことばかりだけれど、それでも実現することなどないとわかっているからこそ些細なことがピスケスをまた深淵に落とす。
 ぼやけていた霧が晴れてはっきりと露見した姿は、ピスケスを安堵させつつも脅かすレオの姿だった。
「な、に」
「なにってこっちの台詞だろ? お前なにしてんだよ、……こんなとこで」
「レオこそ……、ここにくることは駄目だって、言われてるだろ?」
「お前もだろうが。……たまにくるんだよ。ここなら黄道十二宮を一望できるから、たまにな。……それよりお前は?」
「……わからない。ちょっと、気休め? かな。この光見てたら、……落ち着くんだ」
 視線で球体を見やったピスケスはおぼろげな表情のまま焦点を彷徨わせた。
 目に痛いほどの光はレオにとって直視するのも躊躇われるほどの光だ。それを難ともせずに見つめ続けるピスケスがあまりにも消えてしまいそうで、レオの背筋がぞっとした。
 光に当たってきらきら輝くシルバーグレーの髪も、水のように透き通った肌も、ひらひらと風に靡くヒレも、あの頃のままなにも変わらない。そうピスケスの心でさえ変わらない。
 置き去りにされた子供のようにただレオを求めるピスケスは、言葉通り子供なのだ。レオが手を差し伸べてやらなければ歩けないほどに憔悴しきった子供。
 伸ばされたピスケスの指先。思わず手を伸ばしかけたレオであったがその指先はレオには向かわずに、球体に伸ばされようとしていた。
「おい、ピスケス……?」
 思わず呼んだその言葉で気付いたものは、あってはならないものだった。ピスケスの指先の皮膚が爛れていたのだ。
 痛いだろうになおも球体に触れようとするピスケスを、レオは思わずぎゅっと指先を握り締めて止めていた。途端きゅっと顰められたピスケスの眉間をみれば痛覚までは失っていないようだ。
 鬩ぎ合う沸々とした怒りにレオは叫びだしそうな唇をきゅっと噛み締めた。
「ピスケス、この指はなんだ。まさかお前これに触れたのか!?」
「あ、……綺麗だった、から」
「綺麗だって……お前これに触れたら溶けるって知ってるだろうが!」
「……そんなつもりなんか、なかった。ほんと、……痛かったんだ」
 ひく、と喉が引き攣った。ピスケスはひくひく鳴る喉を押さえるとそのまま溢れ出す感情を止めることもできなかった。
 レオが自ら触れてくれたことに歓喜している。その理由がなんであれ、ピスケスを見てくれている。たったそれだけでピスケスはどうしようもないことばかり考えてしまうのだ。
 声にすらならない叫びがレオの名を何度も紡いで、しかめ面をしたレオまで泣きそうになるからピスケスは涙を抑えきることができずにほろほろと水の雫を零した。
「レオ……助け、て」
 伸ばした手。今度は一方通行にならずにレオの腕の中に収められた。
 ぴったりとくっついた肌から伝わる温度、吐息、呼吸、全てがレオそのもので、ピスケスは身体でレオを感じることができる。これほどまで望んだこともないだろう。
 我武者羅に掻き抱いたレオの身体は記憶のままそこに存在していた。
「レオ、レオ、……レオがいないと、息もできない」
「ピスケス……」
「好きになってくれなくても、愛してくれなくても良いから……お願いだから、……なんだって良い、側に、いたいんだ」
「俺、は」
「レオ、アリエスを愛しているっていうのが引っ掛かるなら、今まで通り、酒を呑む相手でも良いから、……俺を」
 そこまで紡いで、ピスケスはそれ以上言うことができなかった。レオが壊れものに触れるような手付きでピスケスの涙袋を擦ったからだ。
 ぱちくりと瞬いた睫に乗った水滴がほとり、と落ちていくのをレオはどこか冷静な気持ちでじいと見た。
「……馬鹿だな、お前も」
 あの頃は欲しても感じることすらできなかった愛が今は惜しみないほど与えられている。振り返って考えてみれば、ピスケスはレオを愛していなかった訳ではない。ただ怯えていただけなのだ。
 それに気付くことができなくて、ピスケスの愛を疑っていた。不安ばかり募ってまともに会話する時間さえ取らなかった。
 ピスケスがしたことはレオにとって許されることではない。だけど今なら昔気付けなかったことに気付いてやれる。それは一体どういう心境の変化なのだろう。
 病的なほどに重い愛。今のレオはどうしてやることもできないはずなのに、存外嫌ではない己もここにはいる。ピスケスがここまで憔悴しているのも、壊れかけているのも、全てレオの所為なのだ。そう思うと、どこか湧き上がってくる優越感のようなものがあった。
 壊してしまうのは簡単だ。だがそんなことレオは少しだって望んでいる訳ではない。
 あの頃に戻れたらやり直せるのだろうか。ピスケスのヒレと同じで、きらきら輝く時間に戻れれば。一層のこと初めから。レオはそこまで考えて、ただ焦点の合わないピスケスの瞳を見つめると視界を閉ざすよう目を瞑った。
「……忘れろ、全部」
 言葉に震えたピスケスの唇がなにかを紡ぐ前に、レオは己の唇で蓋をした。それはまるで子供を言い聞かせるようなキスであったが、触れてしまえば最後だった。
 お互いの心の中に巣食う思い出が色鮮やかに浮かび上がって溢れ出る想いに蓋をすることができなくなったのだ。
 夢中で交し合った唇から甘い痺れが広がる。呼吸すらできないほどに、まるで溺れたような既視感だ。
 過去も現在も未来も全て取っ払って捨ててしまえば、そこにあるのは愛おしいという想いと止めることができない欲だけ。
 どうしても捨て置くことができなかった。ピスケスの手を自らの意思で取ってしまった。あまつさえ、この腕の中に抱きとめてしまっている。
「レ、オ……」
 焼け爛れた指先に唇を落として、ピスケスの身体を軋むほどに抱き締めた。疲れきっていたピスケスは不安そうに身動ぎさせるもののそれ以上意識を保っていることができずに直ぐ気を失うようにして眠ってしまった。
 くったりとなる身体。レオはもうこれ以上言い訳することもできずに、ただ遣る瀬無い気持ちを抱えたままピスケスを見つめることしかできなかったのである。